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アインシュタインと戦争2

前回の続きです。

前回を振り返ると、第一次世界大戦直後に、敵国だった英国の科学者が一般相対性理論を検証した結果、一気にアインシュタインの名声が世界中に知れ渡りました。

一方敗戦国ドイツでは、ヴェルサイユ条約で多大な賠償責任に追われ経済がひっ迫し、国内では右傾化が進んできました。

ここで、アインシュタインと数奇な運命を共にする科学者を紹介します。

レオ・ジラード」といい、1920年代に、当時学生の立場でアインシュタインにセミナーを開いてもらい、熱心に彼のもとで学んでいました。

余談ですが、ジラードは基礎科学だけでなく応用にも熱心で、アインシュタインと一緒に有毒ガスを発生しない冷蔵庫を考案して特許も取得しています。(当時はガス式が主流)

1920年代終わりに襲った世界恐慌でさらに経済状態は悪化し、ドイツでは現行政権への不満がさらに高まります。
その流れを受けて、現政権への批判とその原因をユダヤ人に責任転嫁した「ナチス党」が台頭してきます。

そして後にその党首となったのが「アドルフ・ヒトラー」です。

1933年にヒトラーが政権を握ると、ユダヤ系のシラードは危機を感じてドイツを脱出し、数か国を転々とした後に、米国に移住して核物理学の研究に関心を寄せます。
一説には、非ドイツ人(=ユダヤ人)の国境検閲が始まる1日前という奇跡的なタイミングで脱出に成功したとも言われます。
他にもシラードは波乱万丈の人生を送っていますが、今回は関係するシーンだけに絞っておきます。

そのシラードが、後に歴史を揺るがす重要な役割を担いますが、いったん話をアインシュタインに戻します。

第一次大戦を治めたヴェルサイユ条約では、二度と同じような大戦が起こらないよう国際連盟も結成されました。
その国際連盟からアインシュタインに対して、自由にテーマと相手を決められる対談依頼が届きました。1932年のことです。
彼は「戦争」をテーマとし、対談相手に精神分析医フロイトを選びました。 その往復書簡を和訳した書籍も出版されています。

いかにアインシュタインが人類が起こす戦争に対して思い悩んでいたのかが伺えます。
ちなみに、フロイトはやや悲観的で、人間には破壊欲動が無意識に潜んでおり、戦争をなくすのは難しいかもしれないと嘆いています。

実はこの依頼をうけた時期は、アインシュタイン自身が大きな人生の決断をした年でもあります。

それは、ドイツから脱出することでした。

当時台頭していたナチスにとって、有名人でありユダヤ人でもあるアインシュタインは、まさにうってつけの攻撃対象でした。
しかも政治家だけでなく、レーナルトという反ユダヤ主義の科学者がナチスに肩入れし、彼の相対性理論をはじめとした功績すらも否定します。

レーナルトが相対性理論を否定する論理は、「抽象的であり実証が困難」といいたいようですが、巻末の参考文献を読んでも科学的な態度とは到底思えません。(ただ、レーナルトは陰極線の発見者としてノーベル賞も受賞した科学者です)


ついに1933年には、彼が米国で滞在中に、自宅がナチスによって強制捜査される事件が起き、国家反逆者としてアインシュタインに賞金首までかけられました。
アインシュタインは身の危険を感じて、結局それ以降ドイツに戻ることはありませんでした。

そして1939年に、同じく米国に移住していた核物理学者シラードから、アインシュタインはある相談を持ち掛けられます。

それは、核分裂の実現性とそれがもたらす爆弾(いわゆる原子爆弾)をナチスが製造する可能性があるので、彼が親交のあるベルギー妃に危険を喚起してほしい、というものでした。
補足すると、原子爆弾に必要な元素ウランは、ベルギー領コンゴに豊富にあり、ベルギーはナチスの領土拡張候補としてみられていました。

アインシュタインはいったん快諾しましたが、シラードはその後にもう一歩踏み込んだ案を再提示して改めて彼から賛同を得ました。

それが、歴史を大きく進めることになる、1939年8月2日付の
アインシュタインからルーズベルト大統領への書簡」です。

要は、ナチスが原爆製造するまでに米国が製造しましょう、という働きかけです。

ここで1つよく誤解されがちな点を補足しておきます。

アインシュタインが特殊相対性理論から導いた有名な公式「E=mc2
これは、「エネルギーと質量は等価」であることを示しています。

これをして「アインシュタインが原子爆弾を考案した」というわけでは全くありません。
別の科学者が核分裂によって質量が欠損してエネルギーが生じたことを発見し、それが上記の式と一致しただけです。(仮説を証明したといういい方でも構いません)

ついに1939年9月1日に、ナチスがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発しました。
その翌月に、やっと書簡の内容を知ったルーズベルト大統領は、まずは原子爆弾の基礎研究に対してGOサインを出します。

そしてその研究が発展していき、あの原子爆弾製造計画、通称「マンハッタン計画」につながっていくわけです。
言い方によっては、米国とドイツの科学者による史上初の科学戦争かもしれません。
アインシュタインは当初基礎研究の段階で招聘されましたが固辞し、以降も実際の計画にはかかわっていません。

実は、アインシュタインはシラードと共同で、もう1つルーズベルト大統領に書簡を1945年に送っています。それは日本への原爆投下と今後の核開発競争への懸念です。
ところが、歴史の悲劇でルーズベルト大統領は急死してしまい、それが読まれることは叶いませんでした。

そして後を継いだトルーマン大統領の下で、ついに1945年に2つの原子爆弾が広島・長崎に投下され、数十万人規模の命が失われることになります。

アインシュタインは原爆が投下されたことを相当嘆き悲しみ、米国に滞在していた日本のノーベル賞物理学者湯川秀樹に対して深く謝罪の意を伝えたともいわれています。

以降のアインシュタインは国際平和のために核兵器廃絶に力を注ぎました。

原爆投下翌年の1946年に「原子力科学者による非常委員会」を立ち上げて、自身がその議長に就任します。
そこでは核兵器の危険や原子力の安全利用と、なによりも国際平和を呼びかけました。
マンハッタン計画に関わった68名もそれに対して署名を行いました。
さらには、アインシュタインは当時発足したばかりの国際連合に対して、世界政府の樹立を働きかけたともいわれています。

同じく世界政府の考えに共鳴し、以前からアインシュタインの科学的な業績とその平和主義に共鳴した「バートランド・ラッセル」という英国の哲学者がいました。

ラッセルも、アインシュタイン同様に当初は米国による抑止力としての原爆製造に肩入れしていましたが、戦後にソ連の核兵器開発と米国の水素爆弾計画を知ると、核廃絶運動に身を注ぎました。

そして1955年にラッセルは、アインシュタインと共同で「ラッセル=アインシュタイン宣言」を出して、核廃絶を訴えました。

アインシュタインは、この宣言に署名をした1955年4月11日の2日後に倒れ、1週間後に息を引き取ります。
そしてその3か月後にこの宣言が公開されました。アインシュタインの人類への遺言といえるかもしれません。

最後に、上記の宣言から最後のパートを抜粋して締めたいと思います。

大部分の人間は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちは次のことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が何らかの方法で解決され、誰もが――共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろうと黒人であろうと――、出来うる限りの満足を得られなくてはならないとすれば、これらの問題は戦争によって解決されてはならない。私たちは東側においても西側においても、このことが理解されることを望んでいる。

私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

出所:「ラッセル・アインシュタイン宣言」

アインシュタインは、晩年は量子力学を認めることができずに、自身が打ち立てた相対性理論と電磁気学の融合を目指した大統一場理論に孤高に挑んでいました。
そしてもう一つ忘れてはならないのは、どんなに時代の波に翻弄されても、最後まで自身の信条を曲げずに国際社会の平和を希求していました。

今のような分断化が進む国際情勢を鑑みて、「アインシュタインと戦争」の歴史はとても考えさせられます。

このような偉大な人が過去に存在していたことに、心からの感動と尊敬の念を覚えます。

※タイトル画像
Photograph by Orren Jack Turner, Princeton, N.J.Modified with Photoshop by PM_Poon and later by Dantadd.
パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=925243

<主な参考文献>

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