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フィクションの可能性 芥川龍之介の『影』をどう読むか⑤

 昨日はタイプライタアに対する解釈を示し、「白いスバルフォレスターの男」のような怨念がおんねんということを書いた。そもそも『影』が書かれた時点では和文タイプライタアというものは発明されており、ほとんどの読者が和文タイプライターを知っていたはずなのに、英文タイプライタアで日本語が打たれていることはおかしいという問題はこれまで地球上で誰一人問題にすらせず、議論されても来なかったように思う。

 近代文学2.0の必要性はここにある。

 そして昨日は久々に漱石の『こころ』論をアップデートした。『こころ』は失敗作だと決めつける前にまだまだやるべきことはたくさんあるということだ。同じことは芥川の『奇怪な再会』にも『蜘蛛の糸』にも言える。ここには何のトリックもない。ただ丁寧に読む。それだけで答えに近づくことができる。あるいは近代文学2.0をやっていればお金は自然に入ってくる。皆さんにお金がないのは、近代文学2.0をやらないからだ。

さて芥川は陳彩にどう始末をつけるだろうか、と昨日書いた。

 何分かの沈黙が過ぎた後、床の上の陳彩は、まだ苦しそうに喘ぎながら、徐ろに肥った体を起した。が、やっと体を起したと思うと、すぐまた側にある椅子の上へ、倒れるように腰を下してしまった。
 その時部屋の隅にいる陳彩は、静に壁際を離れながら、房子だった「物」の側に歩み寄った。そうしてその紫に腫上った顔へ、限りなく悲しそうな眼を落した。
 椅子の上の陳彩は、彼以外の存在に気がつくが早いか、気違いのように椅子から立ち上った。彼の顔には、――血走った眼の中には、凄まじい殺意が閃いていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見る内に、云いようのない恐怖に変って行った。
「誰だ、お前は?」
 彼は椅子の前に立ちすくんだまま、息のつまりそうな声を出した。
「さっき松林の中を歩いていたのも、――裏門からそっと忍びこんだのも、――この窓際に立って外を見ていたのも、――おれの妻を、――房子を――」
 彼の言葉は一度途絶えてから、また荒々しい嗄れ声になった。
「お前だろう。誰だ、お前は?」

(芥川龍之介『影』)

 やっぱり陳彩は背が高いのではなく横に大きいのか。

 リアリズム小説では提示しえない或哲学的な問題をここで芥川は持ち出している。永井均の比類なき〈私〉も平野啓一郎の「分人」も言葉遊びに過ぎず、人は場合によっては生きたままの生まれ変わりのような別人格としての自分と対峙することがあり得るのではないか、とほんのり幽かに『影』は問うている。この問題は幻覚としてのドッペルゲンガーとして実際に後の芥川龍之介に突き付けられる生々しい呪いのようなものでさえあるけれど、ここではたまたま書かれた小説の設定に留まる。

 しかし素朴な記憶の問題として、遠い過去の自分は明らかに別人格である。一連なりの記憶などありえないからだ。人は睡眠によって記憶を整理する。厳密に言えば人格は日々刻々と変化している。誰もが保育園児の素直さを保てない。ただそれが何故なのかは解らないが、どうもこの世の中の仕組みとしては過去の自分と現在の自分とが同時存在することができにくいようになっているように思われる。それが本当に不可能なことなのかどうかは私にはわからない。この問題に関してどういうわけか晩年の夏目漱石はできると考えていた節があり、『明暗』においては、こう書いている。

「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも同じ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」
「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」
「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」
お望みなら逢せてやってもいいがね

(夏目漱石『明暗』)

 いかにも軽く引き受けている。まるで知り合いに生きたままの生まれ変わりが何人かいるような口ぶりだ。ここは数々の『明暗』論で完全に無視されているところだ。

 この「生きたままの生まれ変わり」というアイデアは則天去私では説明できない。乱暴な冗談のようでありながら、二人の小林が登場し、そして小林が関と堀の病名を知っているらしいことからここに生きたままの生まれ変わりがあるのではないかと私は考えている。

 無論漱石にどのような根拠があって「生きたままの生まれ変わり」という概念を持ち出してきたのか、正確なところは解らない。ただ多重宇宙が絶対に交わらないという保証もないのだとしたら、「誰だって違った人間になれっこない」とも言い切れないだろう。あるいは現代では多重人格というものが比較的安易に認められている。その一つの人格がもしも誰かと共有されてしまったらどうなるのだろうか。テセウスの船、クローン、考えれば考えるほど分からなくなる。

 それでもここでは芥川は何か根拠があって陳彩を分裂させたわけではなく、あくまでフィクションの可能性として「もしもこうなったらどうなる」と書いているだけなのだと浅く考えてみようか。寝室で妻に何かをした自分と対峙する。「誰だ、お前は?」と自分に向って云うことは簡単だ。鏡を見ればいい。そこには恐ろしく吝嗇な何か醜いものが映っていることだろう。しかし鏡がないとしたら?

 もう一人の陳彩は、しかし何とも答えなかった。その代りに眼を挙げて、悲しそうに相手の陳彩を眺めた。すると椅子の前の陳彩は、この視線に射すくまされたように、無気味なほど大きな眼をしながら、だんだん壁際の方へすさり始めた。が、その間も彼の唇は、「誰だ、お前は?」を繰返すように、時々声もなく動いていた。
 その内にもう一人の陳彩は、房子だった「物」の側に跪くと、そっとその細い頸へ手を廻した。それから頸に残っている、無残な指の痕に唇を当てた。
 明い電燈の光に満ちた、墓窖よりも静な寝室の中には、やがてかすかな泣き声が、途切れ途切れに聞え出した。見るとここにいる二人の陳彩は、壁際に立った陳彩も、床に跪いた陳彩のように、両手に顔を埋めながら………

(芥川龍之介『影』)

 この「見ると」の目線は壁際に立った陳彩のものでもなく、床に跪いた陳彩のものでもない。二人の陳彩を眺められるところにいる誰かの目線だ。目を細く書かれることの多い支那人の眼を敢えて大きく見開かせ、カメラはそこをアップにして、やがてアングルを下げて唇を捉えた。と思えばスイッチしてもう一人の陳彩が床に跪くのを捉える。そして最後に引きの画で部屋全体をアングルに収め二人の陳彩を一つの画に収めるのだ。
 つまりこれは……。

東京。
 突然『影』の映画が消えた時、私は一人の女と一しょに、ある活動写真館のボックスの椅子に坐っていた。
「今の写真はもうすんだのかしら。」
 女は憂鬱な眼を私に向けた。それが私には『影』の中の房子の眼を思い出させた。
「どの写真?」
「今のさ。『影』と云うのだろう。」
 女は無言のまま、膝の上のプログラムを私に渡してくれた。が、それにはどこを探しても、『影』と云う標題は見当らなかった。
「するとおれは夢を見ていたのかな。それにしても眠った覚えのないのは妙じゃないか。おまけにその『影』と云うのが妙な写真でね。――」
 私は手短かに『影』の梗概を話した。
「その写真なら、私も見た事があるわ。」
 私が話し終った時、女は寂しい眼の底に微笑の色を動かしながら、ほとんど聞えないようにこう返事をした。
「お互に『影』なんぞは、気にしないようにしましょうね。」

(芥川龍之介『影』)

 何だ一種の夢落ちかと思った人、あなたは全然分かっていない。ここで「私」は陳とも今西とも名乗っていないのだ。ただ房子の眼を思い出させる女と一緒に活動写真を見ていた私は先ほどの「見ると」と同じ視点を持っていて、陳の物語には参与していないのだ。ただ陳が鍵穴から室内を覗くために床に這うことを笑い、英文タイプライターをカタカタやると日本語が打ち出されるシーンではにやにやしたただの観客に過ぎない。彼は陳が麦藁帽子以外に何を身に着けていたのかを知っていた筈だ。しかし陳の世界には参与できない観客に過ぎない。

 そして彼の隣にいた女はその時は彼が見ていたものとは別の活動写真を見ていたらしい。ただ「その写真なら、私も見た事があるわ。」と訳の分からないことを云う。まるで深田恭子の半ケツなら見たことがあると言わんばかりだ。

 なぜこの女が既に『影』という活動写真を既に観ていて今は見なかったのか、何故「私」はプログラムにない『影』という活動写真を観てしまったのか、この問題が「単なる夢」では片付かないように芥川は「その写真なら、私も見た事があるわ。」と女に言わせている。つまり断固として夢落ちのようなものであることを拒んでいるのだ。

 陳彩が二つに分裂する謎も解かれない。今西がどこまで捏造をしたのかもわからない。それは低い鍵穴や謎の和文タイプライタアのように読者に投げ与えられたままだ。しかしそんなことはどうでもいいんだよな、皆さんにとって文学は「ふーん」するものなのだから。

 そして私は作中最初に現れる「影」の文字が、

 老女は紅茶の盆を擡げながら、子供を慰めるようにこう云った。それを聞くと房子の頬には、始めて微笑らしい影がさした

(芥川龍之介『影』)

 こうして「あらわれる」という意味で使われていることに気が付く。そして寝室の明るい電燈の光の中で掻き消されることのないもう一人の陳がけして本物の陳の影などではないことにも気が付く。暗がりでは見えないけれども、もう一人の陳は確かにいたのだ。そもそも陳彩の彩とは彩のことでそれは光の中にあるものだ。影の中には彩はない。

 あるいは今西のような男は実際にどこにでも存在するだろう。私も今西には会ったことがあり、ひどい目にあわされた。次に今西が現れるのは君の町かもしれない。

[附記]

 よくよく考えるとこれは浮気を疑っても碌なことにはならないという言い訳、自己弁護にも見えなくもない。よくできた言い訳である。

 それから今更だけど、今西がコンサイという中国人である可能性は……。


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