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平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む64兼 芥川龍之介の『西郷隆盛』をどう読むか④
芥川龍之介は平野啓一郎に何が言いたいのであろうか。
「狄青が五十里を追うて、大理に入いった時、敵の屍体を見ると、中に金竜の衣を着ているものがある。衆は皆これを智高だと云ったが、狄青は独り聞かなかった。『安んぞその詐りにあらざるを知らんや。むしろ智高を失うとも、敢て朝廷を誣いて功を貪らじ』これは道徳的に立派なばかりではない。真理に対する態度としても、望ましい語でしょう。ところが遺憾ながら、西南戦争当時、官軍を指揮した諸将軍は、これほど周密な思慮を欠いていた。そこで歴史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換えてしまったのです。」
金閣寺は天皇である?
書かれている範囲では決してそうは言えないのだと芥川龍之介は平野啓一郎に言いたいのではなかろうか。勿論芥川は平野を名指ししていない。しかしここで言われているロジックは恣意的なものではない。一つの仮説を前提にしてしまうような、そうしたすべての言説は芥川の批判から逃れられない。
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少なくともそこを胡麻化して四千円近い本を売りさばこうという姑息さには呆れかえるしかない。功を貪る、まさにそうした現実が目の前にある。
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実際平野啓一郎の『三島由紀夫論』は「『かも知れぬ』を『である』に置き換えてし」まう言説に満ち満ちている。
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例えば創作活動の四期の区分から「詩」が抜けているのに、「考えることも出来るかもしれない」ではなく「考えることが出来る」と書いてしまう。
例えば「三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?」という疑問を「三島に関心がある者、ない者を問わず、誰もが発する疑問」と書いてしまう。やはり関心がなければ問わないだろう。
このような見え透いた強弁は誰のためにもならない。
そう芥川が書いているのだ。
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しかし案外芥川は真面目に城山死亡説のいかがわしさを指摘しているように見えなくもない。
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