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2024年1月の記事一覧
君の話は不自然だ 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか⑦
これが結びである。まあ、でしょうなあ、と思わせ、しかし、いやいやいや、なんも説明しとらんぞ、と思う。
・二十年間どうやって生活していた?
・自由にうろうろさしてもらえるの?
・性欲の処理は?
・どうやってこの部屋に入ってきた?
・楊柳観音との因縁は?(素封家N氏の別荘にまで出入りしていたの? 結婚前に?)
・で、実践倫理学の先生に何んと言って貰いたいの? そうだよね、みんなそうだよと同意して
それにしては随分余裕がありますね 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか⑥
昨日は玄道の嘘を一つ突き止めた。これは案外重要なことだ。嘘つきは嘘をごまかすために嘘を重ねるものだ。嘘というのは言わばフィクションであり、記憶にはないことなので、頭が良くないと積み上げられない。本当のことなら見たままを語ればいいからそんなに頭が良くなくても語りうる。しかし嘘を語り続けるには、破綻なくフィクションを構成する創造性と積み上げてきた嘘を記憶する能力が必要になる。一番の嘘つきは小説家であ
もっとみる玄道は嘘をついている 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか⑤
誰かの空想がたまたま実際の出来事を言い当てることがありうる。たまたまとはそういう性質を持っている。同じクラスに同じ誕生日の人がいると驚くが、実はそれはありふれたことなのである。おそらく『朧月猫の草紙』と『吾輩は猫である』の類似もたまたまである。エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』もたまたま似たのであろう。
吉田六郎の『(漱石の「猫」とホフマンの「猫」)「吾輩は猫
自覚を超越したもの 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか④
多くの人は書いていないことを読む。それはすべての文章が物事のほんの一部しか語りえず、常に場に寄りかかり、省略されていて、不十分でしかなく、やむを得ず脳が情報を補いながら読ませているからだ。多くの書き手はそのことを多少なりとも知っていて、場合によってはその仕組みを利用して書く。仄めかしや匂わせというものはそうした種類のレトリックだ。
とにかく悲惨なことは起きた。地震で潰れた家の下敷きになった自分
握り飯の具は何か? 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか③
なるほど。
ここにはどんな形にせよ、自らが「小説」なるものを書いた経験があるものならば、必ず気が付くであろうポイントがある。気が付かなかったとしたらあなたの書いているものは恐らく「小説」未満の何かである。
・「中村玄道と名のった人物は」という書き方は「中村玄道は」という書き方に対して一歩遠慮していて、この男が中村玄道であるかないかの判断を保留にしている。いわゆる「自称・中村玄道」という扱い
二段階で過去へ 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか②
大正八年の十年前は明治四十二年頃。明治四十五年の『彼岸過迄』では田川敬太郎の下宿に赤々と電灯がともる。しかし明治四十一年に書かれた『三四郎』の下宿ではまだ電気を引いておらず、翌年の明治四十二年の『それから』の代助の家の居間にようやく電燈がともる。翌年の『門』の宗助の家にも電燈はある。しかし代助の家にあった電話はない。芥川はここで「ランプの前に書見」という様子を書いている。これが明治二十八年の漱石
もっとみる芥川龍之介の『河童』をどう読むか⑲兼夏目漱石の『こころ』をどう読むか480着物という概念がなければ全裸もない
これは素朴なトートロジーの確認のような話でありながら、文学的には必ずしもそうではない。文学においては出来る出来ないで裁かれない曖昧な領域が残されることがありうるからだ。なんなら文学においてはどんなことでもありうる。
ここで河童たちは着物というものを知らずにいる、とされていて河童たちは眼鏡はかけていたとしてもいかにも全裸であるかのように書かれてることから、この国の「特別保護住民」たる人間の「僕
そこは奥の細道の終点だ 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか①
冒頭で設定を説明する。芥川にしては珍しく律儀なやり方である。
[何時] 今から十年ほど前
[どこで] 岐阜県下の大垣町
[誰が] 実践倫理学の講師を任された「私」
[何をした] 偶然悲惨な出来事の顛末を耳にした。
なるほど。この話は以下に「悲惨な出来事」が書かれていて、我々はその悲惨な出来事を読めばいいということになる。解りやすい構成だ。
しかしながらおそらく「実践倫理学」と
鼠だって生き物さ 芥川龍之介の『枯野抄』をどう読むか②
昨日は何故惟然にこうした心境、つまり次に死ぬのは自分かも知れないという恐怖、を与えたのかが判然としない、という疑問点だけ取り出した。
作品構成上そこが肝だろうというのにどうも意味がつかめない。これは惟然について調べれば調べるだけ解らなくなるところだ。
むしろ惟然という俳人に関して全く情報がない人が読めば「そんな人もいるかもしれないね」というところなのかもしれないが、芥川はまさかそんな人かい
いぜんと読んでね 芥川龍之介の『枯野抄』をどう読むか①
大正七年の作である。偽書『花屋日記』を粉本としていることから、既にいくつかの誤りも指摘されている。しかし見事な文章である。どんな文章?
脳の血管に詰まったゴミのようなものが剥がれ落ちて流れていくような感じさえする。着飾った美文とは違う。言葉の連なりが心地よく揺らぐ。元禄七年という遠い昔を目の前に展開させて、グーグルストリートビューの人形をつまんで地面に落としたようにして一回転させてみる。無駄
フィクションの可能性 芥川龍之介の『影』をどう読むか⑤
昨日はタイプライタアに対する解釈を示し、「白いスバルフォレスターの男」のような怨念がおんねんということを書いた。そもそも『影』が書かれた時点では和文タイプライタアというものは発明されており、ほとんどの読者が和文タイプライターを知っていたはずなのに、英文タイプライタアで日本語が打たれていることはおかしいという問題はこれまで地球上で誰一人問題にすらせず、議論されても来なかったように思う。
近代文
ワープロはまだない 芥川龍之介の『影』をどう読むか④
あなたに残された時間はあとどのくらいですか?
この問いには誰しもが明確な答えを持たないだろうが、一定の年齢の人間ならば、最大限に見積もってこれくらいという試算はできるだろう。しかし必死にカートのようなものを推して歩くお婆さんを見て、彼女が夏目漱石の『こころ』を再読できると思うだろうか。悪いことは言わない。早くした方がいい。先延ばししても後悔するだけだ。多分これが最後のチャンスだ。あなたの人生
靴だけは履いている 芥川龍之介の『影』をどう読むか③
昨日は『影』に細かなサスペンス要素が仕込まれていて小さな『薮の中』のような食い違いの演出があり、なおかつ『浅草公園』に見られたようなカメラワークの萌芽があることを確認した。
元々『羅生門』あたりからズームインやスイッチングなどのカメラワークは駆使してきたわけだからこれは何も今更驚くことでもないが、あまり論われることのない作品にも芥川らしさがちゃんとあるという話だ。
こういう書き方がいかに
ゆらゆらゆれる 芥川龍之介の『影』をどう読むか②
芥川はこの頃他人の女房とセックスがしたかったのではないか、と書いたところで昨日はいったん終わりにした。
つい勢いで書きすぎると何か見落としをしてしまいそうなので、少し時間を置いた。
インターネットを通じていろんな人の書いているものを読んでいくと、本人は相当自信をもっていて、自分のことを教養のある読書家だと任じている風な人が、ものすごく初歩的な勘違いをしていて驚く。しかしそれは商業出版され