カメラ残しの術 芥川龍之介の『西郷隆盛』をどう読むか③
芥川が「シナリオもの」においてかなり先進的なカメラワークを遊んでいることは既に述べた。『誘惑』しかり、
それから『浅草公園』しかり、
そして「シナリオもの」とは言えないが、やはり映画を意識した『影』のカメラワークはすごい。
しかもそれは飽くまで言われてみればの話で、芥川の文章は圧搾の美で上手いとは言われるけれどカメラワークという点ではあまり言われてこなかったのではなかろうか。そして寧ろ自然と言葉に意識が操られて理解してしまい、その構図の斬新さに気がついていない人も多いのではなかろうか。そのカメラワークは大正六年の時点でかなり遊ばれていた。
実際カメラで撮影していればなんということはない画である。しかしこれはまだ映画なりフイルムなりというものが一般的ではない時代、ましてや動画撮影経験など皆無であろう若者が、さも動画撮影をしているかのように忍法カメラ残しをやってしまった瞬間である。
大正四年の『羅生門』に既に引きの画からの寄り、カメラのスイッチというものは見られたのだが、カメラ残しも大正六年の『西郷隆盛』で自然に滑り込ませていた。
大正七年の『地獄変』ではカメラを左右に振っている。
あるいは芥川はやろうと思えば全然できるのに、当時の読者には到底理解されまいと遠慮して、極端にアクロバティックなカメラワークは『誘惑』までは抑えていたのではあるまいかと思えてきた。
これは説明であり、描写にしていない。ここを「そこで本間さんは已むを得ず、一つ前に連結してある食堂車の中へ避難した。立った後の空地は制帽か置かれていた」と書くと忍法カメラ残しの気配にはなる。しかしここは敢えてやらない。
で忍法カメラ残しのその後がまたすごい。
コップにフォーカス。まだ本間さんと老紳士はアングルに入れない。少しカメラを引いて本間さんと老紳士をアングルに入れる。その一つ向こうのテーブルもアングルに……いやこれは、「さっき二人と入れちがいにはいって来た、着流しの肥った男と、芸者らしい女とが」と書かれていなかった過去のシーンが追加され、あとは音になっている。「らしい」と書かれているのでカメラでフォーカスされていない。絵にしてみればピンボケの着流しの肥った男と、芸者らしい女が背景には見えなくもないが、聞こえているのは音で、老紳士は悪戯の手ごたえを味わうように無言で本間さんの困惑の表情をじっと眺めていたことになる。「滑らかな上方弁の会話が、纏綿として進行する間に、かちゃかちゃ云うフォオクの音」にガンマイクが向けられてる。
凄いな。
トーキーが始まるのが昭和初期。これは大正六年の作。
それで音をこんな風に操るのか。
そしてこれが本間さん目線のカメラでの回想シーン。
まだ黙っている。
まだ黙らせている。
しかし「滑らかな上方弁の会話が、纏綿として進行する間に、かちゃかちゃ云うフォオクの音」は気にならないので、本間さんの回想シーンがはじまると同時に音はミュートされる格好だ。
なんたる構成。
なんたる演出。
もうあほくさいよって屁こいて寝たろ。
[附記]
「らしい」と「気にならない」でこんな芸当ができる人間が外にいるだろうか。いないなあ、たぶん。
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