恋愛という鍵でしか、幸せの扉は開かない。わけがない。〜映画「そばかす」感想記〜
初夢は見ましたか?
私は「恋の夢」でした。しかも一晩で豪華二本立て。
学生時代にフラれた人への恋。
そして、社会人になってから浮気された人との恋。
どちらも、明けましてフラれました。
悪夢のような出来事を、わざわざ悪夢で再現するという、笑ってないと泣けてくる型の初笑いで目覚めたのですが。
これほどまでに恋愛を意識した(というかウナされた)夢を観てしまったのは、年末に観たとある作品がとんでもなく面白かった影響です。間違いない。
そのとんでもなく面白かった作品とは
「そばかす」。
恋愛テーマの映画を映画館で観たのは久しぶりでした。
いわゆる、恋に落ちるの?落ちないの?むしろもう落ちてるの?みたいな恋愛映画ではありません。
「そばかす」は、その真逆。恋愛や性愛をテーマに、価値観の押し付けから解放されることで、主人公が自由を獲得していく物語です。
作品の世界観は明るくて、快活で、ときにユーモラス。なのに、主人公の葛藤は生々しい。
それを成立させている三浦透子さんの演技も最高で。ドライブ・マイ・カーの演技も素晴らしかったですが、こっちも負けず劣らず仕上がってました。
誰かの勝手な常識とか先入観とかに苛まれたことのある人なら、つまりたくさんの人が楽しめる作品なのでは?と思い、勝手にご紹介したいと思います。
映画「そばかす」あらすじ
主人公の名前は、蘇畑佳純。そばた かすみ、略してそばかす。この映画のタイトルですね。海の綺麗な地方都市で暮らしています。
同僚思いで感じのいい人ではありますが、友だちの影はありません。
表情に乏しく、あまり笑わない。ときおり愛想笑いをうかべる程度。明るさや社交性をあえて押し殺しているそぶりすらあります。
カスタマーセンターのオペレーターさんという、人と顔を合わせない仕事を選んだことにも関係しているのかもしれません。
ひとりタバコが似合いすぎ。空を見て吐き出す煙は、安堵と虚しさがないまぜになっているかのように見えます。他者を知ることも、自分を理解してもらうことも、すっかり諦めているような。なんなら諦めに安らぎを見出しているような。
それが「アンニュイ」「どこか影がある」「ミステリアス」に映り、誤解されちゃうタイプでもあります。なので、そこそこモテるのです。
たとえば、「蘇畑さん」と呼ばれて「はい、なんでしょ?」と言うかわりに、眉をクイと上げてみせる仕草。瞳の美しさが際立ち、意外なほど目元が華やぎます。無表情からのギャップがキラリ。口元に作り笑いでも湛えようものなら、さらにキラキラリ。雲が流れて満月がのぞくような。
ビビッドな色の服はあまり着ず、お化粧も控えめ。目立つこと、自分を楽しむことを避けている様子ですらあるのですが。
なのにモテる。たまにしか笑わない。いっそうモテる。結果、かなりの確率で男性に興味を示される。
しかし、異性を惹きつけやすい人にも、その人なりの地獄があるもの。この主人公・佳純ならなおさら。
なぜなら彼女は、恋愛感情や性的欲求を誰にも抱かない、アロマンティック・アセクシュアルだからです。
恋の誘蛾灯。しかも鬱陶しいだけじゃない。友だちできた!と思ったら恋心を抱かれて、ゴメンナサイなんてことも。
誰かを大切に思いながらも、それが恋愛や性愛というカタチをとらない、というだけなのですが。
佳純が生きづらくってしかたないことは、想像に難くありません。そりゃ人付き合いを避けるってもんです。
そんな彼女は30歳。ある日「結婚結婚」と急かす母親によって強制的に、というか詐術的にお見合いへ連れて行かれることに。そこから物語が転がり始めます。
彼女に転機をもたらすのは、いろいろな人との出会いと別れ。お見合い相手との悲しいすれ違いがあり、旧友との嬉しい再会や、世界がひらける出会い直しもあり。
その中でもいちばん大きな存在が、前田敦子さん演じる世永真帆。東京から地元に帰ってきた真帆から、自分らしさを肯定され、友だちがいる楽しさを教えてもらう佳純。いつしか自然と笑顔も増えていきます。
職業を変えた彼女は、真帆と一緒にとある企てをするのですが・・・。
自分のままで幸せになること。誰かと生きていくこと。そして、楽しくやってくこと。彼女なりの挑戦を経た先に待っていた希望とは何か。というお話。
「常識」という名のゾンビウイルス。構わず逃げろ。突破仲間はきっといる
私が本作をユニークだなと思い、そして希望を感じたのは
「逃げるのもアリ。そこに挑戦があれば、突破につながる」
という点です。
佳純をとりまく家族や同僚、他の登場人物たちにとって、恋愛や結婚は「常識」。
そして「常識」は、しばしば恐ろしいもの。ひとたび囚われれば、無意識のまま誰かに押し付けているかもしれない。自覚のなさゆえ、躊躇なく傷つけてしまうことも。その思考停止力と攻撃性は、さながらゾンビウイルスのようです。
私には佳純を取り巻く人々が、そんな常識ウイルス恋愛株に感染しているように見えました。
彼ら彼女らは、家、職場、出先など神出鬼没に出現し「レンアイ・ケッコンアタリマエデショ」と奇襲をかけてくる。振りきっても振りきっても涌いてくる常識ゾンビです。
しかし佳純は、そんな環境に生きづらさを感じつつも、周囲に変わってもらおうとしません。「私を理解して」と声高に求めることもしません。
基本はごまかす、聞き流す。人付き合いは増やさない。友人・真帆との企みさえ、途中で自らストップをかける。
怒りをパワーに変えて戦うマーベル的な大活躍はナシ。常識ゾンビたちとの対立から、とことん逃げ続けるのです。
だって。周りの人は皆いい人だから。佳純が好人物であるのは、思いやりのある人々に囲まれているから、とも言えるわけで。多少どーしょもないヤツにしたって、けっして悪意はない。
つまり佳純は、振り上げた拳を下ろす先などない、ということが分かりきっているのです。
怒れない。戦えない。そもそも敵じゃないから対立したくない。観客の多くも、そんな世界に住んでいる一人なのではないでしょうか。その切実さは、観ている人の胸をつかんで離しません。
物語が進むにつれ、私は佳純への共感が、共闘に変わる感覚を覚えました。
常識ゾンビたちから逃げながら、仲間との縁によって環境を変え、自分であるための挑戦を仕掛ける佳純。敵は「常識」。それに風穴を開けようとすることで、彼女は自分らしい生き方を模索し始めるのです。
キーワードは「転職」「シンデレラ」「二人暮らし」。逃避行だった日々が、挑戦によって突破行へ。
そして、ラストシーン。とある小さな、しかし力強い希望が見出されます。
常識ゾンビ包囲網を突破しようと、もがいた先に見つけた非常扉。
「幸せへの扉は、恋愛以外の鍵でも開く」
と、彼女の世界が拓けた瞬間と言えるかもしれません。
サプライズ、躍動的、清々しい。元気づけられる読後感でした。
常識ゾンビに襲われたことのない人なんて、いるんでしょうか。
私なんて日々、噛みつかれている気がします。観ていて心の傷が疼きました。それでも、真っ向から反論を述べるほどの知恵も勇気もありません。
そもそも自分だって、気づかないうちに常識ゾンビになっているかもしれない。「自分はマシ」と言い切れる自信すらないのです。
そんな私にとって、抵抗はしない。でも、服従もしない。逃亡と挑戦は両立する。とでも言うような、地に足のついた佳純の挑戦は、まさしくリアル。願いうる希望そのものに感じられたのでした。
加えて本作では、恋愛という価値観を頭ごなしに否定するなんてことはしていません。登場人物たちをバカにして描くこともなく。そのあたり、絶妙なバランス感覚といえると思います。
だからこそ、「常識」に疑問を持たないことへの疑問が、鋭くつきつけられてくるのです。
世の中の当たり前、会社の普通、学校の当然。
まったく存在理由のわからない「常識」に圧迫されたことのある人であれば、だれでも佳純に似た息苦しさを思い出すはずです。
そしてそういう人は、きっと多いのでは、と。
安易な一般化に陥らせない。三浦透子の演技力
そういう人は、きっと多いのでは。と書いておきながら。
「恋愛というカタチに限らず、男性らしさ・女性らしさ、肌の色が〜〜だから、若者らしく、〜〜人らしく、などなど。別の言葉を代入すれば、みんな同じ苦しみをもってるよねー」
みたいな安易な一般化はしない作品です。本作は。
というのも。劇中、最後までアロマンティック・アセクシュアルという言葉は使われません。佳純を何かに分類することなく、佳純のままを描き続けます。徹頭徹尾、パーソナルな物語になっているのです。
だって、アロマンティック・アセクシュアルであることが、彼女の人柄のすべてではないから。彼女が恋愛や性愛以外の鍵をつかみとり、幸せを目指す物語だからです。
一部分だけにフォーカスして、誰かを分かりやすく分類する。それもまた、人間性を度外視するという点で、恋愛の常識化と似た思考停止構造をもっているからかもしれません。
だからこそ。誰かを分類することの粗雑さを観客に感じさせるためには、それだけ佳純を一人の人間として描き立たせ、喜怒哀楽に巻き込み、感情移入させる必要があります。でも、佳純は表情や感情表現が抑え気味なわけで。
そのジレンマを覆す力技、やはり主演の三浦透子の演技力に負うところ大ではないでしょうか。私は氏を大好きになりました。
昨今はジェンダーやセクシュアリティをテーマにした作品をはじめとして、非当事者が当事者役を演じることの是非について物議を醸すことも増えたような気がします。
なので、観た人によっては「当事者のリアルと違うんじゃない?」と思うかもしれません(パンフレットによれば、きちんと当事者監修を受けているとのことですが)。
でも三浦さんは、自身を当事者だとも非当事者だとも表明していないわけです。わざわざ表明する必要もないと思いますし(なので検索とか詮索とかしてません。違ってたらゴメンナサイ)。
その点で本作はメタ的に、自分の先入観に他者を嵌め込む危うさを体現した構造になっているとも考えられる、と加えておきたいと思います。
とにもかくにも、ドライブ・マイ・カーのときもすごかったけど、こちらも一見の価値ありですよ。
本作は佳純の苦悩や葛藤、社会へのアンチテーゼ、いまだ認知が高いとはいえないアロマンティック・アセクシャルを扱った作品でありながら、全体的に明るく、快活で、ときにユーモラス。なのでとても観やすい作品に仕上がっています。
だからこそ、観客はラストシーンで希望を抱くはずです。
「自分も自分なりの鍵で、扉を開けられるのかもしれない」
と。
佳純の逃走が、実は未来への助走につながっていたように。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
あらためて、この映画は必見です。