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国旗、校旗、"推し"の幟旗...「ただの旗」に魅了される古今東西の人々ー柳田國男を読む外伝_02ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

①『折口信夫全集第二巻』中央文庫(1975)

②『柳田國男全集 14』ちくま文庫(1990)

序論

 最近は、もう媒体を問わなくなってきていますかね。チケットを握り締め、会場前の景色にふと目を配ると町内会の催しで大変嫌気が差していた旗が幟旗が翻っているではありませんか。

興奮に乗じてが、なりふり構わずカメラを振り回す者、感慨に浸って開演時刻を忘却する者、「そんなところに予算回すなよ」と内心冷淡なセリフを吐く者...

「は?旗なんてただの有機物じゃん」と国旗・校旗に向かって冷笑する半ば卒業式の通過儀礼をオリンピックでも置き去りにする者...

最近だとオリンピックですか?世間では何かと話題が絶えないそうで、その中でも世界の国々の国旗やえーと逆さで掲揚されたあれとか()、人々が熱狂するところに旗ありって感じで、旗は実に不思議な有機物で、今日まで人々に様々な印象を与えていますよね。

たかが旗などと、別に斜に構えようが、あれだけデカデカと存在感を発揮されては、誰れもが疑問を抱くのは当然であり、ロジカルシンキングなどと持て囃される世間にあっては、逆に整然と説明されないのは、ひ○ゆき氏のマーケティン(ry、一つに存在感が大きすぎて自明の理と化しているというのも挙げられるかもしれません。

それも掘り出せば、そうなのです。旗は古くからあって、人々の信仰の中心にあった時代がありました。今はその大きな信仰の塊が国旗に留まっていると言えるかもしれませんけど、最近になって突然ポンっと出現したところで、人々がここまで親しみを持って迎え入れるいわれはない訳です。

そこで、いつものようなクサイ文句を並べ、いよいよ口寄せならぬ召喚の儀を行うのですが、まぁ、タイトルからお察しいただけるように、"例"の外伝であって、今回も折口信夫先生にご解説願おうとそう企画しているのであります。

んー、まぁそれが"例"の方も短い論稿ではあるのですが、一応は当該分野を語ってはくれているので、比率的にはトントンです。これを外伝と呼べるかどうか。私的に、折口信夫先生の著作を見て、ハッとしたので、外伝といたします(スッ

大変利己主義的なシリーズで、いつも恐縮してもう隅にもこの世にも置けぬ感じになっておりますが(前振り長い)、旗と人々の歴史について、ちょいと気楽に、熱狂のそれがやや飛び火せぬnoteにて整理していきたいと思います。

ではいきましょう。

本論

由緒ある神聖な旗

 「武江年表」寛延年間の記事に開帳神仏によらず幟を立てることがあるとの記載があり、注釈には、芝居の表に幟を立てるのは古くより稀にはありしなりと、まぁー、とにかく、興行物の景気に幟を立てるのは、近世からの流行りだろうと柳田氏(伏字はどうした)は述べているわけですが、これとて、序論の卒業式の通過儀礼マインドで、冷笑でもって看過しないのが、民俗学者の嗅覚と言えるでしょう。又、柳田氏は、神仏の祭祀に幟を立てるのも決して新しい思いつきではないだろうとさらに嗅覚を尖らせる訳です。果たしてこれが一人のおっさんの世迷言になるか(やめろ

祭に旗を立てるのは実に久しい民俗であり、山城国の真幡寸神社では、「令義解」に別雷神の纛(おおはた)の神なりとあり、雨をこの神に乞うことも屡々。「肥前風土記」の姫社郷の件では、筑前宗像群の人可是胡なる者、幡を捧げて荒神に祷る云々という記事があるという。和州三輪神社の旗建芝、正月十五日に旗七本を立てるという近世の事例があり、安芸佐伯郡の宮原という地では、祟り石があり、毎年九月に紙の幣を立てることがあり、以前は五彩の旗を立てることがあったそう。

それに各地に残存する伝承・伝説などには、旗塚・白旗塚が多いです。神功皇后のそれなどは一度は耳にしたことはあるのではないでしょうか?下総結城郡法光寺の旌懸松の豊田四郎の奇妙な伝承では、幅八寸長さ一丈五尺ほどの細長い旗で、白の絹地に五色の糸をもって蟠竜云々と軍旗なしからぬ旗の形状を彷彿とさせるといいます。とにかく、柳田氏は、旗を柱竿の先に立てたことは旗立石のそれや鉾立石の類似性からも証明し得るだろういいます。

折口氏も語部が説いた"はた"とは元来、今日の国旗のそれとはだいぶ形状や用途が違ったのではないかと指摘しています。

斉明天皇の蝦夷沙尼具那、津軽馬武に下賜した鮹旗廿頭云々の記述から、鮹といい頭といい何か今日のそれとは違った形状を彷彿とさせるといいます。それは、竿頭に丸く束ねた物があり、それが四方八方にタコの足のように布やら縄が垂れている、地方でいう花籠のようなものを印象づけるといいます。消防団や祭で見かけるまといやバレンもその派生形といい得ると思います。

畏くも、令和を世に宣せられし即位式では、由緒ある銅烏幢その他堂々たる幟がいくつも掲揚されていましたね。あのような幟にあっては宮中において、正月十七日の射禮に阿禮幡を掲げていた事例があり、この阿禮(あれ)にしろ賀茂祭の阿礼にしろ、神を出現を待つ、勧請する神聖なものであることは論を俟ちません。

旗鉾は武器にあらず?

 しばしば旗鉾とされるものは、鋭利な刃物が先に付けてあると近代的に解釈されがちです。しかし、常に武器のみを意味していたのか文面上解することは難しいですが、「延喜式」の左衛門・大舎人が取る卯杖の木をムホコと読んだり、鷹の架をホコ木と読むのを見れば、今日の棒がこれに当たっていたと解するのが自然としています。しばしば和歌などでも鉾先に留まる鴉などの描写がありますが、それが鋭利な刃物であれば、留まる気遣いはないと柳田氏は述べています。

併せて、折口氏も、もとはといえば、神を祈るものであって、鉾を持って戦に出るのは、ある種、臨時の神意を問うところから始まったのだろうとのことでした。

彼らとても旗を造り、旗を立てて、又持ち出すにあたっても斎戒謹慎、蝉口に神符を封じ込めたなどの軍用記の故実が残っている訳ですから、やはり姿形は変化していっても、その心象というか神祭りの心境に通ずる所があったのでしょう。

備忘録

白旗

寸津毘古が神武天皇に斬り殺される際に白旗を振ったという記述(常陸風土記)があるが、今日国際法的にいう降伏の意が元来あったか。段階があったのでは?

青旗

あをはたの木幡やあをはたの葛城山等々、万葉集などで枕詞として活用される。山に靡く旗と考えられていたようで、白和栲・青和栲の対照を見ると頓狂なものではないかも

赤旗

遠野のそれや黒坂命葬送の際に翻っていたという。

結論

...塚に柱を立てた古来の習俗はこれだけではまだ尽したとは言われぬのである。...柱の頂点において火を燃すことは、火の光を高く掲げるために柱を必要としたのではなく、柱の所在を夜来る神に知らしむるためであったことは、日中の柱に旗を附することを思い合せるとほぼ疑いがない。陸中遠野では盆に今でもこのような旗鉾を立てる(遠野物語序)。その旗は赤くして小さい。阿波にもこれとよく似た招き旗があるという。海上における艦船の信号などは、今でも旗と燈とで昼夜を分っている。

② 48頁

 柳田氏にすれば、どこかで取り上げた覚えのある壮大な勧請に関する記述の一つとして綴られたきらいがあるので、これで出尽くしたという感じがしないと述べるのもまぁ納得できるものかなと思います。

うはべは變つても、中身はやつれたまゝに、昔の姿を遺して居た旗も、武家末期の四半のさし物を横にした格好の國旗となつて了うては、信仰の痕は辿られさうもなくなつた。軍人が身に換へて大事にする今の軍旗と言ふ物も、存外、信仰とは緣の離れた合理的な倫理觀の對象となつてゐる様子である。併しながら、かく明治の代に、新な習合をした西洋の旗にも、實は長い信仰の連續はあつた様である。

① 225頁

フラッグやらスタンダードないしバナーなんかは、あの紋章も相まって様々な人を魅了させるのですが、まぁ、あれも軍制の必要上からあれやこれやと趣向を凝らしたというのも否めないでしょう...読者諸賢の皆さんの中に、諸外国の旗の遍歴を扱った低学歴でも読める専門書を知ってるよ!という方がいらっしゃったら、是非ご教示願いたいです。そもそもお前の積み本を何とかしろと言われそうですが...はい、そちらもそのうち←

ともかくも、屡々逆さにオリンピックに翻る旗にしろ、"有機物"として宣誓・注目させられる国旗にしろ、生徒会のサボりをカバーするためあくせく掲揚される校旗にしろ、"推し"のやや過剰とも言える幟旗にしろ、その熱狂の最中にあって、人々の無識の心の働きとやらには、以上の悠久の人々の営みが関連していると我々は一度は認識するべきなのかもしれません。

こうしてみると、端午節句に何気なく掲げていた五月幟や鯉幟、半ば冷笑の絶えなかった国旗・校旗なども、よくよく見ると、その疲労の跡やらその先にある往年の貫禄なるものが垣間見えるかもしれません。

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