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写真と自分

高校のときに中古の一眼レフカメラを買った。
初めての大きな買い物。貯金をはたいた買い物。自分の持っている一番高価なもの。カメラ屋のおじさんがレンズケースをおまけしてつけてくれたことも覚えている。それから写真を撮った。しばらく取らない時期、すごく取る時期、そんなふうに繰り返しながら、私の部屋にはずっとカメラがあった。そして2台目、3台目のカメラを、小さなカメラを買ったのは、大きな一眼レフを持って街を歩くのに気恥ずかしさを感じたからでもあって、カメラをもっと知りたいという気持ちもあったから。それからも断続的に写真を撮った。

好きになる写真は全部モノクロで、写真展に行って、一番好きになる写真はモノクロで、でも自分ではほとんどモノクロは撮らなかった。光が好きだったから。思いもよらない光の写真。フィルムカメラで撮って、現像したときに初めてみることができるあのとき見えていなかったカメラだから写せたあのとき。それを1枚でも多く撮りたくて写真を撮った。夜の信号の光、夕方の西陽が陰影をつくる道の端、昼間の真っ青の空はうまく撮らないと真っ白になってしまって、どうやって青い空をそのままフィルムに映せるのか理解するのに時間がかかった。

東京都写真美術館に行ったのはロベールドアノーが好きだから。パリの、街角の一瞬を写したモノクロ写真はずっと好きで、私に撮っての中心座標のようにくっきりした存在で、それを見にいくことにも少しの時間をかけなければならないほど心構えがいるほどの写真。子供の頃の自分だったら不思議に思うほど写真の前で佇む時間が多くなっているのは歳を重ねたせいなのだろうとなんとなく理解できるし、少し前の自分といまの自分を比較してもそれは十分に理解ができる変化だった。写真に映るその人を、街にいた人を撮ったその瞬間が頭の中で展開されて、その写真に映った情景が、映す側と映される側のそれぞれの人間味がじわじわと心の中に染み込んでくるような、そんな写真ばかりなのだと圧倒される。

ロベールドアノート本橋成一。その展示で、私は本橋成一を知らなかった。知らない人の作品を見る。それが人生の中での重大事だと思うのも歳を重ねたから。なにも知らない状態で、その人の撮った写真を見る。感情を揺さぶられる。ぐっとくる。いつまでもその写真から情報が流れ込んでくる。止まらない。そんな感情でそれぞれの写真の前に佇んだ。脚はどんどんと疲れていく。体重を乗せる腰も疲れていく。でもまだそこにいたい。展示室から出たくないと思う。何十年前の誰かもわからない人のモノクロ写真を見てどうしてこんな感情が、心の中からじわじわと滲み出すような不思議な感情を抱けるのだろう。この人はどうしてここにいてこの人に気をつけて、写真を撮ったのか、その瞬間のいろいろが交錯して写真が一枚取られて、いま私は見ることができていて、何十年も経って打ちのめされている。すごいことだと思った。

写真展に行くといつも思う。
もっと日常の写真を撮ろうと。写真を撮ることから逃げないようにと。
また思った。いつもと違うのは、モノクロの写真。
いまの私はやっとモノクロの写真を撮りたいと思えるようになった。

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