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『平安神宮/平安遷都紀念橖』-近代国家が創造した伝統的モニュメント

偽史、フェイクロア、創られた伝統といった背景を持つ場所や存在を、現実と妄想が交差する「特異点」と捉え撮影する記事。今回は 京都府京都市左京区にある『平安神宮』と『平安遷都紀念橖』を取り上げる。


『平安神宮』とは

明治に創建された、平安遷都1100年を記念する神社

平安神宮の参道である「神宮道」。

『平安神宮』とは、1895年に平安遷都1100年を記念した「平安遷都千百年紀念祭」に際して創建された。祭神は、遷都を行った桓武天皇と、生涯を平安京内で暮らし崩御した孝明天皇である。

『平安神宮』が建つ前の京都市街地は、幕末の戦乱によって荒廃していた。加えて、明治維新によって東京へ首都が移ったことは、京都の人々にとってショッキングな出来事だったという。そのような状況下、京都に深い思い入れを持つ市民・行政によって行われた復興事業・町おこしの集大成として『平安神宮』は生まれた。

京都で最も新しい神社のひとつ:100年を越える「伝統」

見た目の荘厳さ、「平安」という名前、何より京都がもつ「日本文化の重要地」という意味性の付与が、『平安神宮』に並々ならぬ風格を与えている。

入口の応天門。大内裏の正庁を模した朱塗りが美しい。

しかし紹介した通り、創建は1895年のため、歴史は京都の数ある神社の中ではかなり新しい。それではロマンが無くなるため、この事実は秘匿されたものかといえばそんなことはない。神社前の案内板、公式サイトなどに明記されている。

応天門前の案内板。
応天門前の石灯籠にある年代からも伺える。

また、同地にある岡崎公園のシンボル・大鳥居は1929年に竣工されており、その主素材は鉄筋コンクリートと非常に近代的な建築物である。

圧倒的スケール感で参拝客を出迎える大鳥居。

2024年現在、神社創建から129年、大鳥居が95年。例として、同じ京都で1300年以上の歴史をもつ『上賀茂神社』と比較すると、『平安神宮』に何だか親近感を抱く。もちろん、100年余りの歴史も十分伝統といえるものではあるが、『平安神宮』創建にあるもうひとつの背景を見ると、この伝統は意図をもって「創られた」ともいえるかもしれない。

「皇国史観を形成する装置」という役割

『平安神宮』の創建には紀念祭に加え、「内国勧業博覧会」という明治政府主導で行われたイベントが大きく関わっている。
1895年、岡崎公園で開催された第四回博覧会。博覧会の主目的は、産業発展・増進なのだが、前年の日清戦争勝利以降、国内ではナショナリズムが高まっていた。その中で、国家団結の場としての効果を担うシンボルとして、博覧会における天皇の役割が重要度を増していったという(北口由望「明治天皇と内国勧業博覧会行幸 -殖産工業政策における天皇の役割を中心に」『書陵部紀要』第59号 平成19年度、2008年)。

高まる機運の中、京都市は岡崎公園を開催場所として、紀念祭と博覧会誘致の協力を国に要請した。その結果、有栖川宮熾仁親王が総裁として就任し(のちに小松宮彰仁親王と交代)、バックアップを得る。

こうして国家事業となった両イベントにおいて、『平安神宮』は目玉パビリオンとして計画された。そのため『平安神宮』には市民の思いとともに、この時代の皇国史観を形成・醸成する装置としての役割もあったと見受けられる。

また大鳥居に関しても、1928年に即位した昭和天皇の記念事業として建設されていることから、同様の役割があったと考えられる。

平安神宮創建から建造が遅れたのは、それに見合う鳥居を石材や木材で建造するのが困難だったからだという。
岡崎公園内にある「大典記念京都博覧会門柱」。1915年に開催された大正天皇の即位式の会場ゲートの門柱がひっそりと残されている。

「伝統の創造」という文化的実践

このように、古くからの仕来りや慣習・信仰などによって培われ受け継がれてきたものとは違い、特定の歴史の、ある主体によって意識的に発明された伝統を「創られた伝統」という。

これはイギリスの歴史家・E.ホブズボウムとT.レンジャーの著書『創られた伝統』で提唱された概念であり、「ある時期に考案された行事がいかにも古い伝統に基づくものであると見なされ、それらが儀礼化され、制度化されること」と定義している。

「創られた伝統」は特に、国家とナショナリズムの近代的発展において明らかである。また、国民のアイデンティティ形成や制度の正当化を促進するのに顕著な実践である。
そのような観点から見ると『平安神宮』の立派な姿は、当時の日本人の心を喚起させるのに十分な力があっただろう。

応天門をくぐった先に広がる大極殿。
白虎楼の先には「神苑」という日本庭園が広がる。
1905年の日露戦争勝利を記念して奉納された釣燈籠。伝統と近代国家思想の交差が伺える。

そして『平安神宮』と同様、紀念祭が国家事業であったことを示すものとして、『平安遷都紀念橖』という記念碑がとある場所に建造されている。

『平安遷都紀念橖』とは

比叡山延暦寺の麓にひっそりと佇む巨大塔

紀念橖正面。

『平安遷都紀念橖』とは紀念祭成功を祝し、1902年に建立された塔である。最初は平安神宮の北側にあったが、現在は八瀬という比叡山延暦寺の麓に移設されている。

↓ 1902年刊行の地図に当時の場所が記されている

麓から眺める比叡山。
山中への入り口。
訪れる人の大半は比叡山へ向かうため、こちらに来る人は寄り道程度のような印象。

観光ガイドに載らない隠れた存在

巨大で迫力ある塔のため、静かで落ち着いた山中とのコントラストが激しい。SF的な遺構のようにも見え、これはこれで観光客に受けそうな代物だが訪れる人は少ない。なぜなら、観光サイトをはじめとするガイドにはほとんど掲載されていないからである。

山中を進んだ先に唐突に出てくる塔。木々に囲まれた様子が一層SF的遺構感を強めている。

確かに『平安神宮』および市街地からは少し離れた場所にある。しかし熱心な歴史マニアであれば赴くだろう。何よりガイドだが、紀念祭の一環であった以上、『平安神宮』と並列して情報くらいは掲載されてあってもいいのではないかと思ってしまう。

↓ 京都市のサイトにはページがあるが、他リンクもなく独立している。

↓ 京都市の都市史にある紀念祭の項目にも塔の情報はない。

理由は不明だが、定着している「古都・京都」のイメージからすると、悠久の時を感じさせない人工物感が、観光情報的にはそぐわないのかもしれない。だが確実に、『平安神宮』と『平安遷都紀念橖』は同じ起源ではある。

見上げるとなおわかる存在感。オーパーツのようだ。

終わりに

「伝統」への冷静な眼差しがパラドックスを生む歴史的名所

『平安神宮』と『平安遷都紀念橖』が維持・継承されてきた歴史は、「伝統」といって差し支えないだろう。一方でその「伝統」の背景には、当時の国家による「形式的に制度化された要素」があることも確かだ。

一方向な視点はパラドックスを生みかねない。どちらが正しく、間違っているということではない。そのため今後は、平安の歴史・文化的側面と、近代のナショナリズム的側面が楽めるハイブリッド文化財として、『平安神宮』と『平安遷都紀念橖』をワンセットで捉えるのは如何だろうか。

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