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それにしては随分余裕がありますね 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか⑥

 昨日は玄道の嘘を一つ突き止めた。これは案外重要なことだ。嘘つきは嘘をごまかすために嘘を重ねるものだ。嘘というのは言わばフィクションであり、記憶にはないことなので、頭が良くないと積み上げられない。本当のことなら見たままを語ればいいからそんなに頭が良くなくても語りうる。しかし嘘を語り続けるには、破綻なくフィクションを構成する創造性と積み上げてきた嘘を記憶する能力が必要になる。一番の嘘つきは小説家である。

 ところがいよいよその運びをつけると云う段になりますと、折角の私の決心は未練にもまた鈍り出しました。何しろ近々結婚式を挙げようと云う間際になって、突然破談にしたいと申すのでございますから、あの大地震の時に私が妻を殺害した顛末は元より、これまでの私の苦しい心中も一切打ち明けなければなりますまい。それが小心な私には、いざと云う場合に立ち至ると、いかに自ら鞭撻しても、断行する勇気が出なかったのでございます。私は何度となく腑甲斐ない私自身を責めました。が、徒らに責めるばかりで、何一つ然るべき処置も取らない内に、残暑はまた朝寒むに移り変って、とうとう所謂華燭の典を挙げる日も、目前に迫ったではございませんか。 

(芥川龍之介『疑惑』)

 なんということなしに漱石の『こころ』の先生の葛藤を思い起こさせるところである。自分は地震の時、梁の下敷きになった女房を殺してしまった。それも生きたまま焼かれるのが不憫だから殺したつもりながら、どこかで最初から女房を殺すつもりでいて、たまたま地震という機会をとらえて殺してしまったようにも思えて良心の呵責に耐えない。自分はこんな人間なので再婚する資格はないものと思う……。こんなことをさらっと言ってきたら逆にそいつは本当のサイコパスだ。

「だったらなんで自分や身内がされたら耐えられないようなことを、他人にはできるんだよ」
「そのふたつにはまったく関係がないだろう? 妹にはされたくないことを他人にしちゃいけないって、それ、なんで?」

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 川上未映子の小説にはたまに箍の外れた人間が出てくる。それに比べれば芥川の小説に出てくる人間の方がお行儀がいい?

 しかし中村玄道が嘘つきである可能性を考えると、少なくとも百瀬の方が正直ではあると評価できなくもない。実践倫理学的には「社会というものを前提にしないと生きていけない人間としての根本的なものが欠けている」としても自分が自分だけを贔屓するのは当然であり、決して相手の立場に立って考えることはできないという人間が一定数存在することもまた確かだからだ。

 現にこのnoteでも運営やクリエイターのことなどどうでもよくて、ただ無料記事だけを読んでいる人が殆どではあるまいか。そんな人が百瀬を批判できるものであろうか。自分がされては嫌なことは他人にもしてはいけないというようなルールは決して守られていないのが現実なのではなかろうか。ただそこをあからさまに言わないで、さも道徳的にふるまっているように見せている人間がいたとしたら、そんな人が一番怖い。

 随分前の事になるがスーパーでチャーシューの試食販売をやっていたら外国人の家族が試食台を取り囲んで根こそぎ食べていた。流石に引いた。しかし、そういうことがnoteでは平然と行われていないだろうか。


 さて、ここにも中村玄道の小さな嘘が隠れているような気がする。「小心な私」? はて、いざとなれば女房を一撃で叩き殺すことの出来る男が「小心な私」?  結局何の稽古か解らぬが出稽古の家庭教師ができる男が「小心な私」? 稽古が柔道でも剣道でも胆力がなくては師範代までは進めまい。なのに「小心な私」?

 他人の家に夜、案内も請わずに入ってきて「小心な私」? 

 それにやはり気になるのはナラテイブだ。「目前に迫ったではございませんか。」はやはり講談の語りで、扇子をペペンペンペンと打つところ。何を話を盛り上げようとしているのかと、冷静に読めば違和感のあるところ。逆に話に引き込まれていると気が付くまい。

 私はもうその頃には、だれとも滅多に口を利きかないほど、沈み切った人間になって居りました。結婚を延期したらと注意した同僚も、一人や二人ではございません。医者に見て貰ったらと云う忠告も、三度まで校長から受けました。が、当時の私にはそう云う親切な言葉の手前、外見だけでも健康を顧慮しようと云う気力さえすでになかったのでございます。と同時にまたその連中の心配を利用して、病気を口実に結婚を延期するのも、今となっては意気地のない姑息手段としか思われませんでした。しかも一方ではN家の主人などが、私の気鬱の原因を独身生活の影響だとでも感違いをしたのでございましょう。一日も早く結婚しろと頻りに主張しますので、日こそ違いますが二年前にあの大地震のあった十月、いよいよ私はN家の本邸で結婚式を挙げる事になりました。

(芥川龍之介『疑惑』)

 どうも言い訳がましい。

 まるで自分には何の責任もないような言い方だ。

 全部周りのせいにしている。

 どうせ姑息な男なのだから意気地のない姑息手段を使えばいいのではないかと思う。機械的にスキを押して何か小遣い稼ぎでもできないものかと考えているような人には一生解らないだろうが、姑息な人間というものは周囲から「あいつは姑息な奴だ」とはっきり知られているものだ。

こ‐そく【姑息】
(「姑」はしばらくの意)一時のまにあわせ。その場のがれ。夏目漱石、彼岸過迄「其日其日を―に送つてゐる様な気がして」。「―な手段」「因循―」

広辞苑

 広辞苑に「その場のがれ」と書かれている。まさに中村玄道のこの二年間は姑息なものでしかなかった。ごくシンプルな話、医者にかかり、「先生、私は病気ではありません。実は先の地震の時、梁の下敷きになった女房を殺してしまったんです。それも生きたまま焼かれるのが不憫だから殺したつもりながら、どこかで最初から女房を殺すつもりでいて、たまたま地震という機会をとらえて殺してしまったようにも思えて良心の呵責に耐えません。ですから再婚話が進む中鬱々と苦しんでいるのです」と正直に話したとしたら、普通の医者ならば、「なるほど。いつからそうおもうようになりました?」と質問するだろう。

 自分は殺人者かもしれないという幻想を持つ人は一定数存在する。勿論深刻な症状として現れれば神経衰弱と診断され、病気を理由に結婚は延期されたであろう。
 師範学校を首席で卒業したのであれば、それくらいの常識はあったはずだ。このようなやり方で芥川は中村玄道という男をどんどん怪しくさせていく。

 連日の心労に憔悴し切った私が、花婿らしい紋服を着用して、いかめしく金屏風を立てめぐらした広間へ案内された時、どれほど私は今日の私を恥しく思ったでございましょう。私はまるで人目を偸んで、大罪悪を働こうとしている悪漢のような気が致しました。いや、ような気ではございません。実際私は殺人の罪悪をぬり隠して、N家の娘と資産とを一時盗もうと企てている人非人なのでございます。私は顔が熱くなって参りました。胸が苦しくなって参りました。出来るならこの場で、私が妻を殺した一条を逐一白状してしまいたい。――そんな気がまるで嵐のように、烈しく私の頭の中を駈けめぐり始めました。するとその時、私の着座している前の畳へ、夢のように白羽二重の足袋が現れました。続いて仄かな波の空に松と鶴とが霞んでいる裾模様が見えました。それから錦襴の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲の櫛笄が重そうに光っている高島田が眼にはいった時、私はほとんど息がつまるほど、絶対絶命な恐怖に圧倒されて、思わず両手を畳へつくと、『私は人殺しです。極重悪の罪人です』と、必死な声を挙げてしまいました。………

(芥川龍之介『疑惑』)

 え? 金?

 お金が欲しいの?

 教員として高給貰っているとか言ってたよね。

 それなのにまだ金が欲しいの?

 それより肉体的に欠陥のあった小夜とできなかったことをしたい方が先じゃないのかね?

 それに財産とか言っているけれど婿に入るの?

 長女はどうなっている?

 幼いにしろ惣領息子はいるわけだよね。それもまた殺すつもりなの?

 それからやはり気になるのは「それから錦襴の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲の櫛笄が重そうに光っている高島田が眼にはいった時」って、ぎりぎりのところに追い詰められて煩悶している人間の語りではないよね。

 そういうものが目に入らないのが追い詰められた人間じゃないのかな。例えば電車でうんこが漏れそうなときに「それから錦襴の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲の櫛笄が重そうに光っている高島田が眼にはいった時」ってなるかね。ならないよね。ただひたすら神に祈るよね。神様お願いです。もし間に合えば、ずっといい子でいますって。「仄かな波の空に松と鶴とが霞んでいる裾模様が見えました」って本当に冷静な人にしか言えないよね。

 やはり中村玄道は講談師じゃないの、と思ったところで今日はここまで。

[附記]

 芥川だから下手な文章は書けない、ということでは決してない。

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