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第六章 精神 1 規範性としての精神

 先述のように、〈私我〉とは、[〈人格主体〉の規範的水準における連続同一性]であり、それは、[〈生活意志〉が一群の規範に連続同一的に依拠しようとする現象]そのものである。その中でも核となるのが、〈私我〉の連続性を成り立たせている〈自己〉であり、それは、[[〈現実〉の〈事〉に当たっているもの]として、さまざまな〈現実〉の〈事〉に対して鏡象的に存在するもの]であり、また、[〈現実〉の規範性や〈主体〉の可能性を踏まえて、当該の〈事〉との並行関係を、当該の〈事〉の時制として成り立たせているもの]である。逆に言えば、先述のように、〈事〉が〈事〉であるのは、[脈絡においてその有無を我々が問題とする対象]であり、かつ、それが時変的であるということである。そして、前節であきらかになったように、[時変的である]ということは、[〈主体〉が〈自己〉として、これまで/これからという〈現実〉の硬直転回性/柔軟転回性においてその〈事〉に当たっている]ということである。そして、この[〈生活主体〉が規範的水準において特定の〈事〉に当たっている]という現象そのものが、〈自己〉という自然主体なのであった。つまり、〈自己〉とは、〈現実〉に問題を個別特殊的に照出し着目すること、特定することそのものである。

 しかし、[そのような〈事〉がどのような問題様相を付与されるべきであるか]は、また、[そもそもどのような〈事〉を〈事〉として問題とすべきであるか]は、「このとき」のこの〈事〉を個別特殊的に特定しておく働きそのものである〈自己〉のものではない。つまり、ここにおいて、〈私我〉の連続性の自然主体である〈自己〉とは別の、〈私我〉の同一性の自然主体である〈精神〉が働いている。すなわち、それは、それ自体が、本質的に規範性であるものである。それは、[〈現実〉における特殊個別的な〈事〉を一般類型的に同定する働き]であり、この規範性に従ってこそ、〈自己〉によって〈現実〉に個別特殊的な〈事〉が照出され、いずれかの時制様相が付与されることになる。つまり、〈精神〉は、〈私我〉において、〈自己〉という当事性の形式である。〈私我〉において、〈自己〉は個別的当事性であり、〈精神〉は一般的類型性であり、両者が複合することにおいて〈自己〉の時制規範付与も成り立つ。

 もっとも、先述のように、もとより〈私我〉というものは、[〈生活主体〉が〈生活意志〉として主体行動や〈生活世界〉の統一整合性の根拠として規範的水準において連続同一的に依拠しているもの]にすぎず、〈自己〉と同様に、〈精神〉もまた主体行動や〈生活世界〉の統一整合性という〈生活意志〉の現象の中にある現象であって、けっして実在的水準において〈生活主体〉の〈身体〉の中などに存在しているものではない。それは、ただ主体行動や〈生活世界〉の統一整合性において普遍反復的に登場してくる一般類型的な規範性である。それも、〈精神〉が主体として、〈自己〉に規範を負課するのではなく、むしろただ典拠として〈自己〉の当事に参照されているだけのものである。したがって、〈私我〉の〈事〉に当たるという現象、すなわち、〈自己〉がないならば、その形式である〈精神〉も見ることができない。けれども、我々は、〈自己〉が当事性としてあったりなかったりするものであると考えるのに対して、〈精神〉は、それが〈自己〉とともに見られなくなったとしても、〈私我〉として潜在していると考える。つまり、ある〈私我〉において、〈自己〉が特殊個別的な意義であるのに対し、〈精神〉は、一般類型的な意味であり、現実に適合しておらず、発現していない場合でも、存在することができるものである。

 ある人格主体の死去・解散において、その意義である〈自己〉は、消滅するが、その意味である〈精神〉は、存続することがある。ここにおいて、その〈私我〉は、死んだが生きている、ということになる。他者が歴史的なその〈私我〉の意義である〈自己〉を継承したり、分配したりすることはできないが、〈精神〉は、その〈私我〉を規定する一般類型的な意味であるから、他者も規範的なその〈私我〉の意味である〈精神〉を継承したり、分配したりすることができる。

 〈精神〉は、規範性といっても、唯一単独の規範ではなく、いわば「規範の束」であり、〈自己〉の「法典」である。すなわち、それは、複数の断片的な規範が、その連関可能性のあるもの同士でいくつかの束となっている。一般類型的な連関は、〈法則〉であるが、とくに、[協証的に主体が従則しないといけないとされる法則]は、これを〈規範〉と呼ぶ。そして、〈精神〉は、その一群の〈規範〉である連関のいずれかでその連関の規定するほぼすべての状況を処理できる〈体系〉を構成している。たとえ規範そのものとしては、同じ〈事〉に適用可能なものが複数も存在し、したがって、規範だけでは、[ある〈事〉にどの規範を適用すべきか]は一義的に規定されないかもしれないが、しかし、それぞれの〈精神〉という体系としては、ある〈事〉に関しては、それに適用すべき規範は、一義的に規定される。

 後述するように、〈規範〉は、協証的に主体が従則しないといけないことになっているだけであって、自然法則のように、かならず従則されるというわけではない。厳密なことを言えば、自然法則にしても、かならずしも従則されるとはかぎらないのであって、もしも従則されないことがあった場合には、自然法則とされていたものそのものが間違っていたということにされる。なぜなら、それは、法則として一般類型的に成立していないといけないからである。一方、規範は、一般類型的に適用されないといけないだけであって、たとえすべての場合に従則されないとしても、規範ではなく、すべての主体が間違っていた、とされるだけである。

 〈私我〉において、〈精神〉は、唯一単独のものではなく、複数のものがある。そして、[〈私我〉がどの〈精神〉に立脚するか]は、〈自己〉の働きである。〈自己〉は、〈現実〉における外面的な当事性ということにおいて、つねにすでに内面的にいずれかの〈精神〉に立脚してしまっている。もっとも、[どの〈精神〉に立脚するか]を〈自己〉が自由に選択できるわけではなく、それもまた、他の〈精神〉、より以前の〈精神〉ないしより基底の〈精神〉の規範に規定されている。とはいえ、実際には、同時にひどく多くの〈精神〉の上に立脚して一つの〈自己〉が働いている、つまり、〈私我〉が複数の規範を同時に従則しながらさまざまな〈事〉に当たっていることの方が通常である。それであっても、そのそれぞれの〈事〉は、ある〈精神〉からすれば、たしかに問題であり、〈事〉であるにしても、他の〈精神〉からすれば、問題ではなく、〈事〉ではなく、つまり、その〈精神〉としての位置がなく、およそ規定もしないから、矛盾しない。また、たとえ複数の〈精神〉からして問題である〈事〉でも、そのすべての〈精神〉の規定する規範を従則する行動を採ればよい。けれども、それぞれの〈精神〉としては、規範そのものは一義的であるにしても、同じ〈事〉としては、両方の規範を従則することが不可能な場合がある。この場合、いずれか、または、両方の〈精神〉を放棄するか、または、その〈事〉に当たるのを控止しなければならない。

 たとえば、ある人物が、親交の精神に立脚すれば友人だが、組織の精神に立脚すれば宿敵である、ということがある。この点において、二つの〈精神〉は両立しない。この状況において、一方の〈精神〉を放棄して、他方の〈精神〉に立脚するのが、一般的である。もっとも、〈精神〉の放棄は、その〈精神〉においても、また、〈基底精神〉においても禁止されているものである。けれども、たとえば、自分が外国へ行ってしまった場合、また、その人物が死んでしまった場合、など、そもそもその人物の問題には当たらないのであれば、いずれの〈精神〉にも矛盾しない。


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