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私の人生の原点~お父さんとお母さんの子どもになりたかったの…①

先日、
きよこさんの記事
『原体験を大切に
~私にしかできないことがある~』
を読み、
改めて
私の原体験、原点について
考えさせられました。

今日から
何回かに分けて
人生を振り返りながら
私の人生の原点について
綴っていきたいと思います。

過去の記事も
いくつか引用しますので、
既にお読みになった箇所も
あるかと思いますが
お付き合いいただけましたら
幸いです。

~はじめに~

平成16年7月、
私のおなかの中に
小さな命が宿りました。

それは、私たち夫婦が
初めて授かった命でした。
私たちは共に喜び合い、
その小さな命に
心から感謝しました。

日ごとに成長していく
その小さな命は
私たちに
父、そして母になる
喜び、自覚を
目覚めさせてくれました。

もうすぐ我が子に会える…
この手に抱ける…
私たちは、
我が子の誕生を
心待ちにしていました。

しかし、
妊娠9ヶ月を迎えた日。
私たちは
そのかけがえのない命を失いました。

それはあまりにも突然のことでした。

夢と希望に満ち溢れた
幸せな日々が一転、
私たちは
人生のどん底に
突き落とされました。

我が子を亡くした喪失感、
命を救ってあげられなかった罪悪感、
私は深い悲しみと苦しみの中を
さまよっていました。

そんな私を救ってくれたのは、
両親、家族、先生、看護師さん、友人
そして主人でした。
主人は、
自身も深く傷付きながら
必死に私を支えてくれました。

多くの人に支えられ、
私は、少しずつ
元気を取り戻していきました。


あれから17年が過ぎました。

何か起こるたびに
私はここに
立ち返ってきました。

そう、
この17年前の出来事は、
私が立ち返る場所
人生の原点なのです。

~私の育った家庭~

私の父は
亭主関白で
女と子どもは黙ってろ
というタイプの人でした。

自分の思い通りに
いかないことがあると
よく周囲に当たり散らしました。

幼い頃から、
しょっちゅう
とばっちりを受けていましたが
幸いにも
暴力だけは振るわれませんでした。

大人になって、
阿川佐和子さんの
お父さんの存在を知った時
父のような人だなと
思いました。

我が家はいつも
父中心に回っていました。
私はそんな父のことが
とても恐かった…。

それでも
子どもを養うと言う意味では
父はその役割を
ちゃんと果たしていましたし、
子どもに興味がないかと言ったら、
そうでもありませんでした。

子育ての在り方としては
決して良いとは
言えませんでしたが
父の期待通りのことをすると
過剰に褒めてもくれました。

一緒に暮らしていた
父方の祖母は、
世間体を気にする人でした。
祖母にとっては
事実より、たとえ嘘でも
周りに良くみられることが、
何より大事なことでした。
ですから、
来客への挨拶、態度などは
人一倍厳しく躾けられました。

母は、私を褒めませんでした。
全くと言っていいほど。

それでも、
父が恐かったこともあり
私は母にべったりでした。
何かにつけて、
「お母さん、お母さん」
と母を頼りにしていたので
家族にも
「なおみは本当にお母さん子だ」
と言われていました。

ただ、私には
母に愛されているという 
実感があまりありませんでした。
  
父や祖母の愛も
真の愛情とは
言い難いものでしたが
母の愛情は、
子どもの私には
本当に分かりにくいものでした。

微笑んだり
抱きしめたり
手をつないだり…

物心ついてからの
母とのスキンシップの記憶が
ありません。

それでも、
私が幼い頃の
数少ない写真の中には、
母が私を抱き、
優しく微笑んでいる写真が
いくつかありました。

それを眺める度に
確かに私は愛されていた…
そう思うことが出来ました。

でも、本当は、

よくやったね
えらいね
すごいね
かわいいね
頑張ったね
大好きだよ
愛してるよ

そんな風に言ってほしかった…。

母に
「お母さん」
と纏わりついた時に
「ベタベタしないで」
と嫌がられたことが
強烈な記憶として残り、
母は、私のことを
好きではないのではないか…
そんな風に
ずっと思っていました。

私は、
7歳の頃に家出をしました。

警察に保護され
夜遅く家に帰されました。

母は、
すっかり憔悴し切っていて
何も言わずに
ただただ泣き崩れていました。

でも、
私は、なぜ母が泣くのか
正直分かりませんでした。

こんなに泣くほどに
私を愛しているとは
思えなかったからです。

私の家は
代々続く大きな農家。

母は
父と結婚するまで
農業の経験は全くなく
父との結婚を
家族に猛反対されたと
言います。

私が物心ついてから知る母は
決して
幸せそうではありませんでした。

その姿は、まるで
人生を諦めているかのようにさえ
見えました。

~私の夢の原点~

幼い頃の私の遊び相手と言えば、
唯一の兄弟である3つ上の兄でした。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
といつも兄の背中を追って
一緒に遊んでいました。

年下の私にとって
兄は憧れの存在でした。
兄のすることは
何でもかっこよく見え、
自分もあんな風になりたい
といつも思っていました。

2人兄妹の末っ子、
しかも女の子ということもあって、
けんかになると、
私が悪くても
兄が叱られることが
多かったような気がします。

きっと兄は
何で俺ばっかり…
と私を羨ましく
時には妬ましく思うことも
あったに違いありません。

事実、私も、
末っ子であることに
甘えていたところが
重々にあったと思います。

それでも、
末っ子であることに
満足していたかというと、
そうでもなかったのです。

末っ子には末っ子なりの
思いというか
願いがあった訳です。

その最たるものが
お姉ちゃんになること
でした。

私はずっと
弟か妹が欲しい
と思っていました。

ただ、
その願いが叶うことは
ありませんでした。

(実は大人になってから
私が産まれた後に
母が妊娠した事実を
知りました。
3人育てていく自信が
なかったのか
もう子どもはいらないと
思ったのか
詳しい理由は分りませんでしたが
家族の同意の上で
堕胎したのだと知らされました)


私は相変わらず
2人兄妹の妹のままでしたが
実は、お姉ちゃんになる夢が
ほんの少しだけ叶ったのです。

私が幼稚園の頃、
遠方に住む叔父叔母に
男の子が産まれました。

つまり私に従弟ができたのです。

産まれて間もなく、
祖父母と一緒に
新幹線に乗って
その従弟に会いに行きました。

私にとって
初めて見る赤ちゃんでした。

何て小さいんだろう…

私はその小ささに驚きました。
手も足もすべてが小さくて、
触れたら壊れてしまいそうでした。

それから何日か
赤ちゃんと一緒に過ごしました。

お母さんのおっぱいを
おいしそうに飲む姿、
突然顔を真っ赤にして
大きな声を上げて泣く姿、
タライの中で
体を優しく洗ってもらい
気持ち良さそうに
うっとりしている姿。

目まぐるしく変わる表情、
しぐさ、
体に触れた時の柔らかい感触、
赤ちゃんとの生活は
毎日が驚きと感動の連続でした。

幼い私は
すっかり赤ちゃんの魅力に
引き込まれていきました。

叔父家族とは
滅多に会うことが
出来ませんでしたが
毎年1、2度、
お盆やお正月には、
叔父叔母が赤ちゃんを連れて
実家である我が家に
泊まりに来ました。

私はその時を
心待ちにしていました。

赤ちゃんの成長は著しく
会う度に
その成長に驚かされました。

お母さんの手に抱かれ
おっぱいを飲んでいた
小さな赤ちゃんが、
ハイハイをして
自分の力で動き出すようになり、
次に会う時には
両足で力強く立ち、
やがて、
一人ですたすた歩き、
言葉をおぼえ、
いつしか私のことを
「なおみお姉ちゃん」
と呼ぶようになりました。

私は、このかわいい従弟を
心から愛しく思いました。

やがて、
二人の従妹も産まれました。

私は
自分に弟妹が増えていくようで
嬉しくてたまりませんでした。

小さい子を見ると
従弟妹と重なって見え、
自分も十分子どもでありながら
いつもこう思うのでした。

子どもってかわいいなあ…と。

小さい子を愛しいと思う気持ちは、
いつしか
幼稚園の先生になりたいという
憧れへと変わっていきました。

そして、
それは単なる憧れには留まらず、
将来を見据えた
揺ぎない確かな夢へと
変わっていきました。

~幼稚園の先生になって~

高校卒業後、
幼児教育学科のある短大へ進み、
2年間幼児教育について学んだ私は、
20歳の時、
ついに憧れの先生になりました。

初めて「先生」と呼ばれた時、
ついに夢が叶ったんだ
と嬉しくてたまりませんでした。

とは言え、
保育の現場は、
思いもよらないことの連続で
正直、短大での学びは
実践ではほとんど役に立ちませんでした。

穴があったら入りたい
そんな失敗は数知れず…。
それでも、
子どもたちと過ごす毎日は
心震えるような
喜びや感動の連続で、
そんな場面に出会う度に
あぁ、なんて幸せなんだろう
と思いました。

その後数年間
私は子どもたちと共に
充実した日々を過ごしました。

一方でその頃
私の中にずっとあった、
もう一つの夢が
大きく膨らみ始めていました。

それは、

幸せな家庭を築くこと。

この夢への思いは、
幼稚園の仕事に対する思いに
負けないくらい
大きなものでした。

笑顔が溢れる幸せな家庭…

それは
幼い頃から
ずっと夢に見、
憧れてきたものでした。

ただ、今の仕事を続けながら
この夢を叶えることは難しい…
漠然とそう思っていました。

私が働いていた職場が
子育てをする上で
良い環境とは言えなかった
ということもありますが、
もし、恵まれた環境であったとしても
同じように
悩んだのではないかと思います。

笑顔が溢れる幸せな家庭を築く
それは、私にとって
とてつもなく
壮大な夢に思えていました。

仕事をしながら
叶えられるようなものではない
そんな風に思っていたのです。

つづく


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