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私の人生の原点~お父さんとお母さんの子どもになりたかったの…②

連載「私の人生の原点」
前回の記事はこちらになります。

ここからは、
当時の手記をもとに
かなり詳細に綴ります。
お付き合いいただけましたら
嬉しく思います。

~もう1つの夢~

私は主人と6年間の交際を経て
28歳の時に、結婚しました。

考えに考えた末、
結婚と同時に
8年間勤めた幼稚園を辞めました。
それは
笑顔溢れる幸せな家庭を築くという
もう一つの夢を
叶えるために出した結論でした。

保育の仕事と家庭の仕事は、
愛する人の幸せを願うという点で
とてもよく似ていました。

今度は主人のために
家族のために頑張っていこう。
私の心は
希望に満ち溢れていました。

結婚当初、
私たちは家を新築中でした。
新居が完成するまでの8ヶ月間
私たちは主人の実家で暮らしました。

主人の実家での思い出と言えば
家族団らんの時間でした。

夕食の後、
お茶を飲みながら
テレビを見たり話をしたりしながら
家族みんなで
1時間程のんびりと過ごしました。

私にはとって、
この家族団らんの時間が
何よりもかけがえのない時間でした。

また、週末になるとよく、
義姉が2人の姪っ子を連れて
遊びに来ました。

子どもが大好きな私にとって、
姪っ子たちに会えるのは
とても嬉しいことでした。

姪っ子たちも
「なおちゃん」と私を呼び
慕ってくれ、
一緒に散歩をしたり
オルガンを弾いたりして
楽しい時間を過ごしました。

かわいい姪たちに会うたびに
「私たちも早く子どもが欲しいね」
と主人と話しました。

その願いはすぐに叶う…
私たちは
そう信じて疑いませんでした。

あの頃の私たちは
赤ちゃんを授かると言うことを
あまりにも簡単に
考え過ぎていたのです。

結婚して最初の生理が来た時、
なぜ…?
私は酷く落ち込みました。

あまりのショックに
「生理が来てしまいました…」
と義母に打ち明けてしまったほどでした。

突然、
訊いてもいないことを
嫁である私が言い出すものですから、
義母も驚いたようでしたが
「まだ結婚したばかりでしょう。
 焦ること無いんだよ。
 これからこれから」
そう優しく励ましてくれました。

主人にも
「次頑張ろう」
と励まされ、
来月こそはと気持ちを切り替え、
翌月に望みを託しました。

私は、結婚してから
基礎体温を付けていました。

説明書によると
排卵日を予想できるようになるまで
3ヶ月ほどかかるとのことで、
それまでの間は、
体温の変化を見ながら
自分で排卵日らしき日を
見極めていました。

もともと生理は順調。
基礎体温に基づいていれば、
絶対に妊娠するはず…
そう思っていたのです。

しかし、
翌月も翌々月も
私たちの期待は見事に裏切られ
その度に、
夢はまた1ヶ月先へと
遠退いていきました。

1ヶ月先が
とてつもなく遠い未来に思え、
1日1日がとても長く感じました。

最初は
「頑張ろう」
と明るく励ましてくれていた
主人の顔からも
しだいに笑顔が消えていき
考え込むことが多くなりました。

どうしてできないんだろう…
焦りと不安は
大きくなるばかりでした。

毎日赤ちゃんのことばかり
考えていた私は、
しだいに追い詰められていきました。

「俺に何か問題があるのかも…」
主人がぽつりと言いました。
それは私にも言えることでした。

この頃すでに、私たちの頭の中には
『不妊症』
の3文字がちらつき始めていました。

こっそり不妊症について
調べたりもしました。
でも、そんなことをすればするほど、
余計に不安が増すばかりでした。

結婚して4度目の生理が来た時、
落ち込む私に主人が言いました。

「少し休もうか…」

その時の私は、
妊娠が遠退いてしまうのも
頷けるような精神状態でした。

今すぐ赤ちゃんが欲しい
という思いは相変わらずでしたが、
一方で、主人の言葉に、
ほっとした自分がいたのも確かでした。

1ヶ月間、
赤ちゃんことを考えるのはやめよう…

そう決めた途端に、
驚くほど
心が軽くなっていくのを感じました。

こんなに楽になるなんて…
主人の言った通りにして
本当に良かった…
そう思いました。

焦らずゆっくりいこう…

追い詰められ
いっぱいいっぱいになっていた
私の心が
緩んでいくのが分かりました。

その月ばかりは、
生理予定日が近づいても
不安に襲われることは
ありませんでした。

ところが…

この後間もなく
全く予期せぬことが起こったのです。


~妊娠~

その月は、予定日になっても
生理が来ませんでした。
いつものような生理痛もありません。

まさか…

そう思いながらも、
焦る気持ちを
抑えることができませんでした。

前々から
妊娠検査薬は準備してあったものの、
正しい検査結果を得るためには
最低でも1週間の
生理の遅れが必要でした。

どうか生理が来ませんように…

そう祈りながら
1週間過ごしました。
長い長い1週間でした。

生理予定日からちょうど1週間後、
いよいよ検査を試みました。

検査薬を持つ手は震え、
呼吸の仕方も忘れるほど、
不安と緊張でいっぱいになりました。

神様…

天に向かって手を合わせ、
祈る気持ちで検査結果を見ました。

結果は…


陽性。


なんと私は妊娠していたのです。

やったあ!
こんなことってあるんだ!
私は、トイレの中で一人
喜びに震えました。

しかしその直後、
大きな不安に襲われました。
この結果を本当に信じていいの?
もしかして、間違っているんじゃ…

今すぐ真実を確かめたい!
そう思った私は、
その後すぐに病院へ向かいました。

初めての産婦人科。
慣れない雰囲気に緊張の連続でした。

名前が呼ばれ、
診察室に入った私は、
生理が1週間遅れていること、
検査薬で調べた結果
陽性だったことなどを話しました。

早速、検査室へ移り、
超音波検査を受けることになりました。

衣服を脱ぎ
下半身裸の状態で検査台に乗る時は、
さすがにためらわれましたが、
意を決して上がりました。

私の準備が整うと
先生がやって来ました。
緊張はピークに達していました。

「機械を入れますね」 
痛い…
「力を抜いて下さいね」
そう言われても
どうしても力が入ってしまいました。

「力を抜いて下さい」
再び先生は言いました。
もはや、
どうすれば力が抜けるのか分からず
半分パニック状態になりながら
必死で力を抜く方法を考えました。

そんなこんなで
結局のところ
力を抜くことが出来たのかどうかは
分かりませんでしたが、
どうやら無事に機械は入ったようで、
目の前の画面に
私の子宮の中が映し出されました。

これが私の子宮…?!
でも赤ちゃんらしき姿は
どこにも見当たりません。

妊娠は間違いだったの?…
だんだん
不安は大きくなっていきました。

着替えを済ませ、再び診察室に入ると
「妊娠5週目です」
先生が言いました。

良かった…
妊娠していたんだ…
ほっとすると同時に、
じわじわと
喜びが込み上げてきました。

先生が見せてくれた子宮の写真には、
薄っすら黒い小さなものが
写っていました。
それは胎のうと言う
赤ちゃんが入っている袋で、
その時はまだ
ほんの数ミリの大きさでした。

今はまだ
中にいる赤ちゃんの様子までは
確認することはできないと
先生は言いました。

それでも、
私が妊娠していることは
紛れも無い事実でした。

診察後すぐに
主人に、メールで妊娠の報告をしました。

「ただいま!」
帰宅した主人は
にやけた顔で玄関に立っていました。

私はその場ですぐに写真を見せました。
小さな黒いものを
じっと見つめる主人の目は
喜びでいっぱいでした。

「お父さんになるんだなあ…」
そう嬉しそうに言い、
私のおなかを触ると
「おーい、お父さんだよ」
と赤ちゃんに呼びかけました。
主人の家族も皆、喜んでくれました。

この夜、
赤ちゃんの話題が
尽きることはありませんでした。
「女の子かな。男の子かな」
「元気に産まれてくれたら、
 どっちでもいいいよね」
「よーし、仕事頑張るぞ」

結婚して
5ヶ月を迎えていました。
わずか5ヶ月。
それでも、
私たちにとっては、
何年もの月日が
流れたように感じるほど、
長い長5ヶ月間でした。

やっと授かった命、
私たちはその小さな命に
心から感謝したのでした。

~喜びに満ちた日々~

2週間後の検診で、
胎のうの中に
小さな白いものが見えました。

これが赤ちゃん…?
形はよく分かりませんでしたが、
確かにそこには
何かが写っていました。

さらに2週間後、
小さな白いものは
一目で人と分かる形に
なっていました。

いた、私たちの赤ちゃん…
じわじわと
妊娠の実感が湧いてきました。
大きくなったね…
私は嬉しくて
何度も何度も
おなかを撫でました。

検診に行った日、
主人は
「ただいま」
の挨拶もそこそこに
すぐさま
「どうだった?」
と尋ねてきました。

写真を見せると、
その成長した姿に
「お-!」
と歓声を上げ、
愛しい眼差しで
おなかを見つめながら
「よしよし」
と優しく撫でるのでした。

そして決まって
「無理しちゃだめだよ」
と急にせわしなく動き始め
私が少しでも
重い物を持とうとすると
「だめだめ俺がするから」
と厳しく注意されました。

それから、
おなかの赤ちゃんは
順調に成長していきました。

4ヶ月の終わりには、
胎盤が完成し、
私と赤ちゃんが
へその緒でつながっているのが
分かりました。

私とこの子の命は
つながっているんだ…
母としての責任を強く感じた
瞬間でもありました。

初めて
赤ちゃんの鼓動を聞いたのも
この頃でした。

ドクンドクン

ああ、生きてる…
自分の中で
もう一つの命が
生きていることを実感し、
心から幸せを感じました。

5ヶ月になると、
目や鼻、背骨や肺など
体の細かい部分まで
確認できるようになりました。

十数センチという小ささでも、
私たちと同じような姿で
生きていることに驚き、
生命の不思議、
神秘に深く感動しました。

この頃から、
私は裁縫を始めました。

裁縫は決して得意な方では
ありませんでしたが、
赤ちゃんに
手作りの物を身に付けさせてあげること、
それが私の夢でした。
全ては無理にしても、
可能な限りそうしてあげたい
と思っていました。

まずは簡単なオムツから始めました。
30枚程縫い上げた後、
おくるみやスタイ、
靴、肌着などに挑戦しました。

形が歪んだり
縫い目が揃っていなかったりと、
出来栄えは決して綺麗とは
言えませんでしたが、
それらを身に付けた
我が子の姿を想像すると、
嬉しくて仕方ありませんでした。

早く着せてあげたい…
我が子への思いは
どんどん膨らんでいきました。

5ヶ月の終わりになると、
胎動を感じるようになりました。

初めは、
腸が活発に動いているのだと
思っていたのですが、
やがて、
そのぽこぽこした感覚が
胎動だと分かり、
今まで以上に
我が子の存在を
身近に感じるようになりました。

それから、
私たちは毎日
赤ちゃんに話しかけました。
「お父さんだよ、聞こえますか?」
「元気ですか?」
「わっ動いた。元気だって」
赤ちゃんが動くたびに、
私たちは大はしゃぎでした。

最初は「赤ちゃん」と呼んでいましたが、
そのうち、名前を考えるようになりました。

ある日、主人が
分厚い本を持って帰って来ました。
それは赤ちゃんの名前の本でした。
私たちはその本を見ながら、
真剣に名前を考え始めました。

性別が分からないので、
男の子と女の子
両方の名前を考えることにしました。

男の子の名前は、
以前から候補がいくつかあったので、
その中からすぐに決まりましたが、
女の子の名前は
ずいぶん悩みました。

頭の中は常に
名前のことでいっぱいで、
2人顔を合わせると
いつも名前の話になりました。
布団に入ってからも話は続き、
なかなか眠れない日々が
続きました。

2ヶ月ほど悩みに悩んだ末、
ようやく「悠」と決まりました。
「ゆう」という響き、
そして、字の持つ
「ゆったり」
という意味も気に入りました。

ゆったりとした長い時の流れや
落ち着きを感じさせる言葉で、
長い人生、せかせかせずに
ゆったりとした気持ちで
歩んでいって欲しい。
そういう願いを込めて付けました。

名前が決まってからは
「◯ちゃん(現在の息子の名前)、
 悠ちゃん」と
2つの名前を呼んだり、
その時の気分で
一方の名前を呼んだりしました。

6ヶ月検診の時、
思い切って
先生に性別を訊いてみました。

先生はすぐに調べてくれましたが、
残念ながら
その時は
確認することができませんでした。

~病気の疑い~

1ヵ月後。
7ヶ月検診の時、
もう1度調べてもらいました。

検診の間中、
赤ちゃんがくるくる動き回るので、
先生は調べるのに
ずいぶん苦労していました。

赤ちゃんが止まった一瞬の隙を見て
「女の子かな?!
 だとしたら、
 かなり元気な女の子ですね」
そう言って先生は笑いました。

女の子かあ…
今日から君は悠ちゃんに決まりだね。
私はそっとおなかを撫でました。

幸せに浸っている私に、
先生が気になることを言いました。

赤ちゃんの体重が、
1,033グラムと標準よりやや小さいこと、
それから、
腸管が膨らんでいるように
見えるということでした。

腸管が膨らんで見えると言われても、
私にはどういうことなのか分からず、
不安になり、すぐに尋ねました。

先生の説明は以下のようなものでした。

この時期、
赤ちゃんは羊水を飲んで
それを尿として
排出するようになる。
腸管が膨らんで見える原因として
考えられることは二つあって
一つは、
ちょうど今羊水を飲んだところで、
一時的に腸管が膨らんで見える場合。
もう一つは、
腸管に異常があり、
羊水をうまく排出できず
腸に溜まっている場合。
今日の検診だけでは、
どちらが原因かは分からない。

「しばらく様子を見ていきましょう」
先生は明るく言いましたが、
私は一気に落ち込んでしまいました。
暗い表情の私を見て
「異常があると
 決まった訳じゃないのですよ」
先生が励ましてくれました。

赤ちゃんが元気に動いていたこと、
それがせめてもの救いでした。

病院を出た私は、
悪いことは考えないようにしよう、
そう何度も自分に言い聞かせ、
明るい方へ明るい方へ
気持ちを切り替えるよう努めました。

昼休みに、
性別が気になっていた主人から
メールがきたので、
まだはっきり言えないけれど、
女の子の可能性が高いらしい
ということだけを伝えました。

帰ってからも
検診の話題になりましたが
「検診中にずっと元気に動いていてね、
 先生も驚いていたんだよ。
 もし女の子だったら
 かなりのお転婆だよ」
そう話し、
腸管の異常については
話しませんでした。

異常があると決まった訳ではない、
私はたった1パーセントでも
病気の可能性を
信じたくなかったのです。

それから次の検診までの間、
病気のことは
一切考えないようにしていました。
いつも以上に縫い物に集中し、
新しい布も買い足し、
ひたすら
赤ちゃんを迎える準備をしました。

そして、2週間が過ぎ、
再び検診の日を迎えました。

赤ちゃんの体重は1,110グラムと
やや増えていましたが、
標準の1,400グラムに比べると、
やはり小さな赤ちゃんでした。
そして何より恐れていた
腸管の膨らみが今回もまた見られ、
腸管の異常、つまり
病気の可能性が高まったのでした。

この病気は、
命にかかわる病気ではないものの、
母乳を消化できずに
吐き出してしまうため、
出産後すぐに手術が必要になる。
現在通院している病院では、
新生児の手術ができないため、
前もって手術のできる病院に転院し、
そこで出産することになる。

先生の説明は
耳を疑いたくなるような
内容ばかりでした。
事態はいよいよ深刻でした。

病院を出ると涙が溢れてきました。
私たちの赤ちゃんが病気なんて…
産まれたらすぐに
手術をしなければならないなんて…
考えただけで恐ろしくなりました。
どうして…どうして私たちの赤ちゃんが…

どれだけ泣いていたでしょう。
ふと先生の言葉を思い出しました。

「命にかかわる病気ではない」

そうだ。
もし病気だとしても、
手術をすれば治る病気なのだ。
母親の私がくよくよしていてどうする。
元気を出そう。

私は涙を拭き、
自分を励ましました。

その夜、帰宅した主人に、
今日の検診の結果を報告しました。
あまり心配をかけないよう、
平然を装って
さらりと話したつもりでしたが、
主人の表情は一気に曇り
急に黙り込んでしまいました。

「でもね、
 命にかかわる病気じゃないんだって。
 手術をすれば治るんだって」

私は何度も繰り返しました。
しばらく考え込んでいた主人も、
自分に言い聞かせるように
「大丈夫、大丈夫」と言い、
私も「うん、大丈夫」と言い、
互いに励まし合いました。


 「悠ちゃん、
 何があっても
 お父さんとお母さんが
 悠ちゃんのこと守るからね」

私たちはおなかの赤ちゃんに
誓ったのでした。

1週間後、
かかりつけの病院で
もう一度診察した結果、
やはり腸管の膨らみはあり、
いよいよ転院することが決まりました。

間もなく、
9ヶ月になろうという時でした。

~長い1日~

翌週、
ちょうど9ヶ月を迎えたその日、
私たちは転院先の病院へ
向かっていました。

妊娠が分かってから
主人と病院へ行くのは
この日が始めてでした。

この日、
私の気持ちはとても前向きでした。
不安が無いと言ったら嘘になりますが、
病気の可能性があると分かってから
「命にかかわる病気ではない」
という先生の言葉を
心の中で何度も繰り返し、
手術をすれば元気になるんだと、
自分に言い聞かせてきたのです。

予想はしていたものの、
紹介された病院は
とても混んでいました。

2時間ほど待って、
ようやく名前が呼ばれました。

どんな先生だろう…
不安と緊張の中診察室に入ると、
先生は優しい笑顔で迎えてくれました。
先生の笑顔を見て
私は少しほっとしました。

早速、超音波検査を受けました。

「最近、赤ちゃんは
 元気に動いていましたか?」

先生に訊かれ、
私はふと考え込んでしましました。

ここ2,3日
おなかの張りがひどく、
そのことに気をとられていた私は、
赤ちゃんの動きを
はっきりと憶えていなかったのです。
そのことを先生に言うと
「そうですか」
先生はさらに優しく言いました。

その後、別室へ移動し、
別の機械も使って詳しく調べました。
終始、先生も看護師さんも
笑顔でとても親切でした。

1人で来たか尋ねられ、
主人も一緒に来ていることを話すと、
主人にも説明を聞いて欲しいので、
名前が呼ばれるまでもう少し待ってほしい
と言われました。

すぐに呼ばれるだろう…
そう思っていたのですが、
待てど暮らせど私の名前は呼ばれず
一人また一人と患者さんを見送り
気が付けば
私たちだけになっていました。

「○○さん」
ようやく呼ばれ、
主人と2人で
診察室へ入って行きました。

改めて、
超音波検査を受けることになりました。

私は、主人に
赤ちゃんの映像を
見てもらえることが嬉しくて、
少しだけはしゃいでいました。

画面に赤ちゃんの姿が
映し出されました。
これから
赤ちゃんの病気のことや
その治療について
説明を受けるのだろう。
そんなことを考えながら
先生の言葉を待っていました。

少しの沈黙の後、
先生は静かに言いました。


「赤ちゃん、亡くなっていますね…」


一瞬自分の耳を疑いました。

今、ここに映っている
赤ちゃんが死んでいる!?

全身が凍りつき、
次の瞬間、
涙が溢れてきました。

先生はさらにこう続けました。

「亡くなってから、
 少し時間が経っているようです。
 先ほど、
 おなかが張るような痛みがあった
 とおっしゃっていましたが、
 おそらく産まれる準備が
 少しずつ
 始まっていたのかもしれません」

2、3日前のおなかの張りは、
赤ちゃんからのSOSだったんだ…
それなのに私は…
病気のことで頭がいっぱいで…
「命にかかわる病気ではない」
と自分を励ましてばかりいた…
おなかの張りを感じた時
すぐに病院に行っていたら、
赤ちゃんの命は
助かったのではないだろうか…

私の頭の中で、
ここ2、3日の出来事が
ぐるぐる回っていました。

「はっきりした死因は分かりませんが
 きっと赤ちゃんは
 元々体が弱くて、
 これ以上生きることが
 できなかったのでしょう…。
 赤ちゃんは本当によく頑張りました」

先生は、赤ちゃんが
今まで一生懸命生きたことを
褒めてくれました。

そして、
赤ちゃんをきちんと
供養してあげることが、
遺された私たちの大切な役目だと。

私の責任…
そう責める私に、
先生は、
もっと早く気がついてあげていたら
助かっていたかもしれないとは、
決して言いませんでした。

その時、初めて気が付いたのです。
なぜ私たちが最後まで残されたのかを…。


先生は、
私たちのために、
この静かな時間と場所を
用意してくれたのだと…。

もちろん、それは
他の妊婦さんへの
配慮でもあったのでしょう。

その時、私は、
赤ちゃんの死を悲しみ
私たちの悲しみに
寄り添う先生の大きな愛が
手に取るように見えました。

それはまるで
優しい光に包まれているな
不思議な感覚でした。
私は、
娘を失った深い悲しみの中にいながら、
深い安らぎを感じていたのでした。

今後の治療や出産は
今まで通院していた病院で
行うことになるので、
明日にでもすぐに
病院へ行くようにと言われました。

この先生の診察を受けるのは、
この時が最初で最後となったのでした。


その後のことは
あまり憶えていません。
気が付いたら自宅にいて
「今日は実家で
 ゆっくり休んだ方がいい」
と主人がすぐに
実家へ送ってくれました。

実はこの時、
主人も混乱していたのだと、
後になってから知りました。

実家では、
母はちょうど出かけていて、
父が迎えてくれました。
突然のことに、
父も動揺しているようでした。

「残念だったな…。
もうすぐお母さん帰ってくるからな…」

後は言葉が続きませんでした。

私は床に伏したまま、
何時間も泣き続けました。

夕方になって戻って来た母は、
私の姿を見るなり泣き出しました。
母も、どうしたら良いか
何と言葉をかけたら良いか
分からないようでした。

スキンシップが苦手な母が
そうっと私に手を伸ばし
手を握ってくれました。
それは
母なりの精一杯の愛だと
分りました。

嬉しかった…
でも…
私は、
自分の産まれたこの家で
安らぎを感じることが
出来ませんでした。

そして、隣に母がいるというのに、
私の心は主人を求めていました。

今頃○○君はどうしているだろう…
そう思ったら
無性に寂しくてたまらなくなりました。

「お家に帰りたい…」
私は母にすがって泣きました。

父と母は、
私を自宅に送り届けてくれました。
2人は途中でスーパーに寄り、
抱えきれない程たくさんの
食べ物を買って来ました。
「一緒に夕ご飯食べようと思って。
 とにかく何でもいいから
 食べて体力をつけなくちゃね」
母は言いました。

明日出産するかもしれない私の体を
心配してくれているのが分かりました。

父と母に連れられて
私が突然帰って来たので、
主人は驚いたようでしたが
「家に帰りたいって言われてね…」
と事情を説明され、
すぐに納得したようでした。

主人の顔を見たら、
急にほっとしました。
もう離れたくないと思いました。

母が買って来てくれた物の中には
私が子どもの頃好きで、
よく買ってもらっていた
アロエヨーグルトや
キウイフルーツ、
チーズ蒸しパンなどが
入っていました。

本人の私ですら
好きだったことを忘れていた
昔の大好物を見て、
母は今でも忘れずにいたんだ…
私を喜ばせるために
買って来てくれたんだ…
と胸がいっぱいになりました。

夕食の間中、
悲しみを吹き飛ばすかのように
父と母はよく喋りました。
特に母は、
いつにも増して元気でした。
きっと、
母親の自分がしっかりしなければ
と思っていたのでしょう。


父母を見送った後、
お風呂に入ろうと、
脱衣所で裸になった私は、
自分の大きなおなかを見つめました。

今このおなかの中にいるのは
死んでいる赤ちゃん?
「本当に死んでいるの?」
おなかに呼びかけました。
もちろん返事はありませんでした。
ただ涙だけが溢れてきました。

その夜、
夢を見ました。

私は分娩台の上にいて、
今、正に
出産の時を迎えていました。
ほどなく赤ちゃんが産まれ、
看護師さんが抱きかかえました。
でも、赤ちゃんの産声がありません。
赤ちゃんが死んでる…。

「大丈夫?」
主人の声で目が覚めました。
私は声を上げて泣いていました。

つづく


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