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三島由紀夫の『金閣寺』を読む③   ものすごい屁理屈

 吃音の溝口が内翻足の柏木に「片輪同士で友達になろう」とする魂胆を見抜かれるくだりは、いかにも才気煥発といった印象が強く、さすが太宰の弟子だと感心してしまう。(三島はずっと太宰を批判してきたが、晩年村松剛との対談で、自分は太宰と同じだと認めた。三島由紀夫を太宰治の弟子だというのはおそらく私一人であろうが、小宮豊隆が漱石の弟子なら、三島由紀夫は確かに太宰治の弟子である。)こうしたひねくれた人間の心の読み合いはやはり太宰治が本能的に旨かったが、お人よしのお坊ちゃんであった三島には観念の空中戦という必殺技があり、三島はこうしたものをお勉強でひねり出しているように思える。三島自身はゲイバーで堂本正樹と初めて会った時、堂本の手にサンドウィッチを握らせている。堂本はこのことを「浮浪児でもない私に」と指摘し、三島の訳の分からない人の好さ、を悪意なく記録している。

 これが太宰なら大変なことになってしまうのである。

「あの、お昼につくったのですから、大丈夫だと思いますけど。それから、……これは、お赤飯です。それから、……これは、卵です。」
 つぎつぎと、ハトロン紙の包が私の膝の上に積み重ねられました。私は何も言えず、ただぼんやり、窓の外を眺めていました。夕焼けに映えて森が真赤に燃えていました。汽車がとまって、そこは仙台駅でした。
「失礼します。お嬢ちゃん、さようなら。」
 女のひとは、そう言って私のところの窓からさっさと降りてゆきました。
 私も妻も、一言も何もお礼を言うひまが、なかったのです。
 そのひとに、その女のひとに、私は逢いたいのです。としの頃は、はたち前後。その時の服装は、白い半袖のシャツに、久留米絣のモンペをつけていました。
 逢って、私は言いたいのです。一種のにくしみを含めて言いたいのです。
「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です。」と。
(太宰治『たずねびと』)

 そしてまたやすやすと内翻足の柏木に「絶対に女から愛されない」と語らせることができるのも三島らしさではある。商売女を買い、五体の調った男と同じ資格で迎えられることを自己冒涜だと考える柏木の理屈は、まだ飛躍しない観念の積み上げである。ここから三島は飛ぶ。焼きホタテを食べた長州力より飛ぶ。

 われわれと世界とを対立状態に置く恐ろしい不満は、世界かわれわれかのどちらかが変われば癒される筈だが、変化を夢見る夢想を俺は憎み、とてつもない夢想ぎらいになった。しかし世界が変われば俺は存在せず、俺が変われば世界は存在しないという、論理的につきつめた確信は、却って一種の融和に似ている。ありのままの俺が愛されないという考えと、世界とは共存し得るからだ。そして不具者が最後に陥る罠は、対立状態の解消ではなく、対立状態の全的な是認という形で起こるのだ。かくて不具は不治なのだ……。(三島由紀夫『金閣寺』『三島由紀夫集 新潮日本文学45』所収、新潮社、昭和四十三年)

 あえてこんな箇所を書き抜いたかと疑われかねないので少し弁解しておくと、中動態を巡る議論に関して私はこんな ↓ 本も読ませてもらっているので社会的障壁とか障害の社会モデルみたいな話も一応理解している。その上で三島の偏見を否定するだけではなく、この三行目の論理の飛翔を見てもらいたいのだ。

 実はこの柏木の理屈の中には、障碍者を治療としようとしてきた古い価値観への反発も見られるのだ。これまでは障碍者が社会に合わせてきたが、今は障害とは個性であるとされ、障碍者を治療するのではなく、むしろ多様な個性が許容されるよう社会や仕組みが変化を求められるようになってきた。柏木は飽くまで対立状態で終わらせているが、対立という理屈そのものは優れて現代的でさえある。

 そしてこんなことを言いだすのだ。

 こんなときに青春(この言葉を俺はひどく正直に使うのだが)の俺の身の上に、信ずべからざる事件が起こった。寺の檀家の子で、その美貌が名高く、神戸の女学校を出ている裕福な娘が、ふとしたことから、(三島由紀夫『金閣寺』『三島由紀夫集 新潮日本文学45』所収、新潮社、昭和四十三年)

 はい、どうしたでしょう?

 いやいや、『お嬢さんは恋愛修行』『青春バンザーイ!』である。この後には「俺に愛を打明けた」とある。若山三郎か。ここで神戸はやはり「しゅっとした感じ」で選ばれた地名であろうか。

 無論三島の観念の空中戦はまだ終わっていない。彼女は並外れた自尊心故、自信のある求愛者を受け入れるわけにはいかないと柏木は推量する。まあ、そういう女の人はいるだろう。そこで逆に自惚れない相手として柏木に目を付けたのだとしたところで、やはり観念は飛躍している。このが普通はない。これを三島は「誠実」と書くのだから凄い。柏木は正直に女に「愛していない」と告げるが女は嘘だと決めつける。自分を愛さない男がいるとは想像外だからだ。(しかし浜辺美波さんより、伊藤沙莉さんの方が好きだという人もいるだろう。浜辺美波さんより高嶋ちさ子さんの方が……)彼女はついに柏木の前に体を投げ出す。柏木は不能だった。自分の足が彼女の足に触れることを思って不能になったのだ。

 そして柏木は六十過ぎかと思われる老いた寡婦に対して相似の仮構を発明し、世界の外に投げ出され、仮象の中へ無限に顚落しながら、見られる実相に対して射精する。それ以来安心して「愛はあり得ない」と信ずるようになる。飛躍している。

「愛」に関する迷蒙を一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に結びつこうとする迷蒙だと。━やがて俺は、決して愛されないという俺の確信が、人間存在の根本的な様態だと知るようになった。これが俺の童貞を破った顛末だよ。(三島由紀夫『金閣寺』『三島由紀夫集 新潮日本文学45』所収、新潮社、昭和四十三年)

 いや、ものすごい屁理屈だ。しかし何故だろう。これくらいの屁理屈に揺さぶられることが快感でなくもない。いや、快感である。凄い悟っちゃっているけど、若い美人に怖気づいて、おばあちゃんとシタってことだろ、とDeepLなら翻訳するかもしれない。

陶冶  才能・性質などをねって作り上げること。

女かい? ふん。俺にはこのごろ、内翻足の男を好きになる女が、カンでちゃんとわかるようになった。  …いうねえ。

耳門 くぐり 

裕り ゆとり

天理教弘徳分教会  また天理教が出てきた。

観光季節

沃度丁幾 ヨードチンキ

杜鵑花 さつき 皐月とも杜鵑でもさつき

闇でしか手に入らないサントリイ・ウイスキー

だらしない口もとも、いつものように、薄くあいていた。その唇と唇との薄い隙間から、細かい鋭い歯並が、さえざえと乾いて白くのぞかれた。それは小動物の歯のような感じがした。(三島由紀夫『金閣寺』)

 口元のだらしない女か、確かに魅力的だ。

知悉 ことごとく知っていること。細かい点まで知っていること。

いのこずちの実 いのこづち これは勝手にひっつく。

オナモミ 葈耳、巻耳はよくセーターに投げて引っ付かせていたな。

後小松帝の宸筆

月のあたら夜   可惜夜  明けてしまうのが惜しい夜
万葉集だよ。古いねー。


 それにしても音楽の美とは何と不思議なものだ! 吹奏者が成就するその短い美は、一定の時間を純粋な持続に変え、確実に繰り返されず、蜻蛉のような短命の生物さながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮辱して見える美もなかった。(三島由紀夫『金閣寺』)

 はい、でてきましたよ。音楽。なんだか認めています。褒めているようです。しかし「生命そのものの完全な抽象であり、創造である。」はいけませんね。三島らしくなく、飛躍がない。捉えきれてないという感じしかしない。

木賊 とくさ

親眷 しんけん 身内。親族。眷族。眷はかえりみる、部首はめ、めへん。

 そしてまた「南泉斬猫」の公案が出てくる。

 柏木はその猫はたとえようもなく美しかったと解釈している。ちらりと酒鬼薔薇君が思い浮かぶ。猫が美の塊だとも言う。美というものは虫歯のようなものだとも。この観念は飛躍しかけて飛躍しない。猫を切ったことは安易な解決だと趙州は頭に履をのせたのだという程度に留まる。この解釈はふりに見える。おそらくもう一度溝口の中で問い直されるのではないかと期待される。

 今日はここまでにしよう。

 喞ち言 かこちごと 今回は字を変えて来たな。


【余談】 昔の金閣寺

 何故か去年の今頃togetterで話題になった記事。今の金ぴかの金閣寺はむしろ下品にさえ思える。こちらを眺めながら『金閣寺』を読むと味わいが全然違ってくる。

 それにしても何故去年の今頃?


【余談】最近野鳥が増えたような気がする

 最近野鳥が増えたような気がする。昔は見なかった野鳥が結構見られる。姿は見えないが鳴き声が聞こえる野鳥もいる。ハクセキレイが遠慮なく走り回り、ムクドリ(くちばしがオレンジ色)、ツグミ(おなかがへびがら)がわずかな木々に集い、コゲラ(せなかがしましま)がギーと鳴く。

 正体の解らない鳥もいる。ウーチョイ、ウーチョイと鳴く鳥がいる。ネットで調べても正体は解らない。これでは江戸家猫八も商売あがったりだ。

 ちがうなあ。
 



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