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生活論の基礎概念 第一章 ゲーム 1 精神の階層的・派生的体系

 〈精神〉は、いわば「規範の束」であり、複数の断片的な規範が、その一群の規範のいずれかで、その規範の規定するほぼすべての状況を処理できる体系を構成している。それは、たとえいずれかの規範を反則したとしても、その反則した状況を条件とする「罰則規範」を準備しており、やはりその体系の中で処理することができる。

 ただし、〈精神〉は、純粋に閉鎖的な体系とは違って、しかし、その参入と退出は、その例外として、〈精神〉の問題としうる状況以外のものへと開かれている。〈精神〉の中で、開始において機能する規範は、「参加規範」と、終了において機能する規範は、「退出規範」と呼ぶ。これらは、まったく自由である、つまり、主体が自由にその精神を採用/廃止することによる場合もあるが、また、その採用/廃止に、参加/退出規範として、その主体の最終身分や経歴身分の資格が負課されていることもある。とくに、退出については、[ある条件の実現とともに、その〈精神〉そのものが消滅する]ということがその〈精神〉の自滅規範として内在していることもある。また、規範に従則するかぎり、けっして退出することができない袋小路的な体系の〈精神〉も少なくない。しかし、それでもまた、現実には、最後までその〈精神〉の規範の従則をまっとうすることなく、その〈精神〉を放棄したりすることもできるのであり、その場合、そのようにその〈精神〉の規範を従則しなかったことに対するその〈精神〉の罰則規範は、その〈精神〉そのものをその主体が廃止してしまった以上、あいかわらずその〈精神〉を採用している主体にとってはともかく、その〈精神〉を廃止した主体自身にとっては、無意味である。

 たとえば、多くのスポーツでは、タイムアウトなどとともに、ノーサイドとして、その敵対的規範も終了する。また、たとえば、廃教者は、罰則規範として地獄に堕ちるとされていても、廃教者は、その罰則規範を含むその宗教の精神全体を棄ててしまったのだから、その罰則規範も無意味である。

 〈精神〉は、その参加規範と退出規範とにおいては開かれていてもよい、ということであるならば、〈精神〉は、その内部に、参加と退出がある部分的な〈精神〉がいくつか内在している、と考えることもできる。ここにおいて、体系を成り立たせるより少数の規範群を〈局所精神〉と呼ぶ。極端なことを言えば、たった一つの規範でも、その条件を参加規範とし、その行動を退出規範とする精神とみなすこともできる。とはいえ、ある精神に依拠して展開されるゲームの実際のシナリオでは、ある程度の頻度で、一群の規範の中だけで処理されているルーティンが反復的に出現するのであり、そのルーティンで適用される一群の規範を局所精神として、まとめて考察することが有用である。

 つまり、精神という概念自体が、じつは、客観的に規定できるものではなく、あくまで一群の規範をまとめて考察しようとする主観的な分析概念である。それは、本文のように、一群の規範の中だけで処理されているルーティンとして反復的に出現するものであり、そのことによって、それらの規範がなんらかの〈精神〉としての体系を構成している、とみなすことができる。

 逆に、複数の〈精神〉が開始と終了によって連関し、全体として、より大きな〈精神〉を構成している、と考えることもできる。体系を成り立たせる複数の精神の規範群を〈基底精神〉と呼ぶ。〈基底精神〉は、けっして〈局所精神〉の束ではなく、あくまでも規範の束なのであり、ただ、その内部にいくつかの〈局所精神〉が存在しているとみなすこともできるというだけにすぎない。したがって、いずれの部分の〈局所精神〉にも共通して含まれる〈基底精神〉の規範というものもあり、これはその〈基底精神〉の〈通底規範〉と呼ぶ。もちろん、そのほかには、いずれの〈局所精神〉にも含まれない〈基底精神〉の規範というものもあり、それは、たとえば、ある〈局所精神〉の終了と他の〈局所精神〉の開始とを連関させる規範などである。

 〈精神〉は、〈身分規定規範〉を含むことがあるが、その場合、その〈身分精神〉はその〈精神〉の〈局所精神〉である。ただし、そのような局所的な〈身分精神〉は、その身分である主体がその〈身分精神〉を従則するだけでなく、その〈身分精神〉に対して基底的な〈精神〉を共有する他の主体もまた、[[その身分である主体がその〈身分精神〉を従則する]と期待してもよい]という許可的規範が負課される。この基底的な〈精神〉を共有する他の主体への〈身分精神〉の派生的規範は、やはりその〈精神〉の〈局所精神〉として、〈身分期待精神〉と呼ぶ。それは、やはり一種の〈身分精神〉であり、[いずれかの主体がその〈身分〉になることを条件として、その主体以外の他の主体が〈期待身分〉になることを帰結する、その〈精神〉の〈関係身分基底規範〉]によるものである。〈期待身分〉では、その問題の〈身分〉の〈身分精神〉のすべてが期待的形態に転換されたものが、その〈期待身分〉の〈期待身分精神〉となる。なお、この期待的形態は、派生的であるが、これと対照する意味では、原本的である〈身分精神〉そのものは、「主体的形態」と呼ぶ。

 また、その〈身分精神〉は、[ある条件においてその〈身分〉の主体にさらに別の〈身分〉を付与し、その別の〈身分精神〉に移行させる規範]を内在させていることもある。しかし、そうではなく、袋小路的体系のものもあり、その場合、いかにその〈身分〉の規範をまっとうしても、その〈身分〉から他の〈身分〉に移行することはできない。

 ある〈精神〉においてある〈身分〉に定位するのは、〈自己〉の働きである。この場合の〈自己〉は、〈現実〉のある〈事〉に当事しているのではなく、〈精神〉のある〈身分〉に定位しているという〈私我〉の現象である。というより、〈現実〉のある〈事〉に当事するにあたって、つまり〈自己〉において、〈生活主体〉は、すでに〈精神〉における〈身分〉に立脚している。


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