7月18日 ノスタルジアを見る

最近noteに下書きばかり増える。

ガンダム水星の魔女を見終わって考えること、
友ヶ島に行った経験と思い出から湧く創作意欲、
暫く疎遠だった祖父母に会いに行ってわかったこと…。

色々な出来事と、感情と思考がぐるぐると廻る。
それを形にしたいけれど、うまく表現できない。
体感としては朧げにあるが、言語化が難しい。
微妙な心持ちのまま日々を過ごしている。

自らの思考と感情に、納得できる形を与える過程は辛い。
即興の踊りや音楽や詩の用に、言葉を使えたらどれ程良いか。
心のままに体が動けば、想いのままに言葉が流れ出せば…。

母方の祖父はどうやらそんな風に書けるらしいが、
今の僕には全くそんな風な才能はなかった。

口で話すときは言葉が自然に流れ出るけれども、
そんな相手はそう居ないし、口は災いの元になる。

…とにかくこういうときは、難しく考えずに日記を書く。
今日はタルコフスキーのノスタルジアを見た感想について。

ノスタルジアは既に今まで4、5回ほど鑑賞している。
今日はアマゾンプライム対象に入った流れで鑑賞した。

この映画は、何度見ても正直よくわからない。
意味があるようで、無いような、抽象的で、幻想的で、
わからないなりに観るというか、最後まで魅せられる。

その時々によって、見方も、感じ方も変わるだろう。
数年後にもまた見てしまうだろうな、という気がする。

この映画の一番の魅力は、その抽象度と解釈可能性であり、
音、言葉、時間、空間を総合した芸術としての映像美だ。

僕はロシア人でもないし、映画フリークでも詩人でもなく、
子供もいなければ大した信仰心もなく、イタリアも知らない。
だから、この映画を分析し得る共通の感覚を殆ど持たない。

それでも、いつもこれをみる時、一つ不変の感覚がある。
それは廃墟・廃屋・史跡を訪ねる時の感覚である。
今回はそれと合わせて少し書くことにする。

僕は廃墟というものがかなり好きで、たまに巡る。
廃屋や忘れられたような史跡も、合法的な範囲で観察する。

廃墟の、時間と空間が凍ったような、独特の空気が好きだ。
かつて人が作った建造物が、打ち捨てられ、忘れられ、
人知れず自然に呑み込まれている姿は強く哀愁を誘う。
そして、人工物と自然という対象物の融和に美を見る。

建物というのは、人間が意図的にその空間に興した物体だ。
そうした建物は、人々の意思や目的、生活や記憶を宿す。

廃墟とは、そうした建物の意味が無意味化した果ての姿だ。
自然によって、人の残した意味が漂白されようとしている。
当にその空間に、人間の意味の無意味化が具現化する。
それは日本人的に言えば「あはれ」的感覚に近い。

廃墟に行くとそうした美しさに酔いしれ、現を忘れさせる。
ただ、しばらくいると躰の芯から凍るような寂寥感が襲う。
始めこそ心地よく感じられた、甘美なまでの強い孤独は、
自らの存在を不安にさせるほどの、寂しさと不安に変わる。

この急激な転倒が、廃墟の美しさの本質の鍵であると思う。

始めは、人為を覆うほどの自然に、浮世の儚さを見て、
日々煩わしく思う世俗的なものも、懐かしくすら思われる。
しかし、段々とそれらを飲み込む大いなるものに畏怖し、
自らの存在の寄る辺なさを次第に強く感じさせられる。

これは、人知を超えた大いなるものへの接続回路たり得る。
人為を超えた、またそれを淘汰し得るほどのなにか。
それは時間、あるいは自然、神あるいは世界そのもの…。

タルコフスキーがノスタルジアで淡々と表現した感覚。
つまり、あるロシア人を死に追いやる程の郷愁とは、
本質的にこの廃墟感と似たものであると想像する。

芸術家は、大きく別けて2種類に別れると思う。
人生の意味を、価値を、歓喜の瞬間に見る人間と、
人生の意味を、真実を、虚無の瞬間に見る人間だ。

この2タイプは、同一人物に同時に存在することもあるが、
タルコフスキーは、特に後者であったのではないだろうか。

彼は、人為を超えた大いなる神的ななにかを描こうとした。
それは、人間の意味を無意味にしてしまうほどの「何か」で、
「芸術」とも言えるその美しさと真実を、フィルムに収めた。

ノスタルジアとは、そういう映画だと私は思う。

そこには確かに人がいた。その記憶と気配だけが漂う。
その思考の、感情の、行動の、信仰の意味は失われた。
限りなく無臭に近い光や風に、人の生活の残滓を見る。

想像し、共感し、あわれみ、意味から無意味に身を寄せる。
無意味化された意味は美しく、孤高で、汚れない記憶だ。

しかし、それは生身で触れるにはあまりに危険すぎる。
破滅による救済に、後ろ髪を引かれながら、踵を返す。

まだ死ぬわけにはいかないと、自分の居場所に帰る。
ノスタルジアと廃墟は、僕にとってそういう装置だ。
(つまり僕にとって郷愁は、彼とは逆に作用する)

きっと僕が死んでしまっても、残した意味は暫く偏在する。
文字や、写真や、持ち物や、建物や、人の記憶の中に。

僕には郷愁の感覚こそあるが、未だ故郷を強く持てない。
だから、彼のようにノスタルジーで死ぬことは、今はない。
ただそれは、僕の魂は帰る場所を持たないということだ。

別に信仰ではなく、漠然とそんな風に考えると少し寂しい。
幸福とは、死後の魂に帰る場所があることかもしれない。

余談だが、タルコフスキーは日本文化を評価していたらしい。
また、先に挙げた個人的見解の芸術家の2タイプについて、
前者は性に積極的だが、後者は消極的なことが多い。
乱暴だがわりと高確率で性質が判別できると思う。
あるいはそれも、表裏という場合も少なくない。

次はガンダムの感想をまとめたい…。











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