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川上未映子の『あなたの鼻がもう少し高ければ』のどこがこわいか?

 これは男性が読めばどストレートに怖い。百貨店の地下のフレッシュ・フルーツ・ドリンクコーナーで死んだ魚のような眼をしてグリーン・スム―ジーを飲んでいるお姉さんのような怖さである。いわゆるwithoutの方の、ヘミングウェイの、川上未映子版『男のいない女たち』といった「むせかえるような女くささ」の溢れた作品だ。

 またコロナ禍の二十一歳の女性のSNSやらギャラ飲みといった2022年の生々しい現実が捉えられながら、『青かける青』で引っ掛けるかのように主人公の名前は「トヨ」といかにも古くさい。夏目漱石の嫂トセみたいな字で、読みは「トヨ」。デパコスでもうツィッター検索した世代なら、間違いなく「トヨ」でも何の略と検索していただろう。

 そして気が付く。

 誰にも頼まれてなどいないのに、あるいは自分で自分に課しているわけでもないのに、感想というものは常にやってくるからしんどいものだ。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 この書き出しからして、わざわざ川上未映子の『あなたの鼻がもう少し高ければ』を覗き込んだ自分がたしなめられていることに気がついてぞっとする。カメラを向けたつもりが向けられている。

 どれどれ川上未映子の『春のこわいもの』でも読んでやろうかとメンションする気満々で開いた一頁目から、withoutされたような感覚のまま、おおよそ今にも書き文字として破綻しそうな流行り言葉を交えた現代口語文が、ぎりぎりなんとか文章として踏み留まるという一種の曲芸のような、あるいはどこかインチキ臭い言葉の連なりに圧倒されていく。それは大昔庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』で駆使されたティーンエイジスカースそのもので、三島由紀夫なら、こうメンションしただろうか。

過剰な言葉がおのづから少年期の肉体的過剰を暗示し、自意識がおのづからペーソスとユーモアを呼び、一見濫費の如く見える才能が、実はきはめて冷静計画的に駆使されているのがわかる。

(「若さは一つの困惑なのだ」『決定版 三島由紀夫全集30巻』新潮社 2004年)

 実際『あなたの鼻がもう少し高ければ』は「女性の外見の美しさ」というものを巡る困惑の物語のようでさえある。しかしそれはけして「美人作家」が世界的なポリティカルコレクトネスに抗ったルッキズム賛美などではあり得ないのだ。


 大阪のおばちゃんのタフな視線が捉えた「本当の自分になりきれていない二十一歳の女性」の姿を覗き込もうとするとすると、突然画面がミラーになり「おぞましい」自分の姿が大写しにされるような、そんな「こわさ」が書かれた作品だ。

 勿論作中で男性は一切描かれない。この居心地の悪さ!

 たまたま入ったカフェの店員も女性で、トヨの一人称で綴られていた物語は最後の最後、この女性店員の心の中を覗き込む話者の言葉で締めくくられる。

 客席から、女たちの笑い声が聞こえて顔をあげる。そのとき彼女はたしかにトヨとマリリンを見たけれど、ふたりの姿は目に映らない。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 彼女はトヨの観察者ですらなく、なんのメンションも持たない。トヨを覗き込んでいた私は、自分の「おぞましさ」を突きつけられる。それはおそらく気持ち悪いことなのだ。いくら小説に書かれているからと言って、二十一歳の女性のギャラ飲みの話を立ち聞きしようとは、それは完全に間違った振舞で、確実に恥ずべきことなのだ。

 悪気はなかったと弁解しても遅い。だから川上未映子はこわい。



[余談]

 真面目な話、三島なら『あなたの鼻がもう少し高ければ』は『金閣寺』の内翻足の柏木を意識したのかね、と問うかもしれない。クレオパトラはその美貌によって世界を変容させたと言われる。『あなたの鼻がもう少し高ければ』ということは世界を変容させることのできない女の話なのだ。

 トヨと世界とを対立状態に置く恐ろしい不満は、世界かトヨのどちらかが変われば癒される筈だが、整形を夢見る夢想をトヨは憎み、とてつもない夢想ぎらいになった。しかし世界が変わればトヨは存在せず、トヨが変われば世界は存在しないという、論理的につきつめた確信は、却って一種の融和に似ている。ありのままのトヨがギャラ飲みに誘われないという考えと、世界とは共存し得るからだ。そしてブサイクが最後に陥る罠は、対立状態の解消ではなく、対立状態の全的な是認という形で起こるのだ。かくてブサイクは不治なのだ……。

 なんて話としても読むことができる。

 無理にそう読む必要はないけれど。


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