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芥川龍之介の『玄鶴山房』をどう読むか③ 昼間寝ているのか
時代や歴史や人生などというものは年寄りの特権的なもので、若い時はいつも目の前の現実しかなかった。振り返る時間もなかった。今もそうしてできるだけ目の前を見て生きようとしているが、つい時代や歴史や人生を突き付けられてしまう瞬間がある。
芥川の『玄鶴山房』もそうした作品だ。前回は「文化竈」に引っかかったがよく読むとその前に「文化村」が出て来ていた。
今、「文化」のつく言葉というと「文化包丁」と
芥川龍之介の『玄鶴山房』をどう読むか② 気持ちはわかる
病人の息の臭いのが嫌い。
まさに家族のリアルである。
道路に聞こえる大声で老婆を叱る嫁らしき女が「またそんなところに糞しやがって」と叫ぶのを聞いたことがある。
実際道路で驚いた。
しかし現実の生活というものはそういうものだろう。
芥川がこの時期なぜこのような設定を用意したのかは解らない。しかしこれが自分自身とは全く無関係な作品ではないとしたら、やはりこの病人に対するリアルな感情
夏目漱石論のために② 「差」というものはある
実子ではないかもしれない疑惑
近代文学1.0の世界においては夏目漱石作品に関して「実子ではないかもしれない疑惑」というものが議論されてきた作品は『坊っちゃん』のみである。しかし『僕の昔』において実在した「清」のモデルが漱石自身によって「老婢」と呼ばれており、『吾輩は猫である』『門』の「清」などについて考えてみてもやはり「清実母説」そのものははなはだ怪しい。これはあくまで成り立たないけれど怪しい
芥川龍之介の『玄鶴山房』をどう読むか① 保吉ではないんだ
たまたまなのか何なのか芥川龍之介の『玄鶴山房』に関して私はこれまでまともな記事を一つも書いてこなかった。
うっかり?
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
いずれにせよ、書いておこう。
中央公論昭和二年一、二月号に発表される『玄鶴山房』は前年の十二月頭には書き始められていて本人の自覚としては「陰鬱極まる力作」ということらしい。この時期複数の作品が並行して書かれていた可能
佐藤春夫の『病める薔薇』の落書きをどう読むか① 虎じゃなくて猿じゃないか
三島由紀夫の『花ざかりの森』が佐藤春夫の『指紋』由来ではないかと調べていたら、やたらと書き込みのある『病める薔薇』に出会った。見出し画像がそれである。
この本の持ち主は何か書いている人らしい。
そうでなければここに線は引かない。
こうして試し書きがされる。割と達筆な、しかし読みやすい文字を書きなれている人の字だ。
「このあたり阿部次郎の『三太郎の日記』乎『理想の家』を思い出させる」
その日は徹夜した 芥川龍之介の『かちかち山』をどう読むか①
案外なのか何なのか、芥川龍之介は戦争というものを当初そんなに意識していなかった。
そんなこともないか。
つまり自身が海軍将校になるかもしれないと考えたこともあり、海軍機関学校に英語教師として勤務したこともあり、太宰的な感じで森鴎外の軍服姿を嫌悪したり、戦争は悪だ、みたいな発言をしたりという、厭戦的なものは見えなかった。
なんというか、戦争とは直接かかわりはしないけれど、どこかにあり、社
とてもさみしがりや 芥川龍之介の『窓』をどう読むか①
――沢木梢氏(さはきこずゑし)に――、と献じられている。
沢木梢氏とはこんな人である。慶應義塾大学の教授になりたかった芥川を応援してくれたそうだ。結局なれなかったが、その感謝の気持ちが捧げられてゐるのであろう。
それにしてもこの『窓』という作品は奇妙なもので、言ってみればリアリズム小説としては成立しない、おとぎ話のような、それでいてどこか作者自身とも重ねられるような妙な味わいのとても短
平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む64兼 芥川龍之介の『西郷隆盛』をどう読むか④
芥川龍之介は平野啓一郎に何が言いたいのであろうか。
金閣寺は天皇である?
書かれている範囲では決してそうは言えないのだと芥川龍之介は平野啓一郎に言いたいのではなかろうか。勿論芥川は平野を名指ししていない。しかしここで言われているロジックは恣意的なものではない。一つの仮説を前提にしてしまうような、そうしたすべての言説は芥川の批判から逃れられない。
少なくともそこを胡麻化して四千円近い本
鏡花の弟子? 牧野信一の『嘆きの孔雀』をどう読むか⑥
これは「私」が美智子と艶子さんの二人に向かって「そういう話」をしているのか、本当に四人がそういう世界に入り込んでいるのか、もうどちらとも判断できない状況になってきた。
最初は明らかに「私」が美智子と艶子さんの二人に向かって「そういう話」をしていたはずだった。ところが美智子がお姫様に話しかけたところ、いや孔雀が現れた時点で我々は既にこの物語の中に引き込まれていたのである。そもそも空間移動ができ
カメラ残しの術 芥川龍之介の『西郷隆盛』をどう読むか③
芥川が「シナリオもの」においてかなり先進的なカメラワークを遊んでいることは既に述べた。『誘惑』しかり、
それから『浅草公園』しかり、
そして「シナリオもの」とは言えないが、やはり映画を意識した『影』のカメラワークはすごい。
しかもそれは飽くまで言われてみればの話で、芥川の文章は圧搾の美で上手いとは言われるけれどカメラワークという点ではあまり言われてこなかったのではなかろうか。そして寧
顔は変わっていなかった 芥川龍之介の『西郷隆盛』どう読むか②
芥川龍之介の『西郷隆盛』に関してはこれまでに軽く触れ、西郷隆盛が今も生きていてこの汽車に乗っている、という皮肉だけを指摘して来た。
ところで本当に西郷隆盛はなかなか死ななかった。
こうして西郷隆盛生存説は繰り返され、
なかなか死んだことにならなかった。
実際その生死は真面目に論じられてきたようだ。
これはもう源義経伝説のようなもので、判官びいきの国民性の中で創られた英雄像の共
平凡な男だ 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑭
昨日は何故か芥川がおちんちんにこだわっているという話を書いた。何故なのかはわからない。しかしナポレオンの立小便にしても男の人形にしてもおちんちんなしでは成り立たないことなのだ。
もう何かが何かに変化することには驚かない。むしろ猿が無視されづけていることが気になる。船長も「さん・せばすちあん」も猿がいないか、あるいは見えないかのごとくふるまう。どうも『誘惑――或シナリオ――』は無視される猿の話
足の裏には意味がある 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑬
なんやかやといいながら神が人類の中で唯一私にだけ正しく読む能力を与えてしまったことに今は感謝している。
おそらくまだ「幹」に気がついた地球人は私一人だけだ。「印象派」には気がついた人がいるかもしれないが、「男の人形」のことはまだ誰も知らないのに違いない。このnoteも完全非公開なので、誰も読むことはできまい。
ではおちんちんはどうなんだろうね?
体が赤児ならおちんちんもちいさくなるの
推定とは恐れ入る 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑫
昨日はこの『誘惑――或シナリオ――』という作品が無声映画のようで、金釦という不可能なものを描いたことによってむしろ、そういえばここまで赤や青といった明確な色彩のない白黒映画のようであったと気づかされ、そのことでこれまで思い描いていた画から急に色彩は消え去り、かくかくしたコマ落ちの画像となり、役者のメイクは濃く、芝居が大きくなると書いた。
そしてこれが小説だと書いた。
後で画が変わる。