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三島由紀夫の天皇論・遅延理由書

 

 

 

工業化の先にあるもの

 

 最後の日、三島由紀夫は宮内庁にではなく、村田英雄の自宅に電話をかけ、十回目となる紅白歌合戦出場のお祝いを告げようとした。村田英雄が公演で地方へ出張中であることを知らされると、宿泊中の旅館を聞き出し、旅館にお祝いの伝言を残している。中古のコロナに楯の会の隊員と乗り込み、『唐獅子牡丹』を大合唱する。時間に几帳面な三島が、『豊饒の海』の最終稿を渡すはずの編集者をすっぽかす。散々剣道の腕前を貶されていた三島が大活躍して、古賀が見事な介錯を果たし、三島由紀夫の生首が出来上がった。

 その生首はまたわけのわからないものだった。とても疲れた男の顔ではあるが額には「七生報国」という謎の呪詛が張り付いている。これは三島由紀夫の死の一週間前の対談からは想像もつかない演出ではあるものの、三島の生首に張り付いてしまった以上、無視はできない呪詛である。

 今に見ていてください、と三島は言った。消え入るような声でくたびれちゃった、とも言った。十代に行っちゃうとパンドラの箱みたいにいろんなものがわーっと出て来ちゃう、と突然女言葉を使う。パンドーラーは女性である。

 飯沼勲が『奔馬』の終盤、次は女にでも生まれ変わろうかと言って、女なんてつまらないという前ふりがある。そして「とつくにぶり」の『暁の寺』で、是枝清顕の生まれ変わりかと疑われるのはジン・ジャンというタイの王女、月光姫である。『豊饒の海』が月の海なので、聡子が出家するのが月修寺で、西郷と共に錦江湾に入水したのが月照で、定家が月の歌人なので、月光姫が『暁の寺』の主人公で良いとして、どうしてもここで「なぜ女に生まれ変わったのか?」ということが気になる。すると三島自身が変成男子を意識していたこと、東文彦の『幼い詩人』の登場人物「悠紀子」から「悠紀夫」と自称していたこと、修善寺の新井旅館で「三島で富士の雪を見て」三島由紀夫というペンネームが誕生したことを思い出す。

 三島由紀夫にとって親友松枝清顕の生まれ変わりであり、南国の美しいお姫様であるところのジン・ジャンの肉体の魅力に翻弄される本多繁邦のねじれた性欲は、むしろジン・ジャンの肉体を得て、本多に覗かれ、興奮させることを望んでいたのではないだろうか。

  それは川端康成のねじれた変態作品『眠れる美女』を絶賛しているようなところからも感じられる。

 勿論物語というものは重複なく漏れなく網羅した事実の集合ではない。相互に排他的な項目による完全な全体集合でもあるわけがない。結論と根拠が適切に繋がるものでも、階層構造を持つものでもない。そもそもロジカルである必要はない。

 『暁の寺』を書き終わった後、三島由紀夫は相当な充実感を以てインタビューに応じる。現時点で持っているものを全部吐き出したという満足感のようなものもみえる。しかし『暁の寺』そのものはぼんやりした幕引きである。歴史に関わろうとする意志はどこかへ行ってしまっており、「死諫を当路に納れ、秕政を釐革せしむ事」「闇中に劔を揮い、当路の姦臣を仆す事」などという志は消え、裏側から梯子をかけて絶対者に到達する試みもない。プール開きに皇族が招かれるのに、興味はもうジン・ジャンの若い肉体、水着の内側にしかない。だらしいなものを阿頼耶識に薫習している…。

 三島由紀夫の天皇論について語ろうとした傍から、私はとんでもない迷路に迷い込む。

 三島由紀夫がただ死にたがっていたこと、に関しては従来澁澤龍彦ら生前三島由紀夫と交際のあった者達の証言が多くある他、2017年刊行された西法太郎氏の『死の貌』の取材に詳しい。2017年年刊行された菅孝行『三島由紀夫と天皇』、大澤真幸氏の『三島由紀夫ふたつの謎』は従来の三島研究を深化させるものではなかった。

 元号は令和に変わった。だから勝手に三島由紀夫研究が進む訳ではない。明仁天皇陛下は出家もなさらず退位し、上皇陛下とならせられた。これが院政とどう違うのか、日本の象徴であることやめるとはどういうことか、そうした議論もなく、まるで社長が相談役に退くように、明仁天皇はその地位をご子息に譲った。徳仁天皇は多くの国民からの大歓迎の中即位されたように見える。賛否のアンケートもなかったが、否定的な報道は皆無だった。

 昭和天皇崩御、バブルの崩壊、失われた二十年、リーマンショック、東日本大震災などさまざまな災いを経て、まだ日本という国は存在する。

 三島由紀夫が夢想したとおり、工業化の先にも天皇はあった。ハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしているのかどうかは定かではないが、とにもかくにも日本はまだなんとか続いている。

 三島はこうも言っている。「日本じゅうブタだね、ほんとうに。ブタ小屋だね、日本って国は」

 そう言う三島由紀夫は何かにいら立っている。 

そこで私は立っている間にまわりで騒いでいる話を聞いていると、都内に暴動が起こっているのではなく、革命の様なことが始まっているらしいのだ。
「革命ですか、左慾(サヨク)の人だちの?」
と、隣りの人に聞くと、
「革命じゃないよ、政府を倒して、もっとよい日本を作らなきゃダメだよ」
と言うのである。日本という言葉が私は嫌いで、一寸、癪にさわったので、
「いやだよ、ニホンなんて国は」
と言った。
「まあキミ、そう怒るなよ、まあ、仮りに、そう呼ぶだけだよ」
と言って、その人が私の肩をポンと叩いた。

(深沢七郎『風流夢譚』)

 三島由紀夫の言葉には深沢七郎よりも余裕がない。どうしても傍観者にはなりきれない男の屈折した感情が無様に吐き出されている。「テキーラ飲んで、シャンデリアの下でビフテキ食べて、なんで日本人は優秀で、国防だなんていうの」という深沢七郎の皮肉はどうも核心をついている。日本はブタだらけなかもしれないし、そうでないかもしれないが、その感情的な言葉を掘り下げる意味はなかろう。三島由紀夫はいら立っていた。

 反安倍政権のデモは各地で繰り返されるけれども、反天皇集会は探しても見つからない程度の小規模に留まる。学習院初等科に忍び込み、悠仁親王殿下に害を及ぼそうとした者がいた。個人的な思惑からとられた行動のようだ。大きな組織は動かない。今日明日にも天皇制が覆る気配はない。

 天皇の在り方に関する議論もない。再び国家元首となる動きもない。

 三島由紀夫のように「天皇制打倒という国民はあまり日本にはいないと思う。そうするとやつらについて行かなくなる。ところが共産党が天皇制打倒を言わなくなってから十何年たって、最近やっと言い出しかけている。これはもっとやつらから引き出さなければならない。やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと思っているんですがね」などと言う者もいない。

 三島由紀夫の天皇論というものがあるとして、それは誰にでも解りやすく整理されたものではない。三島由紀夫の天皇論を追いかける者は、誰でもが迷路に迷い込み、勝手な出口をこじ開ける。

 三島由紀夫の天皇論は論理を飛躍したものであり、イロジカルと言っていいかもしれない。

 だが三島由紀夫だけがイロジカルなのではない。天皇制そのものがイロジカルであるのに、三島由紀夫だけがロジカルであれば片付く問題ではない。

 例えば皇位継承の手続きにおかしなところがなかったとは言えない。 

然レドモ朕ハ爾等國民トノ間ノ紐帯ハ終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リ生ズルモノニ非ズ。天皇ヲ持ッテトシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ヨリ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ。
朕ノ政府ハ國民ノ試練と苦難トヲ緩和センガ爲、アラユル施策と經営トニ萬全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我國民ガ時難ニ蹶起シ當面ノ困苦克服ノ爲ニ、又産業及文運振興ノ爲ニ勇往センコトヲ希念ス。

新日本建設に関する勅書より

 日本の歴史教育のぐだぐだがもたらした結果ともいえるかもしれないが、昭和天皇がこのように神話や架空ナル観念に基づく天皇制を明確に否定しているにも関わらず、この度もまた天照大神はじめ、古代の神々にその権威を保証してもらおうと、さして由来のない手続きが厳かに営まれた。この儀式が例えば平田篤胤に象徴されるような国学あるいは新国学に保証されているものだとしても、少なくとも多くは明治以前にはなかった段取りであり、平田篤胤がいかに空想しようとも神武天皇が同じ儀式を経たとは認めがたい。しかし宮内庁は、まだ神話や架空ナル観念を振り回す。 

僕はむしろ天皇個人に対して反感を持っている。
しかし僕はね、戦後の天皇人間化というものを全て否定しているんですね。小泉信三が全部悪い。とっても悪い奴。大逆臣ですよね。
というのはね、今天皇制の危機があるとすればね、天皇個人に対する民衆の個人的人気ですよね。やっぱり御立派だったんだ。あのおかげで戦争がすんだという考え、それに乗っかってるでしょ。
そしてあのーやはり人格者でいらっしゃる。それは、僕は天皇制と何の関係もないと思っている。
絶対僕は吉本さんと逆の意味でね、共同幻想論を非常に面白く読んだんだけどもね、つまり穀物神だからね、天皇というのは。
そして個人的な人格と言うものは二次的な問題でね、すべてあの元のアマテラスオオミカミにそのたびに帰ってくる。
だから今上天皇はいつでも今上天皇なんだ。
つまり次の天皇のお子様がどうだという問題じゃなくて、大嘗会と同時に、あの、アマテラスオオミカミと直結しちゃうんですね。そういう非個人的性格というものをね、天皇から失わしたということはね、戦後の天皇制の作り方において最大の誤謬だったと僕は思ってるんです。
そういう作り方をしたからね、戦後の天皇制は駄目になっちゃったと僕は思ってるんです。
で、それはいわゆるあなたのおっしゃる政治的に利用された絶対君主制における天皇と意味が違うものなんです。僕のつまりイン・パーソナルな天皇のイメージを滅茶苦茶にしちゃったと思うんです。

(死の一週間前のインタビューより聞き書き)

  三島天皇論の中に「天皇は穀物神・天照大神と直結する。だから常に天孫であり、今上天皇なのだ」というロジックがある。これは保田與十郎のこのような主張にも影響を受けたものであろうか。 

われわれの先祖は永遠といふことを考へ、米作りといふくらしこそ永遠だと思つた。米作りといふことは、循環の理の根源なる水に身をゆだねるもので、大凡そ循環の理にもつともよくかなふものだから、必ず變動なく子々孫々に一貫するだらう、と考へた時の觀念が、天壤無窮、萬世一系の思想である。これが日本神話の根本であり、神武天皇肇國の精神の根柢である。

(保田與重郎『現代畸人傳』「われらが平和運動」)

  米本位制や、こんにゃくご飯、南樺太でまで何とかして米を作ろうとした日本人の米に対するこだわりには確かに尋常ではないものがあるが、三島由紀夫はスパゲッティやステーキが好きで案外米にはこだわっていない。

 こだわっていないが三島は『奔馬』におけるクーデターの理由にわざわざ米騒動を持ち出す。どうも明治政府に対しても批判的である。三島は皇軍が民衆に向けて大砲を放ったという大川周明の『日本二千六百年史』も読んでいただろう。

 三島は反政府主義者を自認していた。最後の対談者からはウルトラ・ナショナリストと呼ばれている。

 この混乱ぶりは、まだ収束を見ない。三島は反天皇主義者なのか天皇崇拝者なのかという議論はない。お互いそれが不毛な議論になると解っているからだ。

 この度の譲位・登極の儀も穀物神と繋がる新嘗祭を残すのみとなった。新嘗祭を経ない徳仁天皇はまだ今上天皇ではないと文句を言う者もいない。今の日本人の半分は朝食にパンを食べている。

 三島由紀夫の、穀物神と直結した天孫が工業化の先にもある、その時々の民衆が必死に作り出すのが天皇だ、という予言(「文武両道と死の哲学」)は今こそ現実化したとは言えまいか。徳仁天皇は民衆が必死に作り出した。

 日本政府は今、第四次産業革命を経て、現実空間とサイバー空間がスマートに融合したSociety5.0へと突き進んでいる。その中心である内閣府の諮問会議・未来投資会議では聖域はないとしてあらゆることが論じられながら、天皇制については一度も触れられていない。元号についてはわずかに一回「データの持ち方」として話題になったがそれっきり、令和になっても役所への届け出書類は相変わらず西暦ではなく元号を用いる形式になっている。サイバー空間、ドローン、3Dプリンター、VR、センサー技術を活用した皇室行事のコスト20パーセント削減などけしてふざけた話ではないと思うが誰も言い出さない。

 こうした点で、現在において徳仁天皇は神聖にして侵すべからざる存在として現在あると断じて良かろう。あり続けるのではなく、もしかしたらそうならなかったかもしれないが、現在ある。

 

南朝の天皇へ忠義

 

 三島由紀夫の忠義は幻の南朝に捧げられたものだ。そのいささかねじれた発想が何時生まれ、どのように育ったものかはわからないが、そのこだわりが三島を遠いところに連れて行ったのは間違いない。

 学習院初等科では、昭和天皇も三島由紀夫も南朝を正統とする歴史教科書に学んだ。だが南朝を正統と見做す、という意味も未だに曖昧なままである。

 即ち曖昧なものを残し、南朝を論じない三島天皇論というものにはほとんど意味がないとも言えるだろう。いや三島が「幻の」と言ってしまっていることから、南朝そのものを論じても意味がない。南朝ではなく幻の南朝を絡めた議論でなくては役に立たない。

 しかしこのねじれ具合は尋常ではない。

 三島は昭和天皇に関して、あんな年寄りのために腹は切れないと宣言している。大変失礼な、攻撃的な発言ではあるが、当時の三島は楯の会で武装しており、堂々と不遜な発言をしている。

 そしてこの発言は「腹を切るための天皇を求める」という本末転倒のような三島のプランを明示している。暗示ではない。三島事件の一年前、三島は帝国ホテルで自殺未遂事件を起こしている。半年前には周囲へ「死にたい」と漏らしており、自分は切腹の専門家だと嘯いていた。三島が何かをやるだろうというという情報は警察も掴んでいた。

 三島由紀夫は昭和天皇ではない天皇を求め、切腹したがっていた。

 三島由紀夫の天皇万歳には二種類ある。

 三島由紀夫の二つの遺書に書かれた天皇陛下万歳が同じ意味であろう筈はない。 

妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
御父上、御母上ニ孝養ヲ尽シ
殊ニ千之ハ兄ニ続キ一日モ早ク
皇軍ノ貔貅トナリ
皇恩ノ万一ニ報ゼヨ
        天皇陛下万歳

三島由紀夫二十歳の遺書

  この遺書を書いた二十歳の青年には深い考えはなかろう。ただ同調圧力に押し流されながら、見栄も張っていた。ここで「天皇」とは人間宣言をする以前の姿の見えない天皇であり、ふざけて「天ちゃん」と呼んでいた対象ではない。その感覚は『春の雪』の松枝清顕、その学習院初等科時代に近いものではなかっだろうか。天皇とは御真影であり、ぼんやりとしたものだが、ちょうど『金閣寺』の主人公が金閣寺を美しいもの、として父親から教え込まれるように、蓮田善明から受けた感情教育によって、尊いものとして教え込まれたもの、そんな対象ではなかっただろうか。

 死の一週間前に行われた対談では蓮田善明をわざと呼び捨てにしてはいるものの、当時の三島は『文藝文化』を通じて国学あるいは新国学に近い立場にいた。 

アメリカと戦争をするらしいですが、もう時期は遅いでせう。独逸はもうぢきへたばりますし、英国と講和を結ぶかもしれません。まさか兵隊にとられないと思ひますが、とられたらどうしませう。いつそワーツと戦争があつて、一年ぐらゐで終わつてくれるといゝのですが。

(昭和十六年、十一月十日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.75)

  こう呑気なことを書いていた子供がいよいよ兵隊にとられて眉を曇らす様子が目に浮かぶ。この少年は、富士の見える場所に自分のブロンズ像を建てよ、と書いた男よりはいくらか純粋だったであろうか。

 私はそうは思わない。

 三島の「天皇」が捉え難いものであるのは、三島が受けていた感情教育がまた捉え難いものであるからである。

 まず保田與十郎に関してはできるだけ距離を置こうとしているように見受けられる。ところが自決の十日前、保田について問われると「日本は戦争に敗れたけれども、保田先生はあくまでも立派な方だ。 保田先生を尊敬する。あの方の学問はしっかりしておられるし、あの方の信念、思想は立派だ」と答えた伊沢甲子麿に対して「君は本物だな」と言っている。

 三島由紀夫が保田與十郎を認めていたことは否定しがたい。

 十月二十一日国際反戦デー、クーデター計画から十八日後の手紙では蓮田善明についてこう書いている。 

毎月、これを拝読するたびに魂を振起されるやうな気がいたしました。この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確められ固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました。
一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に罪を報いて来るやうであります。今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄へて生きてゐたとは思ひたくありません。時代に憤つてゐても氏にはもう一つ、信ずべき時代の像があつたのでした。そしてその信ずべき像のはうへのめり込んで行けたのでした。

三島由紀夫「小高根二郎宛ての書簡」(昭和43年11月8日付)

  この純粋さはまるで十代の青年のようでさえある。しかし三島は知っていた。歴史は小さな矛盾を排除することで成立することを。『奔馬』において、八十六人もが切腹したという神風連の「ナラティブ」を、三島由紀夫は「忠義の悲劇性」に見出した。その一方で『神風連史話』山尾綱紀著に纏められるために排除された矛盾が存在すべきであることも指摘し、なおかつ本多繁邦の飯田勇宛ての手紙では「熊本バンド」(熊本バンドの名の下に日本をキリスト教化し、この教えによる新日本を建設しようという運動)を神風連と対比し、若者の純粋さをイデオロギーが呑み込んでしまう危うさをやすやすと指摘している。また『奔馬』のストーリーにおいても仲間から裏切りを疑われることを畏れ、半ば八つ当たり的な一人一殺の挙句切腹してしまう青年を描いた。

 その姿は中曽根康弘によって三島事件とも重ねられるが、どこか蓮田善明の死にも似ているように思える。

 ところが本当の十代の文学青年はそう純粋ではない。十代の時点では、蓮田善明は三島由紀夫にとって特別な存在ではなかったというのが事実である。 

 蓮田氏の説へのお話、面白く拝見いたしました。しかし結局私は詩人の魂を信じます。すなはち蓮田氏よりも佐藤春夫氏を。蓮田氏は日本文学を思想といふ立場で考へることを極力さけてゐられるにしても評論などになると、やはり常識が出てこられるのでせう。尤も「日本の伝統」について蓮田氏が語られたのをきゝましたが常に「先に立てる」といふことをいはれる。その「立てるもの」に神をみることにより、極端にいへば、例の路傍の石ころも、一匹の鼠も、「仏」といふ名の赤児も皆仏になるやうに、荷風が江戸文学を、佐藤氏が漱石等を常に「前に立ててゐる」ことに、詩人の血脈を信じつゝ大きな意味をおいてゐられるやうです。かういふ議論からすれば、とにかく今の文壇には、「前に立てるもの」をもたぬといふ点で、徒らに万葉に走つたりする浮薄さの点で、つまらぬ人々もたくさんゐるのではありますまいか。

(昭和十八年、五月二十二日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.162)

  当時の蓮田善明と三島由紀夫の距離感はこのようなものだったようだ。とても感情教育を受けていたとは言い難い。

 三島由紀夫が書いた二つ目の遺書にも天皇陛下万歳があるが、これは楯の会の隊員らに向けた号令と解してもよかろう。

 まさか西陣南帝や自天王に向けられたものではなかろう。

 後の天皇陛下万歳は、形式的には太宰治のそれと同じものだと考えてよいだろう。つまり誰もが怪しいとは思いながら、何かを慮って正面から否定しがたい天皇陛下万歳。天皇陛下万歳と言いながら昭和天皇に対する敬意は欠く。「明治の精神に殉死する」という程度に何かが微妙にずらされている。

 三島由紀夫が『太平記』をどう読んだのかは定かではない。しかし最終的に自分の忠義は幻の南朝に捧げられるものだ、と述べる以上、南朝正統論をある意味で支持していた筈だ。

 しかしこれは、

①天皇は穀物神天照大神と直結する。だから常に天孫であり、今上天皇なのだ。

②その時々の民衆が必死に作り出すのが天皇だ。

 という理屈とは一見合わない考えだ。理屈に合ないので、三島の南朝への忠義はしばしば無視されてきた。三島由紀夫を純真な憂国の義士と信じ、憂国忌で『海往かば』を合唱し、市ヶ谷での檄が叫ばれる…。

 しかし楯の会の思想を受け継ぎ、皇居を制圧し、天皇に主権を移すべく行動するものはもういない。三島の教義が誰にも引き継がれず、三島由紀夫が文学界からも忘れ去られているからだ。

 

三種の神器の行方

 

 村上春樹氏の『1Q84』では、ふかえりが『太平記』の「壇ノ浦の合戦」の暗誦を求められ、何故か「先帝入水」を間違って、間違いだらけに暗誦する。村上春樹も三島由紀夫同様、北朝の正当性に疑問を抱いているのだろう。そうでないとしたらこの誤りは真面ではない。村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』では鼠のエピソードとして奈良の古墳を見て感動した話が現われる。(実際には学生時代に奥さんと奈良旅行をして鰻を食べている。)氏はずっと南朝の天皇に思いを寄せてきたのではなかろうか。また編集者に小松という名が与えられ九十七代の後村上天皇、百代の後小松天皇を意識したものではなかろうか。

 ところで歴史的には「先帝入水」で三種の神器は失われたことになる。今回の攘夷を巡る報道でも、このことは徹底して伏せられた。『太平記』の話題さえタブーであるかのように避けられた。

 繰り返すが、昭和天皇の勅書により、天皇の地位は神話や架空ナル観念とは切り離された筈だ。論理的には仮に三種の神器が保存されていたとして、そんなものは捨てなくてはならない。神話時代の天皇についてはまつることを止めなくては筋が通らない。靖国神社を切り捨てて、神話や架空ナル観念を捨てないのは理窟に合わない。

 深沢七郎の『風流夢譚』では三種の神器は玩具のようなものであり、道に捨てられていて誰も拾おうとしない。

 三島由紀夫は石原慎太郎との対談において、三種の神器は宮中三殿だと即答している。これには石原も虚を突かれたであろう。三島由紀夫はあっさりと、勾玉や剣や鏡を打ち捨てたのだ。他にこんなことを言う人を私は知らない。

 この度の譲位のニュースの中で取り上げられる前は、宮中三殿などという言葉は殆んど死後であり、ニュースでもその欺瞞が掘り下げられないものだ。今でも三島由紀夫以外の人々は三種の神器とは勾玉と鏡と剣だと信じている。

 そして本物はどこかの神社に現存するのだろうとぼんやり教え込まれる。

 しかし宮中三殿は神話時代から続くものではない。

 宮中三殿とは黒戸の御所の代わりに明治以降に作られたもので、それ以前の歴史とは繋がらない。

 宮内庁公式ホームページに拠れば宮中三殿とは、賢所・皇霊殿・神殿の総称で、賢所には皇祖天照大御神が、皇霊殿には歴代天皇・皇族の御霊がまつられており、神殿には国中の神々がまつられているということである。

 まさに寄せ集めである。南朝の天皇もまつられているのか、怨霊となった天皇もまつられているのか、その詳細はどうでもいい。寺にも教会にもこけおどしはつきものだ。中身のないところを飾り立てて誤魔化そうとするのが宗教だ。権威そのものは輝くはずもない。

 これだけ必死に寄せ集めて、明治政府は天皇を蘇らせたのだ。

 何故これが三種の神器となるのか。このことを真面目に論じればこういうことになるのではなかろうか。廃仏毀釈も攘夷思想も明治維新も神仏判然令も征韓論も、みな国学から生じている。天皇制は国学によって甦ったものなのだ。 

三島 で、まあね、あの古林さんの天皇観と僕の天皇観がどこでちがっているか解かりませんがね、僕は戦後一番嫌いな天皇観と言うのはね、あれはつまりヨーロッパの制度を真似て、あるいはカソリズムを真似て、明治になって作られたあの、創作品だっていう考えが非常に強いんですね。

(死の一週間前のインタビューより聞き書き)


  対談相手の古林がここで「事実そうじゃないんですか?」と正論をぶつける。今の天皇の権威は明治時代に、西洋に学んで作られたものだ。

 幕末から明治の歴史を真摯に眺めれば、確かにそう見える。しかし古林の正論に対して三島は「ぼくは、絶対そうは思わないんですね。それと国学をよく研究し、あるいはずっと天皇観変遷を見てくればね絶対に違います。」と言う。

 つまり三島由紀夫にとって、天皇の権威は江戸時代に興った国学に支えられるものであることが分かる。それが復古という方法であったにせよ、引き続いたものではなくよみがえさせられたものであるという点を注視したい。

 つまり三島由紀夫の南朝への忠義は、神器の有無を論拠とした南北朝正閏論さえも無視したものだ。

 また三島由紀夫は「伊勢神宮に象徴されるように日本人にとって本物とコピーの間に質的な差はない」という考えを持っていた。

 つまり創作品ではなく、コピーであれば良いのだ。コピーであっても天照大神と直結すれば、今上天皇になることができる。このロジックはさほど奇抜なものではない。上場企業でもなければ、父親にそっくりな息子が会社を継ぐことに文句を言う人は少ない。血脈はなくとも、そっくりであれば文句はなかろう。江戸時代から昭和初期まで養子は珍しいことではなかった。

 三島由紀夫が「三種の神器は宮中三殿だ」と言ったのは「三種の神器」を「天皇の権威を保証するもの」の換喩として使ったのであろう。

 

天皇の菩提寺

 

 明治以前、神仏判然令以前の天皇家の菩提寺は。京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院天泉涌寺である。

 つまり明治以前、天皇は神ではなく、衆上であった。

 大正天皇神社が存在しないことから、天皇では明治天皇ただ一人が神としてまつられている可能性が高い。

 昭和天皇は自分が人間であると自覚する一方で、明治天皇が神格化され明治神宮にまつられることを受け入れていた。敗戦が濃厚であった時期、昭和天皇がやはり真言宗仁和寺に出家する計画もあったことから、天皇家は真言宗派であると考えてもよいだろう。

 だが戦後、平成から令和にかけて、そのことは徹底して忘れられようとした。

 昭和天皇は皇太子が明神宮で成婚するに際して、、

 

あなうれし神のみ前に皇太子(ひのみこ)のいもせの契りむすぶこの朝

 

 と御製を詠んでいる。(『おほうなばら』)理屈の上では昭和天皇はこの時点において、明治天皇を神と崇めていたことになる。

 もう一度繰り返すが全く徹底されていない。自分が人間であり、お爺さんが神ならば、自分はやはり天孫であろう。三種の神器は神話とともに捨て去られるべきであり、自分の祖父と祖母を神様にしてしまってはいけない。もしも人間であり天皇であるという都合よい理屈が通るとして、神話は都合よく振り回されるべきものではない。まずあらゆる神事を廃すべきであろう。明治神宮も同様である。

 それができないなら三島由紀夫の言い分に従うしかない?

 明治神宮を贔屓にする、この短い伝統も揺るぎない。次の皇族の結婚式もおそらく靖国神社ではなく、明治神宮で行われることだろう。

 皇族に関するルールは皇室典範制定後も繰り返し修正され、現時点でも落ち着きがない。

 このぐだぐだ具合は、大真面目な三島由紀夫には受け入れがたいものであったろう。

 昭和天皇の皇太子の成婚パレードを襲った暴漢を書いたエッセイは、いささか嬉々とし過ぎている。  

四月十日(金)
 
 嵐は忽ち晴れ、六月の日照りになった。
 一時半起床。庭で素振りをしてから、馬車行列の模様をテレヴィジョンで見る。
 皇居前広場で、突然一人の若者が走り出て、その手が投げた白い石ころが、画面に明瞭な抛物線をえがくと見る間に、若者はステップに片足をかけて、馬車にのしかかり、妃殿下は驚愕のあまり身を反らせた。忽ち警官たちに若者は引き離され、路上に組み伏せられた。馬車行列はそのまま、同じ歩度で進んで行ったが、その後しばらく、両殿下の笑顔は硬く、内心の不安がありありと浮かんでいた。
 これを見たときの私の昂奮は非常なものだった。劇はこのような起こり方はしない。これは事実の領域であって、伏線もなければ、対話も聞かれない。しかし天皇制反対論者だというこの十九歳の貧しい不幸な若者が、金色燦然たる馬車に足をかけて、両殿下の顔と向かい合ったとき、そこではまぎれもなく、人間と人間が向かい合ったのだ。馬車の装飾や従者の制服の金モールなどよりも、この瞬間のほうが、はるかに燦然たる瞬間だった。
 われわれはこんな風にして、人間の顔と顔とが、烈しくお互いを見るという瞬間を、現実世界の中ではそれほど経験しない。これはあくまで事実の事件であるにもかかわらす、この「相見る」瞬間の怖ろしさは、正しく劇的なものであった。伏線も対話もなかったけれど、社会的な仮面のすべてをかなぐり捨てて、裸の人間の顔と人間の顔が、人間の恐怖と人間の悪意が、何の虚飾もなしに向かい合ったのだ。皇太子は生まれてから、このような人間の裸の顔を見たことははじめてだったであろう。と同時に、自分の裸の顔を、恐怖の一瞬の表情を、人に見られたこともはじめてであったろう。君候がいつかは人前にさらさなければならない唯一の裸の顔が、いつも決って恐怖の顔であるということは、何という不幸であろう。
 それにしても人間が人間を見るということの怖ろしさは、あらゆる種類のエロティシズムの怖ろしさであると同時に、あらゆる種類の政治権力にまつわる怖ろしさである。

(『裸体と衣裳』/『中央公論特別編集 三島由紀夫と戦後』所収/中央公論編集部/2010年/p.3~4)

  昭和天皇も皇太子も気に入らない。だから自分の忠義は幻の南朝に捧げられるものだと無茶を言う。それでいて天皇から下賜された金時計が自慢である。『天皇組合』や熊沢天皇には興味を示さない。考明天皇暗殺説にも明治天皇すり替え説にも興味を示さない。ただ絶対者には何が何でも復活してもらわなくては困ると意地を張る。『豊饒の海』を巡っては散々仏教を研究しながら、阿頼耶識なる奇異な観念に捉われたかに装い、その実どうも無神論に近づいていく。ただしそのグランドデザインは出口王仁三郎の一霊四魂説に拠る。

 七生報国が無理な話だとも理解していた。

 相良亨が「武士には一般的には来世はありませんね」と言ったのを受けて、三島は、

「ありません。そのとき自分で決めなければいけない。そのへんが非常にむずかしいのですよ。一種の、なにかさばさばした無神論の世界ですからね。(中略)もしギリシャ劇だったら、それは一種のヒュブリス(傲慢)として、神に罰せられるかもしれない。(中略)大丈夫かしらと思うのですね。」と述べている。

三島 七生報国というのは、自分の意思だものね。だから七生報国をやるためには、自分が今度牛に生まれては報国ができないでしょう。人間に生まれて、天皇陛下に忠義を尽くすというのでは、これは自分の意思で「我」が働いているし、とてもあれは仏教観とは相容れないですね。

(『決定版 三島由紀夫全集 40』/三島由紀夫/新潮社/2004年/p.361)

   つまり三島は、その無理なお題目を額に巻いて死んでいった若者が多くいたことも知っていた。夏目漱石が明治天皇の崩御に際して喪章を巻いたちぐはぐさを真似したのか、三島の生首の額には七生報国の鉢巻きが張り付いた。

 

UFOと降霊術

 

 確かに三島の晩年にはオカルトがひそかに流行し始めていた。科学が解明しきれないものがあることを人々は求めていた。学生運動が静まるとオカルトブームが来て、お笑いブームが来ることを三島由紀夫は知らない。三島は何故か早々にオカルトに飛びついた。

 その根は三島由紀夫が青年時代に触れた国学・新国学にあったと考えてしかるべきだろう。国学=平田篤胤ではないが、篤胤はオカルトの教祖のような人であった。その思索は鬼神に始まる嘘話であった。何の根拠もない願望のようなものであった。それは極論すれば「靖国で会おう」という無理な発想にどこか似ている。「七生報国」とも似ている。

 三島由紀夫は『美しい星』以前から降霊術などに興味を持ち、阿頼耶識について真面目に論じ、UFOを呼ぼうとしていた。三島はいつも大真面目だった。

 これらの事を「オカルトへの関心」とひとまとめにしてしまうと肝心なことが見えなくなってしまうのではないかと私は考えている。オカルトと言ってしまえば、国学者平田篤胤もオカルト、仏教もオカルト、宮中三殿もオカルト、大嘗会もオカルト、天皇の神話もオカルトである。

 次第に無神論に呑み込まれながら、三島は意図的にオカルトに囚われようとしていたのではなかろうか。

 そのことを気付かせてくれたのは、YouTubeに残されている三島由紀夫に関する膨大な動画だった。本ばかり読んでいては、解らなかったことだ。 

僕がやっていることが写真に出ます。あるいは、週刊誌で紹介されます。それはその段階においてみんなにわかるわけでしょう。ああ、あいつはこんなことをやっている、バカだねえ、と。でも、その「バカだねえ」ということを幾ら説明しても、僕をバカだと思った人はバカだと思い続けます。(中略)ですから、僕は、スタンダールじゃないけれども、happy few がわかってくれればいいんです。僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動の方が分かりにくいんだ、という自信があるんです。(中略)
僕が死んでね、50年か100年たつとね、「ああ、わかった」という人がいるかもしれない。それでも構わない。生きているというのは、人間はみんな何らかの意味でピエロです。これは免れない。佐藤首相でもやっぱり一種のピエロですね。生きている人間がピエロでないということはあり得ないですね。
人間がピエロというのは、ある意味で芝居をやらなくちゃ生きていけない。(ジョン・ベスターの問い)
芝居をやらなきゃ生きていけないのは、きっと神様が我々を人形に扱っているわけでしょう。我々は人生で一つの役割を、puppet play(パペット・プレー)を強いられているんですね。

— 三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)

 三島はこの通り、自分が解りにくいパペットプレイをしていることを宣言している。

 またピエロを演じていることを自分で言ってはならないとも語る。

  

三島 そうかといって、太宰治みたいに、私は喜劇ですよ、私はピエロですよというのは、とっても許せないですよ。
石川 太宰君は、喜劇役者としてはへたな役者でしょうね。
三島 ピエロが出てきてお客が泣いたら、もうピエロはおしまいでしょう。でも太宰は、おれは客を泣かせるピエロだと思っていたんじゃないですか。
石川 当人はね。だから、僕が太宰を憐れだと思うのは失敗した喜劇役者だからですよ。
三島 失敗した喜劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする。
 

 このように三島はわざと矛盾を拵える。三島由紀夫の芝居はわざとらしい。太宰治なら観察者をして「ワザ、ワザ」と言わしめるものだ。三島は常に見られることを意識していた。(ある一枚を除いて)どの写真を見てもポーズを決めている。

 それは人を騙そうという芝居ではない。

 あるいは三島は天皇を信じるようにUFOや霊魂や生まれ変わりを信じようと努力したのかもしれない。『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』はそうした努力の果てに何もないところへ辿り着く。

 人間はみなピエロだと言いいながら、三島は最後まで自分がピエロだと認めなかった。その芝居はいくら笑われようと大真面目である。

 その芝居の一つに磯部浅一の憑依がある。丸山明宏に拠れば、三島はまず西郷隆盛の霊の憑依を疑い、次に甘粕正彦を疑い、一人飛ばして、結局磯部浅一に落ち着く。自分は城山の西郷だ、死に狂い、大高慢、帰太虚と理屈を述べながら、理屈ではないものも持って来る。磯部の獄中記を読み、鶴田浩二演じる。磯部の映画も観て、天皇陛下をお叱り申し上げようという忠臣に憑依したふりをする。

 磯部の憑依が嘘ならば、『英霊の聲』もおもちゃの兵隊・楯の会も嘘になりかねない。だが三島の狙いはおそらくそこにあったのだろう。生首になれば、死にさえすれば、まさかそれを「嘘」だと言うわけにはいかない。

 「今に見ていてください」「そのうち、右翼に目にものみせてやる」という言葉が予言したものは生首ではなく、亀裂である。 

 最近私は一人の学生にこんな質問をした。
「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵に殺される現場に居合わせたらどうするか?」
青年はしばらく考えたのち答えたが、それは透徹した答えであった。
「ただちに米兵を殺し、自分はその場で自刃します」
 これは比喩的な回答であるから、そのつもりできいてもらいたい。
 この簡潔な答えは、複雑な論理の組み合わせから成り立っている。すなわち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人としてのナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による殺人といえども、殺人の責任は直ちに自ら引き受けて、自刃すべきだ、と考える。これは法と秩序を重んずる人間的論理による決断である。第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持っている。なぜなら、基地反対闘争に参加している群衆は、まず彼の殺人に喝采し、彼のイデオロギーの勝利を叫び、彼の殺人行為をかれらのイデオロギーに包みこもうとするであろう。しかし彼はただちに自刃することによって、自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵を殺したのではなく、日本人としてそうしたのだ、ということを、かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。第四に、この自刃は、包括的な命名判断(ベネンヌンクスウルスタイル)を成立させる。すなわちその場のデモの群衆すべてを、ただの日本人として包括し、かれらを日本人と名付ける他はないものへ転換させるであろうからである。
 いかに比喩とはいいながら、私は過激な比喩を使いすぎたであろうか。しかし私が、精神の戦いにのみ剣を使うとはそういう意味である。

(『「国を守る」とは何か』/『生きる意味を問う -私の人生観』/三島由紀夫著/小川和佑編/大和出版/1984年/p.194~195)


 ここで透徹と評されるロジックには多少無理がある。基地反対運動の現場に「刃物」を持って乗り込んでいる時点で逮捕されるだろうし、そこで自分は基地反対運動には参加していませんという言い訳は通らないだろう。また米兵は銃で対抗するだろうから、自刃は難しいだろう。刃物を捨てなければ、銃で撃たれて制圧されるだろう。

 死ねば翌日の新聞の一面に悲劇のヒーローとして担がれることになる。樺美智子のような象徴的存在になってしまうかもしれない。しかも右翼思想から転向して討ち死にした変わり者として。

 生きていれば逆に全学連の学生が彼を米兵から引き離してくれるナショナルな行動にでるだろう。彼は全学連の恩義に報い借りを返すために、敢て全学連のヘルメットを被り、基地反対運動のために命をささげることに成るだろう、か。いや、何をどうしたらどうなるか、そんなことは誰にも解からない。

 三島の死以後、現在まで自衛隊は違憲状態である。自衛隊は三島の死によって何も変わらなかった。透徹なロジックは自衛隊を変えなかった。

 三島由紀夫はそれを予測しなかっただろうか。だからブロンズ像を建てよ、などととんでもない遺言を残したのだろうか。

 まさかそんなことはあるまい。 

「ところで鼠の死は世界を震撼させたろうか?」と、彼は透という聴手の所在も問わず、のめり込むような口調で言った。独り言と思って聴けばいいのだと透は思った。
 (中略)
「そのために鼠に対する世間の認識は少しでも革(あらた)まったろうか? この世には鼠の形をしていながら実は鼠ではない者がいるという正しい噂は流布されたろうか? 猫たちの確信には多少とも罅が入ったろうか? それとも噂の流布を意識的に妨げるほど、猫は神経質になったろうか?
 
ところが愕く勿れ、猫は何もしなかったのだ。すぐ忘れてしまって、顔を洗いはじめ、それから寝ころんで、眠りに落ちた。」

(『天人五衰』/三島由紀夫/新潮社/昭和五十二年/p.168~169)

  三島由紀夫はこの程度に冷静であった。この寓話は必ずしも三島由紀夫自身の運命そのものを意味するものではないとして、三島は命懸けの証明など、忘れ去られるものであることを知っていた。

 蓮田善明一人が天皇陛下の権威の為に自死を選んだわけではないのだ。七生報国が無理であることも知りつつ、死なねばならないものがいたことを知っていた。

 三島由紀夫は天皇陛下に熱い握り飯を差し上げ、絶対者としての覚悟を問い、切腹しようとしていたと言われる。

 問題は三島由紀夫がただ死にたがり、磯部浅一の憑依を装い、無理を承知で天皇に絶対者たることを求めたのではないということだ。国防論を真面目に論じ、楯の会に若者たちを集め、新しい憲法を論じた。 

 三島由紀夫は絶対者を蘇らせようとしたと言われる。その実、天皇を担ごうとした者の覚悟を問い、何かに封印をしてしまったようにも思える。

 三島由紀夫の解らなさは、新三島憲法において頂点に達する。 


【天皇】
天皇は国体である
天皇は神勅を奉じて祭祀を司る
皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない
天皇の国事に関するすべての行為は、顧問院が輔弼し、内閣がその責任を負う
顧問院は天皇に直属し、国体を護持する
顧問院は勅撰議員によって構成される
天皇は議会、内閣、裁判所を設置する
天皇は国軍の栄誉の源である
天皇は統帥権の運用および軍の最高指揮権を顧問院ならびに内閣に委ねる
天皇は衆議院の指名に基づき内閣総理大臣を任命する
天皇は内閣の輔弼により最高裁判所長官を任命する
天皇は顧問院の輔弼により検事総長、教育長官を任命する
天皇は国会(注・一院制)を召集し、衆議院を解散する
 
【国防】天皇に言及のある条文のみ抜粋
日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、文化を護持することを本義とし、国際社会の新倚と日本国民の信頼の上に健軍される
 
【非常事態法】
天皇は不測の事態により国の安寧秩序が脅かされる時は、公共の安全を保持し、またはその災厄を避けるため、戒厳令を宣告する
戒厳の要件および効力は法律で之を定める

(出典 『血滾る三島由紀夫「憲法改正」』(松藤竹二郎著 毎日ワンズ 2003年12月8日 発行)


 むしろここに書かれていることは書かれている範囲で解らなくはない。パーソナルな天皇を廃し、象徴天皇から実質的な国体に戻したいという考えだ。

 しかし幾分おかしなところがある。まず統帥権を内閣に委ねるのだ。これでは天皇陛下のために死ぬことができなくなる。また政治的に利用されることのない絶対者を求めているのだとしたら、顧問院が余計だ。

 ここには自棄ではない天皇論がある。

 この天皇論と三島由紀夫の生首の額に巻かれた七生報国の間には、随分距離がある。

 

英国製の天皇

 

 深沢七郎に『風流夢譚』という奇妙な作品がある。そしてこの作品と三島由紀夫の間には浅からぬ因縁がある。

 ①天皇の御製が「みよし野」という南朝の枕詞で始まる。

 ②皇族が英国製のタグをつけたままの服を着ている。

 ③自衛隊も民衆の暴動に参加する。

 ④金時計が偽者か本物かというところから話が始まる。

 ⑤美智子妃殿下の着物は御守殿模様に見えたが、豊受大神宮と三条大橋が描かれていた。

 

 三島の忠義は幻の南朝に捧げられていた。三島は英国のロイヤルファミリー的な天皇家の在り方を嫌悪していた。学習院首席卒業で天皇陛下より下賜された金時計は三島の自慢であり、三島は時計が大好きである。豊受大神宮は天照大神のお食事を司る御饌都神・豊受大神をまつる。まさに天子様の「握り飯」の神宮である。そして京都の三条大橋と言えば「晒し首の名所」である。そして何よりも、豊受大神宮と三条大橋は御守殿模様とは見間違えようのない地味な図柄である。それなのに主人公は「あれは金閣ですか、銀閣ですか?」と見当違いの質問をする。

 今となってみれば、三島由紀夫をあてこすっていないとは考えづらい話になってしまっている。

 深沢七郎にどういう考えがあってこのような作品を書いたのかは定かではない。無論、かつて書かれた全ての作品がどのような考えのもとに書かれたのか、明らかであったためしはなかろう。

 だから勝手なことを書くわけではないが、どうも深沢七郎はただのユーモア小説としてこの『風流夢譚』を書いたわけではなさそうだ。それ以前に皇室批判を公言しており、美智子様の皇室入りに反対していた。後に『政治少年死す』を書いた大江健三郎との対談において、大江から「ただのユーモア小説なのに大騒ぎになって大変ですね」というような話をふられて返事をしなかった。

 『風流夢譚』が筆禍事件を引き起こしたのは、それが荒唐無稽な話だったからではない。

  

そして九月一日。関東大震災であった。地方新聞の全紙面は、もしその新聞が今日残っていたら、読者を驚かすよりも、噴飯させるにちがいない途方もない記事で埋められた。
「帝都一瞬にして焼け野原と化す」、
「富士山陥没す」、
「社会主義者にひきいられた朝鮮人大部隊、軍隊と交戦中」、
「江東方面に市街戦、当局鎮圧の見込みなしと語る」、
「皇太子殿御行方不明」。
私を驚かせたのは、日本の首都の全滅でも、富士山の陥没でもなかった。東京に市街戦、即ち革命が起きたことであった。同志達は武器をとり、バリケードを築き、赤旗をかざして、帝国主義者の軍隊と戦っている。朝鮮人だけではなかろう。東京の全労働者と被圧迫民衆が革命軍に参加している。革命軍の一部は軍隊と警察の抵抗を排除して、皇居の中まで侵入したのであろう。皇太子の行方不明はその結果に違いない。
私は立ちおくれたと思った。ただ一人取残されたと思った。田舎の町のつまらない啓蒙活動に無駄な労力をつぎこんでいる間に、革命が起こってしまった。

(『狂信の時代』/『現代日本文學体系61』所収/林房雄/筑摩書房/昭和四十五年/p.52~53)

  時代を遡ればこのような感覚があったことは間違いない。 

「どこへ行ったんですか? あのバスは?」
 と隣りの人に聞くと、
「警視庁と、いま射ち合いをやっているので応援に行ったんだよ」
 と教えてくれた。
「えっ、警視庁とやってるんですか? そいつはまずいですね」
 と私が注意すると、
「いや、警察も、下ッパ巡査はみんな我々と行動を同じにしているが、刑事は反抗していて、いまピストルの射ち合いをやっているんだ」
 と言うのだ。
「わー、ピストルがあるんですか? こっちにも?」
 ときくと、
「あヽ、あヽ、ピストルでも機関銃でもみんなあるよ」
 と言うのだ。
「そいつは安心ですねえ。いつまでもスクラムをくんだり、バリケードなんかはっかりでツマラナイけど、どこからピストルや機関銃を?」
 ときくと、
「各国で応援してくれたんだよ。悪魔の日本をやっつけるために、こないだの韓国のデモの人達が船でとどけてくれたり、アメリカでも機関銃を50丁(チョウ)ばかり、ソ連でも20丁(チョウ)ばかり」
 と言うのだ。
「話せるねえ、各国は」

(『風流夢譚』)


 「こないだの韓国のデモの人達が船でとどけてくれたり、」というのはサイルグヒョンミン、四月革命のことを指すのであろう。隣国では現実に革命が成功し、大統領は国を追われ、第二共和国が成立していた。(この第二共和国を終わらせるのが、学生デモを鎮圧する口実の下に行う予定でいた5・16軍事クーデターであることは実に感慨深い。三島のクーデター計画の雛形がそっくりそのままの形で1961年に韓国で見つかり、楯の会を踵武する組織と偶然にも同じ名前の「祖国防衛隊」なるものが在日朝鮮人によって1950年に結成されていたというのも不思議な因縁である。)

 この状況下では生々しいストーリーとして、第二共和国が日本の革命を支持することはけして不自然ではない。そして本当に革命家が大量の機関銃を手に入れていたら、機動隊では対抗できなかったのではなかろうか。

 三島由紀夫の最後の行動が反革命であることも『風流夢譚』にどこか似ている。 

で僕はね、つまり、殺されてない人間がどうだとか、テロリズムはいけないだとか、そういう思想は戦後聞き飽きたと、そしてね、例えばロシア革命でそうだし、みんな殺されてるんですから、貴族は、フランス革命でもそうですよね、それでフランス革命の人間に向かってですね、マリー・アントワネットが殺された時どんなに苦しかったかとお前は考えてみたことがあるかと言っていたら革命が成り立ちますか。
 僕は、二・二六事件は感心だと思うのは、女子供をひとつもやっていないんです。僕はそれはね非常に立派だと今でも思う。僕は女子供をやるのは非常に汚いと思っていますね。
ま今の戦争はことごとく汚くなっていますがね。テロリズムは是認しますがね、弱くなっちゃいけないと考えている。

(死の一週間前のインタビューより聞き書き)


  ここで不意に飛び出すマリー・アントワネットは『風流夢譚』における皇太子妃同様仰向けに首切られる。

 三島がこの不敬な小説に激怒して深沢七郎を切らなかったことは事実である。

 三島由紀夫に「皇居突入死守」という計画があったことから、天皇誅殺の意思もあったかと考えるものがある。だがおそらく三島由紀夫の求めていたものは切腹であろう。

 三島の檄は檄文と違い、三十分待たなかった。急いで死んだ。

 三島由紀夫は沼正三の国辱小説『家畜人ヤプー』を『奇譚倶楽部』から切り抜いてスクラップブックにしていた。(竹熊健太郎『篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝』河出文庫)『家畜人ヤプー』は不敬さにおいて『風流夢譚』の比ではない。『家畜人ヤプー』は日本人がそもそも人間などではなく、西洋白人の排泄装置に加工されるヤプーという便利な家畜であると説く。日本民族の本質的な劣等性を真面目に、徹底的に、衒学的に、理論的に突き詰めた小説であり、おそらく空前絶後の人種差別小説だ。勿論日本国の象徴である天皇についても極限まで貶めている。そして『奇譚倶楽部』を読んでいた三島由紀夫は単行本になる前の『ある夢想家の手帖から』という沼正三の随筆を読んでおり、沼が大便の味を云々できる本物のマゾヒストであることを知っていた。そして「螺旋状の長さ、永劫回帰、輪廻の長さ、小説の反歴史性」という『豊饒の海』の構想がそのまま『家畜人ヤプー』にあることに気がついた。

 そしてリフレーミングで全てが覆ることに感心した。

 三島は学生との討論で、君たちが革命と言っているものを天皇に置き換えたらいいじゃないかと無茶を言うが、案外それは冗談ではなかったかもしれない。

 三島由紀夫は国粋主義者でもなく、皇国主義者とも認めがたい。筆禍事件以降初の仮装舞踏会で軍服を着たのが、あからさまな右傾化の契機である。三島の父親は三島の死の原因を楯の会の制服のデザインに押し付け、「あんな制服をつくったから、息子は死んじゃった」と文句を言う。

 父親から見れば、三島の右傾化などその程度に根拠のないものだ。

 最後の対談でも「天皇でなくても封建君主でもいいんだけどね、つまり「葉隠」におけるつまりその殿様ですよね。それはつまり階級史観における殿様だとかなんとかいうものじゃない。ロイヤリティの対象ですよね」とつい本音を漏らしているように思える。

 殿様が天皇と入れ替わろうと、三島には文句はないのである。こうなると三島由紀夫の天皇論でなく、三島由紀夫の殿様論でいいことになってしまう。ここまでは解る。「天皇制がなぜ日本に合ってるかというと、日本人が嫉妬深いからだと、上手い説明だと思ったな。つまり、一つクッションを置いて、権力を授受しないと、絶対に日本人は承服しない。日本人の互選では、権力というものは一日も成立たんと言うのだ」と時には天皇をクッションに喩えてみせる。

 だが死にたがりの勝手な思い込みに若者が巻き込まれたと決めつけるにはブロンズ像の遺言がいかにも余計だ。

 五十年か百年したら、解ったという者が現われるだろうと三島は予言したが、それが嘘であった可能性もなくはない。

 三島由紀夫の愚行は男の秘密として、稲垣足穂に託された。稲垣足穂には三島由紀夫の愚行は受け止められず、若者が犠牲になったことを批判した。

 三島由紀夫の天皇論と三島由紀夫の行動との間には明確なわからなさがある。このわからなさは、第一義的に三島由紀夫がしかけたレトリックではあろう。村田英雄とブロンズ像、『唐獅子牡丹』と下手糞な辞世の歌、それは『春の雪』の黒い犬の死骸や本多繁邦の勃起と同じものである。では三島由紀夫の天皇が思わせぶりな仄めかしに過ぎないかと言えば、そうではなかろう。ここで一か八かの飛躍をしてしまうことは正しいが、まだ解らないものがあることは確かである。まだ三島由紀夫の天皇論には時間を要する。現時点ではここに留まるべきであろう。

 

        

                                                                                                               了


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