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原爆の父「オッペンハイマー」の人生

昨日の8月6日は「原爆が投下された日」で、平和に関するイベントが広島を中心に各地で行われています。

科学の視点でいえば、原子核エネルギーの人工的な抽出に成功した「原爆」開発が象徴的です。
あのアインシュタインも、ドイツに使われることを危惧して、大統領あての手紙に署名したことも知られています。

ただ、直接的に製造計画に関わったわけでなく、またその後に開発が成功して使われる段階になるとそれをいさめる第二の手紙も送っています。
そのあたりの経緯については、過去に投稿したので引用しておきます。

アインシュタインは文字通り、手紙に署名しただけで直接的に計画に携わっていません。

原爆製造計画、通称「マンハッタン計画」は、オッペンハイマーという科学者が開発の陣頭指揮を担っていました。

オッペンハイマー氏は、どうしても「原爆の父」という名前が付きまといますが、今回はこの方の数奇な運命について紹介します。

元々オッペンハイマー氏は、物理学の研究者で、アメリカで博士号をとると当時勃興期の量子力学で最先端の欧州に渡って腕を磨き、改めてアメリカに戻っています。

すでに戻ったころには、アメリカでは一流の研究者としての地位を確立していました。

あまり知られてませんが、彼の専門は「宇宙物理学」と「素粒子物理学」でした。(対局に見えますがつながりはあります)

宇宙物理学では、星の重力を研究して、あまりに重いと重力崩壊を起こし「中性子星」や「ブラックホール」となることを理論的に予言しました。
素粒子物理学では、当時話題の理論(ディラック方程式)だと、エネルギーが無限大に発散してしまう問題を提起したことでも知られています。(これは後に繋がります)

マンハッタン計画の最高責任者は、オッペンハイマー氏でなく「レスリー・グローブズ」将軍です。
基礎研究はオッペンハイマー氏に委ねましたが(ロス・アラモス研究所所長)、研究以外の活動、例えば原料プルトニウム製造などは、彼が民間企業などを説得するなど奮闘しています。

グローブズ将軍は、原子爆弾開発の陣頭指揮を任せる科学者を探しており、オッペンハイマー氏を初対面で気に入ったといわれています。

ただ、この時すでにオッペンハイマー氏の人生を揺るがす災いの種が存在していました。

当時は、
「アメリカを代表とする自由主義国」VS「旧ソ連を代表する共産主義国」
という対立構図があり、オッペンハイマー氏の妻と実弟が以前に共産主義者だったことが採用当時から問題視されていました。

本人は共産主義者でない、ということで採用されたわけですが、マンハッタン計画の終了後にこれが再燃します。

二次世界大戦に勝利したあとの仮想敵国は、共産主義の旧ソ連です。
アメリカは、次に備えて原爆よりはるかにエネルギーを放出する水素爆弾(水爆)の開発に乗り出しているところでした。

実はオッペンハイマー氏は、原爆投下については非常に悔いていました。
マンハッタン計画が完了すると、アインシュタインも勤務したプリンキトン研究所の所長に任命されます。
そして、水爆開発に対しても彼と同様に反対の声を積極的に上げるようになりました。

ところが、マンハッタン計画時の部下でもあった科学者エドワード・テラーが水爆急進派で(水爆の父と呼ばれます)、彼による非難をきっかけに「スパイ嫌疑」の告発をうけることになります。
その告発も、採用当時からわかっていた事実にもかかわらず、裁判の結果公職を追放され、最後までFBIの監視を受けていたといわれています。

最後に、とある日本人科学者とのエピソードで話を締めたいと思います。

実は、戦後着任したプリンキトン研究所在籍の1948年に、被爆国となった日本から1通の手紙を受け取ります。

それは、研究者時代に自身が課題提起して解き明かせなかった、
「原子エネルギーの無限大問題を解いたが欧米で発表する機会を奪われた」というものです。

オッペンハイマー氏は、自身が研究を指揮した結果として原爆の被害に遭った日本から、自身が果たせなかった課題を解いたことに深く感動し、以後この科学者の業績を世に知らしめる活動をおこないます。

その科学者の名前は、「朝永振一郎」氏。

同じくマンハッタン計画に参加したリチャード・ファインマンたちと共同で、今では「繰り込み理論」と呼ばれる業績を生み、1965年にノーベル賞を受賞します。

戦後は研究者の支援と平和活動に尽力したオッペンハイマー、ある意味彼も時代に翻弄された悲劇の科学者という見方もできます。

こういった歴史を踏まえて、二度と被爆国を生まないよう未来につなげていきたいと願います。

<主な参考リソース>


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