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私の人生の原点~お父さんとお母さんの子どもになりたかったの…③

連載「私の人生の原点」
前回の記事はこちらになります。

~出産~

翌朝早く目が覚めた私は、
洗濯をしていました。

物音で目を覚ました主人が
悲しそうな顔をして言いました。
「洗濯なんてしなくていいよ…」

我が子が死んだというのに
まるで何事もなかったかのように
いつも通り起きて
いつも通りに洗濯をしている自分は
どうかしていたのかもしれません。

でも、
おなかにいる赤ちゃんが
死んでいるという実感が
私にはありませんでした。

昨日、先生から
娘の死を告げられたとは言え
昨日と今日の私は
何も変わっていない…
こうして普段通りの生活をしていると
昨日の出来事はただの夢で
今もおなかのなかで
娘は生きている…
そんな風に思えてくるのでした。

いつもの時間になると
おなかも空き
朝食もいつも通りに食べました。


朝食を済ませた後、
私たちは、
通いなれたいつもの病院へ
向かいました。

再度、超音波検査で
赤ちゃんの様子を確認しました。

「やはり
赤ちゃん亡くなっていますね…」

先生の言葉に、
私の望みは完全に絶たれました。

一筋の涙が頬を伝って流れました。

入院は、
今すぐでなくても良い
と言われましたが、
私は今すぐ入院したいと
申し出ました。

誰にも気付かれることなく
1人で逝った娘、
そのまま数日
放っておかれた娘を
これ以上一人にしておきたくない…
一刻も早く
抱きしめてあげたい…
そう思ったのです。

即、入院することが決まり、
今後の治療について説明を受けました。

まず始めに、
子宮口に、ラミナリアという
水分を含むと膨らむ海藻状の棒を挿入し、
子宮口を人工的に開いていく。
子宮口がある程度開いたら
陣痛促進剤で分娩を誘発していく。

今日から入院し
治療に入ることが決まりました。

説明が終わり病室へ向かおうとすると
看護師さんに呼び止められました。
「○○さん、
ご家族の方が会いたいと言って
待合室で待っておられます」

誰だろう…?
待合室に行って見ると、
そこには、
今にも泣き出しそうな顔の
義母がいました。

義母は私の元に駆け寄り
「辛かったね…」
そう言って、私を強く抱きしめました。

実の母にさえ、こんな風に
抱きしめられたことがなかった私は
一瞬、戸惑いました。

でも、次の瞬間、
全身の力が抜け、
心が軽くなるのを感じました。

私は義母の胸で、
小さな子どものように
声をあげて泣きました。

その時、思いました。
私は愛されている…と。

どん底の悲しみの中にいながら、
私はとても幸せでした。


病室に移動し
荷物の整理をしていると、
父母、義父も駆けつけ、
病室は急に賑やかになりました。

それぞれが
持ち寄ったお菓子や
果物を食べながら、
たわいもない話をして過ごしました。

悲しい出来事が起こったことが
まるで嘘のように、
穏やかな時間が過ぎていきました。

あれっ?
病室の壁に掛けてあった
赤ちゃんの写真入りのカレンダーが、
いつの間にか
裏返しにしてあることに気が付きました。

誰がしてくれたのか
分かりませんでしたが、
皆がさりげなく、
私を気遣っていることを感じました。


最初の治療が始まったのは
それから数時間後のことでした。

分娩室に移動し、
ラミナリアを挿入しました。
治療はすぐに終わりました。

その後間もなく、
入院に必要な物を取りに
自宅に帰っていた主人が、
大荷物を抱えて戻って来ました。

たくさんの荷物の中から、
主人が嬉しそうに取り出したのは、
見覚えのある雛人形でした。

「あっ…」
それは、私たちが通っていた
陶芸教室で売られていて、
教室に行く度に「素敵だね」と
2人で眺めていたものでした。

ちょうど昨日は3月3日、
桃の節句でした。

主人は荷物を取りに行った足で
陶芸教室にまで足を運んだのでした。
そして、娘のお祝いにと、この雛人形を…。

主人は、
雛人形の底にマジックで
『ゆう』
と娘の名前を書きました。

娘の名前を書くのは始めてでした。
娘が産まれたら、
こういう機会が
どんどん増えていくのだろう…
そう思っていました。

事情を知った陶芸の先生、
そして義母からも
思いがけず手作りの雛人形をもらい、
病室には、
色とりどりの
3つの雛人形が飾られました。

「これで男の子だったら笑っちゃうね」

そんなことを言いながら、
私たちは静かに
遅い雛祭りを祝いました。


この日は、
主人と母が付き添いに残り、
他の家族は一旦家へ帰りました。

夕食を終えた頃から、
わずかでしたが
おなかが痛み始めました。

「痛みの間隔が
 3分おきになったら呼んで下さいね」

そう言って
看護師さんは病室を出て行きました。

就寝時間になり
部屋の明かりが消えた頃から、
痛みはだんだん強くなり、
やがて時折
我慢できないほど強い痛みが
襲ってくるようになりました。

その度に、
私はベッドの柵
や主人の手を握りしめ、
激しい痛みに耐えました。

痛みが治まる数分の間が、
唯一ほっとできる時間でした。

その間に、
主人は水を飲ませてくれたり、
カラカラに乾いた唇に
リップクリームを
塗ってくれたりしました。

「何だかおばあちゃんになって
 介護されている気分だよ…」

そう言って私が笑うと、
主人も優しく笑いました。

痛みが治まる度に、
主人は私の手を握り
何度も言うのでした。

「早くおうちに帰ろうね」

その時は、
その言葉の深い意味が分からず、
私はただ頷いていました。

痛みと戦い始めてから
5~6時間経った頃

「もうこれ以上
 苦しまなくてもいいよ。
 帝王切開にしてもらおう」

そう言って、
突然主人はナースステーションへ
走って行きました。

希望への苦しみと
絶望への苦しみは違う…

主人は、苦しむ私の姿を
見ていられなかったのでしょう。

しばらくして、
主人が肩を落として
戻ってきました。

その様子から、
主人の願いは叶わなかったのだと
察しました。

今後の妊娠、
出産のことを考えた場合、
できるだけ自然な形での出産が
望ましかったのだということを、
後になってから知りました。

主人の気持ちはとても嬉しかった…。
でも、私は
最後までこの痛みと戦うつもりでした。

苦しみに耐え出産しても、
生きた我が子を抱くことは出来ない。
それは、紛れも無い事実でした。
それでも、私は、
自分の力で産みたいと思っていました。

もう、この子に
してあげられることは何もない…
それなら、せめて…
せめて私の力で産んであげたい…
そう思っていたのです。

それから一晩中、
私は痛みと戦い続けました。
主人も一睡もせずに、
私を支え続けてくれました。


気が付いたら夜が明け、
朝を迎えていました。

ようやく
痛みの間隔が3分おきになり、
いよいよ次の治療へ
移ることになりました。

分娩室に移動し、
膨らんだラミナリアを
取り出しました。
その後、
陣痛促進剤を投与しました。

「赤ちゃんが小さいので、
 通常より早く産まれると思います」
先生は言いました。

先生の言葉通り、
その後すぐに、
今まで感じたことの無いような
激しい痛みが襲ってきたかと思うと、
ほど無く、
自分の意思とは関係なく
おなかに力が入り、
何かが出たような感覚と共に、
突然痛みが消え楽になりました。
自分では何が起こったのか
全く分かりませんでした。

分娩室の中が
にわかに慌ただしくなり、
先生が来て、
すぐに何か処置を始めました。
少し遅れて、
白衣を着た主人も入って来ました。

もうさっきまでの痛みは
ありませんでしたが、
看護師さんに促されるままに
主人と一緒に
「ヒッヒッフー」
と呼吸を繰り返しました。

突然看護師さんが、
私の足元から赤ちゃんを
抱き上げました。

私たちの赤ちゃん…

あっけにとられた私は、
ただその姿を目で追っていました。

「こんにちは…」

主人の涙声だけが
分娩室に響いていました。


~娘と過ごした時間~

処置が終わり、
私は車椅子に乗せられ
分娩室を出ました。

「赤ちゃんに会われますか?」
看護師さんに訊かれ、
私はこくりと頷きました。

出産前、
先生から言われていたことを
思い出しました。

死後数日おなかの中にいた赤ちゃんは、
ふやけた状態になっている。
その状態で産道を通ると、
場合によっては、皮膚が剥がれ、
見るに耐え難い状態で
産まれてくるかもしれない。

それでも、
私たちは会いたいと言いました。

看護師さんが、
赤ちゃんを抱いて私の元へ来ました。

私は初めてこの手で
我が子を抱きました。
赤ちゃんは
とても綺麗な顔をしていました。
もう2度と動くことがないことが
嘘のようでした。

目は閉じていましたが、
口は大きく開いていました。
その表情が
あまりにも苦しそうに見えて…
「ごめんね…ごめんね…」
私は何度もあやまりました。

「よろしいですか…」

突然そう言われ、
私はすぐに赤ちゃんを
渡してしまいました。

本当はずっと一緒にいたかったのに、
なぜか我慢してしまったのです。

「もう少し一緒にいさせてください」
そんな風に
わがままを言っても良かったのに…
後になってからそう思いました。


病室に戻ると
「女の子だったよ」
と主人が教えてくれました。

昨夜から付き添った母と、
出産の直前に病院に来ていた義父母も、
出産後すぐに娘に会えたようでした。
「かわいい赤ちゃんだったね」
泣きはらした目で義母が言いました。

そこへ、
昨夜から担当だった看護師さんが、
病室に私の様子を見に来ました。

この看護師さんには、
一晩中何度も病室に
足を運んでもらいました。
また、夜中に何度も
ナースステーションを訪れた主人とも
様々なやり取りを
交わしたようでした。

「ありがとうございました」
主人は看護師さんに
深々と頭を下げました。

今まで気丈な態度で
接してくれていた看護師さんは、
下唇をぎゅっと噛みしめ、
薄っすら涙を浮かべながら、
黙って首を振りました。

命と向き合う仕事。
看護師さんは
どれだけたくさんの生と死を
見つめてきたのだろう…
どれだけたくさんの涙を見、
どれだけたくさんの人に
寄り添ってきたのだろう…

ありがとう…
ただただ感謝の気持ちが
溢れてきました。


しばらくして、父も来ました。
父は自分が遅れたことを
何度も詫びましたが、
私はそんなことは
気にしていませんでした。

「赤ちゃんに会った?」
「いや、まだ…」
「会ってあげて」
「そうだな…」

そう言って
父は病室を出て行きました。

戻ってきた父を見て、
私は驚きました。

父が泣いていたのです。
私の結婚式の時でさえ、
涙を見せることが無かったあの父が…。
この時、私は
産まれて初めて父の涙を見ました。

この日見た父の涙は、
その後ずっと
私の心に残り続けました。


父母たちが帰った後も、
連絡を聞いた親戚たちが
代わる代わるお見舞いに来てくれました。
皆泣き腫らした真っ赤な目をしながらも、
精一杯の笑顔で
私たちを励ましてくれました。


夕方、皆が帰り、
主人と2人きりになりました。

主人は私の手を握り、
またあの言葉を口にしました。

「早くおうちに帰ろうね…」

陣痛で苦しんでいる間
何度も言われた言葉でした。

主人は目に涙を浮かべ、
さらにこう続けました。

「1人になるかと思った…」

数日間、死んだ赤ちゃんが
おなかの中にいる状態が、
母体にとって、
とても良い状態とは思えなかった…。

目を閉じて静かになると、怖くなった。
もう2度と
目を開けてはくれないのではないか…
笑ってくれないのではないか…
このまま赤ちゃんと
死んでしまうのではないか…と。

私が痛みと戦っている間、
主人は
何もかも全て
失ってしまうかもしれない
という恐怖と戦っていたのでした。

その時の主人の苦しみを知り
胸が締め付けられる思いがしました。

主人がいなかったら、
私はあの悲しく苦しい出産に
耐えることはできなかったでしょう。
そして、生きていく希望も
もてなかったでしょう。

私もまた、主人が今、
こうして生きている幸せに
心から感謝しました。


翌日、主人から、
娘を主人の実家へ連れて帰ることを
知らされました。

私が娘に会ったのは、
出産後の短い時間だけで、
あれ以来1度も会っていませんでした。

もう1度会いたい…
そう思った私は主人に言いました。

「悠ちゃんに会いたい」

すると、
主人はなぜか
辛そうな表情を浮かべたまま
黙ってしまったのです。

そして、
少しの沈黙の後、
私を優しく抱き寄せこう言ったのでした。

「離れられなくなるから…」

えっ…でも…。

私は、娘に会いに行きたい気持ちで
いっぱいでした。

でも…

主人が私のことを思って言ってくれた…
そう思ったら、
それ以上何も言えませんでした。

娘に会ったら
離れ難くなるのは
自分でも分かっていました。
そんな姿を見たら、主人は辛いだろう…
もうこれ以上、
主人を苦しませたくない…

私は会いたい気持ちをぎゅっと我慢し
「悠ちゃんのことよろしくね」
そう言って、主人を見送りました。

その後、
2度と娘の姿を見ることは
ありませんでした。


それから火葬までの間、
主人は職場と病院、
娘のいる実家を
行ったり来たりしていました。

娘に会った後は、
絵本を読んであげたとか、
チューをしたとか、
お小遣いをあげたとか、
娘と過ごした出来事を
嬉しそうに話してくれました。

「エイちゃんは、悠ちゃんにあげたよ」

主人は言いました。
エイちゃんとは
主人が作った木彫りの
魚のエイのことです。

それは、半月ほど前のことでした。
「エイのオブジェを作る」
と言って
突然黙々と木を掘り始めました。

毎日少しずつ掘り進め
1週間後ついにそれは完成しました。
その後「エイちゃん」と命名された
そのオブジェは、
大切に居間に飾られていました。

エイちゃんは
主人の大切な宝物でした。
その宝物を
娘にプレゼントしたと言うのです。
お父さんからの手作りのプレゼントを
娘もきっと喜んでいることでしょう。

娘をおなかに宿していた私は、
9ヶ月の間、いつも娘を
身近に感じることができました。
だからこそ、
母としての自覚に目覚め、
その責任を感じ、
少しずつ母子の絆を
深めてくることができました。

一方、
主人が娘とのつながりを
実感できたのは、
おそらく産まれた瞬間からでしょう。
その後の短い時間の中で、
主人は一生懸命
父になろうとしているようでした。

その姿は
すでに一人の父親の姿であり、
誇らしくもあり、
切なくもありました。


火葬の日、
私は病院のベッドの上にいました。
私は1人、
病室から見送ることになりました。
ちょうど火葬が始まる午前9時に、
ベッドの上で
静かに手を合わせました。

病室で1人待つ私のことを心配して、
母は一足早く
病院に駆けつけてくれました。

「赤い着物を着せられてね、
 かわいかったよ…。
 あんなに小さな赤ちゃんを見送るのは
 辛いことだね…。
 あの場になおみがいたら、
 きっと耐えられなかったよ…」

主人はどんなに辛かっただろう…

その後、
病室に来た主人は
いつもの笑顔でした。

「悠ちゃんは白い煙になって
 空に消えて行ったよ。
 だから、いつでもどこでも、
 空を見上げれば
 悠ちゃんに会えるんだ…」

「そうだね」

2人で空を見上げました。
その日の空は、
青く澄み渡り、とても綺麗でした。


数日後、義母が教えてくれました。
「なおちゃんのお父さんね、
 小さな骨も残さず
 最後まで丁寧に拾っていたのよ」

お父さん…
ありがとう…
また涙がこぼれました。

つづく


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