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[小説]  カレーライス奇譚

この文が真であれば、A

X={X|(X∈X)→Y}

(カレーのパラドックス)

 カレーライスのことを書きます。――という、この何だか少しばかり間の抜けた書き出しは、大方の人はもうお気づきではありましょうが、実は、織田作之助の『四月馬鹿』の猿真似です。言わずもがな、と言いながら念押しに言ってしまいますが、私は四月馬鹿よりずっと馬鹿なので、そもそも織田作之助の猿真似しかできないのです。私の書くものは全部織田作之助の猿真似です。     
 それこそ五月になっても六月になっても、年柄年中無意味な大馬鹿なので、どうしようもないのです。寝ている時には私は賢いのですが、起きるとてんで駄目です。年末には少し、なんとかなりますが、ほんの一瞬です。年内無休のお店屋さんが、年末には休むような仕掛けです。年越しそばを食べている時だけ、私も少しは賢いのですが、後は完璧な馬鹿です。スカスカのおせちを注文して、ろくでもない福袋を買ってしまいます。お雑煮の餅をのどに詰まらせて死にそうになります。目を開けたままくしゃみをすることができません。虎穴に入らずんば虎児を得ずです。
 今や、ずんばであります。早く床にはいって、もんもんとします。昔のことをありありと思い返し、それはもうない過去なのか、今に続く在りなのか、ありありのアリとは蟻のことだろうかと思い悩みます。懐手に考えて答えのない問いに、ドウラチオの概念を押し込めようとしますが、一向に的を射ません。張さんが安打製造機であるのと同じ意味で、私は昔も今も単なる糞尿製造機です。
 先日は長い物干し棹を一本担いだ中国人のおばさんに、東十条駅への道順を訊かれて普通に教えてしまいました。そして最初に想ったのが、この40歳くらいのおばさんは私が今迄道順を教えた人の中で、一番長いものを持っていたなということ、二番目に想ったのは、物乾し竿を持った天秤座のおばさんに道を教えるのは初めてだなということ。そして十分くらい経ってから、あっ、物乾し竿を持ったままでは、あの後妻のおばさんは電車に乗れないのではないか、と気が付きました。
 私は本当に大馬鹿です。              All you can eat.
 私は以前、日産自動車の株をたくさん買っておりました。それが、例のカルロス・ゴーンさんの大騒ぎのお陰で、今ではもう、とんでもないことになりました。マツダやトヨタ自動車にすればどんなによかったでしょうか。やっちゃった、日産です。東京地検特捜部をお怨み申し上げます。もっとあちこちに色々気を使って、世界経済とかそういうことも考えて、それからお顔がそっくりのミスター・ビーンさんの方を、間違って逮捕して欲しかったと思います。
 大体、この間は、百円のコーヒーの代金を払って百五十円のカフェオレを呑もうとした人を逮捕した、なんて事件がありましたが、おかしな話じゃないですか。そんなもの、小一時間説教しておわりにするべきじゃないですか。
 東京都迷惑防止条例で痴漢が逮捕されたとか、痴漢に間違われた人が逃げ出して電車に跳ねられたとか、警察のやることはもうめちゃくちゃです。東京都迷惑防止条例に痴漢をしたら死刑なんて書いてありませんよ。人に接触してはいけないと書いてあるだけです。目的や意志や性別や年齢は関係ありませんよ。兎に角他人の衣服に触れてはいけないのです。これでは満員電車に乗ることさえできません。それから乗車券を転売してはいけないとか、飲食店に勧誘してはいけないと書いてありますので、金券ショップやグルナビは逮捕されてしまいます。バニラも串カツ田中も東京都迷惑防止条例違反です。しかし東京都迷惑防止条例は暴走族以外が落書きをすることを禁止していませんし、暴走族であっても、箴言を書く分には咎められないようですので、本当に困ったものです。ゴーンさん以外にも逮捕されるべき人は他に沢山いますよ。消えた年金問題の時、舛添さんが泥棒には牢屋に入ってもらうと言っていましたが、牢屋には一人も入りませんでした。毎月勤労統計の不正でも誰も逮捕されないでしょう。大体毎月勤労統計そのものがインチキなもので、定期代は含まれますが、定期券を現物支給すると賃金に含まないというおかしなルールなのです。
 さて、何のお話でしょうか。
 はい、カレーライスのお話でした。しかし私は馬鹿なので、すぐ何の話なのか分からなくなるのです。フッターに薄く、メモをしておきましょう。
これはカレーライスのお話です。
 私はどうしようもない莫迦ですから、暗号貨幣でも大損しました。腸内常在菌がお馬鹿なのです。本当に黄村先生です。三種類の暗号貨幣を持っていますが、ビットコインもサトシもビットコインキャッシュもみな半分以下になって、今は塩漬けです。なんならウオレットの暗証番号が解らなくなって、メモ帳が見つからなくて、もう引き出すこともできません。
 それでもなお、ロボアドバイザーが儲かるとどこかから聞きますと、早速TEHOとWhelthnaviiに大枚をつぎ込みました。その途端、アメリカのドナルド・トランプさんと中国の習近平さんが揉め始めて、世界経済が失速してたちまち大損です。ロボアドバイザーというのは、米国債や米国株のETFで運用するので、アメリカがくしゃみをするとたちまちインフルエンザに罹ってしまうのです。欠伸がうつるようなものです。アメリカ人の三割は進化論を信じていませんから、こんなことになるのです。とんだ福音です。大体分散投資なのに、マイナス運用なんてロボアドバイザーとは、かなりインチキな仕組みのようです。人から金を預かっておきながら、マイナスとは何たる不始末でしょう。攻めすぎない、守り過ぎないよりも、負け過ぎないようにしてもらいたいものです。投資に喜一憂はしませんが、原資の三十パーセントも減っているとあまりいい気持ちは致しません。大体もっともらしい話は信用できません。きゅうりやレタスやナスには何の栄養もないと昭和の時代には実しやかに言われておりました。それがどうでしょう。やれポリフェノールだ、ナスニンだ、と大騒ぎです。
 しかし本当に悪いのは、ロボアドバイザーズは儲かるぞという、根も葉もない噂を信じてしまった馬鹿な私です。因数分解辺りから算数が怪しくなります。展開まではなんとか解りますよ。括弧の中の数や代数を掛け合わせれば良いのですから、順番だけ間違わなければ良いのです。
 ただ因数分解というのは、何かインチキ臭いものに思えてなりません。どうも算数がお得意な方の脳味噌の中では1729みたいな大きな数でも一瞬にして素因数に分解されてしまうようなのですが、私にはそれが嘘に想えてしょうがありません。六が二かける三というのは覚えましたよ。計算したのではなく覚えたのです。しかし今まで約数と呼んでいたものが急に因数になって、素因数と素数のしばりまで引っ付いてきたので混乱するのです。何で素数でなきゃならないのか、説明してくれる先生はいませんでした。それによく考えてみると、素因数分解で取り扱う数字の範囲は、0と1と4と素数と合成数でしょう。合成数も自己紹介なしで現れます。困ったことになりましたよ。合成数とは素数の和だそうです。兎に角素数を導かなくてはなりませんので、2からその数の平方根以下まで、順にその数を割っていかねばなりません。平方根は無理数です。つまり平方数、四角数を丸暗記しなくてはなりません。よく調べていますと、因数分解は慣れの問題であり、公式でパターンを覚えれば直感的に解けるようになる……と論理を放棄した説明ばかりが見つかります。しかし、0が偶数である、と言われても直感は拒否します。
 小さな数であれば、偶数が素数の和であることは解るのですが、それがどこまで続くのかがわかりません。二つ以上の整数が互いに素となる確率が解らないので、素数の分布というものがイメージできないのです。コープランド–エルデシュ定数を覚えればなんとかなるのでしょうが、コープランド–エルデシュ定数って一体何桁あるのでしょうか?
 私には4以上の全ての偶数が2つの素数の和で表せるのかどうか、奇数の完全数かあるのかないのか、桂花ラーメンにミニサラダをつけたくらいで完全食と呼んでいいものかどうか、それに完全数もメルセンヌ素数も今のところ丁度51個しか見つかっていない理由も解りません。
 私には無限小も無限大も解りません。それに私には代理的整数においては、素因数分解の一意性が必ずしも成り立たないように思えるのです。しかもこの世には、本物の整数など存在しないでしょう。ほとんど整数と呼べるもの、そうでなければ無理数である実数があるだけです。身長も体重も場所を移動し気圧が変われば変化します。コンピュータではなんでも有りか無しの二進法にしてしまいますが、現実は有りでも無しでもないのです。
 それに混ぜ合わされたカレーが米粒とルーに戻る直感があり得ましょうか。
 現実とは混ぜ合わされたどうしようもないものだと直感いたします。
 それでも人が何かを寄り所として、何かを信じて生きていかねばならないという現実認識の底知れない恐ろしさにすっぽりと嵌ってしまっています。もう完全なる依存症です。依存症だと解かっていて、その依存から抜けられないので病気です。それくらいの馬鹿なのです。何か書物の中に私自身の考えごとが書いてないかと、近所の東十条図書館で仕方なしに本を読んで、昨日のような明日を暮らしております。しばしば二歩を打ちます。懸垂修飾語をしきりに使います。
 私には、風をつなぎとめて、影を捕らえる出鱈目な嘘話しか書くことはできません。
 私の書く事は全部嘘です。
 その嘘も、人真似以外にそもそも書く術というものを知りません。私の書くものはみんないい加減なものです。単なる嘘話です。危険物安全協会のようなものです。固形物流動化協会のようなものです。刺身の佃煮です。すき焼きの漬物です。いや、いや、みな、威張っていたって本当は自己弁護になるか、卑屈な謙遜になるか、傲慢な自己主張に堕ちるか、精々そんなところでしょう。私もそんなところから抜け出せないでいる馬鹿の一人に過ぎません。だから私には可能性なんてものはありません。密かに楽天で購入した男性用ガードルを履いております。これを履いていると股関節がきゅっとしまった感じがして落ち着くのです。
 単なる脱腸予防です。                                            We support Mac.
 ところがある日突然に、ままならない偶然の残酷さによって、私は汲み取り式の和式便器の糞壺に無理やり押し込められて、稀代の変態として凍死させられているかも知れません。昔そういう人が何人かいましたよね。どうにも不自然な変死体。しかし、はたから見れば完全変態死体。どうやってそんなところにもぐりこんだのか分からないという状態で私の死体が発見されたなら、流石に便所にもぐりこむことはないんじゃないのかなと、ほんの一瞬でも考えていただけたらと思います。いや、全部が真面目ではないにせよ、時々は真面目に生きてきた私が、最後の最後に雪隠詰めで殺されたとしたら、そりゃ、嘘ですよ。大体私はグロテスクなのは嫌です。ですから便器に忍び込むことは致しません。そんなことをしても所詮グロテスクを眺めるだけでしょう。
 私はロマンチストです。見えないものなど見たくもありません。大体、あれです。女子フィギュアスケートなんか絶対に見ませんね。あれは人を馬鹿にし過ぎです。テレビジョン・セットのブラウン管には、なんとか半裸に見せようとして、肌色の布で衣裳を飾り、大股をパッカパッカ広げてしなを作る若いお嬢さんが映し出されます。そんなパッカパッカの下品には呆れてしまいます。寒いのだから、しっかり温かい恰好をして滑ればいいのです。しかしそれでは殿方を魅了できないからと、半裸の振りをしてお股をパッカパッカするのです。
 それは二重の意味でいけません。
 わいせつな見世物は東京都迷惑防止条例で禁止されています。
 さて、私は今、一人の女を愛しています。その人は、まだ夫がいないようです。小さく、痩せていて、ちょこまかした動きがなんとなく愛らしいのです。声がいいのです。髪のにおいが好きです。私はその人の全てが好きなのです。全てと言っても、その心の底は解りません。大体人の心など見えないものです。字幕みたいに相手の心が見えてしまった時、その人を愛することができるかどうか、自信がありません。
 ただ私はその人の心が見えないまま、一人勝手に愛しておりました。
 少し前まで、私はその人を昼食に誘い、二人で何気ない会話などをしていました。焦らずゆっくり距離を縮めていました。ロイヤル・ホストの夏のカレーフェアで、お互いのカシミールカレーとジャワカレーを「一口ちょうだい」とシェアしたりしておりました。
 カシミールカレーは熱い国らしくとてもスパイシーで刺激的、ジャワカレーはじっくり炒めた玉ねぎの甘みが豊かな大人のカレーライスでした。
★★★★☆
 私は彼女にキッスしたいと願っておりました。なぁに、もう間接キッスはしているのです。随分前ですが、髪にキッスしたことはあります。キッスだけできればいいのです。常にそれ以上図々しいことは求めません。いや、キッスしながらお乳を揉むことができればそれ以上のことは望みません。いや、単なるハグでいいんです。身体をくっつけあい、脱力できればいいのです。耳元で何事か囁き、頷いたりと、そういう動作の中で、彼女の肉体の動きをこの腕の中に感じることができれば、もうそれ以上何も望みません。私は彼女をたった一人で、「ペッパーランチ」の店内に押し込みたいのです。、
 私はあくまで紳士的に注意深く、優しい言葉を投げ掛けておりました。誕生日には必ずどんな些細な物でも、何かをプレゼントしておりました。あまり重すぎないように、消え物が主ですが、だんだん値段を上げておりました。次は貴金属を考えておりました。そしてマンションを買いたいとチラシを見せたり、一緒にお値段以上の家具を選んでくれないかと頼んでいたりもしました。
 答えは疑問でした。
 どうして私が選ばなきゃならないの?
 私は曖昧に答えませんでした。私は仔猫のような女を求めていました。聞きとれないニャアを言う女、余り目が良くなく、手足が短く、野生があって、素早い動きの女を求めておりました。ですから僕の人生にはあなたが必要だ。どうしても必要だ。あなたなしの人生は考えられない。どうか僕と、週に一回は一緒にカレーライスを食べて欲しい、できることなら、月に一回ハグしてほしい、と言いました。
 私は全てを失いました。
 彼女は二度とあなたとカレーライスを食べることはない、と断言しました。何かの聞き間違えかと思い、阿呆のように大きな声で「えっ?」と言いました。
「え、じゃないよ。もう、疲れちゃった、ずっと言われ続けて、もう、一生ないの。そういうことは」
 その人はそう言ったのです。
「カレーライス…」
「カレーライスでも何でも同じ」
「焼きそば……」
「焼きそばも、鰻も駄目。じゃ、さようなら」
「あっ、そう…」
 一歩後退し、そんな殺生な、と呟くも声は外に出てまいりません。
私は全てを失いました。^[ed@,¥d]yjat@5jdq>私は慌てて英数小文字で呟き(あ、これは毎度使っています)、ページネイションを間違えました。
 そのさよならは、おとといきやがれの同義語です。私はもう、ヌタウナギのように半規管が一つになり、非連続な世界に眩暈がして、膝が笑って、凍ったフグみたいなのほほん顔で、あははは、豆腐の角に頭をぶつけて死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。それでも立っているのですから不思議です。私は色んなものにぶつかりながら、ふらふらとどこか解らない場所をどこまでも歩き続けて…、本当に自分がみじめでどうしようもない生き物だと気が付いたのは、つい今しがたのことです。私はもう彼女につきまとうことはできません。東京都迷惑防止条例ではタレの二度つけもパチンコの景品交換所もつきまとい行為も禁止されているのです。
つきまといはできません。もう……死ぬよりありません。
 丁度いい高さに設えられた梁も見当たりません。誰もサリンジャーの小説など読まないのです。
 もうハーネスをつけて玉川上水に身を投げるよりありません。
 もういつ奇怪な謎の変死体になっても可笑しくありません。多くの植物が葉緑体というオルガネラの乗り物であるように、葉緑体を利用しているといわれる嚢舌類にしてもオルガネラから自由なわけではありません。ミトコンドリアというオルガネラに反抗的な存在に、例えば悪性腫瘍というものがあります。糖代謝をし、自律的に増幅し、不死です。ミトコンドリアの不活性によって、悪性腫瘍が発症するという説もあります。
 しかし新たなオルガネラ候補になりたがっているウイルスを排除することが、免疫という正しい能力であるのならば、悪性腫瘍はミトコンドリア支配に対する最終手段であるようにさえ思えてきます。99.9%の生物種は絶滅しており、ほぼ全ての個体は死滅します。死なない命はありません。生命現象とは、偶然にして奇跡的な生き残りの歴史ではなく、「生」という病なのではないでしょうか。死は忌むべきものでも、懼れるべきものでもなく、人がミトコンドリアから解放される儀式なのではないでしょうか。
 さて、何の話でしたでしょうか?
 いつも私の話は混線してしまいます。あれ(・・)以来、酷い眩暈がいたしますので、お医者に行ってメリスロンを処方していただきました。メリスロンを呑むと意識がしゃんとします。
 そうです。フッターを見て思い出しました。
 カレーライスの話です。
 私は、どうも、とてもまじめな人からブンナグラレルかも知れませんが、カレーライスというものを、事の始めから、それほど凄味のある食い物だと思っていませんでした。カレーライス人気など、いわゆる戦争という飛んでもないデカダン野郎に負けたヤケクソの反動みたいなもので、本当は鰻重の方が美味しいに決まっているのです。鰻が好きなのは斎藤茂吉だけではありません。ドナルド・キーンも谷崎潤一郎も、太宰治も夏目漱石も鰻重が大好きです。もし同じ十銭でカレーライスと鰻重かどちらか食べられるが選べと言われれば、余程の生臭嫌いでもなければ、鰻重を選ぶに違いありません。鰻重はカレーライスの四倍、五倍の値段です。なかなか特別なことがないと食べる訳にはまいりません。本当の御馳走です。とりあえずカレーでいいか、ということはあっても、とりあえず鰻重でいいか、ということはありません。ところが、皇太子様が、唯一の御馳走は、カレーライスだと思っている、と宮本百合子が書いていましたね。鰻重が好物だとは、何かが閊えて、おっしゃることができなかったからでしょうか。そんな皇太子様も、まもなく上皇に立候補なさいますとか。もう、気が付かないうちにどんどん時間が経過してしまいます。ただ、カレーライスの人気だけは、昔も今も変わりません。そうして偉い人から庶民まで、大人気なのがカレーライスです。
 昼間はサイダー製造工場で働き、夜は爪楊枝けずりの職人でもあった私の父は、夕食がカレーライスだと、大喜びしてみせる人でした。みせるというのは妙な言い方ですが、わざとそうしていたように思えるのです。父が本当にカレーライスが好きだったのかどうか、本心は解りません。夕食がカレーライスだと判ると、こりゃ、御馳走だ、贅沢だ、ほらこんなに大きな肉の塊がある、柔らかく煮えているねえ、野菜もたっぷり入って栄養満点だ、何よりも香りがたまらないね、家の前に来た時から、カレーライスじゃないかと思っていたんだよ、なんだろうね、この良い香りは、ああ、美味しい、辛くて美味しい、辛いだけじゃなくて甘いんだ、よく玉ねぎを炒めたんだね、こりゃ最高だ、こんなにおいしい食べ物はこの世の中に他にないんじゃないかな、もし一生何か一つの食べ物だけしか食べられないとしたら、わしはきっとカレーライスを選ぶな、カレーライスは最高の御馳走だ。鮨なんて冷たい食べ物はすぐに飽きて暖かい食べ物が欲しくなるものだが、カレーライスなら毎晩でも食べられるよ、カレーライスには汁は要らないしね、福神漬けがあればいい、カレーライスは食べ物の王様だ…。そんなことを毎回言っていたように記憶しております。
 蓮根のひき肉はさみ揚げと筍の煮物だと、ただ黙ってむしゃむしゃ食べるだけです。ホウレン草のお浸しは何度も箸の先でひっくり返した挙句、薄い一切れだけをつまみ上げて飯の上に載せ、しばらく放っておくことさえあります。
 我が家のカレーは、ハウス食品のバーモンドカレーの、中辛のルーで作られていました。
 作り方はいたってシンプルです。
 鍋にサラダオイルを大匙一杯、牛バラ肉を塩コショウで軽く炒めて隠し味に砂糖と醤油を加えます。さしすせそのルールは、その順番に入れないと味がなじまないという法則性を示しているのです。味噌は最後に入れないと風味が飛びます。砂糖は早めに入れないと味が入っていかないのです。
 さて肉が炒まったら一旦取り出します。今度はみじん切りにした玉ねぎをきつね色になるまで炒めます。そこにやはりみじん切りのニンニクを加えて炒め、肉を戻し、乱切りにした人参と玉ねぎを加え、ひたひたになる程度の水を加えて、マギーブイヨンとローリエを入れて一時間煮込みます。一度アクを掬い、ニンジンが柔らかくなったところで弱火にして、カレー・ルーを割り入れて掻き混ぜます。そこからは焦げ付かないようにおたまで掻き混ぜながら、ぷた、ぷた、ぷた、と粘り気のある泡がはじけると出来上がりです。
 隠し味はお酒と薄口しょうゆでした。
こんなものが、父の云うところの食べ物の王様の正体でした。
★★★★★
 そんな父でも、誰かの奢りで、鰻重とカレーライスのどちらを選ぶかという話になれば、必ず鰻重を選んだことでしょう。人はなかなか本当のことを言わないものです。
 大体父の云うことはいい加減でした。そして大抵出鱈目でした。ニシキヘビは首を切ってもまた生えてくるとか、鼠もくすぐると笑うとか、三種の神器は海に没したとか、大坂の堺市では丁目ではなく丁だけだとか、八升豆には惚け防止の効果があるとか、チキンカレーとホヤとホタテは脳を活性化させるとか、そんな出鱈目ばかりを申しておりました。
 フンバルト・ヘーデルとかフンバルト・ベンデルとか、ウンコを食う前にカレーライスの話をするなとか、また王選手がホームランを打った、王選手はホームランばっかりだと、言っていました。私にも「おい、お前もいつかアンナカレー煮な、バイ・トルストイ」と言って一人で笑っておりました。おっちょこちょいで、冗談が好きで、陽気な男でした。父の愛読書は「大東亜戦史」であり「万葉集の謎」であり、「我が闘争」でした。後はたいしたものはありません。            Try it free today.
 私には今でも、父が何をしたかったのか、何のために生きていたのか、その肝心なところが分かりません。ただカレーライスを食べるために生きていた訳ではないでしょうが、それ以外に何か楽しみを持っていたとも考えられないのです。たかがカレーライスに大はしゃぎして、フンバルト・ベンデルとは、……なんともいい加減な人生ではないでしょうか。人を殺さなかっただけで立派な人間だとは言えません。私は、そんないい加減な父の遺伝子を何割か受け継いでいるのでしょう。……それにしてもずいぶん昔のことなので、記憶は曖昧です。記憶というのは、不思議なもので、私にしかないものですから、私に父がいたかどうか…。
 いずれにせよ、カレーライスが世間で大人気なのは真理ではなく、また自然なことでもありませんが、軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れないものです。代り得るものならば、ハヤシライスでもカレーパンでもカレー南蛮でも構わなかったのです。
 ただ代り得なかっただけなのです。カレーライスは自ら立候補して、随分とバズり、日本の国民食に成りおおせました。カレーライスとは、訳の分からぬ、いわく言い難いものなのです。
 これは厳粛な事実です。
 ある一時期、私の朝食は大概カレーライスの食卓だったことを忘れません。あれはククレカレーです。私はボン・カレーではなくククレカレーを選びました。それはククレカレーがバーモントカレーと同じハウス食品のカレーだったからかも知れません。私にはボン・カレーよりもククレカレーの方が美味しく感じられたのです。じゃがいもとニンジンの具、ルーに溶け込んだ玉ねぎの感じも似ています。ただし、ククレカレーの肉はブロック、牛のすね肉のようでした。牛のすね肉は安く手に入るけれども、煮込むのに時間がかかるので家庭向けではありません。だからどうだという考えはありません。
★★★☆☆
 河馬はシマウマを食べますが(随分前、ブログで教えてもらって、YouTubeで観ました。河馬は大きな口を開けて、美味しそうにシマウマを食べていました。それはまるで労働戦士がカレーライスをむさぼり食う姿の様でした)、私は馬鹿なので有難がってカレーライスを食べるのです。カレーライス万歳です。ボロ家に住んでみすぼらしい服装をして、冷や飯を冷蔵庫から取り出してレンジでチン。湯煎したククレカレーをかけて食べます。
 レンジでチン、レンジでチンです。            糖質オフ
 チン……と鳴っても、もう誰も笑いません。私には、そんなチンのカレーライスを、美味い不味いとも考えることなく、ただ口に運びました。何日も、何日も。私はただ毎朝チンしたカレーライスを食べて、それから何をしていたのか記憶にない時代がありました。
 記憶にないと言うと誰にも信じて貰えませんが、本当につじつまの合わない人生を過ごしてまいりました。小状況としては真面でも、十年でくくるとドタバタ喜劇です。ふざけていた訳でもなく、怠けていたわけでもないのですが、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
 本当に何をしていたのか、全く記憶がありません。ですから私にはカレーライスに対する尊敬なり、愛憎なんてものはありません。土台学というものがありませんから、蘊蓄もありません。美味い不味いを云々するレキシコンがありません。
 カレーライスというものは、所詮自立できるものではありません。
「ねそべつて書いて居る手紙を鷄に覗かれる」で有名な尾崎放哉の句に「入れものが無い両手で受ける」というものがありますが、カレーライスではそういうわけにはいきません。
 早い話がカレーライスという料理を新聞紙の上に載せて出されたら、おそらく誰も食おうとする者はありますまい。渋谷のスクランブル交差点の真ん中にぶちまけたら、ガングロ山姥から悲鳴が上がるでしょう。それはなぜでありましょうか、いうまでもなく、柳田國男がぱっくりと割れた木通を持って迫ってくるからではありません。新聞紙の上に載せられたカレーライスがいかにも醜悪なものに思われ、飛沫となったカレー汁が究極の弱者の命がけの反撃に見えて、嫌らしい連想などが浮かぶからでしょう。認知のゆがみです。
 アメーバブログに書かれた小説など、誰も読みますまい。ところがそれが一流の文芸雑誌に掲載されたとなるやたちまち結構なものだと有難がられるものです。
 それと同じことです。器が肝心なのです。
 それにしても最近気が付かないうちに、何やら世の中が騒がしく、私はラジオ受信機を持っていない上に町内会費を滞納して回覧板すら回ってこないので、得体の知れない不吉な塊に始終心をおさえつけられていました。金木犀の花も散り、近所にはクルタパジャマを着た浅黒い肌の人々も増えているようですが、カレーもライスも手に入らないなどという噂が聞えてまいりました。
 何のことやらよく分からないのですが、天子様が架空なる観念を否定され、日本を迅速且つ完全なる壊滅からお救い下さったとのこと。
 来年には元号が変わります。
 キャッシュレス決裁が促進され、新しい天子様がアマテラスオオミカミ様と結ばれる登極の儀が執り行われるそうです。大体昔の家系というものは血のつながりというのは怪しいもので、養子なんかも多かったですし、二代遡るといいかげんなものだったのですが、アマテラスオオミカミ様と直接結ばれるなら何も文句はございません。
 未来投資会議は日系四世を含む日本国民が一億火の玉となり、第四次産業革命を乗り越え、サイバー空間とフィジカル空間が高度に融合した超スマート社会Society5.0の実現に向けて、センサー、ブロックチェーン技術、全天候型ドローン、VR、準天頂衛星システムみちびき、ロボット、データサイエンティストを大活躍させ、GAFAをやっつけることを決めたそうです。行政手続きコストを20%削減させるのだそうです。いけいけのメンバーがブレイン・ストーミングみたいに無責任なテーマを吐き出しているので、もう何でもありです。誰も正義のコストなど考えておりません。経済理論を持たない道徳は無力であると、あれだけお父さんお母さんに叩きこまれてきたはずなのに、いけ酒蛙酒蛙と無尽の奉仕を求めます。まことに恥ずかしいことです。誰一人まともではありません。
 黒戸の御所が廃され、宮中三殿に皇霊殿が整ったとの噂もあります。伊藤博文が海外から買い付けたステッキ仕込みの散弾銃によって皇太子様が襲われ、帝国議会衆議院では南朝を正統とする決議がなされ、大杉栄が古井戸に投げ込まれ、なんたら事変が起こり、猫と杓子が寄ってたかって、戦争だ、玉砕だ、そうだ、そうだ、賛成だ、賛成だ、非国民だなどと、わいわい言っているうちに、日本はかなり粘ったのですが、結局は戦争という大きさのケタの違うデカダンに負け、そして亡びかけたそうです。軍部は国民を皆殺しにしようと計画していたのですが、聖上陛下がポツダム宣言全部承認の御英断により国民の生命をお救い下すったのです。
 「聞いたか。わかったか。日本はアルノミトスのポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。しかし、それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あく迄までも抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。いいか。よし。解散」と威張っていた軍人もどこかに消えてしまいました。大地震が起こり、光陰流水、飯米獲得人民大会が開かれ、楠木正成公が明治以来何故なのでしょうか、大人気で、幻の南朝に忠義を捧げると言っていた三島由紀夫が七生報国の鉢巻きを絞めて生首になったとまでいう者もいる始末です。
 未亡人の恋愛を書く事が禁じられ、金融封鎖があり、対馬の人口が三十五人になり、漱石アンドロイドが完成して、来年には消費税が10%になるそうで、再来年には東京でオリンピックが開催されるそうです。考明天皇が肛門脱でお亡くなりになり、なんだか出鱈目なことになりました。
 京都から江戸へ、≪天子様≫がいらっしゃってから、何が何だかおかしな具合です。どうして討幕したのに、天子様が京の都から、江戸にお越しになる必要があったのでしょうか。あの頃は西国の田舎者が江戸を散々荒らし回っておりました。江戸の生娘が随分手慰みものになりましたが、天子様は何もおっしゃいませんでした。しかし日々何十人もの生娘が、薩摩武士の手慰みものになっていたのでございます。
 まあ、何を申し上げても蟹のアブクです。
 今さら何を申し上げても、どうにもなりません。インターネットで安かろう、悪かろうの商品を購入してしまったようなものです。バックキャスト思考です。
 所詮、私の書くものは危険なカストリ小説です。
 安かろう、悪かろうです。一人で咳をしております。一日ものを言わず過ごすこともあります。固くて蓋の開かないピクルスの瓶を書棚に飾っております。ヤングコーンの黄色と胡瓜の緑、ニンジンの赤がどこかの国旗のように意味をなしかけ、意味を成しえないまま小さくとどまっています。冷蔵庫では、白菜をジップロックで浅漬けにしております。鉛筆を尖らせ、爪を短く切り、雑巾を絞り、豆の皮を剥き、ごろりと横になります。
 そうして一日一日を使い果たしております。
 私は久々に外に出ることにいたしました。静寂な雑踏が恋しくなったのです。どんなホモ・オプティマスやGMOサピエンスが歩き回っているのか確かめたくなったのではありません。EXIOの加圧タイツにユニクロの化学繊維のジャンパーを引っかけて、最近雑誌で評判のラーメン屋、机上の空論の煮干しそばか、とん八のからし焼きでも食べに行こうと表に出たのです。
ラーメン屋は大抵味噌なら味噌、とんこつならとんこつを売りにして、味噌が売りのラーメン屋の醤油ラーメンは適当な味だったりしますが、机上の空論はネギ味噌中華そばも美味しいのです。
 とん八のからし焼きは北区おでんと同じで北区独特の食べ物なのですが、板橋大山の「洋包丁」でも食べられます。そちらは『孤独のグルメ』のアームロックで有名な店です。「味包丁」だったものを「洋包丁」にすり替えて営業していますが、とん八のからし焼きの方が私には合います。大体からし焼きといっても、とん八と洋包丁では見た目が全く違います。
 どちらにしようか、私は迷っていました。とん八のからし焼きか机上の空論煮干しそばか。ところが外に出た途端に忘れてしまいます。膝がぽきぽき鳴ります。
 すると何だか半年も一年も芋ばっかり食べていたような気分になって、カレーライスが食べたくなるから不思議です。それは全く何の内部構造も持たない値になった気分に似ていました。CSVのⅤみたいなものです。ふっと眩暈がいたしました。血糖値が下がっていたのでしょう。メリスロンは家に置いて来ました。
 そうなるともう私は愚かな虫けらです。食欲だけで生きています。
 皿に盛られたカレーライスが食べたくて食べたくてしょうがない。
 ふらふらと東十条の崖を超えますと、そこは貧乏たらしくごみごみとして、しかも不思議に移り変わりの少ない、古手拭のように無気力な町でした。
 まだ「一億特攻」だとか「神州不滅」だとか「勝ち抜くための貯金」だとかビラの貼られた塀の前を通り過ぎ、闇市の方へ向かうと、嘘かまことか風に乗ってカレーの良い香りが致します。美味しいカレーライスはある、カレーライスの美味しさというものはない、という表現は小林秀雄の奥義ですが、やはりカレーライスの美味しさというものはあるでしょう。カレーライスの香りというものは、たちまち嗅覚を支配し、人を非論理的にいたします。
 飼い葉桶の横に死んだように寝ている人を避けて近づいた闇市場の食堂の一つ飾窓には、確かにカレーライスの見本も出ています。杭に縄を張って茣蓙を敷いたような闇煙草屋の隣に、たまたま焼け残った、昔からの食堂のようです。
 構えさえあれば、そこはそれ、北区は赤羽から十条、王子、滝の川まで、火薬庫やら陸軍被服本廠やら明治以来数々の軍事施設がございました。戦後アメリカ軍によって接収された十条駐屯地から流れ込む軍用物資のお陰で、東十条闇市には何でもあったのですから、カレーライスが売られていても不思議はありませんが、主食を売れば摘発されるのは仕方ないので、みんなこっそり売っているところを見本迄飾るのはどういうからくりなのか判然としません。密告されれば、闇物資はたちまち押収される運命です。
 北区は特別な区です。北区には唯一、山手線の踏切があり、JRの駅が11もあり、最多なのです。
 そりゃ、十条は朝霞のキャンプドレイクから物資が流れ込む大山の闇市からも近く、各々の闇市から近い東十条では金さえあれば、何でも手に入ったようですが、ここだけ制服警官が来ないという理屈はありません。それでもカレーライスの強力な吸引力に釣られて、私はいそいそとフランス落としの扉の中へ入り、唐辛子入りのソーダ―水のような目つきの、鼻の大きな痩せた青年の隣の席を占めました。
「何を召上るんですか!」ぬっと傍に立った女給は、叱りつけるような大きな声で訊きます。田舎者の癖に田舎者を見下すような気性の荒い女です。
「スミマセン、カレーライスはありますか……?」女給に訊いてみると、
「ありますよ」と答えるのにまだ不審がって、
「ライス……って、本物の米なんですか……?」と念を押すと、
「モチ・コース、純綿です」と答えます。モチ・コースとは勿論のモチとオヴ・コースのコースを足して合わせたようです。
「純綿……?」と、きき返したが、「――ア、そうか。白米か」と、すぐ判りました。値をきくと、十五円だと言います。
「高い!」
 と、思う前に、私はとにかく特別食堂以外で米の飯が食えるという意外な発見に、気持が浮き立っていました。十五円という金がキンドル作家の収入の、殆ど一日分――いや、それ以上の大金だということには、私は暫らく気がつかなかったのです。全く渡世を油断したものです。
 私の原稿は、もはや殆ど金になりません。
 そもそも今の若い人は、有名でもない人の書いた小説など読まないのです。
 漫画とゲームで十分なのです。
 無名なものは情報の一番底に沈められてしまう仕組みが出来上がったからでもあります。                      送料無料
 ずっとずっと高い、見上げることもできない高み、ホンモノのプラットホームが現われました。
 プラットホームは情報をランク付けして、探しやすくします。
 その代わり、無名なものは徹底して隠します。笠井与作で検索してごらんなさい。
 何も見つかりません。
 便所の変死体で検索すれば、何か気持ちの悪いものがぞろぞろと出てまいります。
 私は便所の変死体以下の存在なのです。
 それは「マサキリ」で検索するとほぼ深沢七郎の『風流夢譚』の情報しか出てこないようなものです。
 今、アマゾン・サイバー・マンデーの真っ最中ですが、キンドル本は、なかなか売れるものではありません。それはキンドル本が一夜づくりの安物ばかりで、本の中味が粗雑で内容が乏しいからだ、とお叱りを受ければ、それはある通り、その通りではございますが、何しろ電子書籍というだけで、そもそも売れることが難しいのです。
 この理屈はある意味致命的です。
 あらゆるコンテンツが無償になるという予測の一部です。
 何故なら電子書籍は、デバイスの中のデータでしかありません。それを読むにはキンドルのアプリを開かなければなりません。もうお分かりですね。電子書籍はLINEやTweeter、漫画読み放題アプリやディズニーツムツム、そしてエッチ動画とスマホ画面を競わなくてはならないのです。
 まるでそこに「階段の降り方」でも書いてあるかのように、混雑した駅のホームをスマホ歩きしている人は、まあ、キンドル本など読みません。
 キンドル本を読むのはよほどの変わり者だけなのです。3480円でFire7を買った人達です。二宮金次郎です。
 ですから私のキンドル本は、たまに売れたと思えば、たちまちキャンセルされ、罵詈雑言がレヴューに書き込まれることになります。間違って買って損したとか、下品で食欲が失せたとか、死んでほしいとか、そういう書き込みで溢れます。キンドル本はアマゾンのプライム会員になると自由に読むことができます。そうしてどなたかとても奇特な方が、たまたま百ページ読んでくださいますとだいたい十円くらいが売り上げとなります。すると月末にはドイツ銀行のアマゾンの口座から私の楽天銀行の口座に十円が振り込まれるという仕掛けです。アマゾンは十円でも二十円でも振り込んでくれますし、楽天銀行は海外からの入金で10ポイント貯まりますので有難いものです。
 大体、私くらいの無名の人間のキンドル本が一日に読まれるページは百枚以下で、ごくたまに頭の可笑しい人が執着して、千枚を超える程度です。平均すれば数十枚、大した売り上げにはなりません。
 今、この現在において、小説を書くことなど、湯を沸して水へ入れるようなもの、何の役にも立たぬ、いささか腑抜けた振舞いであります。小説が余りに読まれないので、仕方なく筆硯を新たに時流に阿ったビジネス本もどきにも手を染めてしまいました。何の根拠もないことをいかにも勿体らしく書いて、それで食いつなごうという浅ましい魂胆です。それでも大体ひと月の売り上げは三百円あるかどうか。LINEスタンプも売っておりますがなかなか承認されず、その報酬は僅かに月額六十円足らずです。所詮は懐が弱るばかりですが、貧乏では死ねないもので困ります。
 そんな貧乏人の私が、お金の勘定もできないで、しかも、その闇食堂に、どうして白米があるのか、毎日何百杯かのカレーライスを売るだけの米があるのか――ということも、考えないで入ってしまったのは、もうカレーライスの神秘というよりありません。いえ、あらゆる行為が、錯乱が、分裂が、矛盾が、私という生きている人間には可能だったのです。ですから私はただ、米があるということに安心していました。
 「日本は滅ぶね、と夏目漱石は『韓満ところどころ』で書いていたが、なんのことだ、ちゃんとこうしてカレーライスがあるじゃないか」
 食糧危機だなんて言葉は嘘なんだな――と思いながら、いきなり甘い気持が胸に湧きました。日本という国は神国なので、これから何千年も安泰だと思いかけたのです。
 私は女給にカレーライスを注文しました。
 そしてふと思い立って、「王子はありますか?」そう訊いてみました。
「ゆで王子? 王子焼き?」
「生王子、それからウスターソースをかけて、あんじょうまむして欲しいのですが、できますか」
 女給は何の意味か指を折り、「二十円」と言いました。二十円とはどこから割り出した勘定だろうと一寸考えて、なるほど、玉子が十円だなとわかると、噴きだしたくらいです。何を勘定したのか、もう無茶苦茶な計算です。ガロアが怒ります。胸算用が食い違います。しかし何しろ私の算数は素因数分解くらいで怪しくなりますので、加法に関する可換群が解りませんので、堂々と文句を言うことができません。戦前には十銭でカレーライスが食べられました。寿司も漫才も十銭、十銭芸者なんてものもございましたが、何せ闇市ですから、そこは言い値で通ってしまいます。
 女給は手を出します。何のことか解らず、ほんのちょっと間が開いたのですが、すぐに前払いだと気が付きました。
「PayPay使えますか?」
「北北?」女給は何のことか解らないという顔をします。
 そういえば店のどこにも赤地に白いPのマークがありません。これではまだオリガミPayにも対応していないでしょう。
 奥のテーブルでは、証紙の貼っていない旧円で注文しようとした客が、尻を蹴とばされるようにして追い出されています。未練がましく軍票を差し出しますが、払いのけられて散らばってしまいます。証紙だって闇市で売っているのに、その証紙を買う金もなく、旧紙幣と証紙を両方引き受けて新紙幣に換える闇屋があることもご存じないらしいようです。
「じゃ、LINEPayで」
 私がそう言うと、女給は何だ、という軽蔑しきった顔をして、腰から下げた読み取り機をこちらに突き出しました。私はコード支払いをタップ、パスワードを入力して読み取り機にスマホをかざしました。
 それから隣の席をちらりと伺うと、鼻の大きな痩せた青年のテーブルにはカレーライスと天丼が同時に運ばれてきていました。
 ああ、なんという贅沢。なんという炭水化物。
 斜陽族だ。元華族だ。
 ご落胤だか何だか、おそらくそんな人に違いありません。とても元労働戦士や復員軍人がカレーライスと天丼を二つとも注文できる筈はないと直感しました。昔の偉い人は鮭みたいにあっちこっちに引っかけていましたから、斜陽族も沢山います。見るからに戦前の仕立てのサージの黒いズボンに、しゅっ、とした神戸風の青いネルシャツを着ていました。
 斜陽族もそう物を云わない時世になっていましたから、そこは心得たもので、たまに匂わす程度にしか斜陽族ぶりません。ロシアでは、カレーライスでも、手で食べるそうですが、彼はまず、右手にスプーン、左手に箸、右手と左手をかわるがわる口へ持って行ってカレーライスを食い、天丼を食べました。そして、一寸考えて、オムライスを注文しました。暫らく水を飲んでいましたが、ふと給仕を呼んで、再びカレーライスを注文しました。モジモジしてとても上品に乞食ぶるのがあざやかでした。そして右手にスプーン、左手にもスプーンを握ってカレーライスとオムライスを同時に平らげました。そして十分後にはにぎり寿司を頬張っていました。私は斜陽族の旺盛な食慾に感嘆しました。その逞しさに畏敬の念すら抱いたものです。
 これだから日本は本当にアメリカに負けた訳ではないのだ、と私は確信しました。誰も日本を本当に打ち負かすことなどできません。
 できるはずがないのです。
 カレーライスが食べられる限り、日本は本当に負けたとは言えないのです。
 カレーライス万歳。                五分で読めます
 しかしさすがに時世です。私のテーブルに運ばれて来たカレーライスは、ククレカレーからあらかた具を攫ったような粗末なもので、米もレンジでチンしたものと大差ない古米のようでした。それでも、その瞬間には、このカレーライスは私にとって大層美味しく感じられるものでした。カレーライスなんてものに使う米は、少しまずい米でないといけないのです。確かに辛い。きっと板橋本町にできたS&Bの板橋スパイスセンターから上等なカレー粉が運ばれてきたのに違いないと思いました。私はまぜカレーにさらにウスターソースをかけてまむして食べました。ウスターソースの酸味を生卵のまったりとしたこくがカレー粉の辛みと一体になって、耳の下がぎゅっと傷むような感じがいたしました。これが自由ということだと感じました。私は素因数分解が嫌いです。くっついていたものを無理やり分けてしまう理由が分かりません。それは恋人寸前の二人を引き裂くような残酷な振舞です。
なにがさて私は幸福だったのです。
★★★★★
 こうなるとどうしても、良く冷えたビールをごっくごく、喉仏を大きく上下させて飲みたくなります。まだ昼間ですが、構うものか、日本は戦争に負けてはいないんだ、私は自由なんだと、女給を呼びました。そりゃ、プランタンやエスキーモ、ライモンディの本格カレーライスとは比べるべくもありませんが、その瞬間の私は辛い、辛いと言いながら、ソースをかけて食べるこの闇市食堂のカレーライスが、紛れもなく一番の御馳走でした。
 私がのほほん顔でカレーライスを食べていると、痩せおとろえた十六、七歳の薄汚い少女が、垢と泥が蘚苔のようにへばりついている跣足のまま、フラフラと店に入って来ました。何と言いますか、左右の足がもつれて、行き先を失ったというよりは、昆虫のような本能に基づいて、食べ物の匂いに引き寄せられたという感じが致します。美しい少女ではありませんでした。というより、伸び放題の長い髪が顔を隠していて、なんとも判別ができません。肥っていないことは確かですが、ただそれだけです。魅力なんてものはありません。
 しかし……その女は誰かに似ていました。私の知る誰かに。
 ただそれが誰なのか、どうしても思い出せません。私は大人たちが次第に英単語のスペルを忘れてしまうように、大酒を飲んで小脳を委縮させるように、日々記憶をもぎ取られていました。
 なんにせよ、今時は握り飯一つで春をひさぐ女もいるという噂を思い出し、おまけに証紙も貼っていない旧紙幣をつかまされる憐れな女もいると聞いていて、こんな薄汚い小娘を目にした途端に、そんな馬鹿らしい噂を思い出してしまった自分を浅ましいと嫌悪いたしました。
 中原中也はメンコや十七の娘が好きでありましたが、私は、なんのことはない二十歳以上の美女を好みます。上なら上で構いません。大地真央を抱いちまおう、です。
 女の子が短いパンツをはいて腰を振ったり足を上げたりするだけでは、大したエロティシズムもないし、そうしたマハラジャのような世界を豪華だとか青春の夢だとかいって騒いでいたのもおかしいけれども、そうしたものがすっかりなくなってみると、やはりみすぼらしいよりは華やかな方が良いと思えます。こんな娘は誰も助けてやらないだろうなと思いました。私はこの子の行く末を案じていました。この子を殺してはいけないと思いました。何しろこのまま二三日、この小娘に飯を恵む者が現れなければ、溝の中に屍体が横たわることになるのは火を見るより明らかでした。
 私にはその確かな未来を壊してみたくなりました。
 私が女にカレーライスを食わせれば、女は死ななくとも済むのです。それは、日本が戦争をしなければ原爆を落とされることもかったなどという類いの架空ナル観念ではありません。僅か数十円のお金で一人の女の命を救うことができるのだという、慈善でも、欺瞞でもない計算です。
 しかし他人の女のまだ訪れない死と、私の今この瞬間の幸福との間にどんな取引が必要だというのでしょうか。私は自分の幸福に念押しすることにしました。
「ビールは、ありますか?」
「あるよ。あるけど、あんた…」
 女給の顔にはあらわに苦笑が浮かび、何故なのでしょうか、厭らしく、ちらりと目を遣ります。その先には件のみすぼらしい少女が立っているであろう気配があります。私はあえてそちらを見ません。見られないのです。何を余計なことを。女給はあの薄汚い小娘を私の連れと勘違いでもしているようです。これでは赤坂アークヒルズのオープンテラスでパンくずを強請る人に馴れ過ぎた雀と同じことです。
 明日にでも赤坂アークヒルズに行ってみてください。沢山の雀が、パンくずを要求してチュンチュン鳴いております。膝には乗りませんが、すぐそばにやってきて睨みつけます。必死なのはわかるのですが、厚かましいことには変わりはありません。第一、今は人助けをしている余裕のある人など一人もいません。私はサマリア人ではないのです。みな自分一人が生きていることに精一杯なのです。他人に恵む余裕がある時代ではないのです。
「ビール一本と、握り寿司」
 私はそう注文して、またスマホで代金を支払いました。それから、もっともらしい顔を拵えてゆっくりと振り向きました。韓国ドラマの財閥の御曹司のような、大層厭ったらしい感じで、みすぼらしい娘を見たのでした。
「あなた、お腹が空いているでしょう?」
 みすぼらしい女は返事をしません。聞こえていないというよりは、話しかけられたとも気が付かない様子で、テーブルの上のカレーライスを睨んでいます。
「私はもう日本浪漫派にも無頼派にも随いて行けず、谷崎も川端も信じられず、タチなのかネコなのか解らぬような曖眛な表情で、葦編三絶、青春時代を送って来たんですよ。そしてもう、あとはただ死ぬだけです。何の価値もない文学者です。まア、いわばスッテンコロコロですね」それはもはや女に話しかけているのですらない。自分自身に対する言訳でありました。自分のことを文学者などと呼ぶには、博士号くらいは持っていないと格好がつかないものですが、私にはそんなものはありません。どうしてそんな言葉が口をついて出てきたのか、自分では解かりません。多分蓮實重彦くらいでないと分からないのかもしれません。
「お父ちゃんやお母ちゃん、何処に居たはるねん」
 女は返事をしません。しませんが、すり足で半歩こちらに近づいたような気がします。つんと鼻を突く鋭い臭いがします。こんな子を店に入れるのは、何の流儀か知れないと怒りの手前のいら立ちのようなものを感じました。
 しかし私の言葉も酷く無神経なものに感じられて、今すぐ取り消して全面謝罪したいようなものです。もう平謝りで、涙ながらポツダム宣言受諾です。全面降伏です。お父ちゃんもお母ちゃんもどこにいるのか分からないから、こうして闇市の食堂に素足で迷い込んだのでしょう。私に彼女を蔑視する権利などありません。ある筈もありません。日本人は皆貧しかったのです。みんなお腹を空かしていました。私は無茶を言ってしまいました。
「お腹が空いているんじゃないですか。良かったら隣にどうぞ。何、このご時世ですからお互い様ですよ。間もなく握り寿司が来ますが、それまでの間、どうです、食べかけですがカレーライスでも召し上がりませんか?」
 私の魂胆は見え透いています。こんなちょっとしたエピソードを小説に書いて、何とかキンドル本にして、奇特な方々に読んでいただいて、何とか十円でも二十円でも稼ごうというつもりなのです。ロングテール商法です。それから打ち解けた二人が躍る様子をTikTokで映して、Tweeterに上げたいのです。そうして少しでも、ほんの少しでも人気稼ぎをしてキンドル本の売り上げを伸ばしたいのです。全ては生きる為です。
 しかし女はまた半歩間合いを詰めるだけで、私の顔を見ようともしません。困ったものです。腹を減らしているのは見え見えなのに、まだ何かどうでもいいプライドが邪魔をしているのか、女という生き物は月夜の乗物に二つ提灯といった無用の見栄を張りたがるものです。これは「ドン・中矢・ニールセン、ベニー・ユキーデらの影響からか、パンタロンの方がキックの見栄えがよいと、ベルボトム型ロング・トランクスにこだわった小林邦昭的問題」として捉えるべきでしょうか。滅多にない幸運に戸惑っているのか、いやとてもそんな風には見えませんでした。まるで私などこの世のどこにも存在していなくて、ただカレーライスだけが存在しているかのようでした。
 私にはそんな彼女の食欲が少しも不快ではありませんでした。それは武田泰淳が女にトンカツ食べさせて、キッスをせがむというエピソードを思い出していたからです。武田泰淳は全肯定の太陽のような明るさを求めたのですが、今の私にはそんな武田泰淳の渇望がわがことのように感じられます。私は純粋な食欲というものを好ましく思ったのです。それが本当の人間らしさというものではないでしょうか。
 どんなにみすぼらしく薄汚い女であれ、風呂に入れて、綺麗な衣裳着せて、化粧をすればそれなりになるものです。この女もきっと、不幸なことに、ボコ・ハラムか何かの襲撃によって家族を失った一人ではありましょうが、こうして私と巡り会えたことは幸運に違いないのです。私には少なくともキンドル本で稼いだ金があります、と、隣の斜陽族がオムライスに噎せ返り、米粒の四粒を床に履き散らしました。そりゃ、両手にスプーンで掻き込んでいれば、無理のないことです。私が驚いたのは、社用族が吐き出した四粒の米粒を汚い床から素早く摘まみ上げて女が食べてしまったことです。これでは酔っ払いのゲロを啄む鳩と何ら変わりはありません。そして私は少なからず傷ついていました。私が舐めた匙で食べかけのカレーライスを恵まれることを拒み、社用族が吐き出した米粒を慌てて床から拾って食べる女のその価値基準に度肝を抜かれていたのです。これではナッシュ均衡も現状維持のバイアスもあったものではありません。私はもう即座に口を開けば、あわわ、とでも言いそうなところを何とか数秒間耐えたのです。
 物乞いにも、本来いろいろな作法がありましょう。それまで私が最も厭だったのは安倍公房の『箱男』が下水に網を張って残飯を攫う作法でした。しかし目の前で若い女が床から米粒を拾って口に運ぶのを見てしまうと、そんな架空ナル観念は吹き飛びました。誰であれ、他人であれ、それが鳩や雀ではないのたから、けしてそんなことをさせてはならないという強い気持ちが私の唇を震わせました。それは正義感とか、道徳心というような薄っぺらな思想ではありません。教育で与えられたものではなく、父母が私に見せなかったものです。
「駄目だ」              体に良い油を使用しています
 数秒間、私は誰かの返しを待っていたのではありません。私はただ、自分の中の震えに耐えていたのです。私の食べ残しを一口食べませんかとは、何たる侮辱、言い訳の出来ない人権侵害でありましょう。私は彼女を唾飼いしようとでもしたのでしょうか。ゴールデンリトリバーの赤ん坊に唾液のついた齧りかけのクッキーを与えるように、食べ残しのカレーライスを与えることによって、彼女を支配する気満々だったのではないでしょうか。いや、自分に質問してどうしますか。私にはそんな隙があったのでしょう。そんな驕りがあったのでしょう。驕りでは済まないかもしれません。ボコ・ハラムと何ら変わりはありません。私は何か自分の優位なところを使って、みすぼらしい少女を支配しようとしていたと言えなくもありません。
「君、兎も角、ここに坐りたまえ」
 私は何とかそう言うと、震えながら電子煙草を取り出し、それから思うところがあって、すぐにしまいました。このところ煙草を吸うシーンは編集者が真直ぐにピーッと赤線を引き、トルツメとやる習わしが続いていました。小説も厚生労働省に逆らうことはできません。そりゃ、ちょっと前までは駅のホームでも電車の中でも、煙草を吸うことは当たり前でした。今では環状線で煙草をふかしていればちょっとした事件にもなりましょう。喫煙者にアルツハイマー病患者が少ないことから、ニコチンは脳を正常化させるのではないかと思いますが、もてあました感じて煙草を吸うことは、今ではタブーなのです。
「おかけいただけませんか」
 女は動きません。なんなら斜陽族の方を見て、次の噴飯を待っている構えです。
「どうか、お願いです。私はあやしいものではありません。つまらない文学というものをやっているものです。あなたにおかけくださいというのは、何の下心もありません。ただ、いくらなんでも鼠が走り回る床から米粒を拾うことはないんじゃないかと言うおせっかいです。私の聞いたところによると、今シェアリング・エコノミーが盛んらしいじゃないですか。何でもマッチングの時代です。所有の終焉なんて言う人もいます。そう複雑に考えないでください。複雑な問題に対しては、問題を小分けにするという方法や近似値で解くという方法があります。あなたは今、私が何を考えているのかと考えているのでしょう。そんなことは考えても無駄です。有名な心理学研究の再現率は40パーセントに届きません。今のところ心などというものがあると考えるよりもカルキン環やヒルベルト空間が実在すると考える方が科学的なのです」
 女の目に一瞬何か意識の気配のようなものが戻った気配がありました。人の形をした何かから、人間に戻ったのです。蘇生したのです。何もないところから帰ってきたのです。私は歓びが隠せないまま、つい声を大きく、なおも呼びかけていました。
「毎年年末になりますと文学をやっている人間限定にセブンイレブンの350円以上のお弁当が50円引きになりますが、私はそんな立派な文学者ではありません。アマゾンでキンドル本という電子書籍を売っている馬鹿です。ええ、本当にただの馬鹿です。ですからどうぞご遠慮なく、ここへお掛けなさい」
「チョツ」舌先を鋭く強く、斜陽族は舌打ちをしました。「文士様が酒蛙酒蛙と人さらいとは、何とも胸糞悪いですぜ」
「な、何を?」
 一瞬にして声を震わせるほど怒っていた私の顔を、鼻の大きな斜陽族は悠然と睨みつけています。正面から見ると鼻はますます大きくて、感心致しました。喧嘩の前から勝負がついているというのはこういう状況を言うのでしょう。声ばかりではありません。私は両手をガタガタ震わせていました。
 私は狼狽して、まったく、のぼせてしまっていました。目が回って、もう、言葉が続きません。自分の中に下心があったのは間違いないことですし、見ようによっては、確かに私はカレーライスを餌に、このみすぼらしい女をたぶらかそうとしていると勘違いされても仕方ないところがありました。このみすぼらしい女を東十条の安アパートに連れ帰る前には、どうしても蛹油で拵えたのではない高級石鹸、つまりレモン石鹸と手拭いを手に入れて、近所の地蔵湯で体を洗わせなくては臭くて敵わないだろうと一瞬でも考えなかったとしたらそれは嘘です。はい、考えておりました。しかし、けして助平な算盤づくではありません。全てはお金の為です。
 生きるとはトッチメラレルコト也とは申しますが、それにしてもとんでもない角度から矢が飛んできたものです。
「ねえ旦那、その子はおよしなさい。見るからにまだ子供だ。勘弁してください。また女ではありませんよ。文士様ならば、そのくらい解るでしょう。そんな子を汚しちゃ、いくらなんでも流石に可哀想だ。闇の女はその辺りにうろうろしていますよ。他になさい。先生は、赤羽のガード下で十銭芸者でもお買いなさい」
 何ともおしゃべり上手な斜陽族がいたものです。しかし口先だけではなく、毎朝棒切れを振り回していて、腕力にも自信があるのかも知れません。そうでなければこんなに真正面から人を睨みつけることはできないでしょう。因果律を否定しながら、ある現象がまさに起こっている場に参加し、そこで会話するということは、無意識であったものの先見性を失わせる危険な振舞です。
 共有されるかと思えた世界は、互いに向き合う視線の先にあり、その人の背後にそれぞれ異なったものを見ます。発せられた言葉を定義する辞書はそれぞれ別物で、多様な解釈と立場とうつろう感情がすれ違います。
「あなたには関係ない」               Wi∸Hiあります
 言った傍から不味いことを言ってしまったものだと後悔しています。これではまるで人さらいそのものの台詞です。それにどこから絞り出したものだか、声もガラガラです。アドレナリンが大量に放出されていて、脈が上がり、咽頭が膨張しているのでしょう。
「何ですか。ルンペン相手の売笑婦では不満ですか。では一体、文士先生とルンペンの違いがどこにあります。ルンペンだってルンペンの道義があります。やることは一つでしょう。どこに貴賤がありますか。そして女衒には女衒の流儀があるでしょう」
 斜陽族はそう言い終わると、家庭用麦酒をガラスコップに注いで美味しそうに飲み干しました。その余裕しゃくしゃくのゆったりとした動作の間、私は目を白黒させながら、油断のない言葉を探していました。だが、あなたには関係ない、という前言のお陰で、今更何を言っても理屈が通らないような気がしてきます。あなたには関係ないということは、私とこの女の問題だということになり、私とこの女の間には一定の関係性があるということになります。しかし現時点では、私か勝手に女に話しかけているだけで、まだこの女と私の間には何の関係もありません。関係と言うのなら、むしろ斜陽族が吐き出した米粒を女は摘まんで食べたのですから、女に自分のバクテリアを与えたという意味では、斜陽族の方が女と関係しているとも言えなくもありません。今、このみすぼらしい女の中の細菌たちは、斜陽族のDNAを分析し始めていることでしょう。
 私はまだ何も言い返せないで、救いを求めるように女を見ました。だからと言って、都合の良い救いがどこにでも備え付けられているものではありません。女は斜陽族のテーブルからのおこぼれを狙うように、だがもうほぼ空になった皿を見つめていました。オムライスの皿に数粒のケチャップライスが残っているだけなのに。一方、私のテーブルの上にはカレーライスが半分以上残っています。それに間もなく握り寿司も運ばれてくるのです。女はこちらを見るべきなのです。
「どうでしょう、先生、ここは黙ってカレーライスをお食べになって、満腹になったらそのままお帰りいただけませんか。ああ、握り寿司とビールも注文されましたね。ビールを飲んで、握り寿司を食べたらさっさとお帰り下さい」
 斜陽族はそう言うが、女の始末には触れません。そうだ、ここが隙です。今の言い草は、私を一人で帰し、自分が女の面倒をみようというかのようなものです。これではどちらが人さらいか解りません。
「随分勝手なことをおっしゃいますが、あなたはそもそも何者ですが。私以上にこの薄汚い女に執着なさっているようですが、私を帰した後、この薄汚い娘をどうするおつもりですか?」
 我ながらよく言えたと感心したのもつかの間、斜陽族は眉を持ち上げ、眼を細く、あからさまに今までとは雰囲気を変えました。斜陽族と言う勝手な綽名は馬賊とでも訂正しなくてはならないかも知れません。
「薄汚い、はおよしなさい、先生」その野太い声に私は縮み上がった。「この人だけが薄汚いわけではない。好きで薄汚れた訳でもない。そんなこともお判りにならないでどうして人の心を動かす文章を書くことができるというのですか。あなたはこの女の何を知っているというのですか?」
 この人を私はどうもしません。どうすることもできないのです。この人は私の祖母です。祖母はこの東十条の闇市で働き、赤羽に流れ、やがて十条で父を生みます…。
 私はいつもの悪い癖で、この混乱した状況を丸め込む嘘話の可能性を思いついてしまっていました。十条と東十条が地続きであるように、一個人の記憶の中で七十年、八十年は地続きの昨日です。ですから私が祖母と会うこともなんら不思議な事ではありません。もしもこの娘が私の祖母ならば、二人が出会ったのは偶然ではなくなるからです。しかしこの女が私の祖母ではないことは解っていました。
 ですが小説家というものはそもそも根っからの嘘つきでありまして、嘘だと知りつつ話を面白くしてしまいかねないところがあります。いくら用心してもつい屁を漏らしてしまうように、私の口からも「祖母」が出かかっています。「祖母」、そう言いかねない自分を押さえつけようとする自分がいます。その一言を言ってしまうと、こっちじゃなくて、あっちになってしまう、と私はタイム・パラドックスの手前で踏みとどまりました。
 私にだって一寸の魂があります。
 しかし何しろ、目の前には殺気立った斜陽族がいます。その殺気に私の傑作ジョークは、しぼんでしまいました。私はもうどうにかして退散することばかり考え始めていました。
 何とかしてその場を凌がねばならぬという思いから、私は焦っていました。もうレモン石鹸という言葉しか思いつきません。それが私の不純の証拠だと知りつつ、もう頭の中はレモン石鹸しか思い浮かびません。
「レモン石鹸…」                   充電できます
 困ったことになりました。私はつい、心の中に浮かんだわだかまりを阿呆のように言葉に発してしまったのです。こんなに不細工な失言がありましょうか。韓国ドラマでさえ、ここまで分かり易いチョンボは致しますまい。いえ、そりゃあ、電車の中ても図書でも、到底口に出してはならない心の声を呟いている阿呆はおりますよ。しかし、レモン石鹸だけは絶対秘匿すべき言葉です。私の恥部です。私の違法な欲望の証拠です。私は馬鹿です。殆ど病気です。自分をとことん追い詰める決定的な証拠を相手に晒してしまったのです。
 ところが斜陽族の反応は意外なものでした。私がレモン石鹸と言うが否や、尻に画びょうが刺さったかのように素早く腰を浮かせて椅子をずらしました。そのまま何か悔しそうにしぶしぶ腰を下ろしながら、何か痛いところを突かれたようで、反論しようと致します。
「何ですか、レモン石鹸が悪いですか、可笑しいですか」と突拍子もない自己弁護を始めます。
「別に…」と私が恐れ入っていると、
「ああ、おっしゃいましたよ。あなたははっきりレモン石鹸と、そうおっしゃいました。いいか、悪いかではない。あなたは確かにレモン石鹸とおっしゃった。それは侮辱ですよ。もう取り消しは出来ません。いいですか、あなたは、こともあろうに、この私がこの女の人の体をレモン石鹸で洗うつもりだと、そうおっしゃりたいのでしょう。ああ、何が、文士だ。文士なんか、なんですかア、文士とは、そんなに不潔なものなのですか。レモン石鹸くらい、いいでしょう。レモン石鹸がそんなに可笑しいですか?」
「そんなことは一つも言っていませんが」
「わかりました。いいでしょう。人を馬鹿にするのにも程がある。そりゃ、私は文士先生を腕力でねじ伏せるまでの朕平ではありません。筋が通る話をしてご理解いただければそれでよいが、こちらが筋を通しているのに、どうしても屁理屈で掻き混ぜるおもりなら、それはそれでしょうがない。何、どうしてもレモン石鹸が可笑しいというのなら、最後はこぶしとこぶしで決着をつけますか?」そう言って立ち上がった斜陽族の身の丈は五尺に足らず、いかさま迫力に欠けます。
「あの、落ち着きましょう」
「何が落ち着けだ、この文学野郎!」斜陽族はありったけの声で叫びました。店中の注目を集めました。なんなら外を歩いていた人たちも立ち止まりました。
 私は昔から、人にポカポカ頭を殴られるのは気が進みません。誰でもそうでしょう。他人に小突き回されないで、サンドウイッチやビールを楽しみたいと、誰でもが望むでしょう。ああ、こんな奴にぶん殴られるのか。つまらないことになってしまったなと、呆然としていると、店の隅からこちらに近寄ってくる大男がありました。折り目正しい黒のスラックスに清潔な白シャツを着た、何やら羽振りの良さそうな中年男です。ポマードで髪をオールバックにしているが、額が随分広いので、太い眉がきつい表情を拵えています。
「およしなさい。私の店で日本人喧嘩する良くない」
 その目の細い男が二人に示したのは、黒い革の定期券のケースに入れられた国籍証明書でした。青天白日旗が色刷りされており、東京華僑連合会の印が押されていました。蔡思謙、と毛筆された国籍証明書は、紛れもなく戦勝国民の証でした。その瞬間に私は気が付いたのでした。何故この店の飾り窓にはカレーライスの見本が堂々と飾られていて、摘発されることもなく堂々と主食を売ることができるのか…。
 彼は外国人用食料特別配給カードを何枚も持っているのです。今はもう配給量が人間の値打を規定する世相です。更に取り締まりを受けないので、この人は無敵です。この店は統制外なのです。
 斜陽族はもう縮こまって顔を伏せています。国籍証明書という原爆投下で、すっかり無条件降伏です。ポツダム宣言受諾です。サザエさんとマスオさんの濃密な夫婦生活を想像しています。夜中、おしっこに起きたタラちゃんが目にした壮絶な光景!
 私はとりあえずむやみに殴られないで済んだと安心しながら、この蔡思謙という福建訛りの男の出自を疑い始めていました。
 国籍証明書など、今時コンビニのコピー機でいくらでも複製ができましょう。ちょっと片言の日本語を話し、国籍証明書を見せびらかして、切符を買わずに電車に乗る偽者の戦勝国民が増えているという噂があります。
 吉祥寺のホープ軒の二代目も、戦後スグは盛華公司というラーメン店を、用という中国人になりすまし営業していたと告白しています。
 日本に焼肉屋と中華料理屋が多いのは戦後、戦地で覚えた中華料理の味が恋しくなった醜の御楯によって支持されたからだという人もいますが、主食を出せば摘発されていた訳ですので、そんな上辺の理屈は通りません。
 私は蔡思謙の顔を遠慮なく眺めていました。
 流石に気に障ったのか、蔡は私に何かを言いたげに顎をしゃくりました。
「北波士青の『走狗』」私はそう呟きました。「日本人が戦勝国民に成りすまして、やがて祖国を失う話です。昭和四十六年に世界書院から出た小説です」
 蔡思謙にはマイクロジェスチャーはありません。私の勘違いだったのでしょうか。
「黄思謙、蔡尭式。『走狗』に出てくる登場人物の名前です。ワンスーチィェン、サイヤオシー、サイスーチィェン。とても良く似た名前です」
「ツォウコゥ」蔡思謙は呟きました。
「ツァオカァ」私は訂正しました。
「とても面白い話。ワタシ関係ない。喧嘩止めるならワタシ関係ない」
 蔡思謙はそう言い残すとすたすたと店を出ていってしまいました。その後ろ姿は、広島県出身だからと中国出身だと名乗る手品師の背中に似ていました。
 蔡思謙がいなくなってしまうと、今度は斜陽族がまた息を吹き返してしまうのではないかとそちらを見ますが、彼はもう何事もなかったように余所を向いています。もう残り少ないビールを舐めるように飲んでいます。勢いよく立ち去る気概もないものと見えます。
 私のテーブルには空になった皿が二枚、家庭用麦酒が一瓶残っています。
いつの間にか運ばれてきた握り寿司とカレーライスの残りを、女が食べてしまったのでしょうか。しかしその女の姿も見えないのを不思議に思って、テーブルの下を覗いてみると、女は上目遣いにしゃがんでいました。血糖値が上がったのか、急に生気を取り戻した様子で、私を警戒する様子もありません。
「リチャード・ブローティガンが、日本で初めて注文して食べた料理は、カレーライスでした。『ヒラリー急行』という詩に書いてありました」私は言いました。それはどのような意味でもその場に相応しい言葉ではなかったのですが、つい口をついて出てしまった言葉で、古今東西神羅万象をアーカイブするアカシックレコードに記録されてしまいました。もう取り返しがつきません。                                          Check availability.


               ⁂

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女性のミイラも二三体あつた。男よりも一段と小柄で、一層しなび疲れてゐるやうに思へた。そのためか恥骨の隆起がするどく目についた。あの下には子宮が枯れ凋んで、まだ残つてゐるだらうか――僕はふつと、そんな妙なことを考へた。多分のこつてゐるだらう――僕は自分に答へた。畏怖といつてもいいほどの何かみづみづしい感動だつた。僕は情慾の脈うちを感じた。そればかりか、からだの一部にひそかな充血さへおぼえた。

(『夜の鳥』/『日本幻想文学集成⑲ 神西清 死児変相』所収/国書刊行会/池内紀編/1993年/p.24)


A 君へ はじめまして。

 いまさら酒鬼薔薇君へ、と書くのも変かなと思い、そう呼ばせていただきます。
 葛西模作と申します。
 野村ホールディングスに「和式便器」や「クリスタル役」などの株主提案をしたり、株で一億円儲けたり(二億円損したり)、勝手に『1Q84book4』を書いたり、あなたと同じように鰻の食べ歩きをしたりしている者の、一人格です。爪の垢を一杯ためながら、文学は何でもありで、いわく言い難いものを捉えようとする試みだと考えている馬鹿の一人です。素因数分解あたりから算数が怪しくなるただの馬鹿です。nがどのように大きな数であっても、nの二乗とn+1の二乗の間に素数があるのかどうなのか解りません。実部が0と1の間にあるゼータ(s)の零点sは、総て実部が二分の一であるかどうかが解りません。
 文学は道徳も原爆も超越したものです。『金色夜叉』は女にふられた男が下駄で女を蹴とばす話です。『1Q84』はゴーストライターと連続殺人鬼が結ばれる話です。『絶歌』を頭ごなしに拒否している人は、犯罪小説を知らないのでしょう。チャンバラ小説だって歴史小説だって、犯罪がない綺麗ごとの小説なんて、おためごかしじゃないでしょうか。
 芥川龍之介だって、惚れた女のうんこを食べる話を書いているじゃないですか。三島由紀夫も「わたしはおのれのこの手で、とぎすましたするどい刃を握、相手に近付、わしの手がなまあたゝかい血潮でぬれそぼるのを見たいのだ」と書いています。
 神西清も芥川龍之介も三島由紀夫も、落合陽一さんと同じ意味の変態だったのではないでしょうか。
(鰻の食べ歩きも、なめくじあつめも、大して変わらない趣味ではないかと思います。鰻重を携帯カメラで写す私を、大将は不思議そうに見ていますから。)
 そして今のところ『絶歌』の文学性に関して、手放しで称賛している数少ない読者の一人でもあります。
 あなたが勇気をもって公開したこのメールアドレス宛てに、どっさりと届いているヒステリックな罵倒の中から、このメールが目に留まれば幸いです。
 またおそらくは得体のしれない人たちが、あなたにすり寄ってきているのではないでしょうか。
 この世の中は、真夜中に非通知のワン切り電話がかかってくる程度にだらしない悪意に満ちています。(実際、昨日ありましたよ)犬を餌にサメを釣る動画をYouTubeで観ました。世界は悪意に満ちています。今夜も誰かは読んでもいない本の悪口をアマゾンのレヴューに書き込み、足立区では、顕示する自己もない代わりにただ暴力を奮いたい若者が金属バットをかついでうろうろしていて、明け方には誰かが誰かに非通知のワンギリ電話をかけ、新しい人の殺し方を思いつくことでしょう。
 まあ、そういうものからはできるだけ逃げて逃げて逃げまくり、一日も早く『絶歌』の英語版を出版してください。
 冒頭に引用した神西清など、最近ではあまり読まれていないのでしょうね。そんなことは珍しくないのに、人殺しが本を書いたというだけで大騒ぎになっているのは嘆かわしいことです。
 さて、本題です。
 『絶歌』を読んでいて、どうしてもわからない部分があったので質問です。もし可能でしたら教えてください。
               ⁂
 あなたが常盤台に住んでいて、北参道にある幻冬舎に通っていた時期、東武東上線の常盤台から池袋まで、JRの池袋から新宿までの定期券を買い、新宿から北参道までは歩いていたのでしょうか。
そうすると、もし鰻を食べたいということになれば、板橋区大山のとらじろうかやまがた家、北区滝野川のうな和、池袋のまんまる、高田馬場の愛川、新宿の登亭で食べていたということになりますね。
 というのは、冗談です。
 本当にお聞きしたかったのは有為子のことです。あなたにとっての「有為子」を『絶歌』で描かなかったのは何故ですか?
 あなたは三島由紀夫の『金閣寺』をバイブルだと書いています。それが嘘でない証拠に、『絶歌』のラストシーン、遺族への手紙の手前では、明確に『金閣寺』のラストシーンをなぞっていますね。


別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人かよくそう思うように、生きようと私は思った。(『金閣寺』/三島由紀夫/『日本文学全集37三島由紀夫』/新潮社/p.430)


 煙草を吸って、生きようと決意するあなたの振舞いが実際に行われたものであるにせよ、『金閣寺』をあなた自身の物語だと宣言した以上、もう偶然の一致では済まされません。(ありとあらゆる文芸評論家、心理学者、一流編集者らがこの点に一切触れないことがむしろ不思議ではありますが、『絶歌』と『金閣寺』の両方を読んだのは私だけなのでしょうか?)あなたは三島由紀夫に寄り添った。『金閣寺』における「有為子」のようなプロットがあなたの事件の中にあったことを私は知っています。それを何故書かなかったのでしょうか?
 女を失うというのは、どの段階でも、例えば手を触れる前であっても、電車の中で言葉をかける前であっても大層辛いものです。
 私はある女を昼食に誘い、二人で何気ない会話などをしていました。焦らずゆっくり距離を縮めていました。ロイヤル・ホストの夏のカレーフェアで、お互いのカシミールカレーとジャワカレーを「一口ちょうだい」とシェアしたりしておりました。焦らずゆっくり距離を縮めていました。ところが「愛されすぎて疲れちゃった」とふられてしまいました。
だから私には解かるのです。
 「名前を失くした日」以前を「他愛もない日常の一コマ一コマ」と表現して見せる冒頭の過少誇張法には魂消ました。「他愛もない日常の一コマ一コマ」の間にあなたは二十匹以上の猫を殺し(近所の野良猫を駆逐し??)、猫を殺すことにも飽きて(??)、年上の女性の家に押し入ろうとして追い帰され、年下の女の子二人を殴り、年下の女の子一人をナイフで刺し、そのうち一人を死に至らしめた。唯一の友人を殴りつけ、また年下の男の子を殺害し、頭部を切断し、口を大きく裂き、目を十字に切り、その頭部を校門に飾り、神戸新聞社に挑戦状を送りつけた…と報じられています。
 間テクスト性、浮遊する視座、信頼できない語り手など、『絶歌』は過剰なレトリックで満たされています。私は毎日銀座カリーを湯煎し、炊飯ジャーで黄色くなったご飯にかけて朝食を済ますしがない俳人ですが、文学のことは多少なりとも分かっているつもりです。銀座カリーはよくあるすね肉のキューブではなく、薄切りのバラ肉で、とても美味しいのです。
★★★★☆
 何の話でしたでしょうか。そうそう、文学の話です。私は十年前、「おーいお茶」の俳句コンクールで入選したこともあるんですよ。賞品としてお茶のベットボトルが二本送られてきました。
 あなたは後半で「溶接キチガイ」と呼ばれる為に、前半で切断に拘ったのでしょうか。村上春樹と三島由紀夫を並べて関節技と打撃技などと仄めかすのも意地が悪い。あなたは何故なのでしょうか、打撃技で成功した実験を放棄して、本番は関節技に拘ったことになっています。
 それにしても不思議です。一流出版社の編集者が「鎖はちぎれても錨はちぎれないんじゃないかな」とか「夜泣きは夜泣くことじゃないよな」と気が付かなかったものなのでしょうか。「原罪って人類全体が背負う罪のことで、悪い遊びの契機という意味じゃないよな」とか「祖母が死んでつなぎ留められいたものがなくなって、また断絶って何回も切れるな」と感じなかったのでしょうか。「バモイドオキ神に名前を貰う儀式をした夜がGOD LESS NIGHTなの?」とは考えなかったのでしょうか。そもそも犯行は夜だったのかと考えなかったのでしょうか? あっさりと狩られてしまう精神狩猟者、こういうぐらぐらした表現はまさしく「シクラメンのかほり」的イロニーと捉えるべきではなかったでしょうか? 仮にも二つの出版社の編集者が直さなかったのだから、ここにはそれなりの意図が込められていると考えるのが自然ですが、どうしても解りません。新潮社校閲部なら、間違いなく直されている筈です。
 「得意なアナグラム」という表現は、アエダヴァーム(生命の樹)という造語の説明に使われた表現ですが、アエダヴァームはそもそもアナグラムではないですよね。それはもしかすると『絶歌』全体が「何故?」という疑問を増やし続ける作品だという意味で、答えのない謎を仕掛けるというレトリックとして解釈して良いでしょうか?

『絶歌』のメタファーは散々酷評されましたね。


痺れ切った秋は、もはや澄み渡った空にかがようソレイユにも温められることなく、一枚一枚はぎ取られるように、色素を失っていく。タンク山に隠された烈しい欲情は青い炎と燃えて、午後のうちは、また午前中でさえも、真夜中も、日暮れ間際のかっと迸る幻想を織りなしていたが、それもはや消えてしまった。ただ、つゆ草と、孔雀草と、黄や紫や白や薔薇色の菊だけが、今なお、秋の引きつり勝ちな、悲しみあふれた顔の上に輝いている。夕ぐれの六時、同じように暗く沈んだ空のもとを、人々が一様に灰色で、裸となった向畑が池の庭園を通りすぎると、そこではポメラニアンにも似たまだら模様の木々が呆然と立ちすくみ、その一枝一枝に、自堕落な諦念がぶら下がっている。そして、ふと眼に映るこうした秋の花々の繁みが夕闇のなかに鮮やかに輝き、灰燼と化した地平線に馴れた眼に、烈しい情欲をよび起こす。アエダヴァームに寄り掛かり、目を覚ます朝の数時間はさらに快い。太陽はまだ時おり光り輝く。すると私は、タンク山を降りてフェンスをよじ登るときなど、私の影が、自分の前で獰猛な猫のようにうずくまっているのをみることができるのだ。私は他の何人かの人々に倣ってお前の名を口に出そうとは思わない、バモイドオキ神よ、大ま神よ。錆びはて、なつかしい偉大な名前よ、葉むらと広い池に落ちるスペクトラムとスペルマよ、まさにスノッブで不義の闇に包まれた場所よ。
 

 このいささか気取った文章を、迂闊な文芸批評家は嬉々として添削していましたね。全く恥ずかしい限りです。どうせディオゲネスが道端で堂々と自涜していたことも、小林秀雄が酔っぱらって一升瓶を抱えたまま駅のホームから線路に落ちて死に損なったことも、拳骨にはあっと息を吹きかけると威力が増すことも知らない人達でしょう。
 1945年8月9日、獄死したマルクス主義者、戸坂潤の『論文の新しい書き方』という文章には、こういうくだりが出てきます。


処で、事物には凡て表と裏とがある。事物を処理するためには、表と裏の両面から這入って行かねばならぬ。之は論文の作文法の問題ではなくて、事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する処だ。反語や逆説やアフォリズムという作文様式は、この要求から使われるのであって、特に反語や逆説やアフォリズムを使って見たくなったから使う、というものであってはならぬ。又そういうことは、本当は不可能なのだ。こうしたものを何か便宜的なものと考えている人があるとすれば、浅墓の極みである。物を少し親切にリアリスティクに掴もうとすると、そう棒ちぎりを振り回すようには行かなくなる。(『近代日本思想大系28戸坂潤集』P.432・筑摩書房・1976年)


 あの頃あなたがいた世界の心象風景、くそ生意気で、薄っぺらで、スノッブで、思いっきり背伸びをしていないと不安で、夕暮れになると一息ごとに深呼吸が苦しく、未来に希望が描けない少年のモノローグに関して、あなたの過剰な自意識、自愛、見栄っ張りの表現は的確だったのではないでしょうか。
 そしてあの時代、そんな少年はむしろありふれた存在だったのではないでしょうか。みな漠然と世紀末に怯えていました。立て続けにベストセラーになる『ノストラダムスの大予言』シリーズの畳みかける絶望感。そして阪神淡路大震災。自分の足元が豆腐のように脆いものだと思い知らされたあの日に向き合った思春期の少年のリアルが『絶歌』にはあります。
 正直、見事なものだと私は思いました。
 これは「より大きく見えるからとアフロ・ヘアにしていた時代のアンドレ・ザ・ジャイアント的問題」または「新弟子検査の時に身長が足りないので頭にシリコンを埋め込んだ舞の海関的問題」あるいは、男は誰でも「元少年A」問題として捉えるべきでしょう。なのに、みんなそんなことは忘れてしまうものだ、というあなたのロジックに対して、全員見事にはまってしまっていますね。
 授業中にうんこを漏らすと一生うんこタレという綽名が消えないのに、みんな自分がうんこタレだったことを忘れてしまいます。
 それにしても誰もが中二であった筈なのに、自分だけは、はなから大人だったかのように振舞うのは何故なのでしょうか? インド人の精液は、エチオピア人に似て黒いとヘロドトスの『歴史』には書いてありますが、アリストテレスが『動物誌』で否定しています。では何故、インドの北部、砂漠地帯には犬よりは小さいが狐よりは大きなアリがいる、という間違いを指摘しなかったのでしょうか。
 あなたのことを虚無主義者だと評していた人もいました。
 「虚無主義」はたしかにニヒリズムの訳語ですが、当時はバクーニン、クロポトキンらの唱えた無政府主義の一派で、過激な革命思想の一つであった筈なので、世を儚んで自暴自棄になる人を虚無主義者とは呼ばなかった筈です。政府転覆を図る太い人間の信念に与えられた名称です。
みな過去の記憶をなくしてしまいます。なんなら大卒の人も三十を過ぎれば、一週間を英語で書けなくなります。
 記憶というものがそれだけ曖昧なものならば、絶対自分だけは過去に人を殺していないなどと言いきれるものでしょうか。
 例えば去年のことになりますが、新宿駅の人ごみの中、一人の若い女性が踵の高い靴で躓きそうになり、バランスを崩して手に持っていた飲みかけの牛乳パックを落としました。その女の人はストローが刺さったままの牛乳パックを踏みつけて、そのまま立ち去ってしまいましたが、実は彼女の後ろにものすごい勢いで牛乳が噴射されていたのです。彼女はそのことを知りませんが、私の隣を歩いていた若い人は、女の人が牛乳パックを落としたところを見ていなかったようでしたが、いきなり何かが飛んできたので、ひゃっと声を上げて飛び上がりました。そして着地を失敗して尻もちをついていましたが、やはり何が起きたのか理解していません。たまたま私だけがその因果関係を知っていましたが、牛乳パックを踏みつけてそのまま行ってしまった女の人を呼び戻して、彼に謝罪させようとまでは思いませんでした。ズボンを牛乳で汚してしまった若い人はまだ幸運だったのかも知れません。もし飛んできたものが別の何かで、そこには全く悪意がないとしても、避けようのないものであったにせよ、それは誰かの命を奪うかも知れません。いや、多くの悪意のない人々が積み上げた偶然が、現に人を殺してしまっているかもしれません。

 三島由紀夫、昭和天皇、そしてA君、何故みな身長が163センチなのでしょうか。
 そんな偶然がありますか?
 三島由紀夫の『午後の曳航』を読み直して驚きました。あなたが猫殺しのシーンでエロスを感じているのに対して、三島はついうっかり「死・エロティシズム・美」のスローガンを忘れてしまっているのです。


「次第に露わになってゆく猫の内皮の、半透明な真珠母の美しさには、いやらしさが微塵もなかった。肋骨が透いて見え、さらに大網膜の下に温かく家庭的に動いている腸が透いて見えた。
「どうだい。あんまり裸かすぎるよね。こんな裸かになってしまっていいものだろうか。とても礼儀知らずみたいじゃないか」
 首領がゴム手袋で胴体の皮を左右へ押しのけながら言った。」


 あなたの腹筋は三島よりきれいに割れていますね。どうしてでしょう?  そしてジョルジュ・バタイユも三島由紀夫も認める文学関係者が、あなたの残酷さとエロティシズムを絶対に認めようとしないのはどうしてなのでしょうか?
 ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーが「死んだ猫になりたい」と書いたのは、あなたの影響でしょうか?
 少年院ではゴキブリを食べたそうですが、なめくじも食べますか。ああ、そういえばシロアリは蟻ではなくてゴキブリの仲間で、コンクリートやプラスチックまで食べるそうです。
 一週間ほど前のことになりますが、新宿のブックファーストで『マダム・エドワルダ』を立ち読みしておりますと、隣に可愛らしい女子高生が立ちました。制服姿で、髪を一つに束ねています。彼女は何の迷いもなく『ジョルジュ・バタイユの反建築』を手に取り、しばらくページをめくっていました。二人の間には隙間がありません。私は度肝を抜かれて、思わず『マダム・エドワルダ』を『太陽肛門』に取り替えました。私は隣を見ることはできませんでしたが、ごく普通の大人しそうなお嬢さんだということは解りました。しかし、ジョルジュ・バタイユですよ。私はエロティシズムなどというけちくさい取るに足らぬ問題について、口角泡を飛ばして喋るほど閑人でもなければ、物好きでもありません。それでもわけあって『マダム・エドワルダ』を立ち読みしていたのですが、女子高生がジュルジュ・バタイユに何の用があるというのでしょう。私はついついこの女子高生の目的は別にあるのではないかと勘違いしていました。そっと私に話しかけ、お金でもせびるのかと疑っていました。
 しかし彼女は本当にジュルジュ・バタイユに興味があったようでした。私より長い時間、ゆっくりと立ち読みした挙句、少し離れた棚にある『ユリイカ』の方へ移動していきました。私はその時、床にへたり込みたいほどに疲労していました。
 ジョルジュ・バタイユを読む女子高生、まあ、そんな子が一人や二人いても不思議ではないけれど、私には驚きでした。
 あなたの猫殺しの描写が三島の猫殺しの描写より、残酷であり、死と美とエロティシズムを的確に描いているのに驚いて以来の驚きでした。あなたにとっては、三島の残酷さやエロティシズムが偽者に見えたのではないでしょうか?
 それからさかきばらせいと、せいとからさばき…いや、なんでもありません。
 ダイソンの掃除機のCMによれば、人は一か月にポテトチップス一袋分もの皮膚を剥がれ落ちさせていて、それがハウスダストの主な成分だそうです。つまりハウスダストにアレルギー反応を示すということは、その人は人間を食べられないことになります。あなたはハウスダストにアレルギーはないのでしょうね。イスラムの世界観では生き物は「食べてよいもの」と「食べてはいけないもの」で構成されており、お母さんは子供に動物図鑑を見せながら、これは食べてよい、これは食べては駄目と教えるそうです。
 白金カイロに白金が使われていないのは何故でしょうか?
 たいていのものは、マヨネーズで和えて冷やすとサラダと呼ばれるのは、一体何故なのでしょうか?
 イタリアとスイスの国境で、2009年、13兆円もの米国債を持ち出そうとしていた日本人二人が拘束された事件の結末はどうなっているのでしょうか。正式には公表されていませんがこの二人はそれなりの人らしく、前も後ろもありそうな話しながら続報が一切ありません。この米国債は本物だったのではないかという噂は絶えません。苫米地さんは本物だったと書いています。
 A君はこの事件と関係していませんか?
 晩唐期の詩人、韶浬(ショウ・リ、シャオ・リー)の五言古詩、「白山暮れて風に随(したが)い、石赤くしてなお花枝を揀(えら)ぶ」からできた成語に「シロヤマイシアカ」がありますね。「白山石赤」そのものの意味は殷の山と周の石の意で、殷を滅ぼして建った周を風刺する詩経の異本にある古詩を典拠とします。白は殷、赤は周の色と言われています。(殷の音読みに「あかい」というものがありますが、気にしないでください。)
 この場合は白魚入舟の故事に拠ります。

 
 ※武王渡河,中流,白魚躍入王舟中,武王俯取以祭。
   既渡,有火自上複於下,至於王屋,流為烏,其色赤,其聲魄雲。
   是時,諸侯不期而會盟津者八百諸侯。
   諸侯皆曰:「紂可伐矣。」
   武王曰:「女未知天命,未可也。」乃還師歸。
                (『史記』周本紀より)


 アカデミー賞俳優、ニコラス・ケイジが日本の大衆娯楽番組「スマップ・スマップ」で披露した俳句、「シロヤマ、イシアカ」によって一挙に全国民に知れ渡りましたが、典拠が濁されて、ニコラス・ケイジは日本人の無学さに苦笑いしていましたね。
 今日はサツマイモと干しぶどうのマヨネーズ和えをサラダとして食べました。
 最後にどうしても教えて欲しいのですが、そもそもあなたは誰なのですか?
 国語の通知表が2という成績で『絶歌』を書くことは可能でしょうか?
 結論から言えば無理です。そんなことはあり得ません。
 相当に集中して読書をして、文章修業をして国語5の実力を勝ち取れば可能でしょう。ただし漢字検定だけの為に漢字クイズのようなものをこなしていても、この文章力は到底身につきません。
 ここに十八年前と同じ疑問が連なるのは仕方のないことでしょう。「懲役十三年」の作者ならあるいは可能かもしれませんが、あれはダフネ君が一読して記憶し、ワープロで打って警察に提出したものですね。「三年生になって」の作者に『絶歌』を書く才能はありません。また十八歳で「愛想笑いに手には名刺を」を書いた青年には一生かかっても『絶歌』を書く事はできないでしょう。『絶歌』を書いたあなた方は一体何者なのですか?


 シェークスピヤを談ずる者、ともすると、彼の語彙の豊富さの英文壇に空前絶後であることを激賞するが、現世紀に入って、特にやかましい問題となって来た例の正経、不正経の論議が決定しないうちは、果たして空絶的に豊富なのか、どうかは断言出来ない。
 シェークスピヤの作は、其實、七人以上の別々の手で書かれたもの、もしくは三四人の合作、もしくは旧作の書き直しが十中七八だといふことが、仮に半分がた真実であるとすると、語彙の供給者が忽ち四五人以上も出来るわけだから、空前絶後の価値も同じく四五割がた減ぜられねばなるまい。
 いづれ此事に就いては、そのうち或る程度の漫談を試みる積りだが、それはそれとして、語彙の豊富よりも更に一層--特に翻訳の際に--注意すべき事は、シェークスピヤ劇に偏在する語義および語調のシェードといふか、ニュアンスといふか、画家の駆使する色彩の限りなき濃淡にも比すべきデリケートな変化の自在性の移植である。
 上は王、侯、貴神から各階級の僧、俗、各種の営業者、商、工、農、奴、男、女、老、幼のあらゆる特殊性を其用語のハタラキや調子で以っておのづからの間に読者(すなはち観劇者)に直覚さすべく書き分けてある其手際の鮮さには、今更のやうに感心させられる。
(中略)
 が、それは原文を善読し得た場合の話だ。国文訳は持ち出して見るまでもないこと、原文以上だと誰やらが賛めたドイツの名翻訳とかだって、恐らく此点から見たなら、原文とは雲泥だらう。浦島の玉手箱ぢゃないが、翻訳すると此種のチャームは忽然として煙散霧消するからである。
(後略)
(『シェークスピヤ・アット・ランダム』/坪内逍遥/中央公論社/昭和九年/『沙翁復興』所収)


 この森鴎外をちょっとディスった感じが何とも言えない文章で、坪内逍遥博士がシェークスピヤの単独犯を疑う程度に、私はあなたが一人ではないのではないかと疑っています。
 あなたが結婚していて、お子さんもいらっしゃるという噂は本当でしょうか?
 今でもウイキペディアでは『絶歌』が『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』と表記されています。誰も奥付を見ていない、あるいは誰一人『絶歌』を読んでいないということでしょう。
 もし誰か『絶歌』を読んだという人がいたら、表紙は何色でしたかと尋ねてみたいと思っています。白でしょう、と答える人が殆どでしょうね。私は驚きましたよ。白いカバーの下の表紙は真黒でしたね。
 
               ⁂

 私は仕方なく、澄まし込んだ顔をして、みすぼらしい女を連れ帰ることにしました。もうカシューナッツのように無防備で、理論武装なんてものはありません。ただ堕ちていくだけです。ロボアドバイザーで大損しているのでヤケクソです。興味は感じないのですが、ただ、帰れといわぬだけです。帰る家があれば、みすぼらしい恰好で闇市をうろつき、床に吐き出された米粒を拾い食いするわけもありません。夜になって裸足で歩いていると、ブラックガールと間違われてトラックに載せられ、留置場に押し込められるかもしれません。
 私はありったけの散財をすることにいたしました。レモン石鹸と手拭い、下着とカットソーとニットワンピース、ガウチョパンツとポインテッド・ヒールのパンプスを買ってやり、地蔵湯に連れていきました。風呂上りにはミリンダを呑みました。それから草月で黒松を買って、食べながらアパートに向かって歩いておりますと、妙な気分がいたします。女の背丈は私より六センチほど低く、多分157センチ、そう気が付いてしまうと、どうもいけません。私と女の背丈が、丁度セクシー素数の組み合わせになっていることに気が付いてしまったのです。こんな偶然がありましょうか。
 女は(もうみすぼらしくはありませんでした)何かぶつぶつ呟いております。
「かけぶとん・たきたて・けやき」
「何?」
「つうしん・ちけっと・こぶね」
「…」
「ただす・ちせい・みぬく、ようちえん・けいえい・そぼくな、せいと・こぼれて・にほんご」
 一つ一つの言葉が意味するところは解りますが、その連なりが意味するものが全く想像できません。
「あの、ちょっといいですか。君がさっきから呟いている言葉に、何か意味があるのでしょうか?」
「わっとすりーわーず」
「ワットスリーワーズ?」
「ちきゅうをごじゅうななちょうこのせいほうけいにぶんかつして、みっつのしぜんげんごでそのいちをとくていできるようにしてみました。じおこーでぃんぐのひとつです」
「どういうこと?」
 埒が明かない感じが致しましたので、私はスマホでWHATS3WORDSを検索してみました。なるほど彼女が言った通り、地球上のあらゆる場所を三メートル四方の正方形に分割して、三つの自然言語で表現する仕組みが既にあるようでした。私は早速そのアプリをスマホに落としてみました。そして驚いたのは、女がWHATS3WORDSを真似て出鱈目を言っているのではなく、まるでWHATS3WORDSが見えるかのように、本物の三つの言葉を呟いていたのです。
「もじばけ・がめん・ゆいいつ」
「ようちえん・けいえい・そぼくな」
「せいと・こぼれて・にほんご」
「凄い。全部合っている。一体どうしてわかるんですか?」
「ぜんぶおぼえた」
「全部って、57兆個の組み合わせを全部ですか? そんな馬鹿な。それは流石にありえないです。そんなことは計算上不可能です。人生か何秒あると思っているのですか。記憶する前に人生が終わってしまいます。」
「そんなことはない。しぜんげんごはみんなしっていることば」
「じゃあ、たとえば樺太にはどんなスリーワーズがあるのでしょうか?」
「…おぼしめし・すたんど・りんぱせつ、どれすあっぷ・おぼろどうふ・だがし、ひとよせ・あめんぼ・したげいこ…」
「東京タワーは?」
「……?」
 流石に闇市の女は東京タワーを知らないようです。その時は東十条の崖の下側を歩いておりましたので、指し示すこともできません。
「じゃあ、大阪城は?」
「どこまで・にしび・あてさき、つめかえ・おひさま・すいどう…」
「合っている。合ってる…どうして分かるんですか?」
「だからぜんぶおぼえた」
 にわかには信じがたいのですが、確かに大阪城あたりをさぐりますと「どこまで・にしび・あてさき、つめかえ・おひさま・すいどう」が表示されます。これはもうただの偶然では片付けられません。
 論理的に考えれば、女は本当に57兆個の位置情報を記憶したか、あるいは何か別のトリックがあることになりますが、私が言った「大阪城」で「どこまで・にしび・あてさき、つめかえ・おひさま・すいどう」と瞬時に返すトリックはどうしても思いつきませんでした。しかし57兆個もの組み合わせを記憶するとはまだ信じられません。
「二条城は?」
「びはだ・じゅんい・かいけつ」
「じゃ、なべぶた・はりきる・そよかぜは?」
「なんばのほう」
「合っている」
 私はまったく狐につままれたような馬鹿げた気持でした。むしろ不快がこみあげていました。しかし私は不快な現実と、この女のトリックをそのまま信じることにいたしました。論理に打ち負かされ、ワンと吼えたようなものです。暴くことの出来ないトリックはもはや近似値と同じようなものです。ほとんど整数と同じです。あいまいなものを理解しようとする人間の認知バイアスにとって、近似値はもはや厳粛な事実です。
「わりきる・いろどり・ごぶさた」
 それが私の住むガタガタの安普請、みやまうすゆき荘に割り当てられたジオコードでした。                   Learn more.
 足音を忍ばせて錆びついた鉄の外階段を上り、下駄箱式の郵便受けの郵便物を確かめ、森永ホモ牛乳の牛乳受けからアパートの鍵を取り出し、ドアを開け、静かにドアを閉めるまで、二人は上京間もない大学生のカップルのように、声を殺して目配せで合図し合っていました。
 ドアが閉まると室内は完全な暗闇でした。
「まどがない」
 好奇心に満ちた驚きを込めて、闇市で拾った少女はそっとささやきました。それは何かしら不安を解き解そうとする駆け引きにも思えましたが、寧ろ困惑していた度合いは私の方が大きいのであろうと思えました。引き返すことの出来ないブルート・ファクト。私は暗闇で瞬きを繰り返しました。
「ああ、窓はね、普段は塞いでいるんですよ。と言いますか、塞がれたままにしてあるんです。多分この窓の真ん前には隣の民家の窓があるんだろうと思います。隣家の人は窓を覗かれたくないんだと思います。人には他人に知られたくないことが山ほどありますからね。最初にここを借りた時からこうだったんです。むしろ窓がないのは好都合です。ユイスマンスにあこがれていていましてね」
「ゆいすまんす?」
「いやいや、なんというか、昔そういう名前のフランス人デカダン作家がいたんですよ。澁澤龍彦が翻訳しています。引きこもって『さかしま』という本を書いたんです。元祖引きこもり。プルーストや江戸川乱歩が真似をしました。小説家には窓は必要ないのです。蛍光灯の明かりだけあればいいのです。陽光なんていらないんですよ。いや、永久に小説以外のことしか考えない人間なんです。私は文学以外のことでは、すべてを犠牲にしているんです。私にはそんなこだわりはないけれど、引きこもっているのが好きなだけなんです」
 私は手探りで何度か空中を掴みそこねた後、蛍光灯の紐を引きました。グロー球が放電し、やや間があって部屋はじっくりと蛍光灯の光に満たされました。
「しょうじんへいきょしてふぜんをなす」
「その通りです。私はつまらない人間で、今まで悪いことばかりしてきたような気がします。日本が戦争に負けたのも、地震が起きたのも、醤油やソースの小袋が、こちら側のどこからでも切れます、と書いてあるのに、案外端っこの方は切れ難いのも全部自分の所為です」
 私はそう言いながら、闇市で拾った少女の目に入れたくないものを大急ぎでがさがさと片付けました。
「ところで、あなたはどうして、その、平仮名だけでしゃべるような感じがするですが」
 闇市で拾った少女はシングルのベッドに近寄り、黒いベッドスプレッドに浅く腰かけました。
「かなもじかいにさんかしているから」
「仮名文字会?」
 早速検索してみると、確かにそういう会があります。しかし何故かなもじかいに参加すると言葉が平仮名に聞こえるのか、その理屈はわからなかった。
「こんやわたしここにとまる」
「え…」
「あなたとんぼくだから」
 私は思いがけずやっとこを手に入れてしまった乳牛のように少し迷って、書き物机の椅子に腰を下ろしました。少し距離があり、小声で話すにはどうかと思いましたが、まさかベッドに並んで腰掛ける訳にはいかないと思いました。途中で銭湯に寄った所為で、彼女からはレモン石鹸の香りがします。知的な目がパッチリかがやいていて、目がさめるような清楚な感じがいたします。
 稀代のオッチョコチョイの私は緊張し、興奮し、照れていました。この部屋に女性を招き入れた経験が一度もなかったからです。チャンスがなかったのです。いや、それは理由の二十五パーセント程度の要素に過ぎません。私は本能というものを部屋の中へ入れないことにしていたのです。私にとって、どうも闇市で拾った少女は最初から特別な存在でした。本当は、私は知っていたのです。みすぼらしいとこき下ろしながら、その実、その可能性に気が付いていたのです。床から飯粒を拾い食いする前から、この少女は権威への服従を拒んでいました。彼女は土足で私の前に現れました。土足だったが、足首は静かでした。
 私は何時からか、ただ魂だけの、そしてそのために燃え狂い、燃え絶えるような恋がしたいと考えていました。肉体力が弱すぎるから、燃えるような魂だけを感じたいのです。そしてこの女と出会いました。だいたい恋愛などというものは、偶然なもので、たまたま知り合つたがために恋し合うにすぎません。知らなければそれまで、勇壮活溌の気風もなければ、ただ遠目から眺めて照れたり、戸惑ったりするばかりで、支離滅裂な亢奮と絶望に草臥れるばかりです。もっとも中年の恋がいかに薄汚なく気味悪かろうとも、当事者自身はそれ相応の青春を感じているものです。しかし青春でればあるだけ、恥じらいもあります。
 遠慮深くジメジメとして、端の歩を突くだけです。
 だから異常なホルモンが分泌され、目が充血してしまうのです。
 私は彼女にキッスしたいと願っておりました。なぁに、もうカレーライスを分かち合ったのですから、間接キッスはしているのです。キッスだけできればいいのです。常にそれ以上図々しいことは求めません。いや、キッスしながらお乳を揉むことができれば、それ以上のことは望みません。いや、単なるハグでいいんです。身体をくっつけあい、脱力できればいいのです。耳元で何事か囁き、頷いたりと、そういう動作の中で、彼女の肉体の動きをこの腕の中に感じることができれば、もうそれ以上何も望みません。私は彼女をたった一人で、「いきなりステーキ」の店内に押し込みたいのです。
 はてさて。
 私に夜の記憶などございません。        期間限定プレミアム
 冷たい床で毛布を跳ねのけます。
 レモン石鹸の残り香で目を覚ましましたが、それは錯覚だったのでしょうか。私は何かを期待して部屋を見廻しました。何かが少しずつ減っているような感じがいたします。書棚のピクルスの瓶は開いていて、漬け汁だけ残っています。冷蔵庫の白菜の浅漬けはなくなっています。それから食器棚のククレカレーもありません。そのほか食糧と、押入れの服が何枚か、それと一つ星のコンバースがなくなっていました。私は履物収集家ではありませんので、残された履物はそのカーキ色のバスケットボールシューズの他には、画針の刺さった健康サンダルとペニーローファーしかありません。
 ちゃぶ台にはMacBookProの代わりに、割とじょうずな右肩上がりの書き置きがありました。
「ひろぽんちゅうどくとはいっしょにくらしていけません」
 ああ、これで書きかけの小説が失われてしまいました。バックアップはどこにもありません。たった数行の明確な記憶を残すのみです。そこにはこんなセリフがありました。


「私は彼女にキッスしたいと願っておりました。なぁに、もう間接キッスはしているのです。随分前ですが、髪にキッスしたことはあります。キッスだけできればいいのです。常にそれ以上図々しいことは求めません。いや、キッスしながらお乳を揉むことができればそれ以上のことは望みません。いや、単なるハグでいいんです。身体をくっつけあい、脱力できればいいのです。耳元で何事か囁き、頷いたりと、そういう動作の中で、彼女の肉体の動きをこの腕の中に感じることができれば、もうそれ以上何も望みません。私は彼女をたった一人で、「ペッパーランチ」の店内に押し込みたいのです。、」


 iPhoneXRのメールはグーグルアカウントとわざと同期させておりませんでしたので、もう二度とGメールを読むこともできません。
 これは困ったことになりましたよ。自虐の喜悦も何もありません。なに、驚くもんか。判っていたんだ、こう成るとは、ちゃんと見通していたのだ、と虚勢を張ることもできません。
 とりあえずククレカレーはありません。格別な理由がなくても、物質がそのように消滅してしまうこともあるのかなと思いましたが、少し大きくなっていたものを鎮めようとトイレに入って、これは感心しました。西洋便器に何か逆説を仕掛けるように、深いところから浅い所へ、真一文字の太い一本糞が残されていました。腹に堪らないものが沢山混じっているのか、ねっとりというよりややけば立った一本糞で、野ネズミでも丸呑みしたかのような、どこか現代風ではない野性味が溢れるものでした。


暗殺を罪悪なりと云ふは、猶ほ糞尿を臭穢なりと云ふに同じ、何人も決して異存あることなく、之を論ずるの必要だもなし、然れども糞尿は元と人体組織の上に於いて巳む可らざるの結果に出で、如何に其臭穢を嫌ふも、止めんとして止む可らず。
 (『暗殺論』/幸徳秋水『近代日本思想体系13 幸徳秋水』/筑摩書房/1975年/P.96)
 

 私は数日前に読んだばかりの『暗殺論』の一節を思い出しました。ページ数まで正確に。私には一度見たものを瞬時に記憶する特殊な能力があるのです。
 いや、間違えました。私が思い出すべきだったのは、こちらでした。


 ある新聞に、こんな子供の詩がのっていたという。「朝、便所へ入ったら、お姉ちゃんのウンコがしてあった。ぼくはその上に ウンコをした。ぼくのウンコとお姉ちゃんのウンコが便所の中で 結婚した」。
(『人工身体論』金塚貞文著・創林社・198 6年、p.106)


 大体、私の記憶はいい加減です。
 私は見事な一本糞を見つめて感心していました。
 感心していたのも数秒間、やはりこうしたものは流さねばならぬと反射的に大のレバーを引いたものの、かの立派な一本糞は飛沫を跳ね上げるばかりで微動だにしません。連続でレバーを引き、貯水タンクに溜まっていた水が枯れても、ほんの一ミリ動いたかどうか。
 そして私は梶♯基次郎が「結婚とは同じ便器にウンコをすることだ」と書いていたことを思い出しました。いや、それは捏造された記憶かもしれません。論理的に考えると梶♯基次郎がそんなことを書くはずはないのです。梶♯基次郎はパリーグの二軍の打撃コーチみたいな顔をしていて、乱暴狼藉のエピソードには枚挙の暇もない人でした。電車の中で一目惚れした女学生にキーツの詩集を破いて叩きつけたり、四つん這いでワンと言わされたり、金魚を抱いて寝たり、それこそ一升瓶をぶら下げて水道橋のプラットホームから落ちた小林秀雄なみに無茶苦茶な人でした。しかし…… はて、梶♯基次郎に妻があっただろうかと考えてみましたが、どうも疑わしい。ただ別の誰かの言葉だという気が一切いたしません。
 私はiPhoneXRを取り出し、梶♯基次郎について検索しようとして、何か大切なことを忘れていたことに気が付きました。
 私はあの女の名前さえ知らないのです。知らないまま失っていました。
 私は何かが閊えて、あの女の名前を訊くタイミングを逸してしまっていました。名前も住所も電話番号もメールアドレスも出身地も、LINEのアカウントも学歴も文学歴も何も知りません。彼女から教えてもらったのはWHATS3WORDSという目の眩むような未来だけです。iPhoneXRを取り出してWHATS3WORDSを検索してみます。間違いありません。メスセデスベンツのAクラスには、もうWHATS3WORDSが搭載されているということでした。もうこれは未来ではありませんでした
 私は「なまえ・しらない・おんな」で検索してみました。その場所はウクライナとカザフスタンの間の、何もなさそうな場所でした。「かれえ・にぎりずし・おんな」ではさらに何もなさそうなロシアの一角が表示されました。
 そんなことをしてもあの女の何かが解る訳ではありません。私はあの女をひそかに有為子と名付けました。
 それにしてもククレカレーがありません。過去や未来を考えても駄目なのです。いつも生活の実質は現在にあるのだから、何よりも今を見ることが一番なのです。
 私は仕方なく外食することにいたしました。
 ビッグジョンのジーンズに、キャサリンハムネットのセーターにジャケットという恰好で、外に出ました。履物は健康サンダルです。闇市に行く勇気はないので、崖を登ることはやめました。私は気が小さい男なのです。
東十条駅前の吉野家で牛丼を食べようかと思っていました。ところが店に入る前にiPhoneXRが反応しまして、AirDropの写真がどこかから飛んできました。痴漢かと疑いましたが、単なる飯テロでした。カレーライスです。送られてきたのはただのカレーライスの写真です。私はそれがどこから送られてきたものかと周囲を見回しますが、誰もこちらを見てなどおりません。立派な鼻のベンガル人が大勢歩いています。しもたやの軒で木箱に腰かけ、ぼうっと通行人を眺めているお婆さんの鼻先を、赤とんぼのつがいが飛んでおりました。私は送られてきたカレーライスの写真をよく確かめてみました。それは実にありふれたカレーライスの写真に見えたのですが、よく見るとそうではありません。それはカレーライスにそっくりの、何かでした。東京都迷惑防止条例には違反しておりません。
 私は吉野家に入ると、何の迷いもなく黒カレーを注文していました。ほんの数秒前まで、牛丼を食べるのだろうと思っていました。確固たる決意と言うほどのものではありませんが、自然とそうなるだろうと思っていました。しかし私は黒カレーを注文していました。店内にはタコオイルのように日焼けした労働戦士が一人、オリーブ色の顔をした海軍風の詰襟が一人、見覚えのある紺色のチャンピオンのウィンドブレイカーを着たやせこけた十六七歳の女が一人、私はその等間隔に空いた席の一つを占めるやいなや、黒カレーを注文していました。あんなに見事な一本糞を見てしまっていたので、もう他の食べ物など考えることができなくなってしまっていたのでしょう。
 私は間もなく運ばれてくる黒カレーの為に紅しょうがの入った箱を手前に引き寄せます。カウンターの一番奥で朝定食を食べている労働戦士がちらりとこちらを見ます。もう半年は髭をあたっていない風で、口廻りが白髪交じりにふさがっています。あれでは物を食うのに汁がへばりついて仕方あるまいと思うも、それは本人の勝手なので文句も言えません。作業着の胸ポケットから十字ねじ回しの先端が見えています。
 私は早速供された黒カレーを食するのみです。まずは合掌、穀物神天照大神に感謝です。それから紅しょうがの箱のふたを取り、トングの開きを調整して、紅しょうがを大づかみにして黒カレーの皿の脇に一盛、二盛…。
「ちょっと、あんた」
 髭の労働戦士は私に向かって言いました。「その、いくら無料だからと言って、そんなに紅しょうがを取るのはどうなんだろうか?」
 どうやら咳止めシロップか何かを呑んで酔っぱらっているようです。
 私は何を言われているのか分からないで一瞬動きを止めましたが、やはりこれは自分の自由だと思うしかありませんでした。私は絶対に残すことがないという確信のもとに紅しょうがを取っていました。これは迷惑行為ではなく、単に好みの問題なのです。もう一盛しようとする私の動きを制して、労働戦士は声を大きくしました。
「あのさ、もうそれくらいにしておきなよ」
「すいません。紅ショウガが好きなもので」
「好き嫌いじゃないんだよ。紅しょうがの色素はコチニール色素と言って、カイガラムシから煮出した色素を使ったものだ。梅酢につけたものではないんだ。あんたはそんなに虫を食べたいのか?」
 虫を食べたいかと問われたとして、何の答えもありません。牛は草を食むのに必ず北か南を向くといいますから、この男は牛ではないと判るだけです。電柱を見れば、電柱に頭を打ち砕いて死にたいと思いながら、それを口にせぬまま、この店に辿り着いたのです。要するに本当の馬鹿なのです。虫を食べたい訳ではありません。揉め事を起したい訳でもありません。それでも私は紅ショウガを山ほど食べることを止められないのです。今すぐこの労働戦士と取っ組み合いの喧嘩をしても構わないのです。それでどこかが不自由になっても困る訳ではありません。
 あのレモン石鹸の香りの女が消え去ってしまったのです。ただにがにがしい想い出ばかりです。もう私の人生には何もありません。お金も随分投じました。何も回収しないまま、一ヶ月の生活費を一日で使い果してしまったのです。もうヒロポンもビタミンBも救心も買うことができません。このままキンドル本が売れなければ、来月には首を吊るよりありません。もう一人でも仕上げることが出来ます。
「黙れ、糞虫。戦時中は食い物がなかったんだ。米だってなんだって、こやしをかけて作るんだ。ヒト型インスリン は大腸菌や酵母菌にヒトインスリン遺伝子で組み替えて作っているんだ。虫だって食い物だ。食い物に文句を言うな」
 私に代わって海軍風の詰襟がそう怒鳴って、丼を持ち上げ残りの飯粒を掻き込みました。すさまじい気魄でした。彼の精神は噴火していました。そしてその声にはいわく言い難いもの、赤でもなく死でもないものがありました。先後関係を超越し、通約不可能性に立ち向かっておりました。
 労働戦士は案外意気地がありません。一言怒鳴られただけで、原爆を落とされたかのように、もうしゅんとして余所を向いています。ポツダム宣言受諾です。絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬという服従の精神です。鴉は白いのです。詰襟の方は大きなため息とゲップの後、がま口から小銭をつり銭無きようカウンターに並べて、ごちそうさんと店を出ていってしまいました。私はその制服が学習院のものだと思い出しました。学習院に通うにはどうしても王子からチンチン電車に乗らなくてはなりません。東十条から学習院に通うのは論理的矛盾ですが、矛盾に文句を言ってもしょうがありません。
 私はカイガラムシの姿かたちを思い浮かべながら紅しょうがを一盛食べ、それから黒カレーを一匙掬って食べてみました。最初はひたすら甘い何かなのですが、スパイシーであるような気もしますし、コクがあるような気もして来るから不思議です。そして自分は何故この黒カレーを選んでしまったのかと不思議になります。
★★☆☆☆
 チャンピオンのウィンドブレイカーを着た女がこちらをちらちら見ているのは解っていました。女は見覚えのある千円札で会計を済ましてそそくさと店を後にしました。私もほどなく黒カレーを食べ終わっていたのですが、財布には千円札が見あたりません。仕方なく日本商業開発(株)の株主優待のジェフグルメカードを使うことにしました。御大層に「地主」と印刷されています。この会社のビジネスモデルは古く、かつ新しいものです。この会社はまず土地を仕入れ、商業用地としてスーパーマーケットなどに貸し出し、地代を得る仕組みです。このシンプルなビジネスモデルはリートで真似られました。このビジネスモデルの成否は、借り受けるヴィークルの活力に掛かっています。
 そう、私にはヴィークルとしての価値がないのです。ヒロポンだけで逃げるもんですか。「あなたはカイ性なしの敗残者なのよ。立派な人になって下さいね。ハイ、さよなら」とレモン石鹸の女は消えてしまったのです。
 ジェフグルメカードで支払いをしますと、百円銀貨一枚、赤銅貨五枚のつり銭が返ってまいりました。私に返ってくるのはこの程度のものなのです。生きた人間のしでかすことも退ッ引きならぬギリギリなのです。生きている奴は何をしでかすか分らないものです。

                 ⁂
A君へ


公園には博物館もあつた。
陳列品の中で思ひがけなかつたのは、ミイラの夥しい蒐集であつた。
非常に保存がよく、繃帯まで原型をとどめてゐるのも少なくなかつた。
その中で特に、赤膚媛(アカラヒメ)と標記された若い女性の一体と、片氏月姫(ガシグツキ)と標記された一体とが、著しく僕の注目をひいた。
前者は日本奥羽地方出土とあつて、豊かな乳房がありありと面影をとどめてゐる。
後者は天山南路出土とあつて、下腹部の隆起がどうやら子宮の厳存を思はせた。

(『わが心の女』/『日本幻想文学集成⑲ 神西清 死児変相』所収/国書刊行会/池内紀編/1993年/p.50~51)


 二度目のメールになります。
 ご存知でしょうか。
 誰でも王様気分を味わうことができる「王様ゲーム」を。
 午前十時、開店直後の百貨店に一番で入り、エスカレーターに乗ってずんずん進んでいくと、店員が深々とお辞儀をして迎えてくれます。どのフロアでも、どの売り場でも、その日最初のお客様には心を込めてお辞儀をしてから持ち場につくきまりがあるからです。どの売り場も一番に通過できると、王様のような気分を味わうことができます。太巻きはかっぱ巻きより必ず太くなければならないように、きまりは必ず守られなければなりません。
 昨日、電車の中で古語辞典を読んでいたら、向かいの席の若いアベックに大笑いされました。靴の爪先がパカパカパカと口を開けていたからでした。
 さて、何の話でしたでしょうか。
 返事を貰えないのに、こうしてまたメールしてしまうのは、やはりどうしても事件と『絶歌』の関係が腑に落ちないからです。考えれば考えるほど、疑問点は増えていきます。
 まずあなたに浴びせられる猿のような罵声。まるであなたが広島に原爆を落としたかのようです。戦争と切り離して原子爆弾一つの残虐性を云々するのが、知識人の流儀のようですが、拳固で人を殴ったことのある人には、もう原爆を批判する資格はないでしょう。拳骨一発も暴力。百発も暴力、アウシュビッツ以前に詩を書いていた人たちは野蛮です。今まで人を殺したのはあなたが初めてではありません。「静岡県の小さな町では、十八の少年が麻雀の金が欲しさに、四人殺して、たった千円盗んだ」と坂口安吾が書いています。人を殺して本を書いたのはあなただけではありません。秋葉原連続通り魔事件の加藤智大も四冊の本を書いています。しかし何故なのでしょうかあなただけが罵声を浴びる。とても静かに交合をする人々が、いわゆる世間が集団催眠にかけられたかのように一つの方向を向いてしまっているおかしな現象が疑問の一つ目。
 二つ目の疑問点は、『絶歌』の読者が、何故なのでしょうか、みな『絶歌』に書かれていることだけが絶対の真実だと信じ込み、ウイキペディアさえ読まないで、そこに描かれていないことをすべて無視する現象です。これは二重に不思議な現象です。
 何しろ『絶歌』では分かり易い作り話をして精神分析医をミスリードするエピソードが描かれているのです。これは小説の技巧としては「これは虚虚実実の物語でございますよ」という作法です。なのに精神科医や心理学者が『絶歌』の精神分析を始めてしまう、これは底知れない阿呆のぬかるみではないでしょうか。
 三つ目は事件そのものに関する疑問と云うところに収斂します。『絶歌』を読む限り、あなたは事件に関する新たな証拠を示していないばかりか、筆跡鑑定の結果、神戸新聞社に送られた犯行声明があなたのものでなかった理由、ダフネ君が「懲役十三年」という長文を一読で丸暗記できた理由、遺体遺棄の犯行時刻とアリバイの矛盾など何一つ説明できていません。
 冷静に判断すれば、『絶歌』はあなたが単独犯であることを否定しているかのように受け止めることもできます。筆跡鑑定の結果、誰かが、つまりあなたの筆跡を知っていて真似ることのできる誰かが、犯行声明文を神戸新聞社に送ったことが明らかです。それは一体誰なのでしょうか?
 それに改めて思えば、何故朝日新聞ではなくて、読売新聞でもなくて、毎日新聞でもなくて、神戸新聞だったのでしょうか?
 あなたは有名になりたかったのでしょう?
 そうであれば何故全国紙ではなく、地方紙なのでしょうか?
また「懲役十三年」を一読し、丸暗記し、ワープロで打って、犯罪の証拠として警察に提出したダフネ君は、どれだけ暗記名人なのでしょうか。まず正確に丸暗記できるのは原稿用紙四枚程度ではないでしょうか。もしもあなたが本当に「懲役十三年」の作者なら、相違点を何点か指摘できたのではないでしょうか。逆に言えば、あれはダフネ君の創作で、あなたが『絶歌』でそのまま引用しただけ?
 オリジナル作品とダフネ君記憶版の違いが数か所でも表現されていれば、それなりにリアリティも生まれたことでしょうが、何故なのでしょうかあなたは一切訂正も修正もしません。
 それはつまり、できないということではないでしょうか。
 あなたは「省略」という手法を用いることで、敢て犯行状況を説明しません。本当にそうなのでしょうか。いや、説明できなかったのではないでしょうか。あなた一人であの事件を完成させることは、どう考えても不可能です。あなたは『絶歌』で取り調べの警察官、精神鑑定医、裁判官の過ちを仄めかしながら追い詰めませんでした。筆跡鑑定の結果、神戸新聞に送られた犯行声明はあなたの筆跡に極めてよく似た別人のものだと判明しました。六十日もかけて調べ上げた鑑定結果は、あなたがミスリードしたものだと『絶歌』で明かされました。あなたの更生プログラムは失敗しました。事件を疑って欲しいのか、欲しくないのか、どうなのですか?
 悪いのは医者と政治家だ! と怒鳴りたくなりませんか。
 あなたには事件の鮮明な記憶があるということですが、普通の人間には自分の頭のヒキダシのカギをはずして、自分の撮した写真を眺めたり、過去と対面することはできません。あなたには夢と同じように空間に投影し、現像する映写幕があるのようですが、普通の人間にはそれがないのです。
 あなたは、犯行は真夜中に行われたとしながら、見える筈のない景色を詳細に描写してしまっています。目撃証言からすれば、犯行は朝でなければなりません。十年前に見た景色を普通は覚えていません。だからあなたは『絶歌』執筆前、わざわざ帰郷し、事件に関わりがある場所を写真撮影して回ったのでしょう。
 仮に『絶歌』が二部構成だとしたら、その後半部は、あなたの社会復帰が国家プロジェクトとして、大人数を引き連れての観光となるのですが、そのあまりの手厚さに驚きます。そして京見物なのに『西遊記』のキャラクターを引き合いに出す皮肉に感心しました驚きました。『時計仕掛けのオレンジ』を思い出しました。どれだけの税金があなたに注ぎ込まれたのかと。そうせざるを得なかった国家とあなたの関係は疑問です。あなたは何かと引き換えに、その厚遇を得たのではないのですか?
 それから和歌山カレー事件についてご存知でしょうか?
 和歌山カレー事件も、動機なし、物証なしの事件です。町の嫌われ者が、杜撰な捜査で死刑になろうとしています。何だかまたあやしげな事件が成立してしまったものです。
 最初にあの事件について知った時、私はマスコミの報道通り、あの肥ったおばさんが犯人だと信じて一ミリも疑いを持ちませんでした。しかし最近になって事件を追ったルポルタージュを読んで驚きました。実際に一つ一つの事実を確認していくと、この事件には別に真犯人がいるとしか思えないのです。仮にこの林真須美死刑囚が真犯人だったとしても、捜査の手続き、検証、裁判がいい加減すぎます。松本サリン事件の教訓が活かされていません。こんなやり方なら誰でもが死刑にされてしまいます。林真須美死刑囚は町の嫌われ者でした。夫は保険金詐欺を働いていました。しかし、それとこれとは話は別です。
 それにしてもカレーに混入された毒物が何なのかさえ曖昧なまま、死刑が確定するとはおかしな話ではありませんか。
 最初は被害者の吐瀉物から「青酸カリ」が検出され(!)たとされ、後に林真須美死刑囚と結びつけやすいからと「ヒ素」に訂正され、「ヒ素」だとすぐ吐き出すような反応がないため、今度は「毒物」と改められたというわけのわからない経緯だけでも、この裁判は捜査からやり直すべきでしょう。日本薬学会のホームページに拠れば、「急性中毒は、ヒ素服用後数十分~数時間で現れ、下痢、腹痛、嘔吐が起こり、さらに心臓衰弱などを引き起こし、全身痙攣で死に至ることもある。」と説明があります。ヒ素は食べてすぐ、げーげー吐くようなものではないのです。しかも犯行の証拠として林真須美死刑囚の自宅から発見されたヒ素は、犯行に使われたものとは別の種類のものであることが解っています。
 要するに凶器が金槌からショックレス・ハンマーに、糸鋸が金鋸へ、そしてわけがわからなくなって「凶器」へと改められたようなものです。
 本当の毒物は青酸カリであったが、林真須美死刑囚と事件を結び付けるために「ヒ素」にすり替え、そのヒ素が林真須美死刑囚の夫の持っていたものとは違っていたから「そこはもういいじゃないですか、こいつらが犯人だというのは間違いないんですから」と「毒物」になってしまったようにさえ読むことができます。
 その本に書かれていることが事実ならば、これは完全な冤罪です。警察の都合で目撃証言が捏造され、何の証拠もないまま、自白もなく、死刑になろうとしているしか思えません。
 立候補もありません。
 そう、あなたが全て自分だけの手柄にしようとしている事件は動機も物証もありません。あなたの自白だけであなたの単独犯と決めつけられていますが、むしろあなたの筆跡によく似た犯行声明文が、別の可能性を示していませんか。目撃証言も物証も皆無です。そしてあなたが『絶歌』で「ニュータウンの天使」として少年愛を仄めかすのに対して、医療少年院の扱いは随分杜撰でしたね。相手を殺してしまうほどの少年愛の変態を、他の少年たちと一緒にしていたのですから。ダフネやアポロが登場するギリシャ神話に天使は登場しません。
 あなたが凌辱したとされる少年は、本当にあなたの宝物だったのですか?


われわれの性的経験を虚心に返って見つめれば、性的欲望なるものをわれわれの身体の内に想定しなければならない必然性など何一つないのだ。にもかかわらず、そうした無用な、そして論理的に説明できないような曖昧なものでしかない性的欲望なるものが、われわれの思考習慣を律するほどに長きにわたって存在し続けてきたということには、歴史的な必然性が、そのことによって実現されなければならない何らかの意志があったと考えねばならないはずである。
(『オナニスト宣言 / 性的欲望なんていらない』金塚貞文著、青弓社、1992年、p.42)


 美に対するアンビバレンツな感情というようなことは、その一つを執りあげて言葉の真実を主張するには、微妙にすぎるものです。探求の手練れが、己が心理を分析した場合でも、このような結論を真実なものと断定して提出することは、一朝一夕の思案ではできがたいものです。カルテジアン劇場を否定しているのではありません。非言語記憶があるのなら、非言語動機もあるのではないかと思うのです。
 それでもあえて言語化するならば、あなたは有為子へのぶざまなアプローチを誤魔化すために、金閣寺を焼いたのではないですか? 有為子の拒絶によって、あなたが受けた恥辱、その小さな傷をかばうためにあなたはとんでもないところまで行ってしまったのではなかったですか?
 金閣寺も、銀閣寺も、法隆寺も、決して美しいというようなものではありません。「ニュータウンの天使」はわざわざ、でしょう。
 深沢七郎の『風流夢譚』をご存知でしょうか?
 大江健三郎が『政治少年死す』をあっさりと手放してしまったことによって、もしも「筆禍事件」で検索すればあなたの先輩が『風流夢譚』ということになります。勿論「生首」の先輩は三島由紀夫です。
 なんとも皮肉な偶然ですね。
 その『風流夢譚』で詠まれる天皇の辞世の句が何故なのでしょうか、南朝の都、吉野を歌っていることにお気づきでしょうか。


みよし野の峰に枝垂れるちどりぐさ
 吹く山風に揺るるを見れば

老紳士は読んでくれて、頼みもしないのに歌の解釈もしてくれた。
「みよし野の峰に枝垂れるちどりぐさ吹く山風に」までは「揺るる」の序で、「揺るる」は国が動乱することを意味するもので、歌の大意は「なんと国家動乱したことであるわい」という意味だそうである。
「御製(ギョセイ)ですねえ」
 と私は言った。
(『風流夢譚』深沢七郎)


 三島も、保田與十郎も、そして反体制という意味だけでも、深沢は南朝を持ち上げたかったのではないでしょうか。そしてここに三島の辞世の句が重なって見えるのは偶然でしょうか。

 あてずっぽうのようで、かなり本気で断言します。あなたの性的対象は女性ですよね。私は大体小さな図書館くらいの本を読んできました。ですから読み違えはありませんなどと言うと変でしょうが、私は幾つかの辞書に誤りを見つけ、訂正をしていただいています。お礼に万年筆をいただきました。 

 あなたは犯罪者に立候補しました。そして当選しました。
 でも、あなた以外の誰かが、この事件に関与していますよね?
 あなたは人を殺した日ではなく、逮捕される日から物語を始めます。『絶歌』は酒鬼薔薇君が重要参考人として連行される日付から始まります。それ以前の日々を「他愛もない日常の一コマ一コマ」と書いてしまいます。そしてその日から「得体のしれないものに巻き込まれた」と書いてしまいます。もしあなたがくだんの事件の当事者であれば、「他愛もない日常の一コマ一コマ」の中で女の子を殴り殺し、淳君を絞め殺して首を切断していたことになります。それが「他愛もない日常」?
 そして「得体のしれないものに巻き込まれた」とはどういうことなのでしょうか? 
 こういう疑問を読者に抱かせ、先を読み進めさせる書き出しは、まさにプロの手練れです。
 それから立て続けに「記号と象徴」という概念を利用して「間テクスト性のなぞり」というレトリックを駆使します。勿論あなたの大好きな村上春樹さんが、記号と象徴についてこう説明していることを知っていなかったとは言わせません。


「いいかい、天皇は日本の象徴だけど、日本の記号ではない、ここまではオーケー?」「なんとなく」
「つまり天皇と日本はイコールではない。記号としての”日本”は実体としての日本をあらわす役割があるという意味でイコールだ」
「なるほどね」
「つまり少年Aは記号だから、『絶歌』の”僕”と少年Aはイコールになる。同一人物だ。しかし「モンスター」は象徴だから”僕”とイコールではない」
「どういうこと?」
「”僕”はモンスターの一部であって全部ではない。他にもモンスターはたくさんいるし、”僕”がモンスターになったのは逮捕された後の話だ。酔っぱらっていてよく覚えていないが八割は自分がやったことで…」
「残りの二割は? 妖怪のせいなのね?」
「そうとも言える。餃子の満州が三割うまいようにね」


 あなたが言いたかったのはこういうことでしょうか?
 そして次のページには、既に「浮遊する視座」が登場します。
 あなたの視座はあなたの顔面から離れ、過去に浮遊します。私も試してみましたが、そんなことはできません。昔の教室であなたを見つめることができるのは、あなたのクラスメイトだけです。その時点であなたに執着していたクラスメイト…。
 取りあえず話者は、そうして教室でカオナシであるあなたを見つけます。そのカオナシが人をカオナシにして顔役、象徴(カオ)になること、『スタンドバイミー』(原題「ボディ」)、死体(タカラモノ)、…これが本当に素人の告白なのでしょうか?


タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ませているようには見えなかった。中年の運転手は、まるで舳先に立って不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。青豆は後部席のシートに深くもたれ、軽く目をつむって音楽を聴いていた。(『1Q84』book1/村上春樹/新潮社/2009年/p.11)

運転手はミラーの中の青豆の顔をちらりと見た。彼は淡い色合いのサングラスをかけていた。光の加減で、青豆の方からは表情はうかがえない。(p.19)


 例えばこの書き出しは『絶歌』の冒頭で使用される「浮遊する視座」というレトリックにあまりにも似ています。似すぎています。話者すら固定されない。この「見えなかった」という語り手は誰なのか? カメラが話者の顔面に固定されず、浮遊します。しかし世界的大作家となった村上春樹さんの作品として眺めると、極めて不自然です。これではまるで『絶歌』の前座ではありませんか。三島由紀夫の『午後の曳航』があなたの前座であったように、『カフカの海辺』があなたへのオマージュを隠し切れないように、この作品ではあなたが「ぬいぐるみの要塞からもっさりとした動作で起き上がり…」などと表現する未来の前座に徹しています。意識が肉体に留まる限り、つまり首と胴体が離れぬ限り、意識が拡大することはないと三島由紀夫は書いています。
 それにしても最も不思議なのは、あなたが妙にこなれた書き手であるという事実です。とてもこれが処女作とは思えません。
 これもこの世界で具体的に指摘している人が全く、たった一人も存在しませんが、「父の涙」の章では、取り調べ中、証拠品のナイフを確認させられる父親の写真にフォーカスして、引きの絵で場面転換し、その時点からは未来の場面に移動するくだりがありますね。
 何かにフォーカスして引きの絵で場面転換というのは、映画でよくみられる技法ですが(『刑事コロンボ』シリーズなどに多用されていたような気がします)、単に時系列に語らないという以上の工夫がみられる部分です。自然にできるものではなく、シナリオを意識しないとこういうふうには書けないと思います。
 父との会話は取り調べのずっと後、審判の後、後半部にかかる話なのですが、ここで「ネタバレ」のように未来を明らかにすることで、例えば「咆哮」の章が活きてくるような効果も感じられます。
 将来的には父親をまっすぐに見つめることのできる程度の精神レベルに達する筈なのに、面会に来た母親を怒鳴りつけてしまう。
 この「咆哮」は、逮捕後のなだらかなプロットの中では、際立って刺激的なものになっていますが、その効果の幾分かは「父の涙」の効果でしょう。
場面転換ができずに、だらだらと書いてしまうところから、章を分けて時間を進行させ、それから回想を使いこなすようになるとして、回想の中に未来を挿入するまでにどのくらいの手首の運動が必要でしょうか。
同じく手首の運動が感じられるのは、「断絶」と「GOD LESS NIGHT」の間の空白です。
 仮に何かを書かない「省略法」という技法を使おうとしても、余程の鍛錬がなければ、これはなかなか使いこなせるものではありません。
 例えるならレイモンド・カーヴァーの『出かけるって女たちに言ってくるよ』の結末なみの鮮やかさなので恐れ入ります。


彼はなおも上にのぼりつづけたが、やがて道は下りになり、谷の方へ向かっていた。目をやると娘たちが見えた。二人は露出した岩のうしろでしゃがんでいた。笑顔を浮かべているように見えた。
ビルは煙草をとりだした。しかしそれに火をつけることはできなかった。その時にジェリーが姿を現した。そしてそのあとでは煙草のことなんか忘れてしまった。
ビルはただ女とやりたかっただけだった。あるいは裸にするだけでもよかった。でももし駄目でも、それはそれでまあいいさと思っていた。
ジェリーが何を求めているのか、ビルにはわからなかった。しかしそれは石で始まって、石で片がついた。ジェリーはどちらの娘に対しても同じ石を使った。最初がシャロンという名の娘で、ビルが頂くことになっていた娘があとだった。
(『出かけるって女たちに言ってくるよ』/「ぼくが電話をかけている場所』/レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳/中公文庫/p.37」


 俳句は最も短い詩型であるがために、省略なくしては成立しません。だから難しい。しかしあなたは易々と省略をやってみせましたね。これは多少なりとも文学を齧っている者から見れば、信じがたいことです。上手い洒落や言葉遊び、難字の詰め合わせや開いた比喩はちょっと工夫すればできます。しかし、省略は難しい。
 もしあなたがプロの書き手ではなく、事件の核心部分を敢えて書かなかったのだとしたら、私にはあなたは事件の真相を知らない偽者だとしか思えません。
 しかし何故なのでしょうか事件の曖昧さに、今さら蓋をしようとしていますね。
 曖昧なものを曖昧なまま、消し去ろうとしていますよね。
 しかしそんなことは私にとってはどうでもいいことなのです。
 私はもっと別のことに興味を持っております。
 それは時間です。
 あなたの書いた「ニュータウンの天使」の章を立ち読みするまで、私は「なんや時間をあっちこっちさせよんな。なんでやろ?」と疑問に感じていました。比較してもらえば解ると思いますが、第二部ではいわゆる手記風に、年代ごと、時系列でエピソードを書いていく形式です。一方第一部の方では、事物を観念で結びつけながら、出来事の順序を見えなくさせています。
 純粋に映画化を企画したのなら、少し手を入れなくてはならないところでしょう。特に前章、「父の涙」の場面転換そのものは見事ですが、飽く迄も「審判」後のエピソードが登場するので、第一部と第二部の間にきちんと六年五カ月の空白を置いた仕掛けが、少しバランスが悪いように感じられてしまうのです。
 ですがこれも恐らくはこの「ニュータウンの天使」が、事件の三年も前の出来事であったことを誤魔化す細工だったのでしょう。
 理由は良く解りませんが、元少年Aは『絶歌』全体を通して、自分にとって土師淳君が特別な存在であったこと、彼に特別な感情を抱いていたと言いたげなのです。第三の事件が通り魔事件ではなかった根拠を示そうとします。まるで自分が土師淳君を殺した犯人であるかのように振る舞います。
地球を57兆個の正方形に分割し、その位置を三つの言葉で表現する仕組みをご存知ですよね。WHATS3WORDSです。国土地理協会が住所コードを販売していることに対抗して、今や住所を不要にしようというのが世界の流れです。「がっこう・あたま・しょうねん」はベネズエラに「がっこう・くび・さらす」はカスピ海にあります。もしかしたらどんな抜群のアイデアも、なんでもない荒れ地に張り付けられているかもしれません。
 今朝、私は一人の女とパソコンを失いました。
 仕方なく闇市のネットカフェでこのメールを打っています。
 隣室から獣のような声が聞こえてきます。
 あなたが当時の主食だと言い張る赤マル。
 しかしダフネ君にチクられて、所持品検査を受けて、あなたの鞄から出てきたのは何故なのでしょうかキャビンでした。
 当時のキャビンとマルボロでは随分味が違います。マルボロの方がかなりかすれた感じでざらざらっと強く、キャビンはすっとしてチャコールフィルターのせいか雑味がなく、すっとしていましたね。強さはそう差がないものの全然違う煙草でした。青酸カリか、ヒ素か、みたいな話になっていませんか。
 次々に現れる都合の良い目撃者証言。
 どうも腑に落ちないエピソードは数え切れません。
 あなたの部屋に捜査に入った警察官はジャムの瓶をあなたの父親に示し、これは何だと思いますかと尋ねます。あなたの父親は「わかりません」と答えます。警察官は何故なのでしょうかそこで「猫の舌ですよ」と言ってしまいます。まるでそこに猫の舌があることを知っていたかのように。猫の舌を見て、初見で、猫の舌だと解かる人がどのくらいいますかね。ラングドシャというお菓子がありますが、実物はまるで違います。猫の舌を一目で猫の舌だと理解できる警察官は、恐らくA君よりえげつないことをしていますよ。それに警察官は通常質問はしても答えは言いません。答えは相手から言わせて、その正否も告げません。そういう風に徹底して教育されています。質問に質問で返すのが警察官の仕事です。なのに警察官は「猫の舌です」と言ってしまいました。瓶詰の猫の舌が突然部屋から現れたというより、捜査のふりをして、そんなものが持ち込まれた、と考えるべきかもしれません。
 遺体見分が駐車場で行われたことを、ご遺族も不思議がっていました。
 何故かあの事件で警察の振舞いは滅茶苦茶です。
 それから「精神狩猟者」の章であなたが書いていた「時代の水脈」とは何なのでしょう。確かにあなたは酒鬼薔薇世代と呼ばれるほど有名になりましたが、時代の水脈を見つけるアンテナを持っていた…とまで言えるとしたら、サトシ・ナカモトか秋元康くらいのことをしなければならないような気がします。


というのは、まことの作家にとって、いわゆる体験なるものはいかなる問題でもないからだ。
せいぜいのところ、それは外部世界における刺激性の強い調味料といったものにすぎないだろう。
(『解説』/『日本幻想文学集成⑲ 神西清 死児変相』所収/国書刊行会/池内紀編/1993年/p.224)


 池内紀さんのこの文章は、おそらく圧倒的に正しいでしょう。
 誰に対する見栄でも弁解でもなく、恐らく正しい。しかしあの肥担ぎに憧れた三島由紀夫を大喜びさせた国辱小説『家畜人ヤフー』の作者、沼正三が、味を云々できるまでの糞食者、本物のマゾヒストであることをご存知でしょうか。沼正三は父親が車夫で、自分には虜囚の体験があると嘯きます。いや、それが事実であろうとも全く問題はありません。三島由紀夫が、肥担ぎに憧れていたと嘯くようなものてす。太宰の好物、蟹が嫌いだと嘯くようなものです。『奇譚倶楽部』に連載されていた『ある夢想家の手帖から』には沼正三の本物の変態性が論理的に説明されています。屁理屈ではありません。本当に説き伏せられるほど論理的なのです。沼正三は日本人の劣等性と本質的な各地としての才能を言い当てます。『家畜人ヤプー』で描かれていたのは、ディストピアではなく、沼正三にとっては本当のユートピアだったのです。
 ロラン・バルトはサディストとマゾヒストの出会いを否定していましたが、沼正三を読めば考えが変わっていたと思います。
 沼の想像力は原爆までもおかずにしてしまいます。太宰にも文学は戦争なんかには負けないという強い自負がありましたが、良い意味で沼正三の変態性は飛びぬけています。『家畜人ヤプー』に登場する便器人間、西洋白人の糞尿を始末するヤプーは、奇想天外な思い付きなとではなく、沼自身のシベリアでの捕虜時代の幸福な体験を脚色したものです。
 しかしおそらく沼が体験したのは、西洋白人の糞尿を始末するという幸福な多経験だけではありません。反共的な日本人を総轄する側の立場でなければ、生き残ることはできなかったからです。恐らく沼は日本人を吊るしています。そちら側にまわらなければ、生き残ることはできなかったのです。捕虜は勝手にセックスして子供を作れるような環境にはありませんでした。厚生労働省のシベリア抑留者名簿が、微妙に曖昧さを保っているのは、厳密に特定させないための配慮でしょう。私が名簿に載るとすれば、カニャイ・ノーサクとなるわけです。そうでもしないと、私を吊った日本人が気に病むというわけです。沼の変態性からしてみれば、これほど苦痛なことはありますまい。ですから沼には『家畜人ヤプー』を描くことができたのだと思います。
 もうトーハンもニッパンもメディアドゥもどうでもいいわけですよ。
 オーファンワークスでいいと思っていますよ。
 それが本当の小説じゃないですかね。
 権威にこびていて、何が小説ですかね。
 そして恐らくA君、あなたはやはり同じ感覚を持っているのではないでしょうか。弱いものをひねりつぶすことに何ら躊躇することのない絶対的なサディストとしての変態性。日本に原爆を落とした人と全く同じ精神性。
実は私にも同じ感覚があります。
 私が病みつきになっている玩具は「アリメツ」という薬です。アリメツは園芸コーナーやドラッグストアの殺虫剤の棚に置かれています。何の薬かと言えば、アリの巣を滅亡させる薬です。薄緑色のプラスチックのケースの中に、アリを誘引する餌が入っています。謎の液体です。その液体に、アリは一日か二日行列します。アリはアリメツのミツを巣に持ち帰り、幼体に分け与えます。恐らく女王蟻にも。そして行列が途絶える三日目には一つのコロニーが滅亡しているという仕掛けです。この薬が「アリサツ」であれば、私は何の関心も示さなかったでしょう。「アリメツ」なんと甘美な響きでしょうか。
 この一発で何十万人もの人間が溶けてなくなると原爆の投下スイッチを押した変態、個の一撃で酔っ払いのサラリーマンがぶっ倒れると確信して金属バットを振り回した足立区のチンピラ、そういう人々が感じていた恍惚感を、私はアリメツから得ることができるのです。私は毎日エビオス錠を呑みながら、何億個の酵母を呑み込んだのかと悦に入ります。
 あなたは文学における書き手と読み手の関係の絶対性を皮肉りましたね。結果として読者はことごとく、被害者家族が読んでほしくはない内容を覗き見ずにはいられない変態であり、ただ情報を受け取りシェアすることしかできない、弱者にされてしまっていますね。
 もう一度お尋ねしたい。あなたは何者ですか?
 母への不満と、それでもなおかつ絶対に取り換えの利かない愛情と甘えを、「たまごサンド」のエピソードは言葉少なに表現していますね。「たまごサンド」はとても上手に使われていました。赤ん坊は母親の乳房の延長として、心のこもった食事を求めています。寮母の作ってくれた「たまごサンド」を慌てて取りに戻る少年Aの姿は、(残念ながら)『テニスの王子様』のように読者を萌えさせます。
 これは狡い。
 エッグベネディクトや肉巻お握りでは駄目なのです。
 塩むすびではわざとらしい。
 カツサンドでも駄目です。BLTサンドという訳にもいきません。(少年Aは、あまりおおっぴらに野菜を食べてはいけないからです)
 弁当に海老カツサンドとか、いかめしというわけにもいきません。
 いや、だから「たまごサンド」は絶妙なのです。このチョイスはとても素人が書いたとは思えません。ジェローム・ディヴッド・サリンジャーの焼きそばのように絶妙なのです。あのシーンは実にいじらしい。「ロールキャベツ」でアポロ君の母親のハイカラさを印象付け、「ゴーヤの天ぷら」や「つくしのバター焼き」で祖母の出自と素朴さをアピールした。そういうものを美味しいという味覚を持ちながら、自分でトーストにイチゴジャムを塗りたくって「不味そうに」食べてみせ、出来合いのミートソースのスパゲッティを食べるシーンでは明らかに血の赤をほのめかしています。
 第一部では自分以外は誰も批判していません。第二部では少年Aの正体に感付き、あいつが酒鬼薔薇だと言いふらしたノブユキのほか仕事を放り出す人、テレビのチャンネル争いで喧嘩する大人、そして自分のミスを押し付ける先輩などに文句ありげですが、警察も家族も学校も友人も一切批判しませんね。
 ノイローゼになるほどの母親の体罰も、警察の違法な取り調べも、自分を不良チームのリーダーと決めつけて「あいつとは関わるな」と友人に指導していた学校の対応も、教師に告げ口し、さらにはありとあらゆる手を尽くして少年Aを連続殺傷事件の犯人に仕立ててしまった友人の得体のしれない悪意も、元少年Aの筆で完全に美化されてしまっています。ここに精神の高さなどを見つけてしまったら、国語の成績は2です。
 これが素人の告白本である訳はありません。こんなものをすらすら書く事ができそうな作家は、あなたの他には、日本に一人しかいません。
これが処女作である筈がありません。そしてあなた一人ではあの事件は背負いきれない。勿論あなたは事件と無関係ではない。
 あなたは何者ですか?
 あなたは今、どこにいるのですか?

              ⁂

 私には近所に行きつけのカレー屋があります。そこをカレー屋と呼んでいいのかどうか、正直自信がありませんが、その店で何度もカレーライスを食べていたのは事実です。そしてもう一つの事実を申し上げますと、私がその店で最初に買ったのは、十枚のボクサーパンツでした。この話をしますと、誰もがだらしない作り話だと確信します。私の話を疑うのではなく、カレー屋でボクサーパンツを買うことは絶対にあり得ないと固く信じているのです。うなぎ屋なのに金曜日のカレーライスで大評判の、池袋のうな達の話をして食い下がります。しかし誰にも信じて貰えません。カレー屋でボクサーパンツを買うことは絶対にあり得ないという科学的な証明はありません。しかし誰一人この事実を信じないのです。まるでこの世にはボクサーパンツなど存在しないかの如く、カレー屋でボクサーパンツが売られていたという事実を否定するのです。
 確かにカレー屋でボクサーパンツを買うことは、普通はありません。それはつまりボクシングという格闘技を観戦してみれば解ることです。
 私は今迄ボクサーパンツを履いて試合をしているボクサーというものをただの一度も観たことはありません。みな必ずトランクスを履いております。ですからみんな、カレー屋でボクサーパンツを買うことは絶対にあり得ないと言うのです。
 何度もそうして諭されると、次第に私は自信をなくします。
 そして十枚のボクサーパンツが百八円で売られていたことを告白する勇気を失ってしまいます。確かに私は十枚のボクサーパンツを百八円で買ったのですが、それは余りにも安すぎます。百円ショップでさえ、ボクサーパンツは一枚で百八円です。ですから十枚のボクサーパンツが百八円というのは、常識で考えると可笑しいのです。
 可笑しいのですが事実、私は十枚のボクサーパンツを、百八円で、カレー屋から買ったのです。

Viker。
 それがそのカレー屋の名前でした。
 東十条駅の東側、いわゆる崖の下側の一本路地に入った解りにくい場所にあります。以前は居酒屋だった店舗を改装し、室内は南国風の観葉植物を飾っています。元プロ野球選手がオーナーだそうですが、店には野球にちなんだものは何一つありません。店長は華奢なお爺さんで、元野球選手には見えません。
 この店のカレーは本格的な南インドカレーです。さらさらでスパイシーな、スリランカ人の作るインドカレーに似ています。
 大体スリランカ人というものは、さらさらでスパイシーなものです。人間がさらさらです。脇の下からクミンの香りがいたします。真夏の埼京線の車内で、ガラムマサラの匂いがいたしますとたいていスリランカ人がインドカレーを食べています。日本のインドカレーのお店は殆どスリランカ人が経営なさっているそうです。インドにはあんなにたくさんの人がいらっしゃるというのに、不思議なことです。
 Vikerの名物カレーは二つあります。
 一つ目は、豚肉とパイナップルのカレーです。豚肉とパイナップルのカレーと聞ききますと、何かいたずらに奇を衒ったこけおどしのように感じられる方もあるかと思いますが、実際に食べてみますと、豚肉とパイナップルが絶妙に主張し合い、辛みとコクが時間差で押し寄せる堂々としたカレーライスです。
★★★★☆
 二つ目は牛筋カレーです。インドでは牛は神聖な生き物とされていますので、インドカレーといいますと、チキンや豆、魚のカレーが多いのですが、この店には何故か牛筋カレーがあります。牛筋の旨味が溶けだしたルーは味わい深く、ほろほろと崩れる牛筋は一度炙られているのか、香ばしいかおりがいたします。トッピングに目玉焼きとソーセージ、納豆、フライドガーリックが選べます。
★★★★☆
 ただ、私がVikerで普段食べておりますのはピンクカレーです。カレーと言いますとターメリックの黄色と炒めた玉ねぎの茶色と言いますか、大体そういう色をしていますが、この店のカレーはビーツを使い、ルーをピンク色にしています。味は案外スパイシーで、視覚と味覚が混乱いたします。こんもりと盛られたご飯にはアスパラガスと半分に割ったゆで卵が添えられています。私にはどういうわけか、このカレーが懐かしいような感じがして口に合うのです。
★★★★★
 何年か前に一度だけ、南インドにビーツが生えているのか、と熊沢さんに訊いたことがあります。熊沢さんは、あっそうと、何か曖昧な返事をしました。「インド」「ビーツ」で検索しますと、更に色鮮やかなピンク色の南インド料理、ビーツのパチャディが出てまいります。ですからビーツのピンクカレーが南インド料理でないとも言い切れません。
 熊沢さんというのはこの店の店主です。どういう事情でカレー屋の店主になったのか知りませんが、店名のVikerはノルウェー人の名前のようですが、意味は解りません。
 この店にはカウンター席が六つ、テーブルが二つあります。テーブルが二つあるのに対して、籐の椅子が七つあり、お客の人数に合わせて適当に組み合わせるのですが、私はこの店に私以外の客がいるのを見たことがありません。それは多分熊沢さんがあまりお客を好きではないからです。Vikerの店先には小さなイーゼルが公道にはみ出しておかれているのですが、そこに置かれたホワイトボードには、豚肉とパイナップルのカレー850円、牛筋肉のカレー730円と書いてあるのですが、その値段をぐるっと中括弧で括り、持ち帰り弁当半額とビックリマークをつけているのです。
 いや、いくらなんでも半額はないでしょうと、一度熊沢さんに文句を言ったことがあります。そんなに店内で食べられるのが嫌なんですか。ならどうしてカレー屋なんかやっているんですかと。熊沢さんの返事は曖昧なものでした。あなたも、とだけ言ったように記憶しています。
 あなたも店に入ってきてほしくないという意味なのか、あなたも人間嫌いなのだろうという意味なのか、それとも全く別の意味なのか、意味のない呟きなのか、私には解りません。あなたも、の先に何か続く言葉があったのかもしれませんし、言いかけてうまくまとめられないで、意味をなさなくなってしまったのかも知れません。そもそも熊沢さんが何を言ったからと言って、本当に熊沢さんが何か考えていたという証拠にはなりません。カラオケでラブソングを歌っている人が恋をしているとは限らないでしょう。
 ですから遠慮なく、二週間に一回、私はピンクカレーを食べておりました。
 一年もそうしている間に、ふと思い出して、ボクサーパンツのことを熊沢さんに訊いてみました。どうしてボクサーパンツを十枚百八円で売っていたのかと。熊沢さんの返事はやはり曖昧なものでした。熊沢さんは、あなたも、と言いました。あなたも何故十枚百八円のボクサーパンツを買ったのか、という意味に聞こえました。そういう意味で言えば、相手があっての行為はお互い様のところがありますので、私に責任が全くないわけではありません。まさに買う奴がいるから売るんだよという意味であれば、ボクサーがトランクスしか履かないのに、ボクサーパンツを十枚百八円で買うのはおかしな振舞かもしれません。なんならキンドル作家でしかないのに、ボクサーパンツを履くというのもおかしな話です。完全に矛盾しています。それによく考えてみると、持ち帰り弁当なら半額なのに、二週間に一回、ピンクカレーを店で食べるというのはおかしなことです。近所なので、持ち帰って食べれば済む話です。これも矛盾しています。
 そしていよいよ、完全に矛盾する事態が起きました。
 先週の土曜日のことです。どうしてもお昼にピンクカレーが食べたくなり、Vikerに入ったのですが、熊沢さんがいません。その代わりに図体の大きな人がカウンターで調理しています。私は一瞬店を間違えたのかと思いましたが、すぐにそんなことはないと思い直しました。
「熊沢さんは?」私がそう問いますと、
「熊沢さん?」図体の大きな人はまるで熊沢さんを知らないかのような言い方をします。しかしそれではどうも辻褄が合わないので、私は図体の大きな人の正面、カウンターの真ん中の席を占めました。
「ご病気か何かですか?」重ねてそう訊いてみましたが返事がありません。 私は初めての客のように店内を見廻しますが、壁紙の模様も観葉植物の位置も、店内に流れるビートルズの音量もカレー粉の香りも何もかも以前と変わりません。
 ただ熊沢さんがいないだけです。
 図体の大きな人はまるで熊沢さんのように料理をしています。私は仕方なくピンクカレーセットを注文しました。ピンクカレーに、ヨーグルトソースのかかったサニーレタス中心の小さなサラダがついたランチメニューです。
「ピンクカレー? ピンクカレー?」
 図体の大きな人は咎めるように二回も云いました。不思議そうな顔をして、私の顔を正面から見ています。顔と顔が向かい合って、お互いの意志が通じないことを不思議がっています。どちらも自分の疑問を曲げません。
いやしかし、今迄私がずっと夢をみていたのだとしても、ピンクカレーを注文して不思議がられる理屈が解りません。
「ピンクカレー、今日はないんですか?」
「今日も何も、ピンクカレーってものはないですね。そんなものはありえないでしょう」
 私はどうもこの男が嘘をついているように思えてなりませんでした。確かに表のメニューにはピンクカレーは書いてありません。ですからこの店にピンクカレーがあることを知らない客も多いのです。半額の持ち帰り弁当の注文は豚肉とパイナップルのカレーと牛筋カレーが六対四くらいの割合で、ピンクカレーを注文している客を見たことは一度もありません。私は図体の大きな男に向かって、確かに表のメニューにはピンクカレーのことは書いていないが、自分はこの一年間、二週間に一回はこの店でピンクカレーを食べていたこと。この店はいつ来ても自分以外の客はなく、殆どが持ち帰り弁当の客ばかりで、注文は豚肉とパイナップルのカレーと牛筋カレーが六対四くらいの割合で、ピンクカレーのことはあまり知られていないということ、そしてもしもピンクカレーのことを知らないとしたら、あなたはこの店の人間ではないのではないかと。
 そう話しながら、私は怖ろしくなっていました。美味く呼吸ができません。熊沢さんのことを知らず、ピンクカレーを知らない男がカウンターに立っているとしたなら、もしや縛り上げられ猿轡を噛まされた熊沢さんがこの図体の大きな男の足下に転がっているのではないかと考えてしまったのです。
 図体の大きな男はどういうわけか急にニヤニヤし始めました。
「何が可笑しいのですか?」恐る恐る私は尋ねました。カウンターは奥行きが広めで、余程器用でなければ飛び越えられるような高さではありませんが、何か物でも飛んでこないかと、私はユナイテッドアローズの肩掛け鞄を胸に抱きかかえました。
「だってそうでしょう。話が矛盾していますよ」図体の大きな男は言いました。「ピンクカレーだとか、持ち帰り弁当半額だとか、随分おかしなことを言いますね」
「だって、現に私はピンクカレーを……」
「ピンクカレーなんてものは、この世に存在しません。ブラック・スワンは存在しても、ピンクカレーなんてものはありません。おでんにロールキャベツが入ることがあってもロールモデルは入らないでしょう。おでん鍋にローラが入っていたらびっくりしますよね。トークンとしてのロールキャベツは位置を持ちますが、タイプであるロールモデルは位置を持ちません。カレーは百年前から黄色いものです。それにあなたが云うように、持ち帰りの客が殆どで、店内で食べる客があなたたけだとしたら、なんですか、その熊沢さんという人はあなただけのためにピンク色のカレーを作っていたということですかね。そんなことをしていたら店がつぶれますよ」
「しかし事実……」そう呟きながら、理屈の上ではこの図体の大きな男の方が正しいことに気が付いていました。確かに店内で食べる客が私一人で、いつもピンクカレーを用意していたとしたら店は潰れてしまいます。
「それに、なんだかうちがカレー屋みたいな話になっていますが、うちは洋品店ですよ」図体の大きな男は言いました。「先週、あなたは裸足のみすぼらしい女を連れてうちにやって来たでしょう。そして女ものの服を色々誂えてあげたでしょう」
「でも…そうして料理しているじゃないですか。カレーライスを」
「これはただの賄いですよ」
「賄い?」
「そうです。賄いです。洋品店で賄いがあっちゃいけませんかね。洋品店の店員は賄いを食べちゃいけませんか。腹ペコで仕事しろと言うのですか」
「いえ……」
「あんなみすぼらしい女に下着まで買ってやって、全く厭らしい人だ。それで今度は他人の昼飯に文句ですか。あはは、一体全体、あんなみすぼらしい女をどうしようというんですかね。キッスでもするつもりですか。汚らしい。あんな…」
「みすぼらしい女ではありません」
「はい?」
「あの人は、みすぼらしい女ではありません。あの人は、私の……」そう言いかけて、図体の大きな男の顔をよく見てみると、その顔は、私の小学校時代の校長先生にそっくりでした。
 その校長先生の思い出は何一つありません。私の時は、もう失われてしまったもので、この世のどこにもありません。

                 ⁂

 葛西模作様へ


 1日午後2時半ごろ、東京都板橋区の都営地下鉄三田線板橋区役所駅前駅のホームで、車いす利用者の対応をしていた駅員が、線路内を新板橋駅方面に向かって歩いていく人を発見した。
 東京都交通局によると、板橋区役所駅前駅員が新板橋駅に、新板橋駅員が板橋区役所駅前駅に向かって歩き線路内を探したが、人は見つからなかった。都営地下鉄は防犯カメラの記録を解析するなどして調査中である。
同線は一部区間で運転を中止し、約4万5000人に影響が出た。

 
 先日、こんな事件がありましたね。
 不思議なことはいくらでもあります。
 世の中矛盾だらけです。
 ソフトバンクの孫さんが、「『Twitter』にフィルタリングをかけたら総務省にガソリンぶっかけて火をつける!」とソフトバンクモバイル新ケータイ機種発表会で発言しましたが、警察は逮捕しません。
 一般人なら冗談で済まされる話ではありません。
 これがカルロス・ゴーンさんなら間違いなく逮捕されているでしょう。
キラー・カーンさんでも同じです。
 それでも部下にやらせるのではなく、自分でやると宣言したところは神戸市長より偉いということなのでしょうか。
 警察は昔も今も滅茶苦茶ですよ。ナップの小林多喜二の死に様をご存知でしょう。できることなら、あんな目には遭いたくないものです。
 1989年、キリンビールがキリンラガービールと名称を変えました。当時57歳の映画監督・大島渚さんはテレビCMで「キリンラガービール、僕はこのビールを40年間飲んできた。これが美味くないとしたら僕の人生はなんだったんだ」…と宣伝します。ビールに委ねる人生なんて随分みじめですね。大体、人生なんて、頑張って、頑張って、競って、競って…。精々入所一時金一億円、月々三十万円の介護付き老人マンションに入って、「おじいちゃん、おばあちゃん」になることができる程度のものにしか過ぎません。それにしてもこの人は法を犯していますよ。57マイナス40は17。未成年者の飲酒を助長するようなCMが堂々と流されていました。或いは誰も引き算が出来なかった時代がありました。
 何年前でしょうか。女優志望の女の子が殺害された事件で、容疑者が逮捕されましたが、テレビ報道では「近隣住民など1000人から任意でDNAの提供を受けるなど地道な捜査が功を奏し…」とかなり恐ろしい内容が伝えられていました。誰も気にしないのでしょうか。
 1000人のDNAの任意提供などありえません。
 それはどう考えても強制です。少なくとも犯人は任意提供などに同意しないでしょう。
 さて、お返事をお出しするのが遅くなりました。
 あなたの正体を確認する為に、WayBackMachineを使って時空を超え、あなたが過去ウエブ上に残した文章を拾い読みしてみました。それからタイムワープMAP東京で昔の東京について調べてみました。何しろ敵が多いものですから、こうでもしないと本当に命が危ないのです。東京都迷惑防止条例違反のつきまといには本当にうんざりします。
 しかしいつでもこうして過去には戻ることができるのに、未来を見ることができないのは不便なものです。
 そして正直、驚きましたよ。あなたが野村ホールディングスに和式便器にしてブンばれ、と株主提案したかの有名な「便器株主」だったのですね。ロイター、フィナンシャルタイムズ、そしてウォールストリートジャーナルを驚かせ、世界中で笑われたステークホルダー。
 そんな有名人からメールをいただけるとは光栄です。
 そしてあなたが2015年にLINEに送った手紙を読みましたよ。


プライバシーポリシーに対する意見と質問です。
貴社のプライバシーポリシーでは「電話番号、メールアドレス、アドレス帳」の情報を提供させ、アドレス帳からは「アドレス帳からは電話番号と携帯電話用メールアドレスのみ取得」し「これらの情報は、他のお客様には公開されません。」とされていますが、実際には利用登録した時点で間違っていることが解りました。
まず私は利用登録して、友達検索をした時点で、二人の人間が勝手に私の携帯電話番号を電話帳に登録しているという個人情報を手に入れました。またこの二人のユーザーは私がLINEを利用できる機器を揃えたという事実、そして私がプライベートで利用する予定だったLINE上の登録名を知ってしまったことになります。
プライバシーポリシーを読み直し、一体どこに問題があるのか考えてみるとこういうことになります。
まず根本的な問題は、携帯電話番号がアドレス帳に登録されていることをもって勝手に「友達」と定義してしまっているところにあるのではないでしょうか。携帯電話番号を知っている=友達ではなく、携帯電話番号を登録している=友達という定義が問題です。実際、私の場合、少なくとも二人、携帯電話番号を教えた覚えのない人が勝手に携帯電話番号を登録していて驚きました。この問題は悪用されれば深刻なものです。
プライバシーポリシーのとおり、アドレス帳から氏名を取得しないのであれば、ユーザーは任意の携帯電話番号を一件ずつアドレス帳に追加して、ともだち検索を行い、そこに表示されたライン上の名前のうち、実名らしき登録者(かなり多いようですね)のデータを収集してリスト化することができます。その携帯電話番号に電話して実名かどうか確認すれば完璧です。
そうしてLINEは携帯電話番号名簿オープンデータベースと化してしまっていないでしょうか。確認の電話は自動化できませんが、リストアップは自動化できそうですよね。一人のユーザーが繰り返しアドレス帳の更新を繰り返しているとマークされそうですが、クラウドソーシングで作業そのものを分散させればマークも難しいと思います。以前話題になった、乗っ取りウェブマネー買ってこい詐欺なども、こういう入口から発生したのではないでしょうか。
仮にニックネームで登録しているとしても、携帯電話とニックネームが結び付けられることによってもう一つの問題があります。実名・顔出しのフェイスブックは窮屈で、リスクが多すぎる。LINEでは仕事や家族間とのやり取りとは別に、バーチャルなネット上の趣味のやり取りをしたいと考えているユーザーはそもそも利用すべきではないということになりますね。たとえばネカマや有名人は困りますね。実名・顔出しSNSに変えます?
また、ごく一般的な利用者を想定しても、「アドレス帳を提供する」という行為の意味を、利用者が事前にイメージできていないということが考えられます。まず利用してみないと「自分が勝手にAさんの携帯電話番号をアドレス帳に登録している事実」がAさんにばれるとは想像できません。
そういう意味では、「これらの情報は、他のお客様には公開されません。」という表現は改めるべきでしょう。正確には「これらの情報は、他のお客様には直接的に公開されるものではありませんが、アドレス帳に携帯電話番号を登録している相手には、あなたがその携帯電話番号をアドレス帳に登録している事実が知らされます。」ということになるのでしょうが、やはりこう表現しても、実際に利用して違和感を覚えてからでないと意味が呑み込めないと思います。
プライバシーポリシーを少々いじくっても、根本のところを変えないと、問題は解決しないと思われます。
こうした意見があったとしても「そもそもこういう仕組みなんだからしょうがないだろ。考えたらわかるだろ」となかのひとは考えるかもしれませんが、やはりそとのひとには解りません。携帯電話番号を登録していること=友達という解釈をやめることができないのであれば、フェアにするために「あなたがアドレス帳に携帯電話番号を登録している相手をLINEはお友達とみなします。従ってその相手がLINEユーザーであった場合、あなたの携帯電話番号は登録名と同時に相手に通知されます」という仕組みに変えてはどうでしょうか。
こう考えるとやはり「携帯電話番号を登録していること=友達」という解釈が少々飛躍しているような気がしてきませんか。少なくとも「相互に携帯電話番号、LINE上の表示名を実名で登録していること」を確認したのち、アドレス帳の名前のデータは取得せず、「一致」というデータのみ取得する形に変えてはどうですかね?
またLINE上の表示名が実名でない場合、携帯電話番号を登録している相手になんらかの情報を与えるかどうかは任意にしてはどうでしょうか?


 このメールの直後にプライバシーポリシーが修正され、携帯電話番号から友達検索されないように選択できるようになりましたね。お手柄です。
 さて、いろいろご質問をいただきましたが、何からお答えすればよろしいのやら。
 さて、今私が済んでいる場所は……流石にそれは教えられません。私はビットネーションの市民となり、一万三千円払ってエストニアにイーレジデンスしています。
 あとはお察しください。私に答えられることにはどうしても制限があります。
 そもそも私がすべての答えを持っている訳もありますまい。
 あなたは私に何故? と問いかけますが、本当に何故の答えがあるものでしょうか。ニーチェはこう考えました。「何故自分と矛盾してはいけなのだ!!」と。
 全ての自己言及がパラドキシカルになると覚悟しつつも、葛西さんにぶーぶー反論しますよ。
 あなたのメールには作者も登場人物もなく、エクリチュールすらありませんね。物語的記述の中に身を置く幸福に酔っていらっしゃる。頽唐が見えます。そしてどうにかして私の物語に参加したい。温泉旅館は文豪が泊まって作品を書くと嬉しいそうである。作品に登場すれば饅頭になる。物語の中に存在することで、現実の空しさから逃れようとしているのでしょうかか。
 ヘンリー・ミラーの『南回帰線』を読んだ時のように頭がくらくらしました。少し情報量を減らし、整理して書くことを勉強なさってはいかがでしょうか。
 映画『アマデウス』でオーストリア皇帝がモーツァルトの曲を「ソーメニーノーツ」と言っていましたよね。
 整理して、短く。
 とにかくこれだけは言っておきます。
 どんなに頑張ってもすべてを物語ることはできません。
 例えばすべての物語は、必ずどこかから突然始まります。そうでないとしたらすべての物語は宇宙の始まりから語り始めねばなりません。整数論者・加藤和也氏はその著書『解けた。フェルマーの最終定理』の中で、「宇宙は数の感動のふるえから生じたものではないか」と述べています。同じく整数論者の黒川信重氏は「素数が誕生してから百万年くらいしてから宇宙が誕生した」と述べています。
 ゼータ関数とは簡単に言えば、それは無限級数を扱う関数です。ゼータ関数という発想自体はレオンハルト・オイラー(1707~83)によって、1740年に考案されたもので、その名称は後にゲオルク・フリードリッヒ・ベルンハルト・リーマン(1826~66)によって、ギリシャ文字ζ(ゼータ)があてがわれたという事実に負います。黒川信重 教授(東京工業大学数学科)によれば“(ゼータとは)もともと関数と見られていたものですが、よく研究してみると、まるで生きもののようにも思えます”という種類の概念らしいのです。その根拠として、教授は“「対称性」(関数等式)と「DNAの存在」(行列式表示)”を示します。もっとも「DNAの存在」は予想の段階であるそうです。対称性には、

  1+2+3+…… = -1/12

という式が現れ、

  1×2×3×…… = √2π

この式の一般化で「DNAの存在」が明らかにされるようです。
カール・フリードリッヒ・ガウス(1777~1855)が小学生時代に発見したというわれる三角数

 1+2+3+…… +n= n(n+1)/2

は、nを無限大とした時には便利な計算式とは呼べないものに見えます。
加藤和也、東工大教授は語ります。


……… 一度うろたえた後で、さすがクンマーは、物事の真相を見抜いたのです。…… (中略)…… 本物の素数にあたるものは、理想の世界に存在しているのだと。このクンマーの見抜いた事実は、今では「イデアル」の考えで……

「数からイデアルへ」「数のかわりにイデアルを考える」―― フェルマー予想への挑戦からおこったこの画期的な発想「イデアル」が、その後数論に限らず数学全般を発展させました。
(『解決! フェルマーの最終定理 現代数論の軌跡』・加藤和也・日本評論社・1995年・P.15、18)


 ついに数論は数を超越してしまった訣です。
 現実の物事を抽象化して考える際に、我々に与えられていたもっとも有力な武器であると考えられていた数の概念は、一旦は現実から背離しているという批判を浴びました。こんどは数自体が、数から背離してしまい、ついに「理想の世界」に於ける数「イデアル」を考え出さなくてはならなくなったのですね。
 この発想は、黒川教授のゼータ惑星という概念につながります。数を考えて行くうちに、どうしても数以上のものを考えてしまうという方向です。こういう方向に流れることを、普通は逸脱と呼びます。しかし、私は逸脱が嫌いじゃありませんし、それを直ぐに短絡と結び付けて考えるのは好きじゃありません。(ちなみに「短絡」という概念も嫌いじゃありません。)数式を省いての説明なので、どうしても加藤先生の伝えようとする高等数学の内容をちゃかしているように聞こえますが、これは真面目な話です。その証拠に、少し長めに、文意を変えないように注意しながら引用します。


セルマー群(たとえば2次体のイデアル類群)とは、(たとえば2次体という)現象が素数全体の空間にひきおこす「ねじれ」の総体です。イデアル類群という「数とイデアルのずれ」は、一種の「ねじれ」と見られるのです。(中略)
グロタンディークは1963年頃、素数全体の空間やその上でおきる現象にも、ある種のコホモロジー群が定義できることを発見しました。それはエタール・コホモロジーと呼ばれます。(中略)セルマー群は、その現象のエタール・コホモロジーとして定義されます。(中略)
ところで、素数全体の空間はふつうの空間に似ているとはいっても、私達が実際に生活している空間と比較すると、やや現実感が薄い気がします。(中略)ところが黒川信重さんは、古代ギリシャの数学者ピュタゴラスの「万物は数である」という言葉を引きつつ、素数全体の空間こそがこの宇宙であると言っています。(中略)
空間のねじれとは、ねじれの何もない空間の無感動の反対であり、空間が感動していることだと思います。
(P.101~103)


 色々難しい用語が出てきますが、これは前述の黒川信重教授が「宇宙は素数全体の空間」と考えている線に沿うと、我々の現実とは別の世界があるということの説明にも似ています。実際、黒川教授は「ゼータ惑星」から地球に光がやってくると考え、整数が生まれる前に宇宙が生まれると考えていました。ところが、この加藤和也という人は、なかなかの実力者です。この人の落ちを見極めるには、もうすこし現代数学の歴史に付き合っていただく必要がありそうなのです。

まず、ゼータの心というものを感じなくてはなりません。それはオイラー系というゼータの化身と、オイラー積というゼータ関数になります。ゼータ関数の奥に、ゼータの心が見えて来て、そうするとそこから、ゼータの化身が舞い降りてくるのが分かったのです。「ゼータの化身を見つけだすことは難しく、見つけだすための一般的方法はありません。」(P.117)と述べながらも、加藤和也先生は、ゼータの化身が舞い降りる場所は「ミルナーの第3K群」だと予測しました。「ミルナーの第3K群」なんて到底説明できませんから、とにかくそういう流れなんだと信じてください。


 ゼータがふつうの「関数」のように見えるのは、ゼータの一面に過ぎず、「関数」と決めつけた呼び方をしては失礼にあたると私は考え、本稿ではしばしば「ゼータ」と、「関数」を付けずに呼んできました。呼び捨てにすることこそ失礼かもしれませんが、ドラマなどで「みちこさん、ではなくて、みちこと呼んでほしい」という場面を見たことがありますので、愛情の表現としてなら許していただけるかと考えたのです。 (P.133)


 繰り返しになりますが、何かについて考えていて、それが何か以上のものに思えてくるという飛躍に我々はしばしば出くわします。サッカーが人生そのものに思えて来たり、人を好きになると、愛こそすべてだと思い込んだりしてしまうという現象です。この飛躍は抽象的思考能力の鬼っ子みたいなもので、何かを極めようとする人は、次第にこちら側に進んでしまいがちです。しかし、です。しかし、実際に考えていた何かが、本当に何か以上であったとするなら、これは謙虚に、冷静に、その何か以上の何かを認めなくてはならないのは当然です。
 加藤和也先生はこれ以上もないほど冷静に、謙虚にゼータのすみかについて考えました。そして出た答えは、黒川教授とは違っていました。黒川教授はゼータ惑星を地球の外にあるものだと決めつけましたが、そんな決めつけは間違っていました。ゼータは、なんと「 神奈川県にある前田橋バス停のそばの材木置き場 」(P.136)に住んでいたのです。
 数学者、特に整数論者はいい意味で現実の役には立ちません。
 現実は文学の中にのみあります。
 そして物語は突然始まります。登場人物たちは来歴を喪失しています。例えば野球のユニフォームを着ていたからと言って、野球選手とは限りません。関東大震災の際にも野球のユニフォームを着てバットを担いだ夜警団が参集したそうです。
 私は充足理由律の文脈に基づくナラティブを否定します。現実というのは、理屈や物理法則やアクターが一旦ハッシュ化されたような果敢なもので、不可逆的で、起こりえたことから理屈を導き出すことはできないものなのでないでしょうか。我々は常に唐突に、どこからか語り始めるしかないのですから、何か理屈に合わないという現実を否定しません。ですから残念ながら、あの事件の犯人は私なのでしょう。
 全ての猫吉親方を殺したのは私ではないかもしれません。しかし聖なる儀式を行ったのは私です。ダフネ君ではありません。
 何の作為もなく、緑色のエビチリが出来上がることもあり、埋め立て地に古めかしい廃校が見つかることもある。その理不尽な現実を否定してもしょうがないと思うのです。
 確かに『絶歌』の記述と事件そのものには、幾つかの食い違いがあるという事実は否めません。
 しかし私の性的対象が少年であるか女性であるかなど、このご時世問うべきことではないでしょう。
 それは完全なセクシャルハラスメントです。(笑)
 黒川信重さんが『数理科学』(サイエンス社)の1994年八月号で書いていらしたのですが、性の型は多様らしく、ミドリムシは四つや八つ、テトラヒメナ・サーモは三個、スチロニキアは48個、スエヒロタケには「233288ものめくるめく性の型」あることになるのだそうです。
 233288もの型があれば、男と女として向き合うことはむしろ奇蹟でしょう。
 この世界は多様性を肯定するよう仕向けられている、と感じる時があります。エックハルト、ハルトマン、森鴎外は私と同じようなことを考えていたのではないかと思います。、エックハルトにおける己の意志を捨て去る離脱、ハルトマンの「無意識者」、鴎外の「虚舟」、これらはみな私の「存在の耐えがたい透明さ」のアナロギアでしょう。
 三島由紀夫はヘミングウェイ以上に本当のことを言わない作家です。周りを信用していないというか、周りの無知を信用しているというか、なかなかややこしい人でした。一般的には三島は手の内を全部見せて、隠すことがなかったというくらいに見られています。堂々と好き嫌いを言って来たという印象さえあります。しかし三島が本当に好きだったのはカフカの審判であったという説もあります。全集の二巻の付録で、虫明亜呂無氏がそう述べています。虫明亜呂無氏は三島の同性愛者説を否定しています。
 三島由紀夫は作家たるもの三か国語くらいできなきゃ駄目だ、と書いていますが、その一方でフランス語は全くできず、役所勤め時代には、英文の書類が回ってくると「これがドイツ語だったらな」と強がりを言っていたそうです。三島は英語が敵性語であった時代にドイツ語で学習院の首席となり、東大に入りました。三島が役所を辞めた本当の理由は、戦後の日本の役所では、ドイツ語が何の役にも立たなかったからではなかったでしょうか。
 多和田葉子さんの新訳、カフカの『変身』をお読みになりましたか。従来「毒虫」と訳されていたUngezieferが「生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫」と、より原文に近い形で訳しなおしたことで話題になりましたね。
毒虫の寓意に「生け贄にできない」という随分アダルトなスパイスが加わった感じがすしますが、ここで汚れた生き物は生贄にはできないという思想が一語の中で表現されてしまっています。
 生贄には資格が必要です。
 そしてもう一つ、あることに気が付きましだ。『変身』は、本当は『変態』と訳されるべきではなかったですかね。
 実際にザムザの性欲は倒錯的ですよね。
 それに何時も疑問に思っているのですが、この宇宙全体で、その極限の距離にあっても、物理法則が一律に制御され、二つの相反する現象が起こりえないなどとどうして証明できるのでしょう。つまり何故矛盾は不可能なのですか?
 非局所性、非局所応答は光速を超える相互作用です。
 物理法則というものは光速というような概念を超えて、常に宇宙全体に瞬時に伝わるものなのでしょうか?
 そうした斎一性の及ぶ空間を宇宙と考えればよいのでしょうか。


 眠っている人間は、時間の糸を、歳月や万象の秩序を、おのがまわりに輪のように巻きつけているものだ。目をさますと、本能的に、そうしたものをまさぐって、そこから自分の占めている地点と、目がさめるまでに流れ去った時間とを、瞬時に読みとるのたが、往々そうしたものの系列はもつれたり、切れたりしがちである。(『失われた時を求めて』/マルセル・プルースト/淀野隆三・井上究旧一郎訳/新潮社/p.10)


 その文章の解りにくさがフランス語と日本語の文法の違いにあるのではなく、従属節と主語節の結びつきの複雑さによって、一意の文章ではなくなっており、時にはその修飾が一ページを超えるからだと気が付いたのは『プルーストとイカ』という認知を巡る研究書を読んでいた時のことでした。プルーストはそのようなやり方で、いわく言い難さと向き合ったのだと言えるかもしれません。大江健三郎も大きな身振りからぎゅっと対象を捕まえてみせる鮮烈な文体から、のたりのたりと対称の周りを這い回る難解な文体でいわく言い難さに立ち向かいました。それはフローベル論における蓮實重彦も同じだったかもしれません。
 プルーストは明らかに、時間と過去、記憶と意識のいかがわしさ、この宇宙のいわく言い難さについて語ろうとしています。それはどこにでもある昔語りのように装われながら、確実に、何度も、様々なやり方で試みられています。
 失われた時を求めて、とは空間的に捉えられたニュートン時間、絶対時間と絶対空間に対する挑戦でしょう。
 時間について徹底的に考えたアンリ・ベルクソンは、我々がそもそも分割できない時間を分割してしまったために生じた錯誤を批判し、「過去は物質によって演ぜられ、精神によって想像されるのでなければならない」と書いています。
 私が美のための犯罪者だと規定したのは、ベルクソンの自由などと言っても誰もついてこられないからです。一般意味論的に言えば……と書いたら百パーセント誤解されてしまうでしょう。いずれにせよ、ベルクソンは今や、というか、今更というか、大人気のようですね。
 ベルクソンは、私の過ちを過ちとして、それ自体が生の可能性を否定する力のないものだと見做すでしょう。私を悪魔だと見做しても、単なる切断好きの馬鹿変態だと見做しても構いません。だが、馬鹿変態が本を書くことは過ちだとは思いません。何をしたからと言って、いや、何をしなかったからと言って、そんなことは書く資格とは関係ありません。書く資格とは常に書かれたもの、そのものによってのみ問われるべきでしょう。
『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげるは、時間と場所を決めて会うのは人間だけだ、と書いてていると内田君は書いていました。内田君は、私の中学生時代の友人です。
 元気にしているのでしょうか?
 最近の若者は怖ろしく本を読みません。漫画とゲームで忙しいのです。ですから『絶歌』をベストセラーにするためにはエンターテインメイトとエスタブリッシュメントのバランスが重要でした。金閣寺も美しいものではありませんでした。美しいと教えられたものでした。美しさへの嫉妬、そんな分かり易いテーマが必要だったのです。
 いいでしょう。正直にお話しします。『絶歌』はプルーストとムシル、『失われた時を求めて』と『特性のない男』が試みた小説とエッセーの中間領域とでもいうべき可能な表現手段を試みたのだと言ってみても良いかもわかりません。ですからあなたがそれを小説だと考えるのならば、それもまた否定しません。自然言語の特徴は、それが一意の表現ではないということです。
 しかし無限に正直に言えば、『絶歌』を書きながら私が意識していたのは、徹底したデザイン思考的なアプローチです。あの事件そのもののいわく言い難さ、不可解さ、言語化できない厄介な問題に対して、「真実」や統一性を放棄しながらも、火星人と金星人を同居させる両手利きの思考です。
火星人と金星人とは、「論理」と「感性」の提喩であることを葛西さんはご存知ですよね。この両手利きの思考を、最も明確に言語化して、最初に使いこなしたのが村上春樹さんでした。村上春樹さんはシナリオの勉強をされていたので、シーンやカット、場面転換、カメラワーク、台詞、演技、ト書き、バックグラウンドミュージック……という受け手の意識をコントロールする作法についてよくご存じですね。三島由紀夫には超ベストセラーがないのはそうしたところがナルだからです。『一九七三年のピンボール』に火星人と金星人が出てくるのは、ピンボール台がスペースシップだからではありません。『職業としての小説家』で言語化される前から、村上春樹さんの小説は感情と論理の両手利き、エンターテインメイトとエスタブリッシュメントの融合によって、ユーザー・エクスペリエンスの最大化を企んでいました。対句、対概念を散りばめたことは間違いないですし、言葉が多義的であることも利用しました。マイクロコピーを意識しました。ボトムネックを解消するよう、言葉を選びました。難字は避け、万人に受けることを意識しました。「タマゴサンド」は太宰治の『黄村先生言行録』の「親子どんぶり」と最近のバズワード感動ポルノにヒントを得たものです。「とろろ汁」とか「芋粥」とか印象的な食べ物は沢山ありますが、そういうものに近づけようという意識はありましたね。
 またユーザーインターフェイスの最適化のために、習熟曲線の最小化と困難さ、いわゆるとっつきやすさと負荷の差を最大化しました。
 例えば『ねじまき鳥クロニクル』においては、本を読みながらスパゲッティを茹でるという『村上朝日堂』的導入部から、生側を剥ぎ、ノモンハン事件に参加するまでに至ります。私が「関節技」と表現した村上作品のデザインを、技術的に全く理解していない人からどっさり「生意気だ」というメールが届きましたが、生意気なのは、本当はどちらなのでしょうか。
 村上春樹さんは『騎士団長殺し』において「些細なことがとりかえしもつかないものだ」というテーゼを乗り越えます。つばさちゃんは消えて戻りませんが、まりえは返ってきました。今まで繰り返し描かれてきた消える女は、今回「元のさやに戻る」という離れ業で着地しました。その着地が、騎士団長という生贄によってもたらされたものであることを読者はどう受け止めたのでしょうか。『1Q84』の牛河もバカップルの生贄になりました。この生贄のロジックが東日本大震災と重ねられる残酷さ、不謹慎さに対して、無能な読者のみなさまは何の文句も言いませんね。村上春樹さんが『騎士団長殺し』で試みた「修復」には確かに犠牲が必要だったのです。尤もそれは明示的なメッセージ手はありませんし、『騎士団長殺し』という作品の結果としての創発であると言って良いかもしれません。おそらく村上さんは『1Q84』で「洪水の前」という言葉を選んだことに酷く責任を感じていた筈です。
 だから『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』では、またかなり「個人的な出来事」にとどまったのでしょう。レクサスを基準に計算すると明らかに東日本大震災以降だと思われる空間に於いて、多崎つくるはセックスをすること、しないことにこだわり続けます。
 私は『絶歌』をエクストリーム・ユーザー、つまり正規分布の両端に立つハッピー・フューをメインターゲット設定して書きました。三島由紀夫も死の半年前のインタビューでこのハッピー・フューについて語っていましたね。それを知ってか知らずしてか、村上春樹も同じようにハッピー・フューについて語っているのは興味深いところです。芥川が自分の本は百年後図書館で埃をかぶっていると悲観し、太宰の『人間失格』が千二百万部のベストセラーになり、そして『絶歌』がこの世で誰一人、ハッピー・フューを得られていないことは、残念ながら同じ根を持つ問題ではないでしょうか。大谷崎の『細雪』の好評論を唱えたのは武田泰淳と中村眞一郎くらいだったことをご存知でしょうか。三島由紀夫が『小説家の休暇』でそう書いています。現時点で『細雪』を低く評価するのはなかなか難しいことのように感じられますが、作品の評価は二年や三年では定まらないということですよ。
 そもそも誰かと理解し合えるということは奇蹟に近いことです。
 永井均さんは何十冊もの本を書き、繰り返し同じ問題を語りながら〈比類なき私〉という独自の概念を、今まで誰とも共有できていないそうです。まあ、解らないでもありません。ナーゲルの超難問と〈比類なき私〉と意識のハードプロブレムの差が見極められる人でないと『絶歌』は到底理解できませんよ。
 この間出ていた永井均さんの本では、何故沢山人間がいるのに、自分が動かすことができる肉体は一つだけなのか、と不思議がっていました。今やVRで我々の意識は身体性さえ拡張しているというのにわざとらしい問題提起です。それに我々の行動の大半はセミオートでしょう。無意識に肉体は動いていて、意識は大抵空間に座標を持ちません。通勤通学なんてほぼ無意識でしょう。不随意筋を動かせるのはヨガの達人だけです。三島由紀夫は自分には無意識はないと言い張っていましたが、三島由紀夫以外の人間には大抵無意識があるものです。
 もしかしたらハッピー・フューという概念は、文学を絶望から回避するために設けられた架空の上位モジュールのようなものではないでしょうか。
 私は『絶歌』を、世界的な時間から独立した論理と、時間と場所の制約を受けるタイミングをデザイン思考で組み立てました。文学が困難な営みであるのは、それがイノベーティブであり、共感を前提としていて、マルチ・プレイヤー・インタラクションであるからではありません。著作権は知的財産の一つと考えられていますが、知的であり、なおかつ財産であることがどのようにして可能なのでしょうか。
 冷静に鑑みれば、トートロジー以外は全部嘘か間違いですよね。A=A以外は基本的には間違いです。しかしAはBであると書かないと意味が生じません。そこで意味は嘘であると考えることが既に非論理的なのです。自然言語は非論理的なものです。
 現実は非論理的なのです。
 そして全ての小説は再小説です。対立する選択肢を巧みに使い、他者のアイデアを利用します。小説とは一面で読者に負荷を与え解放する作業です。負荷とは葛藤とかアポリアのことです。それを起承転結なら転結なり、カタストロフィーなりに持って行くのが作家の仕事でしょう。知識として知っていて、自分は到底同意できないが、そうでありながらそういう思想の持ち用が有り得るという事実を承認できる、リアリティを感じられるという思想を語らせることによって、ナル文体から卒業できます。
 懐手に宇宙を見渡す愚を慎み、先人の言葉を拾うこと、それを組み合わせることに専念すること、サンプリングとリミックスがもしも間違った振舞ならば、そもそも私以外が非論理的な自然言語で書く意味もなく、私が書く意味もないでしょう。
 読まれるかもしれない非論理的なものを書く事、その方法論においてのみ、文学は非構造的意味世界の不可解なものに対して、可能性を示す楽観を生じせしめるものではないでしょうか。
 それでも本は読まれません。
 本というのは基本的には作者しか読まないものなのです。そしてわずかな例外があると楽観するよりありません。
 国会図書館と「亞書」のトラブルが、なかなか面白いことになってきましたね。作者側の反論によって、問題は出版と文学の本質に関わる議論になりそうです。
 ヴォイニッチ手稿やレヒニッツ写本など、誰も読むことのできない本は既にあります。「亞書」はでたらめな文字列だと批判されていますが、そういうものを意図して捏造した者は彼が初めてではないでしょう。
 もう少し身近な話にしてしまうと、ピース又吉さんの『火花』、平野啓一郎さんの『日蝕』、浅田彰さんの『構造と力』は、購買者の一体何割が読んだのでしょうか?
 恐らく一割にも満たないでしょう。
 いや、冗談ではありません。ピース又吉さんの『火花』について、まともな批評が聞えて来ません。敢えて言えば和田アキ子さんの感想が腑に落ちます。
 三島由紀夫の『金閣寺』でさえ、百人くらいしか読んでいません。
 実は、驚くべき割合で、本は読まれないものなのです。では、読まれないことを理由に作品に価値がないと決めつけることは可能なのでしょうか。
 例えばオートクチュール文学はあり得ないのでしょうか。
 あらゆるテキストは「書くことの不可能性への挑戦」です。
 何しろ本はたくさんあります。殆どの本は読まれることはありません。本が売れても読まれません。図書館に収められ、閉架図書扱いになり、誰も読まないまま廃棄される本すらあります。その覚悟なく書く者は、「読むことの不可能性」=共約不可能性の残酷さに踏みつぶされてしまうことでしょう。関心領域を共有してさえ、語彙はずれ、場に寄り掛かった文章はすれ違います。
 国会図書館は、刊行された書籍をただかき集めることで、知識を集積しているつもりだったのですが、グーグルがインターネットで情報を整理する仕組みを作ったような発想が本来は必要だったのではないでしょうか。グーグルのおかげで、我々は今、無駄な情報に接する頻度を減らすことができます。この効果はヤフーと比較してもらえば歴然としています。ヤフーでは「売らんかな」の押し付け情報が押し寄せます。「亞書」的な全く意味のないサイトが上がってきます。国会図書館のそういう杜撰さに対するアンチテーゼとして「亞書」は一定の役割を果たしたと言えないでしょうか。
 またこういう言い方も可能でしょうか。私の本もほぼ中身がなく、誰にも理解されていないのではないでしょうか。「亞書」は使用言語からして完全なるフィクション、そういうものとして保存されるべきでしょう。
 葛西さんはキンドル作家(笑)だそうですが、それでもわずかな読者を得ていると勘違いなさっていますね。あまりインターネットのことには、お詳しくないようですね。あなたの読者はbotに過ぎません。ブログもYouTubeも通信の30パーセントはbotです。予約サイトに至っては80パーセントです。それにあなたのブログをクロールしているのは国立国語研究所のものではありません。あなたはアメーバにブログを書いていますが、国立国語研究所がクロールしているのはヤフーブログです。あなたの言葉はどこにも届いていません。ですが喜んでください。Gメールはちゃんとグーグルが分析しています。
 しかしグーグルは日本語を理解しようとしているのではありません。日本語がいかに非論理的な言語で、常に場に寄り掛かり過ぎていているのかを確認しているだけです。今のところグーグル翻訳は日本語に対してはまともに向き合う気がなさそうです。勝手にIやHerを足してきます。


Nice to meet you.
I think that it is strange that writing to Sakya rose soon is wrong, so I will say so.
I am Mr. Kasai.
I made a shareholder proposal such as "Japanese style toilet" or "crystal role" to Nomura Holdings, made a profit of 100 million yen (damaged 200 million yen) in the stock, write "1 Q 84book 4" without permission, It is one person of those who are eating eel. It is one of the idiots who believes that literature is everything and that it is an attempt to capture something that can not be said about, while cloaking nails. It is just a fool that mathematics becomes suspicious from factoring factorization. Whatever the number n is, I do not know whether there is a prime between squared n and n + 1 squared. The zeros of the zeta (s) whose real part is between 0 and 1 do not know if the real part is half or not.

はじめまして。
すぐにSakya roseへの書き込みが間違っているのは不思議だと思いますので、私はそう言います。
私は葛西さんです。
野村ホールディングスに「和風トイレ」や「クリスタルロール」などの株主提案を行い、1億円(2億円破損)の利益を株にし、「1 Q 84冊4」を勝手に書いていますが、 うなぎを食べている人の一人。 それは文学がすべてであり、それは爪を隠しながら、言うことができない何かを捕獲する試みであると信じるのは馬鹿です。 数学が因数分解を疑うようになったのはただのばかげたことです。 数nがどうであれ、平方nとn + 1の平方の間に素数があるかどうかわかりません。 実部が0と1の間にあるゼータのゼロは、実部が半分かどうかを知りません。


 あなたのメールを翻訳してみると、いかにいい加減な文章を書いているのかが解ります。
 そんなあなたに『絶歌』を云々されるのは、正直面白くありません。
 美しさへの嫉妬が可笑しいですか?
 あなたは「服の下は全裸だ」と騒いでいるに過ぎません。
 和歌山カレー事件と私の事件を比較されているのもどうかと思います。
 正直に言って、私もあの事件は無理があると思っています。
しかし一番無理があると思うのは、隣でげーげー吐いている人がいるのに、たかが百五十円のバザー券が勿体ないのか、カレーライスを食べ続けようとする人たちと、カレーライスを売り続けようとする人たちが現実に存在したことです。よっぽど美味しいカレーだったんでしょうね。
ぐるナビで★4クラスの。
 それはもう現状維持のバイアスだとかコンコルド効果だとか、行動心理学では整理できない、生身の人間たちの理解しがたいファクトですよ。
最初にゲロを吐いた人が出てから一時間、大きな鍋が空になるまでカレーライスを配り続けていた人が真犯人でしょう。そして67人の共犯者がいますね。そうでなければ、67人もが被害に遭うことはなかったはずです。
 そして、改めて林死刑囚が完全な真犯人でないとしたら、一体どんな悪意が無差別殺人を企てたのかと、不気味に思います。
冗談ではありません。
 この事件が最初青酸カリによるものだと聞いた時点で、青酸コーラ事件や敦化事件を思い出して不快だったことを思い出します。都合よく検出されてしまった青酸カリ。
 この事件も誰一人犯人を逮捕しないのではないかと思ったことを思い出します。青酸コーラ事件のように。しかし一週間後には青酸カリがヒ素に代わります。実に都合よく、証拠がどんどん出てくるものです。
 そういえば考明天皇暗殺説にもヒ素が使われたという説がありますね。そして先日、都内の製薬会社などに青酸カリが送り付けられて、3500万ウォンを支払うよう脅迫状が送り付けられたとか。青酸カリは終戦時に、恐れ多くも畏くも天皇陛下元帥閣下より、自決用に振舞われた賜りものです。死して虜囚の辱めを受けず、という思し召しです。そして青酸カリの事件では今まで一人も逮捕者がいません。
 これが日本の正義です。
 だからむしろよかったじゃないですか。
確かに私の事件でも似たようなことがありました。私が供述した通り、存在する筈のないものがどんどん現れました。糸鋸が金鋸に置き換えられ、神戸新聞社へ送られた犯行声明文だってそういうものの一つなのかも知れません。それが現実的生起というものではないでしょうか。先後関係を無視して、プロセスは成立します。
 あなたは路地裏の陽だまりでひっくり返っている猫を見て、ひょっとしてこの宇宙は、このひっくり返っている猫のためにこの路地は形成され、この宇宙が設計されたのではないかと考えたことはないですか?
 風呂上がりにビールを飲んで、この一杯のために宇宙ができたのではないかと考えたことはないですか?
 それはハードコア(※)な仮説です。(※)なんて使ったからと言って、後で説明があると思わないでくださいね。
どうして青酸カリが出てきたか、また何故ヒ素が出てきたのか、それは腸内フローラの仕事かも知れません。そもそも、まだこの世に存在しない物質、たとえば人工物までがあたかもずっと前から存在したかのように既存の物理、化学法則に囚われてしまうのは奇妙なことではないでしょうか。
宇宙を支配する法則は、宇宙誕生以前から存在していた、と言えるのでしょうか。
 あるいは我々が将来口にする人工甘味料は、それが合成される前から甘い物であった筈、なのでしょうか。
 カレーライスからヒ素は絶対に生成されないと言い切れるでしょうか?
決定論的立場をとらないならば、何か新しいものは、それが誕生した時点から、アビリティを獲得するように思えます。逆に言えば、誕生や変態とはアビリティの獲得そのものでしょう。
 偶然に組み合わされた何かが偶然にアビリティを獲得する。例えば脂肪酸の炭素数をどんどん増やしていくとどうなるでしょうか。一定の傾向で何かの度合いが増すだけ、とは思えません。元素の族を思い出してもらえばいいでしょう。
 同じようなことが、もう少し卑近なレベルで言えるのではないでしょうか。
 我々は日々、ありとあらゆるものを組み合わせ、今までになかったものを生み出しています。
 具体的に言えば、地球の裏側から取り寄せた食材と、サプリメントを、オリジナルの内フローラが食べて、歴史上かって存在しなかった新しい物質が誕生している可能性がなくはないでしょう。
 アサイーと鰻を同時に摂取する人など、昔は存在しなかった筈です。チアシードと雲丹を同時に食べる人もいなかったでしょう。
 私は毎日十数種類のサプリメントを摂取していますが、この組み合わせを実行した人が過去に存在したとして、私の腸内細菌はオリジナルなものであるわけですから、私の腸内では全く新しい物質が日々誕生している可能性がなくはないという理屈になります。
 そんなものは瞬時に流されてしまうとして、それでも下水道の中で、さまざまな意匠と混じり合い、さらに複雑な新しい物質と化しているのかも知れません。
 その新しい物質の性質は、観測者を待ってアビリティを獲得するのでしょうか。
 カレーライスから青酸カリを生成する腸内フローラが存在しないと断言する為には、日々変化する腸内細菌と摂取物の無限の組み合わせを解析しなければならないのではないでしょうか。
 でもむしろよかったじゃないですか。
 街の嫌われ者が一人排除されて。
 万民平等な平和な世が訪れて。
 しかしね、私はこれがカレーライス奇譚だとは思いません。これが日本人なのではないでしょうか。ちょっと思い出してください。少し前、都内の自販機で、ミネラルウォータが全部売り切れになりましたよね。水道水の放射線量が日々報告されていましたよね。そしてパンが売り切れ、捨てられました。西洋白人が豪奢なオフィスから一斉にいなくなりましたが、その間も満員電車は走り続けました。放射能汚染があっても、南海トラフ地震が起きることが確実でも、日本人は、日本でカレーライスを食べ続ける、お昼にカレーライスを食べて、夕食がカレーライスでも大喜びをしてみせる、それが日本人であるということではないでしょうか。
 モンティ・ホール問題は、大方の日本人にはやはり理解できないでしょう。「現実が直感と反する場合人々は動揺する」とモンティ・ホールは書いていますが、日本人は猫が毛繕いするように、さっと台所に立ってしゃっしゃと米でも研ぐのでしょう。
 そしてカレーライスを食べて忘れます。
 ご存じでしょうか、韓国では五連のヤクルトをばらさず、そのままストローを刺して飲むそうです。
 今、『"ナイショ"の恋していいですか!?』という韓国ドラマを観ていたらそんなシーンが出てきてびっくりしたのですが、「韓国のヤクルトの飲み方」で検索すると本当にそういう飲み方をするらしく、いくつもの写真が挙げられていました。
 五連どころか十五連パックもありましたよ。
なるほどそうなんだ、と安心したところで、マジックハンドみたいなもので靴を揃えるシーンが出てきてまた驚きました。
 こちらは検索してもなかなか出てきません。
 韓国では引っ越し蕎麦の代わりにジャージャー麺を食べるとか、「忠誠」と言いながら敬礼するとか、そういう韓国ドラマの演出に、ちょこっと現実にはない嘘の風習を混ぜたら案外みんな信じてしまうかもしれませんね。
本当は、韓国人はインスタントラーメンにキムチは入れないかもしれません。
 一人で外食するのはごく普通のことで、女性は片膝を立てて座らず、正座して万歳の体罰はなく、ズボンを脱いで土下座することもなく、エイの刺身は食べないのかもしれません。
 考えてみれば日本のドラマもかなり嘘が多いようです。
日本のドラマ『家族のかたち』でも、タワーマンションでロフトの部屋が出てくるのですが、これがかなり難しいのです。タワーマンションでは天井高2.6メートル程度が普通で、二重床などに拘ると、それ以下の物件が多いのです。ロフトになると、天井高4メートルは必要でしょうし、あのドラマのセットでは天井高5メートルくらい必要でしょう。ロフト付きの物件もなくはないのですが、大抵は天井部屋か物置か、ベッドだけのようなロフトです。あのドラマみたいな物件は見つかりません。基本、マンションは横をぶち抜いて広くすることは可能でも、縦をぶち抜いて高くすることはできません。設計上できないのです。
 そして、検証のためにヤクルトを買ってみて驚きました。
 なんとヤクルトのパックはストローが包装の内側に入っているのです。とりあえず一個ばらさないとストローを取り出すことができないのです。つまり…韓国式ヤクルトの飲み方があり得るとしたら、韓国のヤクルトの飲み方などというものがあり得るとしたら、それは韓国ヤクルトがわざわざストローを外付けしたから、と考えられないでしょうか?
あなたは『絶歌』には謎が多いようなことを書いていますが、謎を拵えたのは一体誰なのでしょうか?
 三島由紀夫は伊勢神宮を例に採り、日本の文化においてはオリジナルと複製の差はないと書いています。ああ、すみません。偉そうに。きっと葛西さんはご存知ですよね。本物とレプリカでは価値が違うんではないか、というのが常識だとして、逆説的に言えば、御真影なるレプリカにお辞儀をしていたのが日本人だという慧眼だと思います。
 林被告が真犯人であろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいことだと私は思います。
 そして言いにくいことを書きます。『絶歌』が『金閣寺』のパロディだということをありとあらゆる文芸関係者たちの誰人として気が付かなかったのは何故なのでしょうか? と私に問うていたのには笑えました。
論理的に考えましょう。
 あなたが小林秀雄や亀井勝一郎でもない限り、あなただけに答えが見えていて、その他全員が見落としているなんてことがありますかね。
 論理的に考えればそういうことになりませんでしょうか。
たかがキンドル作家のあなたに、国語2以上の、どれだけの読解力があると自惚れるおつもりですか。
 何故なのでしょうか。
 世界中であなたにだけは中二病的比喩表現が腑に落ちた。ついでにレトリックを拾っていくといちいち腑に落ちた。そうすると『絶歌』が『金閣寺』のパロディであることが解った。
 この論理破綻! 
 架空ナル観念!


「冷蔵庫がやかましい」マンション住人に頭突き 韓国籍の男を逮捕

同じマンションに住む男性の部屋に押し入り、けがをさせたとして、京都府警下京署は30日、傷害と住居侵入容疑で、京都市下京区に住む韓国籍の無職の男性(63)を逮捕した。逮捕された容疑者は「まったく身に覚えがありません」と容疑を否認している。
同署によると、容疑者は、27日午後9~11時ごろ、京都市下京区の同じマンションの真上の部屋に住む男性(41)方に押し入り、「冷蔵庫の音がやかましい」などと怒鳴りながら、胸ぐらをつかみ、顎に頭突きを食らわせるなどして、けがを負わせたとしている。
同署によると、男性宅には、冷蔵庫はなかった。


 一昨年、こんな事件もありましたね。
 今まで税込105円だったものを消費税率が8%に引き上げられる前後でまず税込108円に引き上げ、その後、税別108円に値上げしたりしているのが庶民です。今、税別なのに108円の商品のいかに多いことか。
 この出鱈目な値上げは、多くの庶民が分数の計算はできないという事実を証明しています。つまり比の概念が認識できないのです。小学校の算数ができないのが庶民です。
 ではあなたはIQ150の天才ですか?
 常識的に考えれば、あなたがどんなに天才であろうとも、百人が見落とした理屈をあなただけが見抜くことはあり得ない。
 それはどんな確率ですか?
 『絶歌』は十万部売れ、図書館に収められたもの、回し読みされたもの、中古品、立ち読みと、おおよそ三十万人が読んだのではないでしょうか。そのうち三島由紀夫の『金閣寺』を読んだことのない人間が何人いたでしょうかね。百人? 千人? それとも二十九万九千九百九十九人ですか? 
 あなた一人だけが『金閣寺』と『絶歌』を読んだのだとおっしゃるのでしょうか?
 あなたが一体他の人間と何が違うというのですか?
 あなただけがレセプターを持っていたということですか?
 三十万分の一という確率であなたが唯一発見したものは本物ですか?
 あなたはカレーライス百人前食べられますか?
 あなたにできること、それは女房を便所に追い詰めて、水をかけることぐらいでしょう。
 もしあなただけが見抜いたものがあるとすれば、そんなものは多分何の役にも立たないただの誤謬です。
 そしてそれが誤謬ではないとすれば、そこにはどうしてもトリックが介在する必要性がありますよね。
 つまり『絶歌』を『金閣寺』のパロディに仕立てたのはあなたではなかったのかと。そんなことはあり得ない、有る筈はないという思い込みよりも、あなただけが唯一『絶歌』と『金閣寺』の関係に気が付いてしまったことが問題なのです。犯人にしか分からない言葉を引き出そうとして、探偵小説は四苦八苦しますよ。あなたは知っていたんでしょう。三島由紀夫が、何故なのでしょうか、川端康成の『眠れる美女』をやたらと絶賛していることから、あれは三島由紀夫の作品ではないかと疑われています。
 あなたは世界で唯一『絶歌』の文学性を評価しています。
 つまり?
 日本語には正しい文法はありません。森鴎外や芥川龍之介も意見をしましたが、結局日本語はルールを持ちませんでした。ですからみな自分がルールなのです。
 つまり…世界で唯一『絶歌』の文学性を評価できるということは、あなたと私は同一人物なのではないですか?
 普通はそう考えられます。
 沼正三という変態作家が書いた『家畜人ヤプー』をあなたもご存知ですよね。三島由紀夫が絶賛した空前絶後の日本人差別小説です。天野哲夫が沼正三であるとされていますが、私は倉田卓次説を支持します。その『家畜人ヤプー』の主人公、瀬部麟一郎の身長が163センチなのは何故なのでしょうかと、本当にあなたが問いたいのはそこでしょう?
 三島も昭和天皇も少年Aも瀬部麟一郎も…。
 あなたは必死に瀬部麟一郎をアナグラムとして読み解こうとした筈です。しかしどうにも読み解くことができなかった。だからわざわざ私に163という38番目の素数を突き付けたのです。
 答えを書きましょうか?
 いいえ、書きません。
 その代わりに、本当にあなたが三島由紀夫を読んだことがあるのか、と問いたい。平野啓一郎さんだけが、金閣寺は美しいものではなく、美しいと教えられたものだということに注目しています。何が美しいと云ったってサクレツする原子バクダンぐらい素敵な美はないでしょう。昔の金閣寺なんてさして美しいものではありませんでしたよ。平野啓一郎さんには流石に読む力はありますよ。しかし、どうでしょう。超一流の編集者と世間的に認められている人達に、本当に読む力がありますかね?
 例えば『絶歌』を読んだ超一流出版社・新潮社出版部部長の中瀬ゆかりさんは「私には自己愛しか感じられなかった」と東京MXテレビの「五時に夢中」の番組内でおっしゃったとか。そのような偉い方にお読みいただいて光栄の限りです。どこの馬の骨とも解らないあなたと、文学界の重鎮は真逆な評価ですね。ですからおそらく『絶歌』を買いかぶるあなたが間違っていて、『絶歌』は自己愛だけが露呈した拙い告白本なのでしょう。
 いや、本当にどうなのでしょうか。
 ショーン・Kさんといういかさま師がいましたね。しかし彼の嘘がまかり通っていたということは、そもそも経営コンサルタント業務とかMBA自体がたいしたことはない、という証明になっていないでしょうか。
 それこそ日本国内にもMBAを持っている人たちがたくさんいたはずであり、かれらがその専門性において、あるいは業界での情報収集力に基づき、ショーン・Kさんの嘘を指摘していていなかったということは……彼ら全員にそれなりの能力や責任感が欠如していたという証明になるのではないでしょうか。
 一方、幻冬舎の見城徹さんは、三島由紀夫の死を、憂国の義士の憤死と信じて疑いません。そして『絶歌』の出版を途中まで後押ししてくれました。
私はこの人が、全く本を読む力がない人ではないのかと一方で疑いながら、やはり『絶歌』の価値を信じていましたから複雑でした。
 私は「僕の忠義は幻の南朝に捧げられるものだ」という三島の独自の天皇論を無視する人の三島観にはついていけません。そして三島は本当に蟹が嫌いだったと信じている人にも。だって、無腸=蟹は、上田秋成の俳号でしょう。
 三島を担いで、自分のイデオロギーを押し広げようとする人もいます。憂国忌の最後は『海往ば』の大合唱ですよ。これは違うんじゃないかと僕は思いますね。『英霊の聲』を読んでいないのかなと不思議です。だって、『英霊の聲』は、明確な昭和天皇批判ですよ。忠義の士を逆賊にしてしまったのはいけないと書いています。せめて腹を切らせるべきであったということです。そして特攻隊の死を奴隷の死に貶めたのは天皇のいわゆる「人間宣言」だと批判しています。神がいなければ、神風が吹くわけはないんですから。しかも三島は『二.二六事件について』の中で、その批判のポイントを明確にしています。これは案外気が付かないことなんですが、流石に三島ですね、そのいわゆる「人間宣言」ですが、みんななんとなく、ポツダム宣言受諾、敗戦、人間宣言と一連の自然な流れだと思い込んでいるんじゃないかと思いますが、そもそもポツダム宣言は、天皇に人間になれとは命令していないんです。
 あなたが私に質問した程度に、あなたにも質問を返しましょう。
 クーデター決行の朝、村田英雄に電話をしたのは何故なのでしょうか?   何故、決行の朝、村田英雄の自宅に電話をかけ、公演旅行中であることを知ると、わざわざ公演先を聞き出し、宿に長距離電話をかけて紅白歌合戦の出場を祝う伝言を残したのでしょうか。
 市ヶ谷に向かう中古のコロナの中で楯の会のメンバーと『唐獅子牡丹』を大合唱したのは何故なのでしょうか?
 三島はクーデターの一年前に自殺未遂事件を起こしていますが、それは何故なのでしょうか?
 三島が死の一週間前の対談で、蓮田善明、保田與十郎を呼び捨てにしているのは何故なのでしょうか。
 三島が死の半年前のインタビューで『豊穣の海』の次回作(開高健の勧めでベトナム人女性の話を書く構想があった。)について言及しているのは何故なのでしょうか? 
『豊饒の海』が5部作から4部作に変更されたのは何故なのでしょうか?
三島の生首に「七生報国」の鉢巻きが巻かれたのは何故なのでしょうか?「七生報国」は南朝の再興を目指す呪詛、明治政府はこの呪詛を正式に採用、明治政府は南朝正統説を国会承認、昭和天皇、三島由紀夫とも、この南朝正統説を認める教科書を使って授業を受けていた。
村田春樹を楯の会に入会させたのは何故なのでしょうか? 村田春樹は大江健三郎ファンであり、三島は大江に『セブンティーン』後、手紙を送っている。つまり「天皇でマスをかく」大江の小説を大喜びした?
 三島は『家畜人ヤプー』という国辱小説を大絶賛した。雑誌からスクラップブックにして、単行本出版を持ち掛けたという。日本民族を全否定する小説を推したのは何故なのでしょうか?
三島は遺書で、富士山が見える場所に自分のブロンズ像を建立せよと書いています。その図々しさ、自分が不敬と見做されることがないという自信はどこから来るのでしょうか?
 逆に郷里にブロンズ像を建てられて、辱めを受けている太宰治は笑えますが、三島の遺言は笑えません。
 三島と森田の辞世の句が二首ずつあり、三島の句が下手糞なのは何故なのでしょうか?
 深沢七郎が指摘する通り、三島由紀夫が洋館に住んでシャンデリアの下でビフテキを食べるのは何故なのでしょうか? 全然日本が好きなように見えません。外食でも芳村真理とペペロンチーヌなどを食べています。
 三島は結婚後、猫を飼わなかったのは何故なのでしょうか?
 三島が「憑依」を装うのは何故なのでしょうか。西郷、甘粕、磯部浅一の憑依をわざとらしく演出しているのは何故なのでしょうか?
 帝国劇場で歌舞伎を見る清顕と聡子(『春の雪』)に対して、歌舞伎座で三島は美智子様と芝居を見て銀座六丁目の高級料亭「井上」で、家族で食事をした(見合いをした)と三島自身が言い張るのは何故なのでしょうか?
『風流夢譚』を『憂国』と同時掲載しようとしたのは何故なのでしょうか?
世界一周旅行でギリシャに行ったのは何故なのでしょうか?
 三島が『皇居突入死守』の計画を捨てたのは何故なのでしょうか?「エロティシズムと名が付く以上はね、つまりその、人間がつまり体を張って死に至るまで快楽を追及してね、絶対者に裏側から到達するのがエロティシズムである。」とはどういう意味なのでしょうか? 何故、切り死にしようとしなかったのでしょうか。何故、森田必勝だけを英雄にして、楯の会の残りのメンバーの行動と言葉をウソにしてしまうという辱めを与えてしまったのでしょうか。三島が降霊術に大真面目だったのは何故なのでしょうか。有事になれば自衛隊は米軍の指揮下で行動するのでしょうか?
 檄と檄文の微妙な食い違いの意味は何んなのでしょうか?『豊饒の海』に戦争が殆ど描かれないのは何故なのでしょうか?
 今のところ11月25日を三島が選んだのは、井上隆史さんの言うように『仮面の告白』の執筆開始と、『豊饒の海』の脱稿日を重ねたという解釈がありますが本当でしょうか?
『豊饒の海』で、戦争がすっぽり省略されているのは、どうしてでしょうか。『絶歌』では殺害シーンがすっぽり抜け落ちているとご不満なようでしたが、三島由紀夫は原子爆弾でさえ、その無意味なデカダンをほったらかしています。
 その代わりに『ラウドスピーカー』という小品で、取り返しのつかない冗談のネタに原子爆弾を持ち出していることをご存知でしょう。


「ねえ、君、あそこのピアノはひどいですね。ともかく僕は弾きましたがね。新作で『原子爆弾』といふんです」
「へえ、原子爆弾! 」濱谷はうるさく目ばたきをするいつもの癖を出して、大島の顔をのぞきこむ。「それでは原子爆弾の落ちるところで、お客さんは椅子からとび上つたでせうね」
「いやその點は大丈夫です。まだ落ちるところまで作曲してございませんから」

                                       
 これが本当の文学じゃないですか。何に遠慮することなく、原子爆弾さえも笑いの種に換えてしまう、そういう取り返しのつかないものが文学でなければ、文学が私の「生きるよすが」になる筈もありません。「原爆オナニーズ」というロックバンドは、ネーミングセンスだけはまともだと思います。
ポツダム宣言受諾は何故可能なのでしょうか?
 大日本帝国憲法に、天皇の権限は明記されておりますが、そこに「敗戦権」や「国体を解体する権利」などは書かれていないでしょう。大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス、天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フとあって、これは現代の「できる」条文でも「すべし」条文でもありません。
 天皇というのはそれこそ絶対的な役割であって、天皇という権威をもってしても放棄は出来ません。
「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ。」と『國體の本義』にもあるでしょう。
「天皇は統治権の主体であらせられるのであって、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関に過ぎないという説の如きは、西洋国家学説の無批判的の踏襲という以外には何らの根拠はない。天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられるお方ではなく、現御神として肇国以来の大義に随って、この国をしろしめし給うのであって、第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外国に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かかる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によって確保せんとするものに過ぎない。」とも書かれています。
 それでもポツダム宣言というのは、最後に従わなければ日本を殲滅すると脅している訳です。強迫ですよ。今の民法では強迫による契約は無効だと、こうなるわけでしょう。では国家間ならばそれが許されるのでしょうか。南樺太で起きた惨事に、連合軍の責任はないとは言えません。南樺太から北海道へと逃げ帰る人々を乗せた船が何艘も鎮められましたが、武装解除すればどうなるか、そんなことくらい共産党員でも解かっていた筈ですよ。
私は…これは国際法に違反しているのではないかなと考えるわけなんですがね、とにかく日本はそういうものを受け入れたことになっています。この時点で理屈の上では国体なんてものはもう存在しないわけです。
 そして天皇陛下は人間宣言をなされるのですが、天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラスという大日本帝国憲法の「神聖」のところを一旦なしにするという風に言われますがね、私はそうは考えていません。そんなにね、これは単純な話ではありません。戦前の天皇は天孫です。今上天皇はいつでも天孫なんです。天照大神と直接つながる天子様ということです。八百万の神とは全く意味の異なる神であってね、先ほどのポツダム宣言を読み返しますと、岡倉天心がVictory from within, or a mighty death without.と書いているのが思い出されましてね、凄いでしょう、or a mighty death without.ですよ。アット驚くタメゴロウでしょう。
 これは勿論、
It has been, however, the great privilege of Japan to realize this unity-in-complexity with a special clearness. The Indo-Tartaric blood of this race was in itself a heritage which qualified it to imbibe from the two sources, and so mirror the whole of Asiatic consciousness. The unique blessing of unbroken sovereignty, the proud self-reliance of an unconquered race, and the insular isolation which protected ancestral ideas and instincts at the cost of expansion, made Japan the real repository of the trust of Asiatic thought and culture.という前提があってですね、亜細亜の雄たる誇りがあったわけですよ。だから一億玉砕火の玉だ、玉と砕けよというスローガンが、洒落や冗談ではなく、岡倉天心が認知していたような確固たる思想であって、開国以来の国難と、次々に植民地化されていく東亜の現況を睨んだ必死の覚悟であり、大東亜戦時下における一部の軍部の暴走などではないということが解かると思います。
 三島由紀夫が『反革命宣言』の中で「日本の価値は文化的同一性、歴史的連続性を連綿として保ってきたことにある」と書いたでしょう。これは何も根拠のない話ではなくて、突飛な考えではありません。単なる昔の常識ですよ。岡倉天心も同じことを書いているわけです。寧ろ岡倉天心の方が過激なことを書いています。
 勿論それは時代時代の状況があって、今日本はすぐさま殲滅されるという状況にはないから本当には理解できない雰囲気です。
 坂口安吾が死体の横で弁当を食う話を書いているでしょう。庶民は空襲にだって馴れてしまうものです。今は平和になれています。北朝鮮も全面戦争には移行しないでしょう。ただ岡倉天心の時代には、全滅するか勝利するかと言う覚悟が必要だったということですよ。焼け焦げた死体の横で蝗パンを食べて、次の一瞬には自分が焼け焦げているかも知れない、そんな時代に生きていた坂口安吾なかにしてみれば、西洋の現代思想家の「ヒロシマ」贔屓なんてちょっと浮ついた議論に感じられるのではないでしょうか。ジョルジュ・バタイユの『ヒロシマの人々の物語』もどこかフジヤマ・ゲイシャ的軽々しさがないでしょうか。
 文士なんか、なんですかア、火野葦平の『糞尿譚』と『天皇組合』をお読みなさい。
 私が眼球を十字切り裂き、唇を広げた意味をあなたは何故訊ねないのでしょうか?
 あなたは何故熱い握り飯を拵えたのかと、何故訊ねないのですか?
 あれはピエロですと、そう答えられるのが怖かったのですか?
 では、眼が十字で、口が大きく裂けた意匠を何と解しますか?
 本当にあなたは人をほめそやすしか能のないどうしようもない生半可な文士気取りのチンピラです。
 あなたは私のアリバイのなさを疑いますが、人間は同時に別の場所に存在できないのでしょうか?
 光子の非局在性は数年前に証明されましたが、単なる実験装置の中で行われた証明に過ぎません。歪んだ座標を用いた重力の記述もまだ非可換幾何に過ぎません。現実には、リアル・ワールドは完全な相互作用で成立しているものではないのではないでしょうか。


三島由紀夫(一九二五-一九七〇)は大変なカニ嫌いだった。作家の座談会でカニ酢が出ると、真っ青になり「それを下げてくれ」と編集者にどなった、という。
ところがカニ嫌いの三島も、どういうわけかエビは大好物だった。自決する前日、三島は一緒に死んだ森田必勝とともに、赤坂のエビ料理専門店「鶴丸」で別れの宴をはった。  
大きな種子島産の伊勢エビを二人は平らげて、死へ赴いた。

(『昭和超人奇人カタログ』/香都有穂/せきた書房/1990年/p.219)


 三島たちが最後に行った店は、鶴丸ではなく、新橋の鳥鍋屋の「末げん」という店だということになっていますが、何故かこういう話も残っているのです。
 三島の辞世の句が二つある意味、それは三島由紀夫という人間が一人でなかったというゆるぎない証拠ではないですか。
 私が有為子を書かなかったのは、有為子の位置と運動量を正確に同時に求める事は出来ないからです。私がわざわざ有為子を書き残したと思えば、あなたが有為子を書いてはどうでしょう。女にふられるエピソードなど誰にもありましょう「おんな・きえる・おとこ」はミネソタ州の湖畔にありました。「ほんにん・まねる・おじさん」もフロリダ州にありますよ。
ああ、こんなのもあります。「さっか・めざす・おとしより」はラオスに、「いまさら・きく・おとしより」はロシアにありました。
 植木算のようで、パノプティコンのようで、なかなか面白い仕組みですね。ライプニッツのイクノグラフィを見たように、あなたが昂奮しているのは解ります。しかし我々の短い一代において、無限の未来に絶対のコードを押しつけるとは、無限なる時間に対する冒涜ではないでしょうか。本来分割するべきではないものを分割して、ラベリングして悦に入るのはいかがなものでしょうか。
 面白いけれど意味のないジオタギングですね。
 そして57兆個の3メートル四方の正方形というアイデアは、むしろ我々の世界の数学的不自然さを予感させないでしょうか。3メートル離れれば、人は愛し合うことすらできません。どんなに長いペニスも3メートルはないでしょう。精々1メートルですよ。自然は素粒子のレベルで、本来分割できない時間の最小単位ごとに、人間においては250ミリ秒ごとに脈打つ意識において世界を連続したものとして認識します。宇宙のあらゆるプランク長レベルの正方形の250ミリ秒ごとの変化、この総体がグラハム数より小さいことを願うばかりです。古今東西の神羅万象が数学的に記述不可能なものだとしたら、この世界が存在することはもはや数学的に矛盾していることになりますね。
 あなたはもしや、乱数の中には『カラマーゾフの兄弟』の続編が含まれているとでも考えていませんか。無限に続く乱数には、二進法によるありとあらゆる表現が再現されます。勿論『カラマーゾフの兄弟』の二進法表現は含まれるでしょう。しかし続編はまだ書かれていないことを忘れてはいけません。
 多くの人々がまるで猿のような悲鳴を上げていることにも、葛西さんは答えを求めていらっしゃる。けれど本当は解っているのではないですか。乱数の中には『カラマーゾフの兄弟』の続編が含まれているという思考実験は別名無限の猿仮説と呼ばれていますね。なあに、無限の猿は大勢でただ悲鳴を上げることしかできないことを、私が証明したことを認めてください。しかし認めることが嫌なのでしょうか。家に帰るまでが遠足。悲鳴を上げさせるまでが小説です。
 多くの何者でもない人々は『絶歌』に悲鳴を上げました。まるでハイデッガーの語る所のギリシャ悲劇の合唱団(コロス)のようなものです。神々の振舞に対して、民衆は肉体を欠いた悲鳴を上げることしかできません。それは意志ですらありません。操られるからこそ民衆なのです。「精神狩猟者」のくだりで、ワトソンが見事にミスディレクションに引っかかったのを覚えていらっしゃるでしょう。人を操るのは簡単です。欲しがっている物語を投げ与えてやればいいのです。
 また葛西さんは私の浮遊する視座についてもお尋ねになりました。ことそのものについて語るためには、身体性を放棄せざるを得ないと知りつつ、わざとらしく。尾崎翠くらいお読みください。彼女は靴下もこやしも崇高だ、トルストイもこやしを撒いて畑仕事をしていたと書いています。ビオフェルミンもクロレラもうんこでしょう。かにみそとかにばばに何の違いがありましょうか。
 何者でもない人達、まだ試みてもいない人達に、文学の困難さを伝えることは難しいとつくづく思います。例えば私は「酔っぱらっていて良く覚えてへんけど、竜が台の事件は」という身体性に関わる前置きを省略しました。「七割方俺がやったんだ」といった方が、すっきりしているでょう。そうした方がよりキャラが立つと考えたからです。「酔っぱらっていて良く覚えてへんけど、竜が台の事件は」といってしまうと、「それはふいを突かれた嘘つきが、考えついた虚偽の事実の組合わせへ、その虚偽と一つになってそれを真実に見せるだろうと考えて、気休めに入れるあの事実の断片である」とプルーストに皮肉を言われるかも知れません。
 キャラを立たせるためには時に身体性は邪魔になります。綽名を使うことによって、登場人物をキャラ立ちさせていたことはお気づきになっていたようですが、私はまさにこのキャラ立ちこそが生命線だと考えています。「刀剣乱舞」が刀の擬人化であったように「文豪ストレイドッグ」も文豪の擬人化でしょう。人そのものの輪郭をはっきり描くのではなく、よりシンプルに擬人化してみせることこそがキャラ立ちにおいて最も重要なのです。そうして私は悲鳴を獲得しました。
 ウッディとバズは宇宙旅行と懸けました。読書という行為、その変態性を指摘したことも否定しません。日記・書簡小説から読者は隣人の内面を覗き込むようになります。神話と悲劇はやがて架空の話に準えて自分の内面を晒す形式に代わります。特に近代においては、作者の身体性と架空の虚構が混ざり合います。この虚虚実実が文学だと考えられています。
 しかしプルーストとムシルの試み、小説とエッセーの中間領域を明確に意識して書いている人はごくわずかです。それは誰もが自分という存在を疑わないからでしょう。顔面に取り付けられたカメラの台座が自分であることを疑いません。そんなものはVRゴーグルでうやむやになってしまうでしょう。
 あなたが浮遊する視座と読んだものは、通常意識の外在化とか意識の拡張と呼ばれています。あなただけがあなたであるわけではないでしょう。私だけが私ではありません。
 ですから私のものではない、しかし私の筆跡によく似た犯行声明文が存在し、私に賭ける筈もない「懲役十三年」が存在し、私が殺した筈もない猫の死骸が校門の前に打ち捨てられたわけでしょう。
 確かに全ての猫を殺したのは私ではありません。事件の前後で、警察や裁判所が何やらごそごそとおかしなことをしていた事実は否めません。駐車場で遺体確認など、とんでもない話だと思います。私の両親も、随分おかしな誘導を受け続けていたようです。
 しかしはっきりしていることは、個人はどうやっても組織には勝てないというシンプルな事実です。
 あなたも同じではないですか。あなたがどんなに頑張ろうと、野村ホールディングスの協力がなければ、あのような株主提案の公表はあり得ません。
しかしどちらがデザインしたのでしょうか。
 あなた、私、野村ホールディングス、あるいは日本国家。

 それから厳しいことを書いておきましょう。あなたは野村ホールディングスに100個の株主提案をしたそうですが、果たしてそんなことが可能でしょうか。
 包丁とのこぎりで遺体を切断し、トイレに流し、あるいは出勤時にゴミ捨て場に捨てるなどして処理することが可能でしょうか。トイレは詰まりますし、ゴミ捨て場は毎日操作されていました。
 私には二つの点が気になりました。あなたは株価が二十分の一になったと嘆いています。そして提案の一つで万歳三唱を止めさせようとしている。これはおかしなことになりました。
 いいですか、株主提案には300口の少数株主権が必要です。つまり最高値圏の5000円台の株式を当時の取引単位1000株の300口保有していたとすると、つまり5000円×1000株×300口だとして、150億円以上の資産があったという計算になります。キンドル作家にそんなお金がありますか?
 それから私が知り得る限り、株主総会で万歳三唱が行われることはありません。
 つまりあなたに株主提案をする資金があったとは到底思えず、株式投資をしている人が提案したとも思えません。
 ただ野村ホールディングスが株主提案を公表し、英訳でニュアンスにまで凝ったことが不思議なのです。あれは野村土地建物を子会社化して、野村不動産ホールディングスを連結個会社化した野村ホールディングに対する野村不動産側の対抗手段だった、というのがもっぱらの噂です。とても個人の気まぐれではできないことでしょう。それに提案の翌々年には野村不動産ホールディングスは、野村ホールディングスの連結対象から外れました。グループ企業としてのシナジーを発揮することもなく、野村不動産でマンションを買っても、野村系の金融機関でローンを組ませることもありません。野村不動産は日本郵政に買収されるという報道がありましたが、すぐに立ち消えになりましたね。あの時も、一個人の酔狂以上の、何かヤドカリのペニスのように巨大な力が動いたと噂されています。
 あなたがあの事件に全く関わっていないとは言いません。何らかの形でかかわったのでしょう。誰かに頼まれて、原稿を書いたのかもしれません。ただあなたにはあの事件の全てを引き受けることのできないでしょう。
 何故なのでしょうか、葛西さんは日刊ゲンダイのインタビューに応じ、株主総会のレポートを載せていますね。これはどう考えても辻褄が合いません。
 何故日刊ゲンダイなのでしょうか。
 そもそもあなたを最初に「便器株主」と呼んだのは日刊ゲンダイですよね。
 100個の株主提案は海外メディアの方が大きく報じました。ロイター、ウォールストリートジャーナル、フィナンシャルタイムズが報じ、国内の新聞、テレビはほぼ無視しました。
 私があなたなら、まずロイター、ウォールストリートジャーナル、フィナンシャルタイムズの日本支社に連絡します。そして伏せられた82個の株主提案を投稿します。採否は相手の判断ですが、まさか日刊ゲンダイなんかに投稿しませんよ。
 このねじれ具合は何なのでしょうか。
 間違いなくあなた以外の誰かが、この事件に関与していますよね?
 私はあなたの実在すら疑います。
 あなたは野村ホールディングスの社名を「野菜ホールディングス」に変更するように提案したことを野村側は明らかにしていますが、何故なのでしょうかその提案は株主総会の議案として付議されませんでした。社名変更の提案は、合法なものです。では何故あなたの提案は付議されなかったのか?
東京通信工業株式会社に、社名を「ソニー」に変更せよと株主提案したら、…それは違法であったり、権利濫用だったりするのでしょうか。アマゾンに、実売店を作れとか、ドローンで荷物を配達しろとか、注文を予測して配送しろとか提案したらどうでしょう。
 あなたが野村ホールディングスに送り付けたと言われる提案全文をアマゾンで購入させていただいて、野村側が社名変更の株主提案を隠した理由がようやく解りましたよ。


死ぬべき幹部 へ

さあ株主総会の始まりです
愚鈍な経営者諸君
私の株主提案を止めてみたまえ
私は株主提案が愉快でたまらない
万歳三唱が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜ホールディングスには上場来安値の制裁を
積年の大怨にストップ安の裁きを

便器株主 より


しぬべきかんぶ
べんきかぶぬし
これでは付議されるわけがありません。
しかし、その他の株主提案を読んでいるうちに,おかしなことに気が付きましたよ。公表された十八個の株主提案がとりわけ珍妙な物であって、残りの提案の方がむしろ普通というか、真面というか、大人しい。そして改めて株主提案のルールを確認してみると、むしろ公表された十八個の株主提案が伏せられるべきであって、伏せられた株主提案の方を公表するべきだったような気がしてきました。


第2号議案 商号の英文における発音に関する定款の訂正と登記手続き

【提案の内容】

定款第一条「当会社は」の後に「日本語では」を挿入し、「表示する」を「表示し、その際の呼称は英語表記に基づいて行うものとする」と改める。また商標権トラブルに巻き込まれないよう、その他の取引先国の手続きにおいて必要な場合、(中文では蔬菜投資公司とするなど)多言語で確実な登記手続きを行う。

【提案の理由】

「社を挙げた意識改革」を求めて提案する。
現行の定款を文字通りに解すれば、英文での表記の場合でも発話の際には日本語の呼称を用いなければならないことになり、アメリカ市場進出の際の諸取引において障碍となりかねないため修正するものである。
また今後はイスラム金融、中国市場での取引の際の表記と呼称についても柔軟な対応が求められる。


これはまともな株主提案に見えます。そもそもノムラはノーモアと訊き間違えられやすいと言われています。Nがネガティブ、Yがポジティブな語感を持っているのも事実です。ベジタブルにはエイブルが含まれるので、いずれにしてもポジティブです。この提案が隠されて、和式便器うんぬんを議論する必要性がどこにあったか解りません。


第6号議案 報酬委員会の定める役員報酬の制限

【提案の内容】

報酬委員会の定める役員報酬の総額に「期末株価×勤務時間×対象人数」の上限を設ける。ただし常勤役員に関して報酬委員会の算定した報酬額が、厚生労働省の定める最低賃金を下回った場合は、当該役員を懲戒処分とした上で最低賃金をとして算定した額を一旦報酬として支払い、報酬委員会において、最低賃金を下回る評価を受ける役員については、報酬委員会の決定を尊重し、「不適格」とみなし、懲戒解雇する旨を定款に明記する。

【提案の理由】

「報酬と人事評価の適正化」のために提案する。
現在、手続き論的には役員報酬は報酬委員会が算定することになるが、事業実績を無視して青天井で報酬を支払うわけにはいかない。その総額には一定の基準が必要であることから定款で報酬の上限を定めるものである。株価連動性の報酬制度こそが、真に株主とのリスク共有を実現する。お手盛りの高報酬がずさんな経営の原因であり、株価の低迷には報酬委員の責任も重いことを自覚してもらいたいものだ。国籍によるハードシップ手当も差別に繋がることから認めない。


この株主提案はむしろ正論ではないでしょうか。当時の野村ホールディングスは確かに危機的状況にありました。ですからこのくらい厳しい提案があっても良かったかも。もしもこの提案が伏せられる理由があるとすれば、それは……真面目過ぎてつまらないから、ということにでもなるのでしょうか。


第11号議案 定款の目的の追加

【提案の内容】

目的について定めた定款1章第2条第4項を第12項に改め、第4項に「不動産の所有、賃貸ならびに管理」第5項に「不動産の売買、仲介、コンサルティングならびに鑑定」第6項に「宅地、商業用地、工業用地等の開発、造成および販売」第7項に「不動産の販売代理業務」第8項に「不動産投資に関する調査およびコンサルティング業務」第9項に「損害保険代理業ならびに生命保険の募集に関する業務」第10預に「預金または定期積金の受け入れ、資金の貸付け、または手形の割引ならびに為替取引」第11項に「宝くじの販売および当せん金の支払受託業務」を追加する。

【提案の理由】
「コーポレートガバナンスの強化」のために提案する。
野村土地建物株式会社を完全子会社、野村不動産ホールディング株式会社の連結子会社化した以上、持ち株会社としての貴社にとつて「グループの連携を強化」はガバナンスの強化と同異議である筈である。業務の専門性に鑑みて支配、管理を放棄するならばそれは「ガバナンスの欠如」であり、定款の目的を逸している。
このことから定款の目的を整理し、子会社および連結子会社を直接的に支配し管理する体制を強化するべきであると考える。


これは真面目過ぎて笑えません。勿論保険と証券を同時にやっている農協に対する皮肉も含まれているのでしょうが、まるで普通の議案です。経営側がこれを議案にしたら、手続き的に必要な事なんだろうなと思う株主も多いでしょう。

第24号議案 反社会的勢力との関係について

【提案の内容】

暴力団、暴力団員、暴力団準構成員、暴力団関係企業、総会屋等(総会屋、会社ゴロ、 社会運動等標ぼうゴロ、与党総会屋)、特殊知能暴力集団、悪徳弁護士(法律知識を悪用し、法の精神を歪めた不正な行いを指南する者)、総会コンサルタント(株主総会を経営者側の意のままに操る方法を指南する等の名目で対価を要求する者)、社内総会屋(有給休暇を取得して株主総会に参加し、進行に協力することで見返りを得ようとする者)、不良取締役、愚連隊、テロリスト、汚職警官らを株主総会に動員しないこととする。また貴社社員は株主総会の実効をなきものにしようと組織的かつ計画的に活動するあらゆる行為を禁止する。


【提案の理由】

株主総会において株主の権利を否定し、議長の意のままに操ろうとするなどの反社会的勢力とは絶縁するべきである。貴社は歴史的に反社会的勢力と蜜月の関係にあることが広く認知されており、昨年の株主総会においても一部の与党総会屋の威嚇行為を議長が黙認するなどの反社会的勢力を助長するかのごとき運営が確認されている。今後はこのような事態が起きないように、反社会的勢力(昨年、脱法精神に基づき行動した者、あるいはその行動を支持した者、脱法行為を黙認した者)の株主総会への参加を認めないものとする。


これは日本の株主総会で常態化されている社員株主の批判ということになりましょうか。それにしても社員株主を反社会勢力とカテゴライズするとはなかなか手厳しい態度ですね。確かにリハーサルや社員株主は株主総会を形骸化させる手段であり、グレーゾーンだと思いますよ。しかし、この提案も笑えません。真面目過ぎてつまらない。

第37号議案 寄付金の取り扱いについて

【提案の内容】

寄付金は取締役個人の負担とする。

【提案の理由】

今度の震災では多くの人が心を痛め、個人的に多くの人々が寄付を行ったわけだけど、冷静に考えると、貴社の目的に寄付はないんだよね。そもそも企業は納税して社会貢献するべきであって、たかが一億円とは言え、取締役が商行為以外の目的で会社のお金を使うのは背任行為にあたる。
人助けや寄付の精神は尊ぶべきものだが、他人の財布に手を突っ込むのはいけないことだよ。定款の目的にない行為は社としては行ってはならない。


 まさに正論ですね。確かに定款の目的にない行為を法人が行ってはならない。その通りです。しかし今まで寄付に文句を言った人は一人もいない。あなたが多分初めてですよ。
 しかし、しかしですよ、こうしてあなたの株主提案を一つ一つ読んでいくと、やはりあなたを便器株主に仕立てたのは野村ホールディングス側であり、なんなら野村ホールディングスは提案があったことのみを公表するだけでも難を逃れられたのではないかという気がしてしょうがありません。あるいはあなたが自分のものにしたがっている株主提案のお手柄は、そもそも野村ホールディングスが何らかの目的で仕組んだものではないかと疑わしくなります。野村ホールディングスは株主提案について、弁護士と相談して要件を満たす十八個のみ公表したということにしていますが、どうもそういうことではなさそうですね。
 どう考えてもあの株主提案は、一個人の力、単なる気まぐれな株主の思い付きだけでは成立しません。むしろ野村ホールディングスが、何らかの目的をもつて、ゴーストライターに発注したと考えた方が、辻褄が合います。野村ホールディングスは何らかの目的をもって、自分達に都合の良い株主提案をチョイスして公表したように思えます。
 その目的は、解りません。
 色々調べていますと、当時の野村ホールディングスは本当に危機的状況にあり、五十七兆といわれるグループの資産を吹っ飛ばしかねない状況だったようですね。古賀会長が金融庁や三菱と接触して、いざとなったら頼むと話していたという記事を見つけました。マドフ事件で多額の負債を抱え、リーマンショックで二重の負債を抱えた野村が山一證券のようなことになれば、どんな経済状況になっていたのか想像もつきません。
だから誰かは、野村をかばいたかったのでしょうね。
 あなたと野村の関係は解りません。しかしあなたが野村の延命に協力したことは間違いないように思えます。あなたは日刊ゲンダイの取材に応じて、わざわざ「着席するとすぐに野村の担当者が近づいてきた」と面が割れていることを仄めかしていますが、それは元々知り合いだったという告白ではないですか。あなたの株主提案の原稿には最初「商務部内草稿」の文字がありましたね。商務部とは中国の役所名ですね。
 このねじれ具合というものは良く分かりません。
 解りませんが、その訳の分からなさの構図は、大昔、神戸新聞が、私の筆跡によく似た、しかし私のものではない犯行声明文を入手し、筆跡を隠して公表したことと何か似てはいませんでしょうか。
「せいとからさばき」「さかきばらせいと」は正解です。『絶歌』にはアナグラムはなく、ここにあることに気が付いたのは、残念ながらあなただけです。でも「C」はどこに行ったのか? とは質問しないのですね。Cがないキンドル作家さん。
 もしや、神戸新聞社に犯行声明を送り付けたのは、葛西さん、あなたではないでしょうか?
 そして、あなたはもしや暗黒通信団の一味ではないでしょうか。
 あなたは私が真犯人ではないとおっしゃいますが、ではあなたにはアリバイがありますか。
 先日、とあるスーパーマーケットで買い物をしていると、盲目の老人とその介護士の中年男を見かけました。私には盲目の老人の細かい注文と小言、そして介護士のぶきらっぽうな返事とごまかしが気になりました。盲目の老人は「そんなことくらい自分で考えてもらわなきゃ困るよ。何だい、君は小学生の知能もないのかい?」と些かルール違反の小言を口走り、介護士は介護士で、肉を買うのに「グラムいくらとは記載されていません。総額いくらです」と適当なことを言っています。そんなはずはないですよね。肉のパックには大抵、グラムいくらと表示されています。
 しかし盲目の老人にはその記載は見えません。だから、それ以上の諍いが避けられたわけです。誰かが横から、「グラムいくらとちゃんと書いてありますよ」と忠告しないから二人は大喧嘩しないで済んでいるのでしょう。目に見えるはずもないものを無理に見ようとすると、どこにでもお化けが現れますよ。
 先に述べたように、現実の中の隠された部分、呪われた部分とは、対象化できない領域であり、それに名前をつけることはできないような領域である。
 モダン・ホラーの作家はその闇の部分を実体化し、吸血鬼、ミイラ、ゾンビ、猛犬、ポルターガイスト、怪獣などと名前をつけてしまいます。


たしかに、たとえばキングの描く恐怖は、大時代な仕掛けによるものではありませんい。日常生活という平面から一歩足を踏み外したら、こんな怖いことが待ち受けているのですよ、と彼はいう。
それでも、日常生活という世界から外へ一歩踏み出したところにある領域に、一定の形をあたえてしまうことによって、読者を安心させていることには違いはない。そこにあるのは、もっと捉えどころのない、形がわからないゆえに恐ろしいものであるのに……。

(『ニュー・ゴシック ―― ポーの末裔たち』鈴木晶・森田義信編・訳、新潮社、1992年、P.219)


 これは現代アメリカ文学界を代表するニュー・ゴシックの作家のアンソロジーの翻訳者が、ニュー・ゴシックに関して述べた後書きの部分の引用です。
(実は現代アメリカ文学というもの全体に視野を持つ簡潔な評論としても読めるので、全部コピーしてしまいたいのですが、流石にそういう訳にもいかないので興味がある人は是非本文を読んで下さい。貴重なトマス・ピンチョンの写真も掲載されています。私の知る限り、公開されているピンチョンの写真はこの一枚だけなのではないでしょうか)
 そして今更ながら「悪い小人たち」「リトル・ピープル」「ジョニー・ウォーカー」「品川猿」「やみくろ」「緑色の獣」と現実の中の隠された部分、呪われた部分を絵描き続ける村上春樹作品が、ニュー・ゴシックの系譜にあることを思い出させてくれます。
 翻訳者・鈴木晶氏がわざわざ説明しなくてはならない程、ニュー・ゴシックはモダン・ホラーと同一視されているのが現状です。
 鈴木氏は、カーヴァー文学とニュー・ゴシックの違いについてはこんな説明を与えています。


現実は見られることによって変化する魔物である。
しかも、よく見て見れば、その現実のそこかしこには小さな裂け目がのぞいている。
カーヴァーは、ミニマリストの代表者とされていたが、彼には明らかにそうした意識がみられる。だが、カーヴァーはあえてその裂け目を覗き込もうとはしない。
そうした現実のなかの隠された部分に積極的にこだわる現代小説を、ひとまずニュー・ゴシックと呼ぶことにしよう。(同/P.218)

            
 カーヴァーは上手いけど狡いと評した池澤夏樹さんとは、真っ向から対立する意見ということになりますね。池澤さんは電柱の臭いを嗅ぎ回る犬のごとくカーヴァーを見ていました。現実が魔物であるなんて当たり前なのに、何故敢えてそんな部分に鼻を突っ込んで深刻ぶるのかと。
 勿論、「現実が魔物である」とは池澤さんは言っていません。人と人との交わりの微妙さを言ったのです。(例えば、あなたと私の関係のように)そんな池澤さんにしてみれば、ゴシック小説、あるいはニュー・ゴシックなどは、単なる「お化け小説」としか理解できないのではないかという心配が成り立つように思われます。
 私が語るまでもなく、カーヴァーの小説は「お化け小説」ではありません。
 ですから“狡い”というのはやや厳しい評価であるように思います。
孤児や、異邦人などの何か心に欠陥のある人間が世界となんとかして繋がろうとしてもがく所にしか文学が生まれないとも思いません。ただしカーヴァーには恐らく間違いなく何かが欠けていて、その不足にはリアルな言葉が山ほど注ぎ込まれる必要があったのでしょう。
 実際にはカーヴァーの残した作品群は、現代アメリカ作家のものとしてはそう多いとは言えませんが、中条省平さんが指摘したように、カーヴァーは削って削る作家です。(※実際には削るのは編集者の意向によるものであったことが後に明らかになるのですが、結果として発表された作品が削って削られたものであることは間違いありません。)
 寡黙さに飲み込まれて無限の言葉が消え、削ることのできない言葉が残されましたた。“狡い”とまで言われるのは、付け足された過剰演出であるべきだと私は思います。カーヴァーを狡いと評する厳しさで自分の文章を削っていって、文字がまだ残っている現代作家というものが存在するだろうかと考えてみます。そういう人がいるとしたら、結局その人は奇妙な認識論の持ち主だということにはなりはしないでしょうか。完璧な文章が存在しないように、完璧な校閲も存在しません。
 新潮社/2009年/p.318)


 しかしこう書かれてみると、まるで自己弁護、あるいは取扱説明書、または自著解題です。曖昧な言語ゲームの共有こそが物語の愉しみそのものだと書かれている様にさえ見えてしまいます。勿論そのような捉え方でディケンズをフューチャーすることはローティの言う「仲立ち」には当たりませんが、兎にも角にもわざわざディケンズが担ぎ出された意味は大きいと思います。
 実際、私は川奈天吾のオリジナル作品を読むことは出来ませんが、小松が読んだ天吾の習作は、いかにもディケンズ風の流儀(?)が貫かれていたのではないでしょうか。1984年当時、師弟制度は廃れていましたが、多くの作家の卵はまだまだ志賀直哉を写経して、岩波の赤帯を読みふけっていました。村上春樹さん自身は多くのペーパーバックを読むことによって、独自の文体を作ったという自負を持っていますが、結果としてあらわれたものは(丁度庄司薫がサリンジャーのパスティーシュと疑われたように)カート・ボネガット・ジュニアやリチャード・ブローティガンの翻訳作品に似た雰囲気を持っていました。それは勿論サリンジャーの洒脱、スコット・フィツジェラルドの神経質さ、ボネガットの剽軽さ、ブローティガンの自虐的笑いが複雑に組み合わされた彼独自のものではあった訳ですが、ディケンズの要素は殆ど感じられません。特に輸出されない初期二作品に関しては、ディケンズ抜きで、例えばバーセルミのスタイリッシュ、あるいはスタイリスティックとでも呼ぶべきある種のポストモダニズム的、あるいは脱構築の様式美を見せていると言えましょうか。物語がデッケンズ的な破綻、小状況としては成立しているが、全体としてはスラップスティックに見えるプロットの非整合性を見せるのは後期作品においてです。
 ここでは単にオールドファンの辛口批評に釘を刺すように持ってこられたのがディケンズなのだと考えられなくもありませんが、わざわざ地下室から持ち出されたとすれば、この偶然の選択にも物語の中ではしかるべき意味が付与されうるでしょう。
 ではナボコフはどうでしょう。『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』と『1Q84』(book1~3)の両方に登場する作家は他にマルセル・プルーストとジョージ・オーウェルだけです。『1Q84』(book1~3)には直接的にウラジーミル・ウラジーミロビッチ・ナボコフの名前は登場しません。しかし見事にロリータ・コンプレックスの作家の卵が登場します。
 十七歳であるふかえりは、もはやロリータとしては薹が立ちすぎてはいますが(ロリーターとして認められるのは十歳から十四歳の間である)、川奈天吾は十歳の青豆を記憶に深く留め、自慰や、年上のガールフレンドとのオーラルセックスの際に思い描いてしまいます。わずか十歳の未成熟の女性を性の対象として取り扱ってしまうロリコンなのです。十歳が異性を意識することは不自然ではありませんが、十歳同士が互いを性欲の対象として意識するのはいかがなものでしょうか。十歳の少女に恋をしたとして、その姿を成長させないまま、性欲の対象として思い描く三十歳は変態です。また十歳の少女に対する妄想によって、成熟した女性を裏切り続けるモラルのなさは、村上春樹さんが発見した人間の残酷さの一つでしょう。
 同じものをナボコフの『ロリータ』が描いているのはただの偶然でしょうか。
 ジョージ・オーウェルの『1984年』については全く隠すそぶりもなく、そのままモチーフとして物語の中で紹介されます。このいかにも見え透いたやり方がいかにも文学的です。何しろ『1984年』は昔読んだことがあるが今は手元にないもの、あたかもソビエト時代の全体主義の恐怖を描いたディストピア小説として表層的に思い出されるものとしてしか登場しないのです。何故か天吾も牛河も持っていませんし、タマルが青豆に送り付けもしません。タマルが青豆に押し付けるのは、プルーストの方です。こうしてデッケンズとオーウェルを持ち出し、ナボコフを暈したことによって、一層『1Q84』(book1~3)は『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』に寄り添うものに見えてしまいます。こうした過剰な非存在という仕掛けを最近どこかで見かけたような気がしますが、それがなんであったのか、一昨日の晩飯のようにどうしても思い出すことが出来ません。
 ただ『1Q84』の陥穽に『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』を挿入することによって、例えば年上のガールフレンドが失われてしまった理由はナボコフに求めることも可能であるようにも思えるのは奇妙な感覚です。
 そうか、これはナボコフなのだと思いついてしまうと、十歳の子供を思い描いている天吾に口内射精されてしまう年上のガールフレンド、安田恭子はまるでTENGAです。こういうこと、気持ちがよそに行っている相手と性行為を行うことは、実際にはよくあることでしょうが、改めて考えれば、これは人間と人間の関係としてフェアなものではありません。自分がセックス・フレンドではなくTENGAに過ぎないと改めて思い知らされてみれば、(例えば物語を飛び出し、紀伊国屋書店で『1Q84』を立ち読みしてみれば)安田恭子も自身に対する取り扱いの杜撰さに不快な気持ちにならざるを得ないでしょう。騙され、人格が否定されたように感じるかもしれません。 真実を知ったロリータの母親のように傷つくかもしれません。
 そして何故『1Q84』が『1984年』と違って、反ユートピア小説のように好意的に受け入れられなかったのか、という答えも見えてきます。
 リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』の第八章『ヨーロッパ最後の知識人』で『1984年』の主人公の一人、オブライエンの造形について、ヨーロッパの伝統的な知識人としての要素が備わっていることを指摘します。『ヨーロッパ最後の知識人』とは『1984年』の仮題『ヨーロッパ最後の人』から採られたもので、ここにもアイロニカルな視点があります。
 一般に全体主義の悪夢を描いたディストピア小説として紹介されてきた『1984年』ではありますが、リチャード・ローティはその説に対して穏やかに反論します。絶対的な悪を描くことで正義を捏造できると思い込むほどの素朴な策略家は知識人と呼ぶに相応しいものではありません。全体主義の否定に普遍的な正しさがある訳もなく、語り手だけが複雑な意識の持ち主であるわけもありません。
 そこに少し私の言葉を足してしまうと、芸術も文学も多義的であるからこそ意味があるのです。
 ゲームだって意味があるんでしょう。何者でもない人達が英雄になれる世界がそこには確かにあるのですから。巨大ロボットに乗り込み、仲間と助け合い、神秘の世界を冒険して、猫を集めること……。botかもしれないフレンドとチャットして、必殺シュートを決める。日々確実にステータスは上がり、更に強力な敵が現れる。NRSとレアリティが上がり、ついには超・神・鬼が現れる。イオニア派のような属性がキャラクターを分類し、その組み合わせは思いもかけないアビリティを生じさせる。
 しかしあなたの小説は、意味がない。
 おや、雨が降り始めたようです。(笑い)なんだって急に雨が降るのでしょう。おや、おや、土砂降りのようです。急にどうしたことでしょう。そして、わざわざ、私が、そのことをあなたに伝えているのはどうしたわけでしょう。因果モノはよろしくないよ。よしなさい。
 ルイ・アルチュセールは『出会いの唯物論の地下水脈』をこんな文章で始めています。


雨が降っている。
願わくは、この書がまずは単純な雨についての書とならんことを。


 現実の世界は適温である筈もなく、夏の虫は水を疑う前に死んでいます。本当の世界、あなたの嘘話の裏側にある世界は、ぐつぐつと煮え滾っていることを、あなたはわざと知らないふりをしているのでしょう。
 それから、あなたに非通知ワン切り電話をかけたのは、きっと国土地理協会ですよ。NTTではないでしょう。私のところには本当に毎日そういうものがかってきていましたので、直接訊いたことがあるのですよ。

「非通知ワン切り電話を知っていますか?」
「存じ上げません」
「NTTがメンテナンスのために行っているのではないのですか?」
「そのようなことはありません」
「何故知らないものをやっていないと断言できるのですか?」
「……」
「質問を変えましょう。非通知ワン切り電話を放置しているのは何故ですか?」
「通信の自由がございますので」
「真夜中に電話を一回だけ鳴らすことのどこが通信なのですか?」
「……」
「いいでしょう。非通知ワン切り電話が合法なら、NTTの社長の自宅に、私が毎晩それをやっても何の問題もないということですね?」
「頻回のいたずら電話は法に触れるかと……」
「いたずら電話? 通信なのでは?」
「……」
「少なくともあなた方は頻回のイタズラ電話を把握しながら、それを放置している。何故なのですか?」
「けしてそのようなことは……」
「何故貸借対照表の資産の部に電話加入権が載っているのですか? 交換価値もないんでしょう?」
「それは私共が決めることではありませんので……」
「債権として売り買いしていたものを、突然販売だけにして、買取を拒否したからおかしなことになっているんじゃないですか。もし日本の全部の企業の貸借対照表の資産の部から電話加入権が消えたら、どう責任を取るつもりですか?」
「……」

 公益財団法人・国土地理協会が、全国4億件のすべての固定・携帯電話番号の使用状況を毎月調査して蓄積したデータベースの情報を販売していることをご存知でしょう。ホームページに堂々とそう書いてあります。信じられますか。全国4億件のすべての固定・携帯電話番号の使用状況を毎月調査して蓄積したデータベースって、一体どうやれば、そんなデータが集められるというのでしょう。結論から言えば、ありとあらゆることをやるんでしょうね。どこの誰べえが電話を使ったか使っていないのか、使ったならどう使ったのか知っている訳ですから、あまり利用されていない回線に関しては時々非通知ワン切り電話をかけてメンテナンスしているのではないでしょうか。
そうでないとしてもこの組織は犯人を知っている筈です。
 理由は?
 それは私の固定電話がNTT回線ではない時期、おとくラインにも非通知ワン切り電話がかかってきていたからです。それからピッチにも、ヤフー携帯にも。少なくともNTTの単独犯では有り得ません。もっと悍ましいもの、けして正体を明かすことのないものが潜んでいることでしょう。
 協会というものはそもそもおかしな組織です。特に公益を語る協会はおかしなものです。公益財団法人公益法人協会をご存知でしょうか。この公益財団法人公益法人協会のホームぺージ内で全国の協会を検索できるのですが、いくつかの団体が非常に近いところですみわけをしていることに気が付きます。公正取引協会、修学旅行研究協会、魚アラ処理公社……地震研究協会と地滑り研究協会は共同研究できそうに思いませんか。
 そういえば携帯電話をケータイと略すことに抵抗がある人でも『源氏物語』を『源氏』と略しますね。『源物』とか『源語』という表記は記憶にありません。
 不思議なことはいくらでもあります。
 大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん、です。
 ご存知でしょうか、自転車って自動的に走るものではないんですよ、下駄箱には靴しか入っていません。筆箱にはシャープペンと蛍光マーカーが入っています。横須賀は横浜にはありません。出師たるトランスフォーメーションはDTではなくDXと略します。ディタンスもDXと略します。
 私はある日『ノルウェイの森』の続編が書けないものかと思いつきました。『ノルウェイの森』では永沢さんがなめくじを食べる説明のシーンがありますよね。二三匹つるんと呑めるとか。あれ、間違っているんです。なめくじのぬるぬるは舌にへばりつくんです。なめくじは確かにエスカルゴの仲間ですが、ニンニクと醤油で味付けをして食べた方が美味しいんです。その訂正がしたくて本屋で『ノルウェイの森』のラストシーンを確認しました。そして翌日になってふと、ある言葉が浮かんできました。それは「ぼくが電話をかけている場所」…つまり、レイモンド・カーヴァーの短編小説の題名で、村上春樹が最初に翻訳した短編集のタイトルです。
 そう、『ノルウェイの森』は主人公が電話をかけている場所が分からなくなる状況で終わっています。もしも『ノルウェイの森』に続編があるなら、「ぼくが電話をかけている場所」から始めなければなりません。
 その『ぼくが電話をかけている場所』の中公文庫が今手元にあります。
今にして思えば何故『ノルウェイの森』を読んだときに気が付かなかったのかと不思議になるくらいシンプルなつながりなのですが、その時は本当に気がつきませんでした。
 それから『ノルウェイの森』に代わる題名について考えると…どうもビートルズの曲名から探したくなりました。『ノルウェイの森』の続き…『抱きしめたい』じゃないな、『イエスタディ』は『女のいない男たち』で使用済み、ん『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハート・クラブ・バンド』でなんとかならないか…
 そう思いYouTubeで『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハート・クラブ・バンド』を探してみました。
 すると何故か、https://www.youtube.com/watch?v=j7JyZmcl8Gw
 ファブ・フォーと称するコピーバンドの演奏が一番上に上がってきます。
 え?
 ファブ・フォーって、かわぐちかいじの『僕がビートルズ』に登場する架空のコピーバンドじゃないの? と驚きました。 
 検索すると漫画は2010年に書かれていて、実在のコピーバンド、ファブ・フォーは2013年に来日して演奏していることが解かりました。
 いや、解かりません、解かりません。
 この原作とコピーバンドの関係はどうなっているのでしょうか?
 コピーバンドが先で、かわぐちかいじさんが権利関係を整理して、漫画を描いたのでしょうか?
 反対に『僕がビートルズ』の影響で、コピーバンドが結成されたのか?
 『タイガーマスク』みたいに?
 単なる偶然なのでしょうか?
世の中解からないことばかりです。三十年以内に八十パーセントの確率で大地震が起きることが予測されて、もう何年になりますかね。それでも三十年ローンを組んで東京に家を買う人がいます。
 WayBackMachineであなたのことを調べていくうちに、怖ろしい情報に突き当たりましたよ。そしてあなたが「便器株主」と渾名されている本当の理由がやっと理解できました。あなたのお父さんが真冬の屋外の汲み取り便所の壺で凍え死んでしまったことも本当に不思議ですね。真冬の便器の中であなたのお父さんは一体何をなさっていたのでしょうか?


唐突ではあれ、私はここで、『信仰義認の教義』(宗教改革の基本原理)の啓示を便所の中で受けたというルター、そして、糞便と悪魔と資本主義文明との本質的な同一性を見抜いていたというルターのことを思い出さずにはいられない。N.O.ブラウンによれば、ルターにとって、悪魔とは、糞便的イメージこそがふさわしいもの、『肛門性の具体的な置き換えとみなされ』ているという。そして、この悪魔こそ、『この世の君主』であり、資本 主義的な文明の中に自らを偽装して偏在しているというのだ。
(『エロスとタナトス』/N..O.ブラウン著/秋山さと子訳/1970年/竹内書店/p.58)


そういえば先週、横濱海軍カレーを食べましたよ。
中々スパイシーで美味しかったですよ。
★★★★☆
まだ、日本には海軍があったのですね。
もし私のメールが正しければ、Aは存在します。


 それから、最後に一ついいですか。葛西さんはご自分について、「馬鹿」とお書きになっていますが、私はそのことに憤って、それを繰り返し何度も読み、考えました。何故葛西さんがご自分を馬鹿と感じたかということに関して、「馬鹿」という言葉の定義そのものに関しては、私も十分存じ上げているので、そのようにお書きになった存念を伺いたいのです。
 同じように文学は何でもありで、いわく言い難いものを捉える試みだと考えている私に対しても、差別的な言葉だと私は思いますが、もとよりキンドル作家として、言葉に携わる仕事をなさっているわけですから、何故そういう言葉を書いたのかということを伺いたいと思います。
お返事をお待ちしております。

                      了



[参考文献]
『偶然性・アイロニー・連帯』(リチャード・ローティ著/岩波書店)
『人類の知的遺産59 ベルクソン』(市川浩著/講談社)
『世界の名著53 ベルクソン』(責任編集澤潟久敬/中央公論社)
『ルイ・アルチュセール 行方不明の哲学者』(市田良彦著/岩波書店)
『天皇家の食卓 和食が育てた日本人の心』(秋場龍一著/株式会社DHC)
『楽しみと日々』(マルセル・プルースト著/窪田般彌訳/福武書店)














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