昨日は『影』に細かなサスペンス要素が仕込まれていて小さな『薮の中』のような食い違いの演出があり、なおかつ『浅草公園』に見られたようなカメラワークの萌芽があることを確認した。
元々『羅生門』あたりからズームインやスイッチングなどのカメラワークは駆使してきたわけだからこれは何も今更驚くことでもないが、あまり論われることのない作品にも芥川らしさがちゃんとあるという話だ。
こういう書き方がいかにも芥川らしい。『羅生門』で云えば、下人が楼に上るところ。
誰も褒めてくれなかったが、これがなかなか書けないところである。遠景からの寄り。面皰へのフォーカス。話者は下人の動作を説明しないで視覚化している。『影』の方はもう少し凝っていてその映像を陳自身に発見させている。普通はそうはならない。つまりそこには三島由紀夫にはない無意識というものがあるのだ。この我を忘れた感じ、少しく狂気じみた夫のふるまいの中には、妻を寝取られることへの激しい不安が見える。
しかし読者はこの時既に猫の伏線から、もしかしたら寝室にいるのは単なるすけこましではなく、目に見えない何者かである可能性もあるのではないかということを頭の隅に置いている。また一方では今西の態度が気になる。今西が唯上司を困らせようとしているだけではないことまでは解っている。ただどこまで直接的に状況に参与しているのかがまだ分からない。
普通に考えれば、つまり探偵の吉井の言を信じれば、夫婦の寝室には房子一人がいるだけである。なのに我を忘れて寝室のドアに聞き耳を立てねばならないような何事かがあったというわけである。、
ここは「我を忘れて寝室のドアに聞き耳を立てねばならないような何事か」を回想している場面である。要するに、
・停車場から自宅に向かう途中で陳は何者かの靴音を聞いた
・靴音は陳の自宅の裏門へ向かった
・陳の自宅の裏門が開く音が聞こえた
・陳が確かめてみると裏門には確かに鍵がかけられていた
・陳は悲しくなって泣いた
・Adoの顔がばれた
いや、それは関係ない。陳が泣いたところまでが回想だ。従って陳は何者かの姿を確認していないものの、何者かは裸足ではなく靴を履いていたところまでが確かである。
しかし「さまよえる猶太人」と異なり、こちらは靴下をはいていたかどうか、あるいは靴以外の何かを身に着けていたかどうかさえ分からない。烏帽子を被っていたとも被っていないとも断言できない。
つまりその靴を履いていることだけが確かな姿の見えない何者かが、陳の自宅に入って行ったか行かなかったのか、忍び込んだのか招き入れられたのか分からない、そして婆やと爺やが住み込みなのか通いなのか、母屋に寝ているのか離れがあるのか分からない状態なので、読者の方がよほどサスペンス状態なのである。
Adoの顔は判ったが、この何者かの顔は判らない。ただ何者かが房子の寝室にいて、用もないのにわざわざ硝子戸をすっかり明け放った窓際に立っているのである。
さて、そうなると、いかに私が迂闊な読者だったかと気が付く。これではいけない。『影』の季語に気が付いていなかった。麦藁帽子は夏の季語。
残暑とは初秋の季語である。立秋を過ぎた後の暑さのことなので、そんな時期に夜、明りをつけたまま窓を開けると、虫がたくさん入ってくるだろう。
晩夏、まあ大体九月の頭だろう。しかしよくよく考えてみれば、陳は麦藁帽子を身に着けているほか、どんなものを身にまとっているのかさえ定かではないのだ。一方には靴を履いていることだけが確かな男がいる。もう一方には麦藁帽子を被っていることだけが確かな陳がいる。そしておそらく陳の家には三毛猫はいるが番犬はいない。
まだ暑い時期なので上着は来ていないのだろうか。それにしてもこれは革靴ではなかなかできないこと。陳の履いていた靴が気になる。おそらく陳は肥ってもいないし、そう背も高くはないのだろう。いや「陳は麦酒を飲み干すと、徐ろに大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った」とあるので小さくはない。しかし吉井を背の高い背広の男として捉えているので、横に大きいのかもしれない。しかしそこは敢えて書かれない。
そして気になるのは「夾竹桃」だ。一応小説の暗黙のルールのようなものとして、何度も繰り返して登場する事物には何か意味があるという大前提のようなものがある。「夾竹桃」は五回出てくる。キョウチクトウの花言葉は、「油断大敵」「危険な愛」「注意」「用心」「たくましい精神」。強力な毒を持つ花だけに、不安の暗示となっている。
櫛かピンかがと芥川は適当なことを書いているが、櫛とピンでは随分音に違いがあろう。これはいわば陳の不安の誇張表現、針小棒大の具体例に他ならない。
この悪戯は「刹那に」「永久に」と繰り返される。陳の服装が説明されないのもある意味では悪戯であろう。「陳は咄嗟に床へ這うと、ノッブの下にある鍵穴から、食い入るような視線を室内へ送った」というところで鍵穴はそんなに下にあるんかい、と突っ込まなかった読者を揶揄っている。「戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た」と書かれているが陳ならばそれが房子のため息なのか、そうではないのか解るだろうと突っ込まない読者は、丸亀製麺の天婦羅がいつの間にか値上げされていることにも気が付かないだろう。かしわ天なんか小さくなって190円だ。イカ天もなんか微妙に細くなってない?
そうした些細なことを気に留めながら読んでいくために今日はここまで。鍵穴の位置が気にならなかった人は一回反省してもらいたい。
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