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独りじゃない【船を編む 】

文章を書いていると、いつも悩んでしまう。

この場面はこの言葉でいいのか?気持ちや空気を伝えるのに適切か?想いを取りこぼすことなく、文章にできているのか?もっと別の言葉があるんじゃないか?

だから記事を書くときは時間をかけて、例えば「楽しい」感情だったら、「楽しい」で類語検索をかけ、できるだけ気持ちを届けられる言葉を探す。

けれど、同時に悪魔のささやきも頭に響いてきて。

ここまで気にする必要はないんじゃないのか?「楽しい」でもどうせ伝わるだろう。そもそも自分の記事を熱心に読んでくれているなんて思っているのか?無駄なこだわりなんじゃないのか?ほかの人の記事はいつもおもしろいのに、センスがないんじゃないのか?こんな孤独な作業に、誰が意味を感じる?

いつもこの問答の繰り返しだ。勝つほうは言うまでもないけれど、むろん決まっているのだけれど。隙を見せた瞬間に、どうしても悪魔がわいてしまう。

やがて記事を書き終えると、達成感と、とんでもない疲れと虚無感に襲われる。

書いてる最中に悪魔の声が聞こえるのは失格なんじゃないのか? 自分に書く資格はないのかもしれない。

そうしていつも、自分の矮小さに嫌気を、無力さにおびえを、それぞれ抱き、冷たく閑かな眠りの海へ、どこまでも落ちていってしまうのだ。

――――――

「船を編む」という小説を読んだ。

おおざっぱにあらすじを説明すると、ものすごく長い時間と、苦労と、努力を重ねて、一冊の辞書「大渡海」を制作する物語だ。

「大渡海」は”とんでもなく広く、大きい言葉の海を渡るための舟”という意味。作中での紹介は次のようなもの。

「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かび上がる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いを誰かに届けるために。」 「海を渡るにふさわしい舟を編む」

なんて素敵で、胸が高まる命名なのだろう。僕がいつも悩むような、言葉を探す人のために「大渡海」はつくられている。

記事を書くとき、誰かに声をかけるとき。できるだけ正確に感情に寄り添える言葉を使いたい。寄り添いたい。

言葉にかかわるすべての人を想定し、考え、編集する様子に、一気に引き込まれた。

言葉の意味は?どこまで含める?使い方は?紙の材質は?徹底的に追及し、言葉の海を渡る舟がだんだんと編み上げられていく。

けれど作中で強く印象に残ったのは、製作の様子だけではなかった。

僕が心を打たれたのは中盤。「西行」(さいぎょう)という、お坊さんの名前を起源に持ち、不死身や旅人、傘の背負い方など、複数の意味を持つ語の紹介を考える場面。

「実際に流れ者が、図書館かなんかで、なんとなく辞書を眺めてるところを想像してみろよ。『さいぎょう【さいぎょう】』の項目に『(西行が諸国を遍歴したことから)』遍歴する人、流れ者の意。』て書いてあるのを発見したら? そいつはきっと心強く感じるはずだ。『西行さんも、俺と同じだったんだな。大昔から、旅をせずにはいられないやつはいたんだ』って。」

まるで心を見透かされた気分だった。思わず声を上げてしまうほど感動してしまって、自分の部屋で読んでいてよかったと心底安心した。「大渡海」編集部の姿に、放浪の旅を続ける「西行」の姿が重なった。

言葉に悩んだとき、問題を解決できる。それだけでも嬉しいのに。

言葉に悩むのは、無駄なことじゃない。「楽しい」でも「嬉しい」でも、ましてや「エモい」でもない感情の言葉を探すには、意味がある。悪魔のささやきから膨れる不安に見てみぬふりを続け、飽和した言葉に目を凝らし、たった一つの感情を表す言葉を探し続けているのは、僕だけじゃないのだ。仲間がいる。

言葉に悩む仲間を感じで、心強く思い、自分の作業を信じ、続けたい。

作中では「大渡海」の編集部が、現実世界ではきっと物語に共感する人たちが、同じ孤独と奮闘する仲間だ。

おおげさかもしれないけれど、作者・三浦しをんさんによる、一冊まるごと使った言葉に悩む人々への贈り物を、メッセージを、受け取った気がした。

僕は、独りじゃない。

――――――

いまだに記事を書くとき、悩んでしまう。

この記事もまた、言葉に悩み、文を削除し、書き直し、足して、消して、どにか書き進めている。たかが個人の記事だ。読まれる保証なんてどこにもない。

けれど言葉を選ぶ作業は無駄な作業じゃない。気持ちを届けようとする苦悩には、共に戦っている仲間がいる。

作中に登場する辞書「大渡海」。広大な言葉の海を渡る舟。

悪魔に負けそうになるたび、僕はきっと「大渡海」を思い出すだろう。そして探すんだ。広大な言葉の海から、正確で、思いを届ける、もっともふさわしい言葉を。


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