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とてもさみしがりや 芥川龍之介の『窓』をどう読むか①

――沢木梢氏(さはきこずゑし)に――、と献じられている。


 

 沢木梢氏とはこんな人である。慶應義塾大学の教授になりたかった芥川を応援してくれたそうだ。結局なれなかったが、その感謝の気持ちが捧げられてゐるのであろう。
 それにしてもこの『窓』という作品は奇妙なもので、言ってみればリアリズム小説としては成立しない、おとぎ話のような、それでいてどこか作者自身とも重ねられるような妙な味わいのとても短い話なのだ。

 おれの家の二階の窓は、丁度ちやうど向うの家の二階の窓と向ひ合ふやうになつてゐる。
 向うの家の二階の窓には、百合や薔薇の鉢植が行儀よく幾つも並んでゐる。が、その後には黄いろい窓掛が大抵重さうに下つてゐるから、部屋の中の主人の姿は、未だ一度も見た事がない。
 おれの家の二階の窓際には、古ぼけた肱掛椅子が置いてある。おれは毎日その肱掛椅子へ腰を下して、ぼんやり往来の人音を聞いてゐる。
 いつ何時おれの所へも、客が来ないものでもない。おれの家の玄関には、ちやんと電鈴がとりつけてある。今にもあの電鈴の愉快な音が、勢よく家中に鳴り渡つたら、おれはこの肱掛椅子から立上つて、早速遠来の珍客を迎へる為に、両腕を大きくひろげた儘、戸口の方へ歩いて行ゆかう。
 おれは時々こんな空想を浮べながら、ぼんやり往来の人音を聞いてゐる。が、いつまでたつても、おれの所へは訪問に来る客がない。おれの部屋の中には鏡にうつるおれ自身ばかりが、いつもおれの相手を勤めてゐる。
 それが長い長い間の事であつた。

(芥川龍之介『窓』)

 芥川作品の中ではほぼ唯一と言っていいと思うが、如何にもカフカ的設定である。

 お分かりだろうか。

 「ぼんやり往来の人音を聞いてゐる」のであり、眺めてはいないのである。いきなり人を嚇かすような書き方だ。

 しかし「おれの家の玄関には、ちやんと電鈴がとりつけてある」と書きながら、「向うの家の二階の窓には、百合や薔薇の鉢植が行儀よく幾つも並んでゐる」とあるので別に目が見えないわけではないのだ。ちゃんと鏡もある。

 いや、往来の音を聞いているくらいで何がカフカ的かと思うだろうか。

 訪問者の少ない、孤独な人、そんな人はどの時代も世に溢れてゐる。人恋しくて、誰かの訪問を待ち続ける人が珍しいわけではない。ただ「おれの家」の呼び鈴が鳴ると自分で玄関に行くのだから、一階も二階も自分の家だという理屈になり、家には「おれ一人」なのかと不思議になる。

 表現においては「両腕を大きくひろげた儘、戸口の方へ歩いて行ゆかう」といったところが、カフカ的とは言えないまでも少しバタ臭さがでている。狭い階段や廊下を連想させない。それでハグでもするのかと思わせるところだ。

 それにしても「それが長い長い間の事であつた」とは気の毒だなと思ってみる。そして妙な感じがする。

 その内に或夕方、ふとおれが向うの二階の窓を見ると、黄いろい窓掛を後にして、私窩子のやうな女が立つてゐる。どうも見た所では混血児か何からしい。頬紅をさして、目ぶちを黒くぬつて、絹のキモノをひつかけて、細い金の耳環をぶら下げてゐる。それがおれの顔を見ると、媚の多い眼を挙げて、慇懃におれへ会釈をした。
 おれは何年にも人に会つた事がない。おれの部屋の中には、鏡にうつるおれ自身ばかりが、いつもおれの相手を勤めてゐる。だからこの私窩子のやうな女が会釈をした時、おれは相手を卑しむより先に、こちらも眼で笑ひながら、黙礼を返さずにはゐられなかつた。

(芥川龍之介『窓』)

 私窩子のやうな女、混血児か何からしいと言われる女は、細い金の耳環をぶら下げてゐる所為で何か褐色の肌のジン・ジャンのような女なのではないかと思えてくる。耳輪というのがどうも南国のイメージだ。西洋人の会釈はぎこちないものだ。慇懃な会釈も東洋的なイメージだ。しかも「おれは相手を卑しむより先に」という微妙な表現に東洋的混血児に対するうっすらとした差別意識を匂わせているように感じてしまう。

 ただそれよりも何よりも「おれは何年にも人に会つた事がない」という設定に驚かされる。

 彼はただ訪問客が少ない孤独な人ではなく、どこにもでかけられない特殊な事情のある人なのかと。しかし数秒の間にこれをリアリズムの話として受け止めることには、諦めがつくだろう。
 UberEatsの置き配がないこの時代、大正八年には、何年も人に会わずに生活できるはずもない。これは殆ど寓話なのだ。人さみしいのに自ら誰かに会いに行くわけではなく、ただ誰かが訪ねてくるのを待ちづけているだけの人。

 そう確認してみてようやく「いつ何時おれの所へも、客が来ないものでもない。おれの家の玄関には、ちやんと電鈴がとりつけてある」という期待そのものがあやふやなもので、彼にはそもそも知り合いさえ殆どいないのではないかと思えてくる。電鈴などそもそも不要だったのではないかとも。

 この無理な感じがカフカ的である。

 それから毎日夕方になると、必ず混血児の女は向うの窓の前へ立つて、下品な嬌態をつくりながら、慇懃におれへ会釈をする。時によると鉢植の薔薇百合の花を折つて、往来越しにこちらの窓へ投げてよこす事もある。
 するとおれもいつの間にか、古ぼけた肱掛椅子に腰を下して、往来の人音を聞く事が懶いやうになり始めた。いくらおれが待ち暮した所で、客は永久に来ないかも知れない。おれはあまり長い間、鏡にうつるおれ自身の相手を勤めてゐたやうな気がする。もう遠来の客ばかり待つてゐるのは止めにしよう。
 そこであの私窩子のやうな女が会釈をすると、おれの方でも必ず会釈をする。
 それが又長い長い間の事であつた。

(芥川龍之介『窓』)

 この訳も解らず誘うような女というのも時々カフカ作品に現れる。そして「時によると鉢植の薔薇百合の花を折つて、往来越しにこちらの窓へ投げてよこす」といったふるまいの不思議さや、「もう遠来の客ばかり待つてゐるのは止めにしよう。 そこで」と言った「おれ」の奇妙な考え方も、どこか不条理でカフカ的である。

 女は書き割りのようで一つの役割しか果たさない。生活のリアルを見せない。そんなものなどないかのように、芝居だけを続ける。

 物語の進行は矢張りリアルを遠ざけ「それが長い長い間の事であつた」「おれは何年にも人に会つた事がない」からの「それが又長い長い間の事であつた」と寓話的に単純化されている。

 所が或朝、おれの所へ来た手紙を見ると、折角おれを尋ねたが、いくら電鈴の鈕ボタンを押しても、誰一人返事をしなかつたから、おれに会ふ事もやむを得ず断念をしたと書いてある。おれは昨夜あの混血児の女が抛りこんだ、薔薇や百合の花を踏みながら、わざわざ玄関まで下りて行つて、電鈴の具合を調べて見た。すると知らない間まに電鈴の針金が錆たせゐか、誰かの悪戯か、二つに途中から切れてゐる。おれの心は重くなつた。おれがあの黄いろい窓掛の後に住んでゐる私窩子のやうな女を知らずにゐたら、おれの待ちに待つてゐた客の一人は、とうにこの電鈴の愉快な響を、おれの耳へ伝へたのに相違あるまい。
 おれは静に又二階へ行つて、窓際の肱掛椅子に腰を下した。
 夕方になると、又向うの家の二階の窓には、絹のキモノを着た女が現れて、下品な嬌態をつくりながら、慇懃におれへ会釈をする。が、おれはもうその会釈には答へない。その代り人気のない薄明りの往来を眺めながら、いつかはおれの戸口へ立つかも知れない遠来の客を待つてゐる。前のやうに寂しく。

(芥川龍之介『窓』)

 最後には往来を眺めている。

 事件は起こった。ささやかな出来事だ。状況は変化する。ささやかな変化だ。待ち続けるということは変わらない。少なくとも一人は彼を訪問し、手紙も書いてよこしたのに、彼は手紙にお詫びの返事を書きもせず、ただ待ち続けるだけなのだという結びに、やはり不条理なカフカを感じてしまう。訪問者からの苦情は「掟の門」の門番の言い分のように矛盾してはいまいか。彼は一言「おい」と呼べばよかったはずだが。

 そう気がついてみると私窩子のやうな女、混血児か何からしいと言われる女も一言も発していないことに気がつく。

 彼らのコミュニケーションには能動性だけではなく、何か根本的に禁じられている見えないルールが存在するかのようだ。

慈眼山随筆 室生犀星 著竹村書房 1935年

 芥川はかなり筆まめだった。そして送られてくる詩集を大抵読んでいた。無名詩人の詩を読むこと、それほど言葉をいつくしむ行為はなかろう。手紙を見ると相当なさみしがり屋であることが解る。

 そう思ってみれば『窓』には言葉がなかった。文字はあったが声がなかった。実は「電鈴」も何も、「おれ」は耳が聞こえない?

 やはりそんなリアリズムでもないように思える。

 声がない世界だと人はこれほどまでに孤独なのかと今更ながら呆れてしまう。それでも待ち続ける。南国の売春婦ではない誰かを。

 薔薇を踏んだ足は誰にも顧みられない血を流している。

[余談]

 『歯車』で歯車が現れたのは右目。


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