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靴だけは履いている 芥川龍之介の『影』をどう読むか③

 昨日は『影』に細かなサスペンス要素が仕込まれていて小さな『薮の中』のような食い違いの演出があり、なおかつ『浅草公園』に見られたようなカメラワークの萌芽があることを確認した。

 元々『羅生門』あたりからズームインやスイッチングなどのカメラワークは駆使してきたわけだからこれは何も今更驚くことでもないが、あまり論われることのない作品にも芥川らしさがちゃんとあるという話だ。

鎌倉。
 一時間の後陳彩は、彼等夫婦の寝室の戸へ、盗賊のように耳を当てながら、じっと容子を窺っている彼自身を発見した。寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。その中にただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、鍵穴を洩れるそれであった。

(芥川龍之介『影』)

 こういう書き方がいかにも芥川らしい。『羅生門』で云えば、下人が楼に上るところ。

 それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。

(芥川龍之介『影』)

 誰も褒めてくれなかったが、これがなかなか書けないところである。遠景からの寄り。面皰へのフォーカス。話者は下人の動作を説明しないで視覚化している。『影』の方はもう少し凝っていてその映像を陳自身に発見させている。普通はそうはならない。つまりそこには三島由紀夫にはない無意識というものがあるのだ。この我を忘れた感じ、少しく狂気じみた夫のふるまいの中には、妻を寝取られることへの激しい不安が見える。

 しかし読者はこの時既にの伏線から、もしかしたら寝室にいるのは単なるすけこましではなく、目に見えない何者かである可能性もあるのではないかということを頭の隅に置いている。また一方では今西の態度が気になる。今西が唯上司を困らせようとしているだけではないことまでは解っている。ただどこまで直接的に状況に参与しているのかがまだ分からない。

 陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責であった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした

(芥川龍之介『影』)

 普通に考えれば、つまり探偵の吉井の言を信じれば、夫婦の寝室には房子一人がいるだけである。なのに我を忘れて寝室のドアに聞き耳を立てねばならないような何事かがあったというわけである。、

 ……枝を交した松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝の重なったここへは、滅多に光を落して来ない。が、海の近い事は、疎らな芒に流れて来る潮風が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、夜と共に強くなった松脂の匀を嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。
 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透かして見た。それは彼の家の煉瓦塀が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤に蔽れた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。
 が、いくら透かして見ても、松や芒の闇が深いせいか、肝腎の姿は見る事が出来ない。ただ、咄嗟に感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向うへ行くらしいと云う事である。
「莫迦な、この路を歩く資格は、おればかりにある訳じゃあるまいし。」
 陳はこう心の中に、早くも疑惑を抱き出した彼自身を叱ろうとした。が、この路は彼の家の裏門の前へ出るほかには、どこへも通じていない筈である。して見れば、――と思う刹那に陳の耳には、その裏門の戸の開く音が、折から流れて来た潮風と一しょに、かすかながらも伝わって来た。
「可笑しいぞ。あの裏門には今朝見た時も、錠がかかっていた筈だが。」
 そう思うと共に陳彩は、獲物を見つけた猟犬のように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな気色も見えないのは、いつの間まにか元の通り、錠が下りてしまったらしい。陳はその戸に倚りかかりながら、膝を埋めた芒の中に、しばらくは茫然と佇んでいた。
「門が明くような音がしたのは、おれの耳の迷いだったかしら。」
 が、さっきの足音は、もうどこからも聞えて来ない。常春藤の簇った塀の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空に聳えている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこに佇んだまま、乏しい虫の音に聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。

(芥川龍之介『影』)

 ここは「我を忘れて寝室のドアに聞き耳を立てねばならないような何事か」を回想している場面である。要するに、

・停車場から自宅に向かう途中で陳は何者かの靴音を聞いた
・靴音は陳の自宅の裏門へ向かった
・陳の自宅の裏門が開く音が聞こえた
・陳が確かめてみると裏門には確かに鍵がかけられていた
・陳は悲しくなって泣いた
・Adoの顔がばれた

 いや、それは関係ない。陳が泣いたところまでが回想だ。従って陳は何者かの姿を確認していないものの、何者かは裸足ではなく靴を履いていたところまでが確かである。

 しかし「さまよえる猶太人」と異なり、こちらは靴下をはいていたかどうか、あるいは靴以外の何かを身に着けていたかどうかさえ分からない。烏帽子を被っていたとも被っていないとも断言できない。

 つまりその靴を履いていることだけが確かな姿の見えない何者かが、陳の自宅に入って行ったか行かなかったのか、忍び込んだのか招き入れられたのか分からない、そして婆やと爺やが住み込みなのか通いなのか、母屋に寝ているのか離れがあるのか分からない状態なので、読者の方がよほどサスペンス状態なのである。

「房子。」
 陳はほとんど呻くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。
 するとその途端である。高い二階の室の一つには、意外にも眩しい電燈がともった。
「あの窓は、――あれは、――」
 陳は際い息を呑んで、手近の松の幹を捉えながら、延び上るように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、硝子戸をすっかり明け放った向うに、明るい室内を覗かせている。そうしてそこから流れる光が、塀の内に茂った松の梢を、ぼんやり暗い空に漂わせている。
 しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、朧ろげな輪廓を浮き上らせた。生憎電燈の光が後にあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の常春藤を掴んで、倒れかかる体を支えながら、苦しそうに切れ切れな声を洩らした。
「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」

(芥川龍之介『影』)

 Adoの顔は判ったが、この何者かの顔は判らない。ただ何者かが房子の寝室にいて、用もないのにわざわざ硝子戸をすっかり明け放った窓際に立っているのである。

 さて、そうなると、いかに私が迂闊な読者だったかと気が付く。これではいけない。『影』の季語に気が付いていなかった。麦藁帽子は夏の季語。

横浜
 日華洋行の主人陳彩は、机に背広の両肘を凭せて、火の消えた葉巻はまきを啣えたまま、今日も堆い商用書類に、繁忙な眼を曝していた。
 更紗の窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変らず残暑の寂寞が、息苦しいくらい支配していた。

(芥川龍之介『影』)

 残暑とは初秋の季語である。立秋を過ぎた後の暑さのことなので、そんな時期に夜、明りをつけたまま窓を開けると、虫がたくさん入ってくるだろう。

 陳彩の家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、晩夏の日の暮が近づいて来た。しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの夾竹桃は、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさを漂わしていた。

(芥川龍之介『影』)


夜来の花 芥川竜之介 著新潮社 1921年

 晩夏、まあ大体九月の頭だろう。しかしよくよく考えてみれば、陳は麦藁帽子を身に着けているほか、どんなものを身にまとっているのかさえ定かではないのだ。一方には靴を履いていることだけが確かな男がいる。もう一方には麦藁帽子を被っていることだけが確かな陳がいる。そしておそらく陳の家には三毛猫はいるが番犬はいない。

 一瞬間の後陳彩は、安々塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、首尾二階の真下にある、客間の窓際へ忍び寄った。そこには花も葉も露に濡れた、水々しい夾竹桃の一むらが、………
 陳はまっ暗な外の廊下に、乾いた唇を噛みながら、一層嫉妬深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度床に響いたからであった。

(芥川龍之介『影』)

 まだ暑い時期なので上着は来ていないのだろうか。それにしてもこれは革靴ではなかなかできないこと。陳の履いていた靴が気になる。おそらく陳は肥ってもいないし、そう背も高くはないのだろう。いや「陳は麦酒を飲み干すと、徐ろに大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った」とあるので小さくはない。しかし吉井を背の高い背広の男として捉えているので、横に大きいのかもしれない。しかしそこは敢えて書かれない。
 そして気になるのは「夾竹桃」だ。一応小説の暗黙のルールのようなものとして、何度も繰り返して登場する事物には何か意味があるという大前提のようなものがある。「夾竹桃」は五回出てくる。キョウチクトウの花言葉は、「油断大敵」「危険な愛」「注意」「用心」「たくましい精神」。強力な毒を持つ花だけに、不安の暗示となっている。

 足響はすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜を刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。
 その沈黙はたちまち絞め木のように、色を失った陳の額へ、冷たい脂汗を絞り出した。彼はわなわな震える手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。
 すると今度は櫛かピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。
 こう云う物音は一つ一つ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が極度に達している事は、時々彼があたりへ投げる、気違いじみた視線にも明かであった。
 苦しい何秒かが過ぎた後、戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た。と思うとすぐに寝台の上へも、誰かが静に上ったようであった。
 もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、この時戸から洩れる蜘蛛の糸ほどの朧げな光が、天啓のように彼の眼を捉とらえた。陳は咄嗟に床へ這うと、ノッブの下にある鍵穴から、食い入るような視線を室内へ送った。
 その刹那に陳の眼の前には、永久に呪わしい光景が開けた。…………

(芥川龍之介『影』)

 櫛かピンかがと芥川は適当なことを書いているが、櫛とピンでは随分音に違いがあろう。これはいわば陳の不安の誇張表現、針小棒大の具体例に他ならない。

 この悪戯は「刹那に」「永久に」と繰り返される。陳の服装が説明されないのもある意味では悪戯であろう。「陳は咄嗟に床へ這うと、ノッブの下にある鍵穴から、食い入るような視線を室内へ送った」というところで鍵穴はそんなに下にあるんかい、と突っ込まなかった読者を揶揄っている。「戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た」と書かれているが陳ならばそれが房子のため息なのか、そうではないのか解るだろうと突っ込まない読者は、丸亀製麺の天婦羅がいつの間にか値上げされていることにも気が付かないだろう。かしわ天なんか小さくなって190円だ。イカ天もなんか微妙に細くなってない?

 そうした些細なことを気に留めながら読んでいくために今日はここまで。鍵穴の位置が気にならなかった人は一回反省してもらいたい。

https://yapou.club/archives/2073


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