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大人になるってどんなこと?|金木犀の部屋

大人になるっていうのは、失恋した時に、夜中にひとりでイヤフォンさして歩いてファミレスに行って、でっかいココアとホットケーキ頼むことだと思っていた。それができないのは、私が弱いせいだとも。

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学祭の準備がはじまる大学を横目に、ひとりで坂を下る。ポストから鍵をとって入るいつきの部屋は、金木犀の香りがした。

窓辺に座って、甘えるみたいに服の袖を握る。ひとりでも大丈夫なように、くたくたになったタオルケットみたいな、ぶかぶかの長袖を着ていた。

いつきが帰ってきて、部屋がやっと橙色になる。スーパーのビニールから夕食の材料を出してキッチンに並べる、音がした。

私はこの部屋でなにもしない。

いつきは、なんてことないふりをしているけれど、決まったものが決まったところに置かれたこの部屋と同じように、私のことも決まったところに置いているんだろう。適当に置いておけないから、わざわざスペースをあけて。


わざわさスペースをあけたら、いなくなったとき寂しいのに。

私はいつきが好きなわけじゃないから、夕食を作る背中を眺めたりしない。ねぇいいの、人は何かをしてもらうより、してあげるほうが愛情を錯覚しやすいんだよ。

「こんなにしてあげてるってことは、僕は君のことが好きなのかもしれない」って、脳が行動に理由や一貫性を欲しがって、補足するから。

えらいね。傷つくことをちゃんと引き受けられて。

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窓の外の向かいの道を、重たそうな袋を提げた女の子が歩いていった。

「してあげるほうが」とか思うなら、私だってあんなに甲斐甲斐しくなにかしてあげなければよかったじゃん。「23時に家にくるってことは、夕食はとったんだろうけど、でも遅い時間だから『腹減った』とか言いそう。さりげなく、食べやすくておいしいもの、用意しておかなくちゃ」とか。なにかしてあげなければ、好きでいてもらえないと思ってた。

こんなふうに他人の家に居座ってごはんを作ってもらうような私でいればよかった。いつもみたいによくわかんないところで泣いたりすればよかった。そうしたらなにか変わった?

ーーー

「ごはんできたよ」

窓辺から離れて、小さなテーブルのまえに座った。湯気が立つシチューを食べて、とてもまじめにトランプをして、交代でおふろに入って、並んでベットに横になった。


「ねぇいつき、大人になるってどんなこと」

「自分を極めること」

さみしかったら、適当に男の子を探して、おいしいものを食べさせてもらって、笑って話を聞いて、「可愛いね」って言ってもらえばよかった。簡単だった。はずなのに、それができなくてここにきたのはきっと、また別の自分になるのに疲れたからなんだろう。

いつきの前でだけ、嘘をつかないでいられた。
泣き疲れて眠るまで、私は私のことを話した。

目が覚めたとき、遠くで電車が走る音がした。まだすこし暗いけれど、始発以降の時間。
お日さまが出るまえに帰ろう、と手紙を書いて起こさないようにドアノブを回した。

ぶかぶかの長袖も合鍵も置いてきた。
あの部屋の外でも、嘘をつかないでいてみようと思った。

ーーー

今年金木犀の香りがした時、私はいつきの言葉の意味がようやくわかった。

大人になるっていうのは、失恋したときにひとりでファミレスに行くとか、そういうことではない。

6年も経って、大人になることの意味がやっとわかってきたのだ。思い切って素直になって、手を伸ばしてやってみて、どんな仕事が向いてるだとか、どんな暮らしがしたいとか。自分のことがようやくわかるようになってきた。

大人になる、つまり自分を極めるというのは、いろいろな価値観や「こうじゃなきゃだめ」から自由になること。
自分のことを理解して、なにを突きつめていくべきなのかわかること。

そして、自分を極めていくと、おそらく誰かの役に立つようにできていて、自然に世の中の役割を果たせることもわかってきた。

いつきはたぶん「してあげなくちゃ」の気持ちでなんか、動いてなかった。
私は誰かから聞いた「こうじゃなきゃ」に縛られていた。
いつきのほうがずっと大人だった、けど別に同じタイミングで大人にならなくたってよかった。

「嘘をついてでも、幸せになりたい」と思わなくなった。嘘をつかなくても、必要なところに必要なものがあって、受け入れたり試したりして、選んでいけば大丈夫だとわかった。

置き手紙の「ありがとう」がなんのありがとうだったかというと、「すこし先に大人になって教えてくれて、ありがとう」だった。そういうことにさせてね。

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急に雨が降ってきた時の、傘を買うお金にします。 もうちょっとがんばらなきゃいけない日の、ココア代にします。