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現代文解釈の基礎『羅生門』と『こころ』

 『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』(ちくま学芸文庫)という本が復刻され本屋に並べられていました。これは残念ながらまるで日本語曲解の基礎とでも呼ぶべき迷著でした。こんなものは復刻しなくてもいいでしょう。私はこれまで駄目な解釈が①書いてあることを読まない②書かれていないことを付け足す、という二つの誤りによって生じることを繰り返し説明してきました。この『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』もそのパターンに見事に嵌っています。

 まさかと思う人もいるかとおもいますがこれはどうしようもない事実です。

 例えば『羅生門』の下人はどういう人かという解釈に件の本は「小心」という書かれていないことを勝手に足しています。はて、下人は確かに盗人になる勇気が持てずにいました。「この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。」のなら「恐る恐る、楼の内を覗いて見た。」は当然のことでしょう。「下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて」とあるのは結構太いところではないでしょうか。「いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。」という動作も小心者にはできません。相手の正体が解らないのですから。

 下人は盗人になる勇気がなかった訳ですが、それは小心だからではなく道徳的だったからでしょう。第一小心なら「下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。」とはならないでしょう。どうも書かれていないことを付け足しています。馬鹿ではないでしょうか。

 また『よみがえる芥川龍之介』で関口安義が指摘する様に、芥川は『今昔物語鑑賞』において『今昔物語』の芸術的生命をbrutality(野生)の美しさに見出しています。下人を小心者にしてしまうのはあまりに方向違いの読み誤りなのです。作品そのものだけを読み、そこから解釈することは正しい手続きですが、それが結果として正しい結論を得ているかどうかは、常に検証していかなければなりません。そうでなければ「ぶった斬り」式の頓珍漢解説に終わってしまいます。

 また勝手に下人の行為を「必要悪」とまとめています。これは「必要悪」という言葉の意味を取り違えていますね。「必要悪」とは戦後の任侠のようなもので、今の暴力団は単なる「悪」ですね。自分が生きるために着物を奪うことは「必要悪」とは言いません。これは「悪」です。敢えて言えば「情状酌量の余地があり」「緊急避難的」ではありますが、少なくとも「必要悪」は完全な間違いです。そんな言葉は作中にも出てきません。変に纏めないで「餓死しないための盗み」と捉えるべきでしょう。

 もう一つ『こころ』に関する指摘はもういいですかね。何度も書いてきましたが、「私」が先生の思想や態度に興味を惹かれるのは後の事で、だから先生と親しくなったわけではありません。「私」は「懐かしみ」から先生を「実に見出し」すのです。

 私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後のちになって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。(夏目漱石『こころ』)

 「私」が先生に近づくのは因縁です。思想に興味を持ったからではありません。二度使われる「懐かしみ」は一体どこに消えてしまったのでしょうか。書かれていることを読まないで、書いていないことを付け足す、それが日本語読解の基礎ではたまりません。

 この程度の物が権威であることこそが日本の国語教育の根本的な問題です。目を覚ましてください。廃版にして著者は蟄居すべきではないでしょうか。遠藤 嘉基さんは、日本の国語学者、京都大学名誉教授でもう他界されているようです。渡辺実さんは京都大学名誉教授。文学博士だったようですがやはり他界されています。死人に鞭打つとはこのことでしょうか。どうして故人の恥をさらさなくてはならないのでしょうか。一刻も早く、この本は隠されるべきでしょう。それにしても今更こんな本を復刻しようとした編集者は正気でしょうか。







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