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朕は猫である 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む④

 天才は時に恐るべき阿呆に見えることがある。夏目漱石の『倫敦塔』はやはり頭のおかしい人が書いたように思えるし、芥川龍之介の『保吉の手帖から』にもどこかぬけたようなところがある。
 そういう遊びが行われているのだろうかと考えてみる。『仮面の告白』は『日蝕』同様錬金術であったと書いてみれば、三島が赤裸々な告白、平野が文体というギミックを駆使してのし上がったことがクロスして、何か面白いことを云ったような顔ができるものを、その見え見えなところをスルーした。これは私の中にない種類の笑いなのだろうか。

 昨日は「三島由紀夫が敢えて伏せたこと、そこに秘められる欺瞞」について指摘しながら、その全部を示すことをしなかった。
 ヒントは出した。

とすれば、乃木坂46に於ける〈齋藤飛鳥〉とは、メタフォリックに語られた〈白石麻衣〉として理解すべきであろうか?

 この言い分がおかしいのは〈白石麻衣〉が絶対的エースとされていて、絶対とは比較の対象がないことだからだ。しかし「金閣寺」と「天皇」の比較には相対的なものと絶対的なものの比較ばかりがあるわけではない。

とすれば、ラーメン屋に於ける〈豚骨醤油ラーメン〉とは、メタフォリックに語られた〈カレーライス〉として理解すべきであろうか?

 この言い分がおかしいのはラーメンの一種類とカレーライスという国民食の総体が比較されているからだけではない。

〈金閣〉を天皇のメタフォアと見做す解釈の可能性を改めて検討したい

 この言い分がおかしいのは

〈ニコライ堂〉を天皇のメタフォアと見做す解釈の可能性を改めて検討したい

 と置き換えた時に明らかになるだろうか。

 神仏分離、廃仏毀釈の明治以降、天皇を寺で例えることはジョークでしかない。

 伊勢神宮の立場がない。

 なんで天皇が寺やねん。

 さらに言えばマリア観音は許されたとして、イスラムの神の名を冠した観音像など決して許されるものではあるまい。たとえどんな寺であれ天皇寺になることは許されないのだ。

 三島由紀夫の欺瞞は『金閣寺』を、金閣寺がコピーされた時点で書き始めたことにある。確かに三島由紀夫はコピーと本物の区別はないという日本独特の考え方に納得していた。しかし『金閣寺』の作中では「美の総量」について嘘をついているのだ。

 殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破滅であり、人間が作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。

(三島由紀夫『金閣寺』)

 美の総量の目方は減らなかった。むしろ増えたと言ってよい。女房と畳は新しいほど良い、と言われる。焼かれた金閣寺はあっさり再建され、そのまがまがしい程の美しさを確認した後で、さてと、と三島は筆を起こしたのだ。

 最終的に金閣寺を焼いたことでは世界は変容しなかった。そのことをしっかり確認してから三島由紀夫は『金閣寺』を書いた。それはつまり今上天皇が崩御すればたちまち新しい今上天皇が即位するという天皇制と同じものなのかもしれない。しかし少なくとも〈金閣寺〉が絶対のものではないことは、三島由紀夫が確認済みだったのである。

一つは、〈金閣〉こそが天皇のメタファである以上、〈金閣〉と〈絶対者〉としての天皇とが作中に併存するできない、という考え方である。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 作家はいつもこれ以上にない愉快な言い回しというものを思いつくことがある。これもそうしたものの一つであろう。

 先に〈ニコライ堂〉を天皇のメタフォアと見做す解釈の可能性を改めて検討したい、と述べたのではないから、それがいかに困難なことであろうと「〈金閣〉が天皇のメタファである」という前提から話を進めなくてはならない。ここには「〈金閣〉が天皇のメタファではない」という素朴な事実には決して気がついてはいけない、「ねばならない」の諦念があるだけだ。

一つは、〈金閣〉こそが白石麻衣のメタファである以上、〈金閣〉と〈絶対者〉としての白石麻衣とが作中に併存するできない、という考え方である。

 この理屈で言えば〈金閣〉はイスラムの神のメタファにもされかねない。しかしまだ笑ってはいけない。

・人に理解されないという点において作者と主人公に差がある
・創作活動を排除している
・三島の思想には連続性がある

 平野はこうも言う。まだ笑ってはいけない。

戦中の天皇神格化を通じて得られた〈現人神〉というイメージは、作中の〈金閣〉の存在論的な構造に反映されている。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 十代の三島由紀夫は級友らと天皇を「天ちゃん」と呼び合っていた。戦中の天皇神格化神話というのは、学習院においても神話に過ぎなかったのである。彼らは南朝を正統とする教科書で学び、戦争が「済む」のを待っていた。「一億玉砕」のスローガンは「勝つための貯金」同様空疎な言葉であった。三島由紀夫は東大を卒業すると大蔵省に入り、銀行局国民貯蓄課に配属された。戦後の日本は銀行が企業に融資する資金を獲得するために貯金を奨励したと昨日池上さんが言っていた。「勝つための貯金」はたやすく「工業化のための貯金」に置き換えられた。

 平野はあくまでも潜伏していた主題としての天皇にこだわる。

 三島が天皇に対する心情とその思想とを整理していったのは、おそらくこの作品の執筆を通じてであったが、或いは逆かもしれない。この作品を通じて深めた〈絶対者〉という概念が、彼の後の天皇観に大きな影響を与えた、とも言えよう。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 偏執的であることは病気ではない。

 三島が白石麻衣に対する心情とその思想とを整理していったのは、おそらくこの作品の執筆を通じてであったが、或いは逆かもしれない。この作品を通じて深めた〈絶対的エース〉という概念が、彼の後の白石麻衣観に大きな影響を与えた、とも言えよう。

 繰り返し天皇を白石麻衣に置き換えるほど私は白石麻衣にはこだわりは持っていない。しかし絶対者としての例えが二つしか思い当たらず、もう一方を例示することが本当に危険だから仕方ないのだ。

猫(=(金閣)/天皇)は、人を惑わす危険の象徴である。その無害化が、行動によって図られるべきか、認識の変化において図られるべきであるかが、この公案の主題である。——ひとまずはそう言える。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 それでは例えばこう言いなおしてみてはどうだろう。

 猫(=(金閣)/スカート、ショートパンツなどのボトムスとニーソックスを着用した際にできるボトムスとソックスの間の太腿の素肌が露出した部分)は、人を惑わす危険の象徴である。その無害化が、行動によって図られるべきか、認識の変化において図られるべきであるかが、この公案の主題である。——ひとまずはそう言える。

 南泉斬猫の公案の主題が天皇の無害化の手段である……。で、ひとまず天皇を斬ってから、何を考えろと?

 天皇は斬ってもいいのか?

[余談] 

 

 セブンイレブンのカレーパンはそんなにうまくはない。相対的である。コピーできるものは相対的である。

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