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大人の教科書編纂委員会はどの程度教科書を読めているのか① 芥川龍之介

漱石が『鼻』を褒めた理由

 この点について大人の教科書編纂委員会は「短編作家としての力量、着眼点を絶賛した」(『大人の教科書 国語の時間』青春出版社、2002年)と書いていますが、これは間違いですね。そのように具体的には書かれていません。書いていないことを勝手に付け足すのは誤読です。大変面白いと書いているので、「面白さ」を評価したとみるべきでしょう。「力量、着眼点」と書いてしまうと自分が勝手に付け足した情報が混ざり、いわゆる汚染データが出来上がります。

 もう少し具体的に言えば、
①あなたのものは大変面白い
②落ち着きがあって
③ふざけていなくって
④自然そのままのおかしみがおっとりと出ているところに上品な趣があり
⑤材料が非常に新しいのが目に付く
⑥文章が要領を得てよく整っている
 ……ということなんですが「力量、着眼点」はさすがにまとめすぎでしょう。

 それから漱石が『今昔物語』に精通していなかったからこそ新鮮に感じただけではとの見方がある、とも書かれていますが、これは「ネタ」が面白いだけという見立てですよね。そういう見立てがあるということ自体「短編作家としての力量、着眼点を絶賛した」という見立てに根拠のない証拠でしょう。「だけ」とは外はないという意味です。ほかならないという訳ですから、他の説とは共存できないので、あれかこれかのどちらかを選ばなければなりません。どんな意見でも拾えばいいというものでもないと思います。で、『鼻』はそもそも『今昔物語集』の「池尾禅珍内供鼻語」および『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」を題材としているとされていますが、それでも「だけ」なんですかね?

 多分これを書いた人こそが『鼻』の良さに辿り着いていないのでしょう。
『今昔物語集』の「池尾禅珍内供鼻語」および『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」いずれも「我れに非ぬ止事無き人の御鼻をも持上げむには、此くやせむと爲る。不覺の白者かな」「我ならぬやごとなき人の御鼻にもこそ参れ、それにはやくやはせんずる。うたてなりける心なしの痴者かな」と落とし噺にしているところを、その肝心な部分をあえて切り捨てて、「一度この弟子の代りをした中童子が、嚏をした拍子に手がふるえて、鼻を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された」と流してしまっていることに気が付かないのでしょうか。これはつまり「浦島太郎は白髪になったが、ところで……」とやっているようなものです。これは新しいやり口ではないでしょうか。


日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど枕に通って来た。(芥川龍之介『鼻』)

 この「通って来た」がなかなか書けないところです。書いてみれば分かります。書かないと解りません。たとえばこうした文章の上手さについて触れていないということは、大人の教科書編纂委員会は芥川龍之介の文章の上手さについてどう考えていたのでしょうか。

『羅生門』のラストシーンは?

 
 大人の教科書編纂委員会は「しがみつく老婆を蹴倒し夜の闇へと消えていく下人。それを老婆が見つめるところで物語は終わる」と書いています。これも間違いですね。

「中島敦「山月記」という小説を思い出しました。官吏に就こうと猛勉強しましたが、虎に化身してしまった、その嘆きの遠吠えが聞こえるというお話です。」
 

 ……みたいな話になっています。

 「しがみつく老婆を蹴倒し夜の闇へと消えていく下人。それを老婆が見つめるところで物語は終わる」では「しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。」というニュアンスが消えてしまっていますね。「それを老婆が見つめるところで物語は終わる」ということはないわけです。
 こう読む理由は何となく分かります。下人が去り、しばらくしてから門の下をのぞき込む意味が解らなかったということなのでしょう。
 遅いのではないかと思いますよね。でもこの場面、必要と云うが、書きたかったんでしょう。

 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒まにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人の行方は、誰も知らない。(芥川龍之介『羅生門』)

 この裸の老婆が這うシーン、そして白髪が梯子の口にさっと垂れるシーン、カメラはまず老婆の背後から追いかけますかね。梯子の口で待っていて、老婆の顔がぐんぐん迫ってくる様子を映してもいいのでしょうが、それだと「這って来た」なんですよね。ですから「這って行った」ということは、カメラは老婆の後ろでみすぼらしいたるたるの裸の尻を捉えていると考えてよいでしょう。そしてスイッチして下から老婆の顔を待ち受けます。そうしないと白髪がさっと垂れる様子が見えませんからね。このスイッチは必ず必要です。梯子の下からでないと白髪の様子は捉えられませんが、梯子の下からでは老婆が這って行く様子は捉えられません。『羅生門』はこうした巧みなカメラワークを駆使した立体的な描写に溢れています。
 どうでしょうか。老婆が梯子の下を覗く場面は明らかに遅いのですが、絵的にはあった方がいいと思いませんか。というより、現にあるんだからちゃんと読みましょうよと云う話なのですが。


下人は罪人?

 それから一番肝心な部分ですが、大人の教科書編纂委員会は「人間としての最低限のモラルとそこから心理が変化していく様子、それに伴う善と悪を下人と老婆の2人の視線で描いたこの作品は、芥川自身の結婚の挫折がきっかけだったという」と訳の分からないことを書いていて、『羅生門』の肝の部分を完全に読み間違えています。
 それじゃあなんですか、芥川の結婚は追いはぎですかと聞きたくなります。『羅生門』にはそもそもと悪なんか書かれていませんね。書かれているのは善悪を超越した芥川のヒーローとしての太い人、下人です。

 『羅生門』の出版記念パーティで芥川龍之介が「本是山中人 愛説山中話」と色紙に書いた意味は、平べったく現代語に訳すと、「僕にはもともと長州の血が流れているからね、こんな話を書くことも出来るんだよ」というところでしょうか。凄く誇らしげです。新原敏三的な太さへの憧れが素直にでたのが『羅生門』でしょう。
 下人も悪いっちゃ悪いですよ。しかしこれもただ「暗い話」ではないですね。罪はあります。人間の罪深さと云うものが書かれています。ただ、老婆を裸に剥いて走り去る下人の太さを見なくてはなりません。
 後にこの動物的エネルギーが枯渇して、芥川は死に至ります。『羅生門』は(本当は芥川にはなかった)動物的エネルギーに満ち満ちた痛快な作品です。下人は芥川のヒーローです。このタイプのヒーローが多襄丸や『芋粥』の「肩幅の広い、身長の群を抜いた逞しい大男」民部卿時長の子藤原利仁として、芥川の初期作品には登場します。(それが『桃太郎』以降どうも成立しなくなります。)これらの芥川のヒーローを簡単に罪人にしてしまってはいけませんね。








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