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迷信か真実か?...全国に広がる"伝説"の奇妙な一致についてー柳田國男を読む_13(「伝説」「神を助けた話」「伝説のこと」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集 7』ちくま文庫(1990)

序論

 伝説...今日では、日常語として溶け込み過ぎていますが、地元ヤンキーの武勇伝擬きは置いておくとして、対象としての伝説に触れる機会ってそう多くない気がするのですが、いかがでしょう?

社寺を訪ねれば、それの一つや二つに当たることはしばしばありましょうが、その場限りという感じで、その定義の広さゆえ、なかなかに取り掛かるのには腰が重い...

そこで、その定義のやや広範の元となった"首謀者"に批判を加えるのが、またまた柳田國男氏でございます。いや、ほんとストライクゾーン広過ぎて、むしろ彼の"伝説"を語った方が良いのではないかとの声も聞こなくなくはないですが、そういう定義の広さにはお叱りを受けそうなので、ここら辺でやめておきましょう(

首謀者ないし伝説研究では先達となる高木俊雄氏にあって、ストライクゾーンというより、単に人に恵まれていただけじゃ...(

なんかこのお二方、あまりそりが合わなかったと聞いたことがあるのですが、あの微妙な筆致もそこからきているのかなぁ...やめましょう。

とにもかくにも、柳田氏の伝説の整理・分類は今日の伝説研究にも影響を与え、「そこにとある傾向が窺える」と随所に述べられておる訳ですから、こりゃー共有してもらわないとと、低学歴ながら、全く熱意も誠意もない民俗学学徒擬きは考える訳です。

実に取っ付きにくい伝説にある「とある傾向」とは?それが案外民俗学と相性が良かったらしい...

うむ。では、高木氏のそれは少し控えて頂いて、少し覗いてみることにしましょう。

本論

伝説を喰い散らかせすぎじゃね?

 ということで、高木氏への鬱憤もあってか←、早々と民俗学へ活用するため、伝説の定義を整理し出します。まぁ、早い話、"狭義の伝説"こそが研究の格好な対象ダヨとのこと。民俗学の資料区分としては、口頭伝承と信仰伝承の中間に位置づけられるそうです。

よく混同されやすい伝説と昔話では、他の書でも再三再四、その相違点を強調されています。ここに柳田氏が言わんとする伝説の特徴が説かれており、関連の研究でもこの着眼点は貫かれているように窺えます。少し、列記してみますか...

  1. 伝説は人がこれを信ずる。 

  2. 伝説には中心(記念物)がある。

  3. 信仰と同様に定まった型がない。

  4. 歴史になりたがる。

1.では昔話だと「〜があったそうな」や「〜げな」など、自身が当事者ではないため、その責任を回避する文句を頭や後ろにつけます。昔話研究の方では、その地方別の方弁をまとめたりとなんと抜け目のない...

2.は、もう皆さんも体感されてますよね。地元に伝わる、我々が最も連想しやすい伝説は、何かの記念物が中心に語られることが多いと。いわば信仰の機関ともいえる。

3.これは、おそらく一番重要なのでは?(n=1)。昔話研究でもこの特徴を観光地のボランティアガイド並みに語りかけてきます(失神)。しかし、この特徴のおかげで、昔話だと古びかつ侮られたところを、伝説は、型を変えつつもその地元にある種、信仰をもって永らく語り継がれてきたともいえる訳です。

4.文筆の士に掛かる前から伝説は口承されてきたわけで、時代を遡って考えるとそもそも両者の境目は元はなかったと。が、時代が進むと文筆で載録され、多数に承認されやすいものだけを抜き出し、他のものは省く。これを柳田氏は合理化と名付けている訳ですが、詰まるところ、混合体というより、歴史と文学の中間にあると認識した方が良さそう。まぁ、だからこそ、生々しいご当地対決(発祥地)が今日にも続けられているのでしょうが...八幡太郎、弘法大師、平家谷、高倉宮、惟喬親王etc

(メモ)

...多くの単形伝説は、背後にやや色あせた複形を控え、気を付けるとまだその輪郭が辿られる。しかし一方にはすでに破片となって、その点ばかりを力説するものがあり...こういうのがしばしば文人の筆によって、新たな作り話を添えられることもあるが、それすらもおおよそ全国のどこかの隅に、あってもよさそうな複形伝説となっている。ここにも一つの統一傾向が、ほぼ民衆の想像の進んできた途を示しているのである。

同書 151頁

後の昔話分類法に通ずる分析ですね。

伝説の変遷

 伝説蒐集で目についたのは、なかなか奇抜な伝承を聴くことがあっても、一つの土地だけでなく、必ず同じ形のものがどこかにあり、日本の端々にもそれを確認することができるという。

「方言周圏論か何かですかい?」と存否不明の本シリーズ読者諸賢の皆さんは首を傾げてしまうかもしれませんが、柳田氏はこれを伝説の管理者の変遷でもって、通覧総括の目的を達しようとしました。

低学歴が纏めた変遷(1〜5)の流れは次の通りです。

  1. 旧家と一族郎党

  2. 寺社仏閣

  3. 旅の女性ら(歌比丘尼など)

  4. 文学

  5. 研究

特に3の働きについて、柳田氏は特筆しており、本書でもかなり目につきましたねぇ。巫女の動向から神がかり方式を分析するほどですから、やはり看過できぬという思念が一層強かったことが窺えます。

...万を数える全国大小の霊場に、隈なく分布している伝説ではあるが、よく見るとその種類は意外に限られている。ひとり方向の一致だけならば、これは固有信仰の争われぬ姿とも言い得るが、問題にしてよいのは、...すなわち珍しい出来事の組合せ、それも原因と結果だけでなく、細かな変化とその順序までに、それは私の方のだといわなければならぬものが、海山を隔てて何箇所にも並び存するのである。...単に旅から持って来たというだけなら、昔話にはなっても伝説として信ぜられているわけがない。すなわちその旅人が人を信ぜしめる力ある者であった証拠かと思う。「和泉式部の足袋」という話が、北九州にもあれば三河にもあり、薬師如来と歌問答をして、瘡の病いを治したという奇瑞が東西の十数箇処にある。これは鳳来寺の峯の薬師の山下に、一群の歌比丘尼が拠っていた名残であろうということは『桃太郎の誕生』という本ですでに述べた。

同書 132ページ

伝説の奇妙な一致から仮説へ

 そんなこんなで、随筆と言うとその門下からえらく叱りつけられそうですが、柳田氏らしい帰納法が伝説研究でも展開される訳で、流石に全容をここに詳らかにはできないまでも、個人的に気になった箇所を書き留め、ボケ防止の読書録を充足したいと思います(白目
ということで、8割方個人メモ録です...

○山立由来記

 日光山あたりに、弘名天皇の末裔である万三郎という者が住んでいた。無類の弓使いであったので、赤木明神との争いに負けていた日光権現の目に留まり、助力を求め、その報酬に全国の山々、その身そのままで山立させることを約束した。両眼を撃ち、退却させた彼に日光権現は大喜びし、約束の山々を知行させたのみならず、日光山の正一位伊佐志大明神と祝われ、その御堂が今も立っている。山立の祖であり、山神を祝うとはすなわち万三郎がことである。山立する人々は、肉に伴う穢れを免ぜられる一方で、十五日に水を浴び精進し、明神経を唱えなければならない云々...

いわゆる狩猟集団のマタギらに関連する伝説となりますが、狩人の穢れを免除は、類似する宇都宮ニ荒山神に近いもので、猿王の子、磐司・磐三郎伝説にも似た話が伝わっています。また、かの有名な田原藤太秀郷もニ荒山の庇護を受け、残された宝物の一つを預かっているとされる近江の蒲生氏は秀郷が遠祖と崇め、その蒲生氏の故郷は日野。いわゆる木地屋が大いに発達し、小椋という苗字を称して、諸国に分散等々。

...岳の麓に住む民は、いずれもわが神をもって最も尊いと思わねば崇敬を続けてはおられぬ。ゆえに少しく相互の交通が開け、他郷にも神威の雄大なる山のあることを知れば、すなわち愕然と驚いていったんは信仰が動揺し、さらに優劣の比較を企てることになれば、上下一心になって、こちらが一段と高いと言うことを考えんとする...各家族が分立した土豪が割拠した時代には、神もまた地方神たることを免れなかったので、近隣の神々とすらも相容るることが難しかったのである。しこうしてまた時あって、人間の助力を求めらるるほど、氏子との間柄だけは親しかったのである。

同書 416-417頁

滔々とその結節点を見極め、証拠不十分で論断は避けてはいるものの、伝説研究の奥深さを感じさせるものであります。また、いわゆる"文芸"だけでなく、口承も中々に侮れるものではないことを確認できるものでもありました。

○地蔵様と道祖神

...支那で道祖といったのは単純に道の神であったかも知れぬが、この漢字を宛てたわが邦のサエノカミは、同時に境を護る神様であった。...中国などでは道祖神は、石でも瓦でも多い方を悦ばるるといって、やはりその前を通る人たちは、その類の物を携えて往って積み重ねる。
...塞河原の道祖信仰から出たことを証拠立てるのは、決して語ばかりでない。日本の地蔵様と道祖神とは、似ぬ点が少いくらいよく似ている。真言一流の説明では、地蔵は道祖神の本地、道祖神は地蔵の垂迹であった。ことに子安地蔵とか子育地蔵とかいって、永久に人の親の憂悲を救う役目は、道祖神もまた古くからこれを掌っていた。

同書 454-455頁

児捨馬場が児捨馬場であったごとく、また子安地蔵がやはり子買いであったごとく、死んだ児の行く処とのみ認められた塞河原が、子なき者子を求め、弱い子を丈夫な子と引き換え、あるいは世に出ようとしてなお彷徨う者に、安々と産声を揚げしめるために、数百千年の間凡人の父母が来ては禱った道祖神の祭場と、根本一つであることがほぼ明白になった。つまり我々は皆、形を母の胎に仮ると同時に、魂を里の境の寂しい石原から得たのである。

同書 469頁

 棄児の儀式ないしその伝説をそのままに受け取り、残虐非道と捉える現代の価値観(七歳神話を字面のみで咀嚼するetc)で斬り込むのを粋としてしまうのが近代人の性でしょうが、これにも突然理由がある訳で、この魂の移動というのは昔の子供の儀式によく見かけるものでありました。ちなみに徳川三代将軍家光も一度"棄児"にあっています。

赤子塚、頭白上人、夜啼石に啼地蔵...よくまぁ、ここから繙けたのかと感嘆の極みですなぁ...

結論

...何よりも土地の人々の忍び得ないことは、これほど純一にまたいつの世からともなく言い伝えている神聖な物語を、ただあり得ないという一言をもって評し去り、時としては肩を聳かし頸を振って、意味ありげな冷笑を浮べる人があり、それでは私等をうそつきと仰せあるかと、詰問でもせずにはいられぬような、変な態度を示されることである。

同書 70頁

 なんか今回は、一段と個人メモ録感が漂うのですが、ボケでも進行してんすかね?(自問

閑話休題。

伝説研究に多大な影響を与えているのは言わずもがなですが、これを民俗学資料に引き込もうという感性がやはり磨きに磨きがかっている。

高木氏が先鞭をつけた「伝説」研究に一石(明らかにそれ以上が...)を投じ、将又、混同甚だしい昔話との区別を明らかにするとなると、堂々と同列に構えるまんが日本昔はなしの面目はどうなるのでしょうか?...やめよぅ、壁の方から「あらやだ」と囁かれてはひとたまりもないので(

一方で、こんな格好な資料を柳田氏が見逃すわけもなく、昔話の研究についても併せて多大な功績を残しておられます。今回の伝説と密接に関係する分野でもありますんで、次回は昔話を取り上げてみようかと思っております。

改めて民俗学の裾野の広さには感服してしまいますなぁ...

○備忘録

これまた高木氏の伝説分類を批判し、目的物の分類を試みている。(木思石語)

  • 木の伝説

  • 石の伝説

  • 塚の伝説

  • 水部伝説

  • 道の神の威力

  • 長者屋敷

  • 社寺仏閣旧家

今日では流石に伝説研究が進んで、このまま受け売りということはないが、これをベースに伝説分類の規範として影響力を持っているらしい。

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