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天赦日+喪船の御子 神功皇后六 神話は今も生きている ことの葉綴り六〇六

最高の吉日「天赦日」

おはようございます。今日は、一年に5~6回だけしか訪れない「天赦日(てんしゃび・てんしゃにち)」です。
天がすべての罪を赦すという最上の縁起日で、障害が取り除かれる大吉日です。秋は「戊申つちのえのさるの日
冬は「甲子きのえのねの日」で、今年は十一月十二日(金)も「天赦日」です。
春は「戊寅つちのえのとらの日」。夏は「甲午きのえのうまの日」が、それに当たります。
そして、十月二十七日、六曜は、「赤口しゃっこう」で昼前後、正午だけが吉ですが、十二直は「ひらく」で、開き通じる日。運を開くために、祭祀、お参り、建築、新しいことをする、引っ越し、婚礼が吉。
二十八宿は「」で、建築工事、改築、物の仕入れ、集金に吉。そして、ご神事に関すること吉日の「神吉日かみよしにち」。神社の参拝、ご先祖に手を合わせる、お墓参りが吉!
さあ、最高の吉祥日の「天赦日」何をしましょうか?(^^)

<ことの葉綴り>全体のご案内
この「言の葉綴り」は、神話の物語を神さまごとに「マガジン」に分けて読めるようになっています。
「神さまも“失敗して成長した”」と、魅力的な神さまごとに18のマガジンに分かれています。全体のご紹介は、こちらをどうぞ。
600回の節目に、まとめてみました。


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産まれながらに国を統べる太子ひつぎのみこ

第十四代仲哀ちゅうあい天皇が、神の怒りに触れて身罷られたあと、|墨江大神《すみのえのみまめのおおかみ》さまのご神託とおり、妻である神功じんぐう皇后は、身重のお身体で新羅しらぎ討伐を成し遂げられました。
大和国までの帰路の途中、筑紫国(九州の福岡県)で、「すべてこの国は、お腹におわす御子の統べる国である」と、大神のお告げのあった御子を出産されました。その地は、「宇美」と名付けられました。

生れながらに、国を統べると予言された、この太子ひつぎのみこの名は、品陀和氣命ほむだわけのみこと
また生まれながらに、腕にはとも(弓を射るときの武具)の形をした肉がついていたことから、「大鞆和氣命おおともわけのみこと」の名もあります。

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夫の仲哀ちゅうあい天皇を祀った「忌宮神社」

また、神功じんぐう皇后は、新羅遠征の前に、身罷られた夫である、第十四代仲哀ちゅうあい天皇を、仮の宮「殯宮あらきのみや」から、新羅から帰還ののち、生前、天皇が七年間、熊曾の平定のために政務をとられた「穴門の豊浦宮あなどのとよらのみや」(山口県下関市)に、お祀りされたのです。
この「|穴門の豊浦宮《あなどのとゆらのみや」は、現在の「忌宮いみのみや神社」さんです。
ご祭神は、仲哀ちゅうあい天皇さま、神功じんぐう皇后さま、そして、(これからのちに登場する)応神おうじん天皇さまです。

境内には、仲哀ちゅうあい天皇さま、神功じんぐう皇后さま、そして、(これからのちに登場する)応神おうじん天皇さまにお仕えした、大臣で、審神者さにわ建内宿禰たけしうちのすくね(武内宿祢)が、お手植えした「宿禰の銀杏」と言い伝えのある古木があるそうですよ!

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喪船に乗り……亡くなった御子? 

さあ、神功じんぐう皇后さまこれから大和国へと戻ることになりますが、すでに天皇は身罷られています。
大和国には、仲哀ちゅうあい天皇の妃の大中津比賣命おおなかつひめのみことが生んだ、二人の御子香坂王かごさかのみこと、忍熊王おしくまのみこが、すでにおりました。

神功じんぐう皇后さまは、産まれたばかりの品陀和氣命ほむだわけのみことは、後継者争いに巻き込まれて、命を狙われるにちがいないと心配をされます。

我が皇子の命を守るにはどうすればいいか?
この太子ひつぎのみこ品陀和氣命ほむだわけのみことは、
墨江大神すみのえのみまめのおおかみに、「産まれながらに国を統べる」のだ……。
なんとしても、命を守らねばならぬ……。

一計を案じた神功じんぐう皇后さま。
いよいよ、大和国へと還るときに、自分たちとの船とは別に、棺をのせた喪船を一艘、準備をしました。

この喪船に、愛する御子、品陀和氣命ほむだわけのみことを、乗船させました。

そして「御子はすでに亡くなってしまった」ことを、広めたのです。

二艘の船は、下関から瀬戸内海を通り、大和国へと向かっていきました。
産まれたばかりの御子、品陀和氣命ほむだわけのみことさま、本当に亡くなってしまわれたのでしょうか?

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―次回へ
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