継体天皇五 二十年後の遷都 神話は今も生きている ことの葉綴り八四八
なつぞら 清々し!(暑いけど)
おはようございます。まだ六月なのに、真夏のような暑さが続いていますね。空は、もう「なつぞら」。
皆さん、体調崩されていませんか? 週末お休みできましたか? さて新しい週の始まり六月二十七日(月)の暦は、六曜は「先負」で、午後が吉。万事を平静が吉で、控えめにしてよし。
十二直は「執」で、万物を裁決して執り行う日。祭祀、お参り、婚礼などのお祝い事、建築、種まきに吉。二十八宿も「張」で、祭祀、お参り、お祝いごと、就職に吉。種まきは大吉!そして、ご神事やお参り、ご先祖供養によい「神吉日」です。今週も皆さん、健やかでありますように!!さて、『古事記』の神話に入ります。
筑紫君磐井の乱
第二十五代、武烈天皇さまに日嗣の御子がいなかったことから、応神天皇さまの子孫で、越前の国を統べていた袁本杼命が、第二十六代、継体天皇さまとなられ、十九柱の御子をもうけられました。
この継体天皇さまの御世に、筑紫君石井(磐井)の乱がおきています。
ことの発端は、筑紫の国造の》石井(磐井)が、力のある豪族で、独自に新羅との交易をしていました。
そして、天皇の命に、まったくもって従うことをせず、たいそう無礼なことばかりをしたといいます。
百済や高句麗の勢力が伸びたことから、応神天皇の母、神功皇后さまが、新羅討伐した地域に、兵士を送ろうするのですが、すでに新羅と交流していた筑紫君石井(磐井)は、大和政権の天皇のこの命を拒みます。さらに、火の国(熊本)、豊国(大分)の豪族とともに、乱を起こしたのでした。
無礼ではすまされぬ「乱」を起こしたとして、討伐となったとされます。
やがて、継体天皇さまは、豪族の物部荒甲の大連と、大伴の金村連の二人を遣わせて、筑紫君石井(磐井)を、討ち取らせました。
この磐井を討ち取った、大伴の金村連は、継体天皇さまに、皇位継承をと推挙した重臣でしたね。
一方、討ち取られた筑紫君《つくしのきみの》石井(磐井)は、「岩戸山古墳」を築いたといわれています。
天皇の御陵にも匹敵する大きさで、当時、どれほどの勢力を持っていたかがうかがえそうです。この「磐井の乱」は、古代史上で最大の内乱だったともいわれるそうです。
二十年かけて大和へ遷都
そして、継体天皇は、四十三歳で身罷られました。
(いっぽう、『日本書記』では、即位したときにすでに五十代で、八十二歳、または八十三歳で身罷られたとされます)
43歳? 82歳? どっち?!
とはいえ、皇位を継承されるまでに、すでに越前の豪族であったのですし、またご即位したときに、すでに五十七歳だったとされますし、さらに、「楠葉宮」(大阪府枚方市)でご即位されたあと、大和の「磐余玉穂宮」に遷られたのは、二十年後とされます。
その間、ご即位後四年目に、山城国「筒城宮《つつきのみや》」。「弟国宮」にいたといわれます。
この、山城国「筒城宮」、京都府唐田辺市の「同志社大学」京田辺キャンパスの中に「筒城宮址の碑」が、あるそうですよ。
また、「弟国宮《おとくにのみや》」の宮跡は不明ですが、きっと乙訓(京都府長岡京市)のあたりではないかとされています。
そしてご即位後、二十年ののちに遷られた大和の「磐余玉穂宮」は、奈良県桜井市の磐余(現在は桜井市阿部地区)のあたりだとされます。
二十年の歳月をかけて、地方豪族から、天皇へと、その周りへの認知と、手助けする強力な重臣たちとの関係も結んでいったのでしょうね。
地方の支流の流れが本流に一つに結合し
なんせ、皇后さまは、意祁こと、第二十四代、仁賢天皇さまの皇女手白髪命さま……これで、地方豪族だった継体天皇と、 “誰にも文句を言わせない”と直系の皇女とが結びつき、二十年の歳月を重ねて「磐余玉穂宮」遷都となったのでしょうね。
83歳のほうが、しっくりきそうです(笑)
御陵は、三島の藍の御陵。
「繼體天皇 三嶋藍野陵」(大阪府茨木市)になります。
皇后手白髪命さまの遺跡は、
奈良県天」理市の「継体天皇皇后手白香皇女衾田陵」。西殿塚古墳とされているようです。
継体天皇から皇位を継承されたのは、目子郎女との間に誕生した廣國押建金日命さまでした。
第二十七代、安閑天皇さまです。
―次回へ
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