芥川龍之介の『地獄変』をどう読むか⑤ カメラを左右に振っている
一方では、
……などと書きながら、芥川龍之介のどこが近代文学なのか論じないのは、「無責任」のような気がするので、『地獄変』のどこが近代文学なのかということを少しだけ考えてみます。
これは『羅生門』や『鼻』、その他ほとんどの作品に共通しているポイントなのですが、案外解っていない人がいるみたいなので、念押ししますが、実は「元ネタ自体はたいしたことはない」んです。ここ ↓ に『鼻』のことは書きました。
『地獄変』の元ネタも知られているものとしては「自分の家が焼けて喜んだ」という程度のもので、よくこんなネタから『地獄変』が出来上がったなと感心します。『鼻』で言えば元ネタの落ちを捨てて、構成を完全に組み直しているわけです。『地獄変』はまあ、なんというか、もう一つのモチーフは別の所から持って来たんじゃないかと思いますね。
つまり題材が新しいというのは当たっていて、『地獄変』の良秀がまさに芥川龍之介自身に見えるという人がいたら、これはもう近代文学でいいと思うんですよ。食える食えないの問題じゃないんだということですよ。家庭小説でも深刻小説でも何でもいいんですが、身内のゴシップを切り売りして原稿料を稼ぐ一派があったとしたら、そこに芸術の為なら何もかも犠牲にするという気構えが新しいじゃないですか。
それから書き方の話をしますと、
江藤淳は夏目漱石の『こころ』を褒めようとして何と褒めたらよいのか解らないので、結局文体が良いとした、なんて言う笑えない笑い話があります。この文体論というのはなかなかこう一筋縄ではいかないのですが、
解りやすい話をすると例えばカメラワークですね。
夏目漱石の『明暗』のこの場面ではテレビドラマ的にカット割りされていますよね。津田の顔、医者の様子、もう一度津田の姿。カメラは最低二台、三カットで構成されています。
芥川の『地獄変』では話者が顔面のカメラを左右に振っています。侍の全身、右手の動き、目線、で振り返り、薄暗い良秀、照明が当たった良秀、もう一度振り返って燃え上がる檳榔毛の車。『羅生門』は遠景に一人の男を捉え、面皰にクローズアップ、裸の老婆を後ろから眺め、梯子の下で待ち受けるなどの立体描写がありました。
これは「たまたま」とか「拡大解釈」なんて話ではないんですよ。
この記事で引用した『鼻』の描写も見事です。自分の立ち位置と目に見える景色との関係が説明ではなく、ちゃんと描写になっています。
芝居が好きで、後に映画にも手を出す谷崎潤一郎という作家が理屈をこねる前から、芥川龍之介はかなり映画的な立体描写をやっていたわけです。
逆に現在あるような映像作品を見ないで、どうして『羅生門』や『地獄変』のような描写が出来たのか不思議です。いや、まあ、お手本がもっと凄いですからできたんですかね。
この漱石のカメラは女体を縦に一周、しかも「張る勢いを後ろへ抜いて」で股間を嘗めて足先までじっくりと撮影していますね。そんなカメラワーク、スイッチなしで現在でもアニメ以外では無理でしょう。それでいて少しも下品ではない。なんと言いますか、邪魔なものがない。つるんとしていますね。そして部分に執着していない。これが新聞小説ですからね。
そしてこの夏目漱石に対して「夏目さんもまだまだだ」と言ってのける芥川龍之介のどこが近代文学かなんて、帝国ホテルの壁を蹴る人には一生解らんのですよ。
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