#42 いろいろな自分を生きよう!~平野啓一郎『私とは何か~「個人」から「分人」へ』より|学校づくりのスパイス
前回は、自閉症の東田直樹氏の著作を手がかりに、「首尾一貫した一つの意思を持つ個人」としての「主体」という発想を疑ってみる必要について考えてみました。
今回はこの論点を一歩進めて、さまざまな自分を持つことの必要性について、作家の平野啓一郎氏による『私とは何か―「個人」から「分人」へ』(講談社、2012年)を手がかりに考えてみたいと思います。平野氏は学生時代に投稿した作品で芥川賞を受賞した逸材ですが、氏の作品にはこの本で取り上げている「分人」のモチーフがしばしば登場します。
「本当の自分」という擬制
多かれ少なかれ、いろいろな顔を持っているのが人間です。ニュース報道では事件などの際に、犯人について「まさかそんな人だとは……」といった驚きの声がしばしば報じられますが、たとえば、学校ではバリバリの教員が、家庭ではダメ親父であったりグータラ主婦であったり、というくらいのことは誰にでも身に覚えがあるのではないでしょうか。
平野氏は「人間にはいくつもの顔がある。――私たちは、このことをまず肯定しよう。相手次第で自然と様々な自分になる」(36頁)と述べますが、本書で展開されているのは、こうした人としてさまざまな顔を持つ、「分人」という考え方とその意義についてです。
もちろん今日の社会制度の多くは「個人」という考え方に基礎をおくものです。しかしこの考え方は、神に対して責任を負う主体を想定するキリスト教と、「分けられない存在」を措定しないとそれ以上の議論が困難になる論理学の産物であり、一種の擬制であるとしたうえで、氏は次のように指摘します。
「人間は決して『(分割不可能な)個人individual』ではない。複数の『(分割可能な)分人dividual』である。人間が首尾一貫した、分けられない存在だとすると、現にいろいろな顔があるというその事実と矛盾する。それを解消させるためには、自我(=「本当の自分」)は一つだけで、あとは表面的に使い分けられたキャラや仮面、ペルソナ等に過ぎないと、価値の序列をつける以外にない」(36頁)。
意識するかどうかはともかく、「本当の自分」なるものを自明と考えてしまうために、それ以外の自分が抑圧されてしまう、というのがこの本が提起している問題です。
このことは何もむずかしい哲学上の話ではありません。たとえば幼稚園か小学校の教員であれば、学校園での子どもの様子を聞いた保護者から「ウチではそんなことはないのですが……」という言葉が返ってきた経験がたいていあるのではないでしょうか? こうした分別も「分人」の考え方からすれば、「子供なりに、まったく異なる人間とどうすればコミュニケーションが可能か模索した結果」(123頁)と考えられるのです。相手によって個性を使い分けるのが「分人」であるならば、分人の成立のためには相手の存在こそが重要になると筆者は指摘します。
そしてこの「分人」の考え方は、単に日々のコミュニケーションのためだけではなく、これからの変化の時代を明るく生き抜いていくためにこそいっそう重要になってくるのではないかと筆者は考えています。
生活に複数の世界を持とう
今後は就業構造が流動化して終身雇用の維持が困難になる、ということに異論を唱える人はほとんどいません。現在の若者が生涯を通じて一つの企業で働くことは稀まれになるはずです。しかもそれは、単に特定の企業・団体における雇用の継続が不安定になっていく、ということだけではありません。今後は職種・労働の構造それ自体が大きく変化していくことが予想されています。
「100年人生」という言葉を広めたリンダ・グラットン氏は、今後は雇用環境が流動化していくなかで、「教育」「仕事」「引退後」といった人生のステージ区分も、また「職業」「ボランティア」「地域参画」といった社会的活動の境界も従来ほど明確ではなくなっていくと指摘し、こうしたさまざまな活動のバランスをとりながら生きる今後の働き方を「ポートフォリオワーカー」と呼んでいます(リンダ・グラットン他『LIFE SHIFT』東洋経済新報社、2016年) 。
そして、そのために強調されているのが「変身資産」という考え方です。環境や時代の変化に応じて、自分自身のあり方も自在に変えながら生きていこうとする資質や態度が、今後は間違いなく重要になってくるはずです。けれども実際のところ、仕事が変わったらすぐに別人格になれるような器用な人はまずいません。また、たとえそうなれたとしても、そこで必要なスキルをゼロから新しく身につけていくことは容易なことではないでしょう。
となると、今後の世界の変化に対応して能動的に活動を続けていけるのは、意図的にさまざまな世界の中に身を置き、いくつかの異なったキャラクターやスキルを発達させてきた人……つまりうまく「分人化」してきた人なのではないでしょうか?
逆に、ある一つの職種のみに通用するようなキャラクターのみで生きていこうとすると、その世界で壁にぶち当たったときには自分が全否定され、活路が見出せなくなっていってしまう可能性もあります。
「私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている」(115頁)と平野氏は述べます。
そして児童・生徒がさまざまな自分を生きていくのを手助けしようと思うなら、教員自身もまた、「分人」を生きることこそが、彼らに対して一番説得力を持つはずです。
それがどんなことであれ、「この人は学校という社会の枠の中だけで生きているのではない」と思えるような先生は、児童・生徒にとってもいっそう魅力的に映るのではないかと筆者は思うのですが、どうでしょうか?
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)
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