#41 自分の中のマイノリティ~東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』より~|学校づくりのスパイス
さまざまな障害をもつ人々やLGBTQなど、私たちの社会におけるマイノリティの存在が注目を集め、マジョリティによって創作された社会通念を今一度振り返ってみようという機運が世界的に盛り上がっています。
今回は東田直樹氏の『自閉症の僕が跳びはねる理由』(KADOKAWA、2016年〈文庫版〉。単行本初版は2013年)を手がかりに「マイノリティ」を考える意味について問題提起してみようと思います。
マイノリティという存在を突き詰めてみると、そこには自分という存在も考え直してみる契機が潜んでいるのではないかと筆者は考えています。
自閉症児の「生きにくさ」
この本は重度の自閉症で執筆当時13歳の東田氏が、文字盤ポインティングやパソコンといった手段を用いて自閉症児の生きる世界を内側から記述した本で、現在までに28ヵ国30言語に翻訳されているとのことです。
そこで開示されているのは、言葉の不自由な人の中に存在している素直で瑞々しい感性の存在で、たとえば「お散歩が好きなのはなぜですか?」という質問に対して東田氏は次のように応えています。
「一番の理由は、緑が好きだからだと僕は思うのです。なんだそんなこと、と思われるかもしれません。けれども、この緑が好きという感じは、みんなの感覚とは、ずれています。みんなが緑を見て思うことは、緑色の木や草花を見て、その美しさに感動するということだと思います。しかし僕たちの緑は、自分の命と同じくらい大切なものなのです。なぜなら、緑を見ていると障害者の自分も、この地球上に生きていてよいのだという気にさせてくれます。緑と一緒にいるだけで、体中から元気がわいてくるのです。人にどれだけ否定されても緑はぎゅっと僕たちの心を抱きしめてくれます」(106頁)。
筆者が13歳であった頃を思い出してみると、とてもではありませんが、このような感受性は持ち合わせていなかったように思います。こうした内面の発露が、自閉症であったにもかかわらずなのか、それとも自閉症であったからこそなのかは筆者には判断できませんが、いずれにしても、言語表現の不自由さを抱えた人の内側にこのような感性が秘められていたことは、驚くべきことではないでしょうか?
本の中では自閉症の「生きにくさ」についても、ストレートな言葉で表現されています。
「僕たちは、自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、じっとしていることも、言われたとおりに動くこともできず、まるで不良品のロボットを運転しているようなものです。……(中略)……どうして話せないかは分かりませんが、僕たちは話さないのではなく、話せなくて困っているのです。自分の力だけではどうしようもないのです」(30頁)。
自閉症の方々は言葉の不自由さゆえに、自分自身のさまざまな衝動に悩むことが多いのかもしれません。氏はストレートに「僕たちの話す言葉を信じ過ぎないでください」(28頁)とも語っています。
しかし、このことは自閉症の言葉が「本心」から乖離してしまっている、と解釈するべきなのでしょうか?もし、そうだとすると、自閉症の人たちの発するさまざまな言葉は「いったい誰のもの」ということになるのでしょうか?
「主体性」の落とし穴
本書の巻末で、この本を英語に翻訳した作家のデイヴィッド・ミッチェル氏は次のように解説しています。「心とは二十台のラジオが置かれた部屋のようなもの。それぞれが別の局の電波をひろい、さまざまな声や音楽を大音量で流している」(175頁)。
さまざまな「自分」がお互いに異なった声を上げるのは、私たちも日常的に経験しているはずです。たとえば「やせて健康になりたい」自分と「自由に飲み食いしたい」自分の葛藤くらいは誰もが身に覚えがあるのではないでしょうか? そのどちらが「本当の自分」なのかと問われてもどちらもそうだとしか答えられないはずです。
だとすると、自閉症と診断されない私たちの方こそが、逆に言葉を中心とする自己表現によって無理矢理に自分の意思を一本化し首尾一貫させているのだ、と考える方がずっと自然ではないでしょうか?
今日の社会生活の場では、人は矛盾なく首尾一貫した意思を持つ者として表現し、振る舞うことが、少なからず求められるからです。
こうした、一本化された意思を概念化したのが学校現場でよく使われる「主体性」という言葉であると筆者は考えています。たとえば自らの関心に従って学びに向かうときには「主体的」とされ、逆に人から言われて嫌々取り組むならばそれは「主体的ではない」とされるのが、学校現場にありがちな用語法です。
けれども、私たちの自由意思なるものはそれほど確固たるものでしょうか? 「今は遊んでいたい」「先生の言うことは適当に聞き流しておきたい」と思うのもまた自分にほかなりません。自分の中にあるさまざまな気持ちがそれぞれバラバラに声を上げ、うまく表現することができないと、他人の目には一本化された意思(主体性)がないように映ります。
換言するならば、子どもに、「あなたは何がしたいの?」という問いへの答えが求められすぎると、彼らは自分の中の「もう一人の自分」の声を聞くことはむずかしくなっていくはずです。
誤解を恐れずに言うならば、「主体的」であるように強いることは、子ども自身の中に他の声を生じさせないか、たとえ生じたとしてもそれを圧殺する「個人内圧政」の状態をつくろうとする働きかけにほかなりません。しかし、時には「自分の中のマイノリティ」の声にも耳を傾けてみることも大切なのではないか?という視点をこの本は与えてくれます。
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)