見出し画像

私の人生の原点~お父さんとお母さんの子どもになりたかったの…④

連載「私の人生の原点」
前回の記事は
こちらになります。

~闇の中をさまよいながら~

私が入院している間、
主人も一緒に病院に泊まってくれました。

夜になると、
隣の病室から
赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。

きっと、おっぱいが飲みたいんだ…

この頃、
私のおっぱいは
パンパンに張っていました。

出産した私の体は、
命を育むために
機能し始めていたのです。

でも、母乳を飲ませる
赤ちゃんがいない以上
その機能を止めざるを得ませんでした。

私は、
母乳の出を抑えるための薬を飲み、
張りや痛みを抑えるために
保冷剤でおっぱいを冷やしていました。

隣の病室から
赤ちゃんの泣き声が聞こえる度に
おっぱいがズキンズキンと痛みました。

そして、その度に
お乳を飲ませられない悲しさで
涙がこぼれました。

息を殺して泣いている私に
気付いた主人が
「大丈夫?」
と優しく声をかけてくれました。


ある朝、
病室で目を覚ました主人が言いました。

「夢を見たよ」
「どんな?」
「悠ちゃんが成長していく夢。
 どんどん大きくなって、
 最後には、出会った頃の
 ショートカットのなー(私)になってた」

私は、その時ロングヘアーでしたが、
主人に出会ったばかりの頃は 
ショートヘア-でした。

「私みたいになるってこと?」

私は、
浅田次郎の『鉄道員』を
思い出しました。

幼くして死んだ娘が、
成長した姿を見せるために
父親の前に現れる…。

後に主人が話してくれました。
「悔しいけれど、
 悠ちゃんは見れば見るほど
 なーにそっくりだった。
 なーの遺伝子を
 強く引き継いでいる気がしたよ。
 負けたと思ったよ」

夢に現れたのは、
本当に成長した娘なのかもしれない、
そう思いました。

~娘との再会~

出産から4日後に、
私は退院しました。

その日は、
母と一緒に実家へ帰ることに
なっていました。

実家に帰る前に娘に会いたいと思い、
母に頼んで娘の遺骨のある
自宅に寄ってもらいました。

1週間ぶりの我が家でした。
部屋のあちこちにあったはずの
ベビー用品や作りかけの肌着は、
全て片付けられていました。

主人が、
私のためにしてくれたのだと
思いました。

部屋の一角に
祭壇が設けられ、
小さな娘にふさわしく、
かわいらしい花々が
たくさん飾られていました。
その真ん中に小さな骨壷がありました。

娘は荼毘にふされた…

頭では分かっていましたが、
火葬に参列出来なかった私にとって、
娘の姿は出産直後に
この手に抱いた姿のままでした。
この小さな骨壷の中に
娘が納まっていることを、
すぐに受け止めることが
できませんでした。

骨壷の蓋を開けると、
中には、小さな白い骨が
たくさん入っていました。

これが悠ちゃん…

あの日この手に抱いた娘は
小さな白い骨に
姿を変えていました。
変わり果てた
娘の姿を目の当たりにし、
私は言葉を失いました。


実家に帰っても、
小さな白い骨が
頭から離れませんでした。
娘が小さな骨になってしまった…。

私は自分の人生を
振り返っていました。

辛いこともあったけれど、
たくさんの人に出会い、
たくさんの素晴らしい経験をし、
素敵な思い出もたくさん出来た…
思い返せば、幸せな人生だった…。

それなのに、悠ちゃんは、
おなかの中でたった9ヶ月生きただけ。

おっぱいを飲むことも、
家族の温もりを知ることも、
友達と遊ぶことも、
勉強することも、
恋をすることも、
夢を持つことも、
家庭を築くことも、
何もできずに死んでいった…

娘のあまりに短すぎる人生が、
不憫に思えてなりませんでした。

夜になると、
死ぬ間際の娘の姿が浮かびました。
「お母さん助けて…」
苦しそうにそう叫びながら、
暗闇の中へ落ちていく娘の姿が…

悠ちゃんごめんね…
ごめんね…
私は何度も謝り続けました。

そんな夜が幾日か続いたある日、
主人に言いました。

「私は、今日まで
 28年間とても幸せだった。
 夢だった幼稚園の先生にもなれた。
 大好きな◯◯君とも結婚できた。
 でも、悠ちゃんはまだ何もしていない。
 何もできないまま
 小さな骨になってしまった…。
 悠ちゃんがかわいそう…」

黙って話を聞いていた主人が、
静かに、でも力強く言いました。

「悠ちゃんは
 かわいそうじゃないよ。
 悠ちゃんは
 みんなに愛されて幸せだったんだよ。
 たくさん愛してくれてありがとうって、
 きっと喜んでいるよ」

私は驚きました。
娘が喜んでいる…?
娘が幸せ…?
そんなこと
一度も考えもしませんでした。

私はずっと、
娘の悲しい姿ばかりを
思い描いていました。
そしてそんな娘のことを
ずっと不幸だと思っていたのです。

でも、この日
主人の言葉を聞いた瞬間、
私の目の前に
初めて娘の笑顔が浮かびました。

主人の作ったエイちゃんに乗って、
私の縫った不恰好な肌着を着て
「お父さ~ん、お母さ~ん」
と嬉しそうに手を振る娘の姿が。

悠ちゃん、笑ってるんだね…
幸せだったんだね…
良かった…

私を苦しめていた罪悪感が
少しずつ解けていくような気がしました。
娘を亡くした悲しみは
消えませんでしたが、
娘が幸せだと思うことで、
不思議と幸せな気持ちになれたのです。


私は、主人や家族に支えられ、
日に日に元気を取り戻していきました。

一方、私を支え続け、
休む暇も無く働き続けていた主人は、
痛々しいほどにやつれていきました。

娘の死から10日程経ったある日のこと、
主人と別の部署で働くある方が、
初めて娘の死を知り
「こんな時に
 仕事に来ていたらだめじゃないか」
と主人が早急に休みを取れるよう
図らってくれました。

おかげで、
4、5日ほど
まとまった休みが取れることになり、
その間、自宅に戻り、
主人と一緒に過ごすことにしました。

娘を亡くしてから、
主人はきっと
「お前がしっかりしなきゃだめだぞ」
「奥さんを支えてあげてね」
そう言われ続けてきたに違いありません。

だからこそ、
自分の悲しみに蓋をし、
必死で私を支えてくれた…
沈む気持ちを奮い立たせて
頑張ってきた…

でも、主人も娘を亡くした親であり、
その悲しみは、母親の私と変わらない…

もうこれ以上我慢しなくていいよ…
私は主人の心の扉をそっと開けました。

「このまま働き続けたら、
 どうにかなってしまっていた
 かもしれない…」

主人は自分の精神状態が
ぎりぎりの所まで来ていたことを、
初めて打ち明けてくれました。
そして、
今まで口にすることのなかった
様々な思いを、
少しずつ話し始めたのでした。

「まだ若いんだから大丈夫」
娘が亡くなったことを知った
職場の上司が
明るく励ましてくれたと言います。
もちろん、上司は
主人を慰めるつもりで
言ったのでしょう。

でも、それはまるで、
死産のことはすぐに忘れなさい
と言っているかのようで、
娘の命が軽く見られた…
そんな気がして
深く傷付いたと言います。

そして、
こんな時だというのに
次々に仕事を任され、
残酷なほど忙しかった…とも。

主人が苦しんでいる間、
私はずっと周囲の人から
大事に守られてきました。
誰かの言葉に
傷付くこともありませんでした。
死にたい…
と自暴自棄になることもなく、
静かな場所で、ゆっくり気持ちを
落ち着けていくことができました。

「死にたいって思った瞬間はあった?」

私は恐る恐る尋ねました。

沈黙の後
主人は言いました。

「一瞬あった…」

私はどきっとしました。
「いつ?」
「悠ちゃんが産まれた瞬間。
 一緒に付いて行ってあげたいって…」
「そうだったんだ…」

その時、私はふと思い出しました。
義母に抱きしめられて、
どれだけ安らいだかを。
抱きしめられるということが
どれほど人を癒し、
苦しみから救ってくれるかを。

義母は主人のことも
抱きしてくれたのだろうか…
そう思って主人に尋ねてみました。

「私ね、お義母さんに抱きしめられた時、
 とても嬉しかった…。
 本当に幸せだった…。
 お義母さん、
 ◯◯君のことも
 あんな風に抱きしめてくれた?」

主人は頷きました。
良かった…
私は少しほっとしました。

義母に抱きしめられたこと、
その大きな愛が、
何とか主人を
ここまで支えてきたのかもしれない…
そう思いました。

その後も、
主人は色々話してくれました。

娘を車に乗せた時
自分の車の黒色が
まるで霊柩車のように思えて、
余計に悲しみが増してしまったこと。

火葬の時、
焼き場の扉が閉じられ
もう後には引けないと分かった瞬間、
なぜ棺を引き止めなかったんだろう…
と後悔したこと。

やがて、
主人の中で娘への思いが一気に溢れ出し、
「悠ちゃん…」
そう叫びながら
声を上げて泣き出したのでした。

常に気丈に振舞い、
私を支え続けてくれた主人が、
私の前で初めて見せた、
痛々しいほどに悲しい涙でした。

その夜、
主人は娘の夢を見ていたようでした。
「悠ちゃん…」
寝言で娘の名前をつぶやいていました。

この日、私は思いました。
今まで私を支えてくれた主人を、
今度は私が支えていきたい。
一日も早く自宅に戻って、
家庭の仕事に戻りたいと。


主人は、
数日の休暇で
少し元気を取り戻したかのようにも
見えましたが、
まだ完全に立ち直ってはいない
その不安定な心のまま、
また社会の中で
闘っていかなければ
ならなかったのでした。


~気付き~

産後の状態も良好で、
1ヶ月の静養の後、
私は自宅へ戻りました。

主人を支えられること、
家庭を守れること、
当たり前のことが
当たり前にできることが、
とても幸せでした。

主人も少しずつではありましたが、
元気を取り戻していきました。


ある日、
私はずっと気になっていたことを
主人に話しました。

「実家の家族を大切にしなかったから、
 悠ちゃん死んじゃったのかな…。
 家族を大切にしてねって
 伝えたかったのかな…」

私は、
自分の生まれ育った家庭が嫌いでした。
自分の憧れる
穏やかで温かい家庭とはほど遠い
我が家の姿に、
絶望していたのです。

反抗期の頃は
家族に思いをぶつけることもありました。
でも、そうすることで
家庭の雰囲気は
ますます悪くなり、
私のイライラは募るばかりでした。

どうしたら良いか
分からなくなった私は、
しだいに家族を避けるように
自分の部屋で過ごすようになりました。

そうしながらも、
心の中では
家族を好きになりたい…
受け入れられるようになりたい…
と思っていました。

幼稚園で出会った
たくさんの子どもたちが
私に教えてくれたのです。
人が幸せに生きていくために
必要なたくさんのことを。

笑顔
思いやりや感謝の心
心の触れ合い
人の良さを認めること
心にゆとりを持つこと
自分自身が幸せでいること

でも、結局私は、
子どもたちから教えられたことを
何一つ実行できずにいました。
そんな自分に無性に腹が立ちました。

結婚を機に変われる…
そう思ったこともありました。

現に、結婚後、
頻繁に農作業の手伝いに行ったり、
家族の誕生日やお祝い事には
ささやかながらも
家族が喜びそうな物を贈ったりと、
目に見える形で
愛を表してきました。

でも、心はそう簡単には
追い付かなくて…。

私はざわざわする気持ちを
心の奥に押し込め、
家族を許せないまま、
物分かりのいい親孝行な娘を
演じ続けました。

そんな私に
娘が言っているような気がしたのです。

「お母さん、
 私を愛する前に、
 自分を育ててくれた
 両親に感謝してほしい、
 自分を育ててくれた家族を
 大切にしてほしい」と。

しかし、主人は言いました。

「厳しいことを言うようだけれど、
 悠ちゃんは
 そんなことは言っていないと思う。
 それは悠ちゃんの言葉ではなくて、
 なーの心にずっと引っ掛かっていたこと。
 今そのことに自分で気が付いたんだよ。
 だからこれから努力していけばいい。
 悠ちゃんは俺たちのことを
 苦しめるために死んだんじゃない。
 罰を当てるために死んだんじゃない。
 そんなひどいことをする子じゃないよ」

「そうだね・・・」

私はこの気付きを
大切にしたいと思いました。


4月のある日、
町の広報誌を見ていた私は、
ある記事に目が止まりました。

それは3月の町の人口の
推移を記したもので、
男性、女性、合計の人口の推移が
+、-で示されていました。

悠ちゃんは
この中の+や-に含まれているのかな…
そう思った私は主人に尋ねました。

「この中に、悠ちゃんって
 入っているのかな?」

「入っていないと思うよ…。
 生まれたことにも
 死んだことにもなっていないんだ…」

死産と言うことで
出生届は出していませんが、
死亡届はちゃんと提出しました。
死んだことは認められても、
この世に存在していないことに
なっているんだ…

確かに、戸籍に娘の名前は存在しません。
だから町の人口に
含まれるはずはないのです。

「何だか悲しいね。
 ちゃんと生きていたのに、
 存在すら認めてもらえないなんて…」

私はぽつりと言いました。

「戸籍なんて
 人間が決めた決まりだよ。
 戸籍上は存在しなくても、
 俺たちがいつまでも忘れずにいれば
 それでいいじゃないか」

主人は力強く言いました。

「そうだね」

主人の言う通りだと思いました。

悠ちゃんが
この世に生きていたこと、
存在していたことを
私たちが忘れずにいればいい。
命が短くても、
私たちにとって
かけがえのない存在だったこと、
たくさんのものを
遺してくれたということを。


出産予定日が近づくと、
出産を楽しみに
待ってくれていた友人から、
次々にメールが届きました。

死産の報告に皆驚き、
共に悲しみ、励ましてくれました。

「何も知らずにごめんね…。
 辛かったね…。
 何て言ったら良いか…
 私もとても辛いです…」

「ナオと◯◯君の子どもでいられて、
 おなかにいる間、
 赤ちゃんは楽しかったと思う。
 幸せだったと思う」

「良いママしていましたね。
 きっとありがとうって
 言っていると思いますよ」

「またいつかきっと会えるよ」

「こんなに愛されて、
 ナオと◯◯君の子は幸せだね」

皆の優しさがとても嬉しくて、
感謝の気持ちでいっぱいになりました。

私は、娘のことをたくさん話しました。
皆にも娘のことを
知って欲しいと思ったから。
忘れずにいて欲しいと思ったから。

ちょうど同じ頃、
本屋さんで
「誕生死」という本に出会いました。

それは、出産前後に
我が子を亡くした体験をもつ
13名の父母が、実名で
ありのままを綴ったものでした。

まるで自分の気持ちを
代弁してくれているかのように、
同じ悲しみや苦しみが綴られていて、
悲しいというよりは、
私だけじゃないんだと、
救われる思いがしました。

その中に、
次のような言葉を見つけました。

人は生まれて来る前に、
神様から、
今その親のもとに生まれてくると
~歳までしか生きることができないが
それでもよいか聞かれ、
それでも生まれたいと赤ちゃんが願うと、
新しい命になる。

この言葉は、
私の心に深く刻まれました。

娘は、短い命と知りながら
それでも私たちを選んでくれた…

「お父さんとお母さんの
 子どもになりたいの…」

そう神様にお願いして
私たちの元に来てくれたのだ…

私は、娘の死を
こんな風に物語ることで、
そう信じることで、
悲しみから立ち直っていくことが
出来ました。

人生で起こることに
何一つ無駄なことは一つもない。
娘との出会い、そして、死さえも…。

こんなことを言うのは
おかしいのかもしれませんが…
私には、短い命の娘との出会いが
どうしても必要だった…
そんな風にさえ思うのです。

私は、
9ヶ月の命の娘と出会えたこと
この人生に
心から感謝しています。

~おわりに~

娘との別れから間もなく
私たちは愛犬ピーすけと
運命的な出会いを果たしました。

突然我が家の一員となったピーすけ。
ピーすけは
私たちの悲しみを癒し、
生きる喜びを与えてくれました。

1年後、2人目の子を流産しました。
その悲しみから救ってくれたのも
ピーすけでした。

そして、
2年後に、奇跡が起こりました。
そう、息子が元気に誕生したのです。

その後、
ピーすけ、息子と
4人で共に暮らした13年間は、
私たちにとって
言葉に言い尽くせない程
幸せな日々でした。

もちろん、
辛いこと悲しいことも
たくさんありました。

東日本大震災。
不妊治療。
2度目の流産。
親戚の借金。
家族への複雑な思い。
主人の病気。

苦しいこと悲しいことがある度に
私は17年前に立ち返りました。

そして、
一つひとつ乗り越えてきました。


17年前。
娘が私たちに遺したもの。
それは悲しみや苦しみだけでは
ありませんでした。

父そして母になる喜びや
命の軌跡、愛、感謝
生きる喜び…

娘は私たちに
たくさんのかけがえのない
贈り物を遺してくれました。
それは、
一昨年に亡くなった
ピーすけも同じです。

娘たちが命をかけて
私たちに伝えてくれたこと
そのメッセージを
私たちは決して無駄にしたくない。

私の生きる意味、
人生の原点はここにある。

私はこれからも生きていきます。
私の使命を果たすために。



私の人生を振り返る
『私の人生の原点』
~お父さんとお母さんの
 子どもになりたかったの…~
を最後までお読みくださり
大変ありがとうございます。

今回を持ちまして、
連載は終了になります。
皆さんからいただい
たくさんのスキ、
心温まるコメントに
感謝の気持ちでいっぱいです。

ピーすけとの出会い、
息子の誕生にについても
いつかお伝えできたらと
思っています。

ありがとうございました。

naomi

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?