ドーピングは禁止するべきか? 問いかける法哲学への議論応答①

まず簡単に本の説明

今回は「問いかける法哲学」(編:瀧川 裕英さん)という本にて、面白い議題がありましたので、それについて書いていきたいと思います。
※著者は各テーマごとに違う方が著者となっており、全体の構成としては瀧川裕英さんという、立教大学の教授の方が編集されているようです。

①まず簡単に本の説明
②面白かったテーマの紹介
③追加的議題に対する私見(有料)
という順番になっております。

※①~②は基本的には本を読んでいる前提で書きますが、読んでいない方でもおおまかな話の流れは分かってもらえるようになっております。
少しでも面白いなと感じた方はぜひ「問いかける法哲学」で探してみてください。きっとご満足いただけます。
とても読みやすく、実践的で、シンプルな(ただ奥深い)な書き方で、私は特に専門家というわけではないですが、誰が読んでもきっと素晴らしい本だと感じると思います。

この本はテーマになる一つの大きな問いかけごと(例:ドーピングは禁止すべきか?など)に区切られ、その問いかけを否定するにしても、肯定するにしても、応えなければならない幾つかの小さな議題について分析し、著者なりの結論をそのテーマごとに出していきます。

読んでいる方は、「これは著者の論理が正しいな」とか、「その組み立ては間違っているんじゃないのか?」などと自分で考えながら読むことができて、非常に楽しいです。

なにより面白いのが、著者はテーマごとに、著者の論理にのっとり結論を提示しますが、それだけに終わらず、「これはOKだけど、その論理でこっちはOKだよね?」などとさらに議題を広げてくれます。
こういった、テーマごとの本質的に重要なポイントは何なのか、そう考えさせる作りにとても興奮しますね。

ということで、一つ目のテーマへ進みましょう。

ドーピングは禁止すべきか。

世界的にはドーピングは規制強化の流れが続いているようですが、それは正当なのか? 正当だとするにしても、不当だとするにしても、ではその論理は一体なんなのか? という問題ですね。
このテーマでは著者はドーピングを禁止することには一定の正当性があると考えて議論が展開されます。

ただし、”どのような論理で正当性が認められるか”という以前に、
逆に”どのような論理では正当性は認められないか”という点を重視しています。

推測するに、正しい規制は、正しい論理”だけ”によって正当性を担保されるべき、ということでしょう。
なぜなら正しい規制だとしても、間違った論理も正しい論理も、ひっくるめて正当だとしてしまうと、今度はその間違った論理だけで何かの議題に結論を下すこともできてしまいます、それは防がないといけないということですね。

テーマにおける各ポイント
・副作用の問題
・副作用の問題は、個人の自由の範囲内か
・薬物のフェアプレイへの影響は?
・経済的格差など、フェアプレイに影響を及ぼしている他の要素と、薬物のフェアプレイへの影響との比較
・ドーピングはスポーツの目的を損なう
・美徳の強制の是非

まず上記が基本的な議題として議論されます。
※ポイント名は私なりの解釈で重要な点をポイントとしています。
副作用の問題は個人の自由の観点から否定され、
フェアプレイに関しては、そもそも規制しないのが一番フェアだという結論で否定されます。

そして重要となるポイント
・ドーピングはスポーツの目的を損なう

ここまでのポイントに比べると、非常にフワッとしたポイントですが、これが重要な要素のひとつになってきます。
著者は目的=美徳として、議論を展開します。
スポーツとはそもそも、一人の人間として自分の肉体の限界へ挑戦するという美徳を追求するものであり、ドーピングはそれに反する、ということですね。

定義としてはフワッとしていますが、これは強力な論理だと思います。
これは私の考えですが、
この美徳というものは、二つに分解できると思います。
スポーツを運営している者にとっては美徳=魅力
社会にとっては美徳=公共性
スポーツを運営している各組織からすれば、スポーツの魅力はビジネスの根幹です。これらの組織の方には、一定の範囲内でスポーツの魅力を損なう行為をする関係者に対して、美徳の強制、つまりドーピングの規制をする権利があると思います。

どのような組織でも、自分の組織に対して法的、社会的な正当性なく、過度にネガティブな行為をした場合は処分が下されることは正当だと思いますから、スポーツ選手によるドーピングを規制する権利が、それを運営している組織に存在するという論理は、私も正しいと思います。


ただ、著者はさらに問題を提起します。

重要なポイント②
美徳の強制の是非

「ドーピングはスポーツの目的を損なう」という点から見て、運営している組織がその美徳を強制するための規制には正当性があると結論付けた訳ですが、では国家が禁止をする、あるいはそれを助けるのはどうでしょうか?
例えば、2005年のユネスコ総会において、「スポーツにおけるドーピングの防止に関する国際規約」が採択されました。日本も締結しています。

例:スポーツ庁のHPでは、締結国の役割を以下のように挙げています。

○規約の目的を達成するため,国内的及び国際的な規模で適当な処置をとること。(第3条)○ドーピング防止機関等が補助金若しくは贈与によってドーピング管理を行えるよう,資金を供与すること。(第11条)○WADAの重要な任務を支援する。(第14条)○WADAに対して資金供与を行う原則を支援する。(第15条)○ドーピングの防止に関する教育及び研修の計画を支援し,立案し,及び実施する。(第19条)○ドーピングの防止に関する研究を奨励し,及び促進する。(第24条)

スポーツ庁 ドーピング防止活動の取組 にて
https://www.mext.go.jp/sports/b_menu/sports/mcatetop10/list/1372215.htm

さて、そもそものスポーツ庁という存在、そしてそのスポーツ庁が上記の規約の目的の達成のための処置を行っていくということは正当なのでしょうか?

著者はこういった国家的な美徳の強制について、ふたつの観点から考えることができるとしています。

自明的にあきらかに道徳的な良い行いがあるなら、国家にはそれを奨励する権利あるいは義務があると考える、卓越主義的な観点。

自明的にあきらかな道徳の価値観などなく、優劣は決められない。よってその区別を国家に任せることには不安がああり、何もしないほうが良いという中立性原理的な観点。

この二つの観点です。

著者はどちらかというと中立性原理を重視する立場に立ちますが、
まずは中立性原理の弱点を指摘します。

国家が一切管理しないと、良い文化は、それが良い文化と気付かれずに衰退し、結果的に文化全体が退廃的になっていく、自由と道徳を重視するがゆえに、自壊的に自由と道徳を失っていくというものである。

ただし、著者は中立性原理については、もう少し広い範囲をカバーできるのではないか?とも追加で指摘します。

具体的にこの芸術が良いもの、他の芸術はダメ、と規制をするのは中立性原理の思想目的に反するけれども、そういった多くの多様な芸術文化を創り出す”下地”を作り出すことは認めてもいいのでは? と主張します。

つまり言語の教育や、漫画や映画などの特定の芸術分野の記録の保存などの範囲の、ある種の文化の保存。より豊かな文化に気付き、選択するという自由を保全するための行いは許される。よって一定の組織の中におけるドーピングの禁止はスポーツという文化の保全が目的ならしても良い、これは美徳の強要ではなく、美徳の保存だというような結論です。
卓越主義的観点ではなく、中立性原理的思想を拡大する形で、正当だと結論付ける訳です。

これがドーピングは禁止すべきか、という問いに対する著者の一つの答えとなります。

ただし、最初に書きました通り、これで終わらないのがこの本の面白いところです。
著者はドーピングは禁止すべきか。という問いにはYESと答えます。
と同時に、もし仮に ”最初からドーピングを前提にしたスポーツが生まれ、それが選手によって深刻な健康上のリスクを与えない形で実践されるなら” それは中立性原理にのっとるなら、それは否定できず、むしろ認める必要があると述べています。

さて、それはどうでしょうか?
確かに、中立性原理にのっとるなら、既存のドーピング禁止活動を助けることは許され、最初からそれを前提にしたスポーツを興すことは許されないというのはダブルスタンダードのように思えます。

あなたはどう考えられるでしょうか?
私は著者とはすこし違う意見を持っています。

気になって下さる方は続きへどうぞ。

追加的議題に対する私見(有料)


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