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【全体があってこそ、名文は輝く】その一文を読み手に正しく伝える方法


 刺さる一行だけでは成り立りません。
 文章全体がしっかり書けていて、初めて成り立つものです。
 刺さる一行を書く前に、どうしたら正確に伝えられるか、まずはこうした基本のテクニックを身につけておきましょう。

剌さる一行と文章全体は花と木のような関係

 刺さる一行と文章全体は、花と木のような関係です。木がなければ花は咲きませんし、花だけあっても、花以外の部分がなければ美しさは半減します。
 文章も同じで、たとえば、芥川龍之介のように「人生は一行のボオドレエルにも若かない」のようなすごい一行を思いついたとしても、それを支える文章全体がさっぱりであれば、せっかくの刺さる一行が台なしです。
 そうならないように、ここでは剌さる一行を支える文章全体をどう書くかを考えていきます。

「伝わる」「共感させる」「剌さる」の三段階

 文章は一種の記号です。それは書き手の頭にあることを変換させたもので、読み手はそれをあたかもビデオテープを再生するようにして読み取ります。
 そのとき、文章の精度が低いと読み手はきちんと再生できません。悪くすると、全然違うものを想像してしまいます。

 たとえば、「電話があった」と書いたとして、「電話機があった」とも「着信があった」とも解釈できますし、「電話機があった」のだとしたら、それはどんな形状なのか、固定電話なのかスマホなのか、色は何色かということも書かないと相手にはわかりません。
 読み手に何かを伝えるなら、まずその物なり出来事なりを正確に写さないといけません。

 また、読み手の共感を得たいのなら、ただ正確に書くだけでは不十分です。電話機などの物と違って、感情を伝をるのには多少の技術が要ります。
さらに、「そういうことってあるある」程度の軽い共感ではなく、もっと心に刺さるような文章にするには、テクニックを超えたモノの見方、考え方が必要です。
 ということで、以下、「伝わる」「共感させる」「剌さる」という流れで説明していきます。

正確に伝えるための5つの条件

ここでつまずいては何も書けない!

 ここでは、正確に伝えるための基本テクニックを五つ挙げます。しっかり復習しておきましょう。

基本の伝違力が問われる! その1「言葉の選択」
 
頭の中に物なり事なりがあり、それを言葉にしようとしたとき、選択を間違えば別の意味になりかねません。
 たとえば、飲み物が入った器があるとして、コップと書くのと湯飲みと書くのとでは、読み手が想像する映像にかなりの違いがあります。「習慣」と「慣習」も字面は似ていますが、意味は違います。
 問題はどんな言葉に置き換えるかですが、ちょっとした意味の違いに気づくためには語彙が必要です。日頃から本を読み、知らない言葉は調べ、似た言葉に敏感になりましょう。

それって、いろいろある! その2「説明不足」
 「久しぶりに里帰りし、商店街を抜けて、友達の家に向かった。」
 特に説明する必要がなければこのままでもいいですが、「久しぶり」って何か月ぶり? 商店街といっても活気のあるところもあればシャッター商店街もあるし、友達も大親友から単なる顔なじみまでいろいろです。
 説明は多すぎてもいけませんが、あまりにも説明不足で、どんな映像を頭に描けばいいのかわからないというのも困りものです。

それはどっちの意味? その3「曖昧さ回避」
 
「なんで、来たんだ」
 この一文はいろいろな意味にとれます。
 最近は「なので」の意味で「なんで」と言いますから、「ということで、来たんだ」ともとれますし、「なぜ、車で来たんだ」と責めているともとれますし、「どのような交通手段で来たのか」と尋ねているようにも思えます。二重三重の解釈が成り立つわけで、これはいけません。文章と意味を一対一で対応させましょう。

ありのままに! その4「写生」

「色は不鮮明に黒ずんで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張り切っていた腹は紙撚のように痩せ細っている。そんな彼らがわれわれの気もつかないような夜具の上なはどを、いじけ衰えた姿で葡っているのである。」

(梶井基次郎「冬の蠅」)

 スケッチするように書く写生文は日本文学の伝統と言えますが、これはすべてのテクニックの基本です。写実とも言いますが、これを英語にすればリアリズムで、作文でもエッセイでも、ミステリーでもファンタジーでも、写生ができないと話になりません。
 この写生文を提唱した正岡子規は、「ありのままに書く」と言っています。頭の中にある情景を、
 一つずつ丁寧に、正確に、言葉に置き換えていきましょう。

たとえて言うと? その5「比喩」
 
正岡子規は、「ありのままに写すに相違なけれども多少の取捨選択を要す」とも言っています。
 たとえば、目の前の情景を写すにしても、どうでもいいことは捨てていい、むやみに重ねても限界があるということ。そんなときに効率がいいのが比喩です。

 村上春樹は『1Q84』の中で、どの電話帳を見ても同じ名字の人を見たことがないという青豆の気持ちをこう書いています。
「そのたびに彼女は、大海原に単身投げ出された孤独な漂流者のような気持ちになった。」
 賛否両論ありそうですが、「どんな感じ?」を明確に伝えたいのなら比喩を使うのもありです。

剌さる一行(気づき)を得るためのヒント

実体験
 
気づきは実体験の中にあります。まず、これまでに体験したことを思い出しましょう。「思う」ではなく、「思い出す」と考えると、題材を見つけやすくなります。

気づき
 
気づきは実体験と思索がもたらすもので、気づきを得るには時間をかけてひたすら考えるしかありませんがは、「そのとき、どう感じた?」と自問すると、気づきを得やすくなります。

書く
気づきを得て、そこから本文を考えていければいいですが、書きたいことがあるのなら、まず書いてしまうというのも手です。「書くことは考えること」と言います。書くことが気づきを生む。そういうこともあります。

特集「刺さる文章」
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※本記事は「公募ガイド2017年4月号」の記事を再掲載したものです。

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