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第五章 自己 4 現在性/想像性

 当事性は、このように、時制として「このとき」という〈現在性〉を持っている。この当事性は、〈現実〉との並行関係で成り立つべきであるものである。したがって、〈現実〉において「このとき」でないことは、〈主体〉においても「このとき」でない。

 もっとも、この「このとき」というのは、けっして通俗的に時刻系列の中に順序づけられたものではなく、まったく並列的な数多くの「このとき」であり、むしろ、時刻系列的な「このとき」以外のものは、これらの現在的な「このとき」の集合に入る余地はない。

 ところが、ときとして、ある〈事〉が〈現実〉においては「このとき」であるにもかかわらず、〈主体〉においてはいまだ「このとき」ではないことがありうる。また逆に、ある〈事〉が〈現実〉においては「このとき」でないにもかかわらず、〈主体〉においてはかってに「このとき」であることがありうる。このようなずれは、ごく一部の〈事〉に生じるものであって、その〈事〉の有意義性ないしその欠如、また、その〈事〉と連関する周辺の物事によって、そのずれは容易に自覚されている、または、されることになる。このようなずれが生じた場合、その〈事〉は、当初から、または、遡生的に、「このとき」という〈現在性〉ではなく、「あるとき」という〈想像性〉の当事性の時制で扱われることになる。そこでは、その〈事〉に対する主体的関与、すなわち、当事性は、留保されており、一つでも〈想像性〉の付与される〈事〉を含む世界は、その全体からして、〈現実〉ではなく、〈物語〉となる。

 たとえば、ウサギは言葉を話さない。それゆえ、言葉を話すウサギが登場するならば、そのウサギだけでなく、そのウサギが登場する世界全体が想像的物語であるということになる。

 この「あるとき」という時制である〈事〉は、〈現実〉の〈事〉ではないのだから、〈主体〉は、当事することもない。逆に、〈現実〉の〈事〉であっても、〈主体〉が誤認したり逃避したりする場合には、この「あるとき」という時制が付与されていることがある。けれども、〈物語〉の〈事〉であっても、〈主体〉があくまで「あるとき」の〈事〉ではなく「このとき」の〈事〉として誤認にして追求することもある。それは、たとえば、宗教や熱狂などにおいて見られる。

 「あるとき」というのは、現象学的に言えば、いわゆる「括弧で括られた状態」であり、その内容に対しては、事に当たるという自然的態度が遮断され、主体性が保留された状態である。

 このように、〈主体〉が当事する/しないによって、〈事〉は、当事する「このとき」という〈現在性〉と、当事しない「あるとき」という〈想像性〉のいずれかの時制が付与されることになる。ただし、〈物〉は、もとより無時変的であるから、このような時制がなく、むしろ両時制に共通である。実際、〈現実〉の「このとき」という時制から遊離して〈物語〉の「あるとき」という時制へ逸脱するのは、また、逆に、〈物語〉の「あるとき」という時制から昇華して〈現実〉の「このとき」という時制へ結実するのは、まさしく無時変的な〈物〉が媒介となる。〈物語〉は、まさしく[〈物〉が別様に構成されている、この〈世界〉ではないあの〈世界〉の歴史]である。したがって、「あるとき」は、かならず〈あるところ〉、すなわち、〈物語〉のあの〈世界〉であって、けっして〈このところ〉、すなわち、〈現実〉のこの〈世界〉ではない。

 人はまた、ときに物語的世界に酔うことがある。たとえば、祭礼の宴会などでは、集団で現実から遮断された無時間的な世界を形成する。そこで起こることは、まったく断片的であるか、たとえ連関的でもせいぜいその世界で完結していないといけないのであり、現実から持ち込まれることも、現実へと持ち出すこともしてはいけない。そこでは、たてまえとして無礼講である。しかし、それがたてまえにすぎないのは、現実の物事が純粋に物語的な完結性を持ちえないからでもある。そして、祭礼は、現実へはみ出てしまうこと、取り返しのつかないことによって終わる。したがって、それは、しばしばクライマックスに決定的な誰かの殺害や何かの破壊を必要とする。

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