見出し画像

『羅生門』の明日へ

 『羅生門』では、下人を京都に放った芥川が、『或阿呆の一生』で廃人として閉じていることをどう受け止めればいいのだろうか。実際には晩年の芥川は精力的に編集に関わってはいたのだが、本人としては気力の衰えを否めなかったのだろうか。

 私には漱石が『鼻』を評価した意味は明確ではない。しかし『芋粥』にはいまだに隙あらば繰り返し借用する作法がある。言わばお気に入りの作法である。それはこの狐の使い方である。

これ、狐、よう聞けよ。」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。「其方、今夜の中に、敦賀の利仁が館へ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今俄にはかに客人を具して下らうとする所ぢや。明日、巳時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに、鞍置馬二疋、牽かせて参れ。』よいか忘れるなよ。」
 云ひ畢をはると共に、利仁は、一ふり振つて狐を、遠くの叢の中へ、抛り出した。
「いや、走るわ。走るわ。」
 やつと、追ひついた二人の従者は、逃げてゆく狐の行方を眺めながら、手を拍つて囃し立てた。落葉のやうな色をしたその獣の背は、夕日の中を、まつしぐらに、木の根石くれの嫌ひなく、何処までも、走つて行く。それが一行の立つてゐる所から、手にとるやうによく見えた。狐を追つてゐる中に、何時か彼等は、曠野が緩い斜面を作つて、水の涸れた川床と一つになる、その丁度上の所へ、出てゐたからである。
「広量の御使でござるのう。」
 五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使いしする野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。――阿諛は、恐らく、かう云ふ時に、最もつとも自然に生れて来るものであらう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間のやうな何物かを見出しても、それだけで妄りにこの男の人格を、疑ふ可きではない。
 抛り出された狐は、なぞへの斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。
 狐は、頭をめぐらすと、又枯薄の中を、風のやうに走り出した。(芥川龍之介『芋粥』)

  改めて読み返してみればこれは何と読みやすい日本語だろうと感心する。狐の動きの表現も鮮やかで、少しも閊えるところがない。このことが今では逆に解り難くなってしまっているが、この芥川の書き言葉が日本語の書き言葉のスタイルの原型になってきたのではないかと思えるほどだ。その辺りの話は別の機会に譲るとして、今回は二つの事について述べておきたい。

 一つは「狐の使い方」である。これはジブリ映画で徹底的にこすられ、『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』(奥野克巳著)によって川上弘美作品の特徴として捉えられる前近代的アニミズムのようでありながら、「前近代的アニミズム」というラベリングでは収まらない何か得体の知れないものを見せている。「それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。」とは狐の目線である。

 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、裸体にされた馬の背中まで這い上あがった。(横光利一『蠅』)

 後に新感覚派と呼ばれる横光利一、森羅万象を主体とした丸山健二の『千年の瑠璃』もこの『芋粥』の「狐の使い方」には及ぶまい。(残念ながら。)しかしある意味ではこうして芥川以降も繰り返し試みられる何か意味のあることがこの「狐の使い方」にはあるのだということなのであろう。そしてそれは仮構を綴る小説という芸術の本質につながるものを持っていないだろうか。

 そのことはここで述べたいもう一つのこと「利仁の支配」について考える時、どうもそうではないかと思えるのである。何某という五位は利仁の意志に支配されている。利仁という野育ちの武人は芥川自身の中にはないものだ。いじめっ子を斬りつけて殺しかけた夏目漱石とは違い、芥川は蒼く脆く弱い。精々杜子春の「道徳的」な優しさがあるだけだろう。繰り返すが『或阿呆の一生』には下人の勇気も見えず、当然利仁の強さもない。この下人や利仁の強さは十三歳で家出をして長州戦争に出陣し、後には内藤新宿二丁目の広大な土地を渋沢栄一から買い取る成功者となる実父・新原敏三(にいはらとしぞう)のものではなかろうか。『羅生門』の出版記念会では「本是山中人 愛説山中話」と書いて長州人の血筋であることを誇っている。(※1)

 無論安易に父親の影響などを認めるべきではない。だが、恐らく芥川の中では明確に新原敏三そのものではないにせよ、新原敏三的な太さへの憧れがあり、そういうものが自分の中には(まだ)ないものであり、自分を支配するものとして『芋粥』の中には現れていないだろうか。しかもその太さは餓死するか盗人になるか迷い、どうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどる勇気のない弱さ、そして死人の髪の毛を抜くことを悪と断じる正義とともに下人の中にあったものである。そもそも太さはなかった。それが老婆の曲(よこしま)に突き当たり『羅生門』の結びにおいて噴き出してきた……が結局『或阿呆の一生』ではどこにも見当たらなくなってしまうものなのである。「利仁の支配」下にある何某という五位は日本の自然派の作家の描く平凡な人間である。「本是山中人 愛説山中話」として多少の自信をもって書いた『羅生門』はそうではないもの、オルタナティブなものを捉えた。これは物凄く安直にまとめてしまえば自然派でも浪漫派でもない漱石の目指した小説と同じ性質を有した方法である。当然そのスタイルは根本的に異なる。

 漱石は人間関係のパターンをあれこれと組み替えながら、そこから見えてくる隠されたものを追いかけてきたように見える。しかしその十年足らずの短い作家活動の前半には繰り返し明治政府・明治天皇制に対する批判があった。『趣味の遺伝』と『野分』を除けば、そういうもののみが全面に出てくることはなかったし、『彼岸過迄』『行人』『道草』『明暗』では完全にその気配が消えている。

 不幸なのは芥川である。出歯亀主義で生涯に当たれば、まるで太宰治のようなだらしない女性関係が見えて来る。吉原通いで体を壊した後二十三歳で『羅生門』を書き、翌年『鼻』が漱石に激賞されたところまではよいが、やがて生きづらさと堕落の中で、時代の枠組みに捉われ、反戦・プロレタリアート文学に迷い、『聖書』の罠に嵌る。

 しかしそれだけではないのだ。芥川は確かに『羅生門』で下人を夜の底に放った。狐のように。「読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間のやうな何物かを見出しても、それだけで妄りにこの男の人格を、疑ふ可きではない。」五位の意志は利仁の支配の下でこそ自由なのだ。これは長州人の血筋であるという仮構の下に「本是山中人 愛説山中話」と嘯く態度そのものではなかろうか。狐を捉え、狐を放つこと、言葉の通じない相手に語り掛け、言葉の通じない者の目線に眺められることこそが小説なのではなかろうか。

 下人の勇気を失い、利人の支配を離れたところで、『聖書』には人を救うものはない。





 


(※1)『芥川龍之介― 闘いの生涯』(関口安義/毎日新聞社/1992年)より

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?