#22『バームクーヘン』
誰の人生にも、自分自身をダサくさせるモノとの出会いがあるはずだ。
それは決して恥じることなんかではない。
ダサい毎日がダサく盛り上がるようなモノと巡り会えたのなら、どうかみんなもそれをしっかりと捕まえて離さないで欲しい。
若き日の汚点だなんて思わずにいつまでも大切にして欲しい。
こんなふうに当たり障りのない形式で書き始めたわけだが、根本的にクソである。
実際、他人が「自分自身をダサくさせるモノ」との出会いを大切にしようがしまいが、僕の人生には何ひとつ影響がないので勝手にしてくれてかまわない。
申し訳ないが君の人生には全くもって興味がない。
どっかの山師が、エッセイを書くときにはまず初めにテーマを提示して、次に他人に語りかけるような文章を数行挟んでから、自分の体験談を書き進めるべきだと偉そうに語っていたので試しに真似をしてみたが、その途中でクソみたいな気持ちになってしまったので、正直にクソだと言うことにした。
ロックンロールの話をする時に、こうあるべきだという不燃物みたいな考えに従うのは非常にクソなので、もう一度クソだと正直に言って、いちから仕切り直そうと思う。
では、改めて。
人生には自分自身をダサくさせるモノとの出会いが必ずある。
そして僕の人生をとことんダサくさせてくれたのは、間違いなくヒロトとマーシーだ。
彼らに出会ったその日に、僕はダサくなろうとそう決めた。
決して不真面目に生きてやろうとか、日常を無頓着に過ごそうとか、投げやりで不純で中途半端な気持ちなんかではない。
僕は本気でダサくなると決めて、相変わらずダサいままなのだ。
中学生の頃も、高校生の頃も、大学生の頃も、社会人になった今でも変わらずにダサい。
ダサくなってしまったのではなく、大真面目に望んでダサくなったのだ。
要するに、真面目にデタラメなことをやってのけるユーモアはとても美しいという話だ。
真面目にダサい人間が、ダサくなることを恐れてカッコつけている人間よりも美しくて、醜悪こそが人生における唯一の美徳だということを僕は一生かかってでも証明したいと思っている。
何を言ってるのか分からないって?
分かってたまるか、このタニシ野郎。
僕にはタニシ野郎のためにわざわざ必要以上の説明をする余裕がない。
丁度ハイロウズのバームクーヘンというアルバムのレコードに針を下ろしたところだからだ。
なんとしてでもこのレコードを聴き終わるまでに文章を書き終えたいと思っている。
今はちょっと楽しむ時、悪いが君にかまっている暇はない。
バームクーヘンのレコードを聴き終わるまではどうか邪魔をしないでくれ。
話を元に戻すが、僕はバームクーヘンというアルバムを聴くと常に思うことがある。
それは次の通りだ。
真面目に生きるのはかっこ悪い。
不真面目に生きるのはもっとかっこ悪い。
本当にかっこいい生き方とは、真面目に不真面目なことをやってやってやりまくる様である。
ヒロトとマーシーはそんな素敵な美学を持って僕をダサくしてくれた。
とある人がこんなことを言っていた。
野暮ったい連中に魅力がないのは当然だが、お洒落な連中にも同じくらい魅力がない。
また、別のある人はこんなことを言っていた。
楽しければなんだっていいという考えは知性に欠けるが、物事は常に楽しくなくてはならない。
「とある人」と匿名で紹介したのだが、実は僕が今思いついた文章を引用のように書いただけなので、「とある人」ではなくて「僕自身」である。
そして次に、「僕はこれらふたつの文章には共通する考え方があると思う。」という一節を使って、他人の文脈を巧みに解し、それを使って自分の考えへ誘導するように演じるつもりであるが、そもそも自分が考えた文章なので、はなから都合のいい内容になっている、巧みもクソもない。
嘘はつきたくないのでこのように先にことわりを入れてから、嘘をつくことにする。
では、改めて。
僕はこれらふたつの文章には共通する考え方があると思う。
それは、ただ真面目に生きることの退屈さと、ひたすら不真面目に生きることの滑稽さだ。
前者は百科事典を暗記しても何ひとつ理解していない融通の効かない生き方、後者は単純な出来心が他人を傷つけている事に気づかない鈍い生き方、というニュアンスが似つかわしい。
野暮ったい連中は不真面目だ、お洒落な連中は真面目だ、楽しければなんだっていいは不真面目だ、真面目な連中に楽しみを理解するのは不可能だ、世界中の「ファック・ユー」の落書きを消すためには一生じゃ足りないという真実くらい実現不可能だ。
真面目ではダメ、不真面目ではもっとダメなのだ。
だからこそ、真面目に不真面目に生きることこそ一貫して美しい人生である。
デカいドリルで穴を掘って地獄の門に小便するくらいの、天国の扉を叩いてピンポンダッシュで馬鹿笑いするくらいのデタラメとユーモアが人生には必要だ。
何故なら、天国も地獄も存在しないのだから、こんな嘘っぱちの不真面目な言葉をロックンロールに乗せて真面目に歌うハイロウズをかっこいいと思うのは、彼らが真面目にダサいからに違いない。
真面目に不真面目な人間は優しい、真面目にダサいことをする人間は誰も傷つけない、真面目にデタラメなことばかり話す人間は本当のことを知っている。
要するに、ヒロトとマーシーは優しい、ヒロトとマーシーは誰も傷つけない、ヒロトとマーシーは本当のことを知っている。
かつてヒロトは、”僕、パンクロックが好きだ、中途ハンパな気持ちじゃなくて、ああ、やさしいから好きなんだ”と歌った。
パンクロックが優しいのは何故か、ロックンロールが優しいのは何故か、中島らもの「いいんだぜ」があんなにも優しいのは何故か、それは真面目に不真面目なことをやっているからだ。
畜生、何回同じことを言わせるんだ、この野郎、何回だって言ってやる。
真面目に不真面目は優しい。
真面目に不真面目は優しい。
真面目に不真面目は優しい。
きっと彼らの根底には真面目に不真面目なことをする美学が存在する。
真面目にデタラメなことをするパンクロックが、ロックンロールが優しいから好きだと思う彼もまた、僕らにとっての優しいから好きな存在だ。
僕はヒロトとマーシーが優しいから好きなのだ。
やれ日常が退屈だの、刺激が足りないだの、こんなはずじゃなかっただの、黙ってりゃ好き放題言いやがって、さっきまでの自分自身に宣戦布告だ、もっと嘘っぱちのデタラメを真面目にやってみろよ。
団塊世代のじじいの真面目な誇りなんぞ、自惚れ、まやかし、思い違い、世の中はもっと真面目に不真面目なことをやるために努力するべきだ。
深刻な顔をして深刻なことを真面目に話す人間は自分自身を納得させられたとしても、隣人を理解させることはできない、それは本人が悪い。
そんな奴はレディオヘッドを聴いて、死ぬまでずっと自分の罪が罰せられることを望んで暗闇の人生を送ればいい。
だけど、真面目にデタラメな話をする人間がもし隣人に理解されないのなら、それは隣人が悪いのでそんな奴とは今後一切関わるべきではない。
真面目に不真面目な僕らは、罪ならば全部認めるが、罰を受けてる暇などこれっぽっちもない、大切でもない隣人なんて愛すな、キスマイアスだ。
人生にもっとデタラメなユーモアを、適当な嘘をついて誰ひとり傷つけないインチキさを、そのために想像して創造して送像するのだ。
そう、真面目にダサく生きるとは、つまり想像力なのだ。
そして想像力、それは愛だ。
僕らはどうでもいい人とは言葉で会話をするが、大切な人とは想像力で会話をする。
降って湧いたようなデタラメを話したときにそれに相応しい名前を付けてくれる友達がいるように、日々の轍をデタラメに組み立てたときに相応しいユーモアにすり替えてくれる恋人がいるように。
僕らは想像力でデタラメな会話をして、何も理解していないようで何かを理解している。
言語化する前に体内が理解するような方法で共有している。
同じく、ロックンロールのレコードを聴いた時に、言葉ではない、説明の出来ない何かに打ちのめされる。
そんなものはきっと存在しない、だけどロックンロールが好きな人はそういうことを真面目に語る。
僕らは、彼らは、手触りのないデタラメを本気で信じていて、そんな嘘っぱちに本気で感動したり、興奮したり、救われたり、袋叩きにされたりする。
真面目に生きたって幸せにはなれない、不真面目に生きたって満たされはしない、真面目に不真面目なデタラメを信じている時にだけ、僕らは嬉しくなったり、楽しくなったりする。
そんなものは存在しない、そんなものは嘘っぱちだ、だけど僕は真面目にデタラメを信じている。
ロックンロールのレコードを聴いている時に、気の合う友達と肩を並べる時に、愛する恋人とキスをする時に、僕は真面目にデタラメを信じている。
そんなふうに幻と付き合っていく。
本気で感動したり、興奮したり、救われたり、袋叩きにされたりしながら生きていく。
クソ、あと数行で文章を締めくくれそうだったのに、バームクーヘンのレコードを聴き終えてしまった、針が宙に浮いてしまった。
途中、タニシ野郎に邪魔をするなと、不要な文章を挟んでしまったからだ、あれさえなければ絶対に最後まで書き終えていた。
嗚呼、とても素敵な締めくくりを思いついていたのに全て台無しだ。
本来書くつもりだった最後の文章が書けなくなってしまった。
いつも肝心な時に、あと少しの時に、上手くいかずボロが出てしまう。
まったくダサいったらありゃしない。
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