#三島由紀夫
芥川龍之介 「今貧困の極みに達しています」
中央公論へは新渡戸さんを書いたので社会的反応が僕にとって不快なものでないことを祈っています
作としてはグレードで駄目
二十八秀句はそのうちにお払いします
新小説六十銭につき今貧困の極みに達しています
[大正五年九月二十五日 秦豊吉宛]
それはそうとして三島由紀夫も絶賛している『手巾』が「作としてはグレードで駄目」とは。
芥川龍之介は驚嘆すべき読書家だ 蘇州で馬にだって乗る
※志賀直哉は晩年メガネをかけている。
この話を読むたびにいつも三島由紀夫のことを考える。そしてここに夏目漱石の名がないことも考える。それでいつもどちらにも進めず、何も書けないでいた。
三島由紀夫が坂口安吾ふうの丸メガネをかけていたのは二十歳くらいの時だっただろうか。私はその一枚きりしか三島由紀夫の眼鏡の写真を見ていない。トーマス・ピンチョンの海軍時代の隙っ歯の笑顔の写真も一枚きりしか見てい
芥川龍之介の『開化の良人』をどう読むか① コキュ旦那と神風連
何故『南瓜』の題名は『開化の殺人』ではなく『南瓜』なのか。それは『南瓜』がおそらく維新以降の出来事、殺人事件を描いていながら、書かれていること、つまり殺人に至る経緯や殺し方そのものは旧弊なのか新時代なのか解らない話だからである。ハムレットと脇差の衝突が『南瓜』の魅力なのだろう。その緞帳芝居のような一幕劇は「開化もの」とは呼ばれることがなかった。
しかしおそらく「開化もの」のキーになるのは『南瓜
サバイバーズ・ギルトのない風景
芥川龍之介が直接的に戦争について書いた作品は『首が落ちた話』と『将軍』のみであると言って良いであろうか。「東西の事」を書いた『手巾』が戦争に関して書いたのではないとしたら、そういう理屈になるのではなかろうか。
しかしこんな残酷な風景はむしろ付け足しである。芥川にとって戦争とは単なるプロットに過ぎない。芥川は『将軍』でも『首が落ちた話』でも戦争を材料にはするが、戦争そのものを云々する意図は見