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経済的ゆたかさトップとビリの街に住んで考えたこと

多くの日本人にとって、富山県はパッとしない存在かもしれない。

おそらく、「沖縄県」という単語を聞いたときほどには連想するものが多くないとは思う。

だから、この両者の対比に注目するのはせいぜい僕の友人たちか、富山県民くらいだろうと思うかもしれない(筆者は富山県民に一度怒られた方がいいかもしれない)。

しかし、沖縄と富山の対比は意外と重要な意味を持っていると僕は思う。

どうしてか。

端的にいうと、富山と沖縄がいろんな意味で正反対の県だからである。

一つ例を挙げるなら、富山県は東京よりも生活にゆとりがある。都道府県別の経済的豊かさランキングは日本で一番で、これに相関のありそうな持ち家率(1位:76.8%)や貯蓄率、離婚率の低さも全国トップクラスである。

「日本の家は狭い」なんていうけれど、住宅あたりの延べ床面積が広い都道府県ランキング1位の富山(145.17平方メートル)の民は、最下位東京都(65.9平方メートル)や46位沖縄県(75.77平方メートル)の2倍近い広さに住んでいる。なんてリッチな富山県。

じっさい、僕が大学で富山出身の子に聞いた話によれば「東京で大卒で働くより、富山で高卒の人の方が生活費とかを引いて手元に残る自由なお金は多い」らしい。

さて、そんな裕福な富山県に対し、沖縄県は先ほどあげたランキングですべて富山県と正反対と言っていい位置にある。だいたいワースト一位だ。

沖縄県の貧困率は全国トップで、子供の相対的貧困率は29.9%と全国平均の約2.2倍にのぼるというから驚きである。僕自身、日本全体で見れば世帯収入が下位10%以下のシングルマザー家庭で育っている。

少し古いが7年前の東洋経済の記事

しかし、にもかかわらず!

沖縄県民の幸福度は決して低くない。なんなら幸福度ランキングで全国トップになる時もあるくらいだ。どちらかといえばむしろ東京の方がパッとしない。(参考

そういうことを踏まえると、これはまだ僕の仮説というか、ただの勘みたいなものに過ぎないのだけれど、その正反対の要素を検討することで、東京的な発想ではない方向性から日本的な豊かな生活について考えることができると予想している。

おそらく、単に生活を便利にするのではなく、単に収入を増やすのでもなく、何か異なる理屈でゆたかさを考え直すことができるのではないか。

ここのところが最近すごく気になっていて、あれこれ考えてはいるのだけど、手にあまる。ほんと、誰かまじめに研究してほしい。

そういう本とか記事があったら全力で読み込んでシェアします。

<沖縄生まれ、富山大学生、顧客は東京>

こういうことを考えた背景には、間違いなく自分びいきがあると思う。

かんたんに僕の生い立ちを話すと。

生まれてから18歳まで沖縄の貧困シングルマザー家庭で育ち、5年前に大学進学で富山へやってきた。現在は、依然富山に住みつつ3年半ほどライターとして東京の企業をクライアントに仕事をしている。

そういう背景があって、僕は3つの都道府県(の偏った範囲)にしばらく関わりながら、それぞれの違いを強く感じていろいろ考えさせられることになった。

特に沖縄は生まれ育った地でもあり思い入れが強く、貧困問題については当事者としても憂いていることなので、そこに自分なりに貢献できないかと10年くらいは模索している(今はまず知恵と力をつけている段階のつもり)。

もちろん富山にもかれこれ5年ほど住んでいるので愛着が湧いている。

それで前回は富山と沖縄の違いについて、メモ的な感じで記事にした。

しかし、ぜんぜん読んでもらえなかったので、今回は冒頭で富山なんてパッとしないよねと責任転嫁をしたわけである(筆者は富山県民に一度怒られた方がいいかもしれない)。

<異質さが自己理解の深さに転化する>

まあなんやかんや言って、僕は富山のことも沖縄のことも、自分に何ができるだろうかとしょっちゅう考えるくらいには大好きだし、富山にはとても感謝している。

ただ、沖縄に対する愛着と富山に対する愛着は少し違っていて、前回の記事でも述べたように僕は自分を沖縄に重ねて見ている。

その視点からすれば、富山市は僕と正反対のキャラで、そんな富山と毎日5年も付き合っていると自分もだんだん組成が変わってきているような気もする。

異質なキャラの富山にたまたま出会えたことで、逆に地元から自分が受けた影響を考えずにはいられないし、前提としていたことに気づき、深く考え直す機会になった。

こういう経験は今に始まったことではなく、僕はわりと幼い頃から自分と距離のある(経済状態・物理的な環境・時代・家族の在り方がかけ離れた)異質な他者とだらだら一緒にいて、いろんな話題について対話を続けてきた。

それによって改めて自分が受け取っていたものを考えさせられたり、「友」として共感する枠が広がることを繰り返し経験していて、そういうことが世の中の分断をやわらげるのにも一役買うんじゃないかという考えをもっている。(考えを深めるとか対話は好きだが、お金儲けは得意ではないようなので、資金面で誰かにすごく応援してほしい)

だからこそ、最近は資金面でのリスクにヒヤヒヤしながらも「面白ベース」なる施設をオープンして自分は食費を節約しつつ毎週鍋会を開き、また毎月東京から大先輩を呼んではダラダラ話すご飯会を開いている。

<しつこく言語化にこだわる意味>

僕の活動をふくめ、地域に点在しているサードプレイス的な場所は経済規模としてはごく小さく、その価値をうまく解釈し直し外の人にも伝わるように言語化できている場所はほとんどない。

そういった場所はたとえば地域にいる人々の死にたい気持ちを晴れさせたり、ダラダラスマホを見て過ごす時間を大幅に減らしてくれたりしているのに、ずいぶんと過小評価されている。

そうなってしまうのは、こうした場所が地味で、時にはただ騒がしい場所に見えてしまうからかもしれない。

数字で示しやすい価値に絞って、それが大きければ大きいという前提で価値を訴えようとすると見落とす部分が多くなってしまうのだ。

僕は最近こうしたことに問題意識を持っていて、だから、面白ベースのこともそうだけれど、自分のしていることや自分の応援するコミュニティのことをいろんな哲学者の言葉や先人の知恵を借りて考えたり言語化したりするため、あれこれ本を読んでたまにnoteで発信している。

なぜ純粋に自分の言葉だけでなく先人の言葉や知恵を借りて言語化することにこだわっているのか?

それは、長く生き残ってきた概念やものの見方はそれだけ時間的に遠くに届く力を持っているからだ。そこに接続することには意味がある。

ただし、この作業は大変地味で時間がかかる。周りから見れば何もしていないか同じことばかりしているように見えるかもしれない。

まぁたとえそうだとしても、ダラダラ話し、よく観察し、よく考え、愛を持って言葉にする他者がいることは、対象に時空を超えて影響力をもたせる効果があると僕は信じている。

異質な他者との差異の大きさが、対話を重ねたとき得られるものの深さにつながり、その深さが時や空間を隔てて人の心に届く射程になる。

その仮説の検証のために身銭を切る人生を送ろうと今は考えている。

さてさて、最初の話(富山ってパッとしないよねという話だったか)からずいぶん遠いところに話が流れてきた。

最後はもう一度無理やり富山に接続して話を終えたい。

海より山に信仰を求めていて、観光の件というよりは産業の県で、冬はとても寒いし、夏は暑すぎるし、1年を通して街がとても静か。

そんな富山で、僕はますます広がりそうな共感の欠如による社会の分断をゆるい姿勢で憂いて、異質な他者との、まったく効率的じゃない、ダラダラとした対話の価値を考え続けようと思う。


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