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そこは奥の細道の終点だ 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか① 

 今ではもう十年あまり以前になるが、ある年の春私は実践倫理学の講義を依頼されて、その間かれこれ一週間ばかり、岐阜県下の大垣町へ滞在する事になった。元来地方有志なるものの難有ありがた迷惑な厚遇に辟易していた私は、私を請待してくれたある教育家の団体へ予め断りの手紙を出して、送迎とか宴会とかあるいはまた名所の案内とか、そのほかいろいろ講演に附随する一切の無用な暇つぶしを拒絶したい旨希望して置いた。すると幸い私の変人だと云う風評は夙にこの地方にも伝えられていたものと見えて、やがて私が向うへ行くと、その団体の会長たる大垣町長の斡旋によって、万事がこの我儘な希望通り取計らわれたばかりでなく、宿も特に普通の旅館を避けて、町内の素封家N氏の別荘とかになっている閑静な住居を周旋された。私がこれから話そうと思うのは、その滞在中その別荘で偶然私が耳にしたある悲惨な出来事の顛末である。

(芥川龍之介『疑惑』)

 冒頭で設定を説明する。芥川にしては珍しく律儀なやり方である。

[何時]   今から十年ほど前
[どこで]  岐阜県下の大垣町
[誰が]   実践倫理学の講師を任された「私」
[何をした] 偶然悲惨な出来事の顛末を耳にした。

 なるほど。この話は以下に「悲惨な出来事」が書かれていて、我々はその悲惨な出来事を読めばいいということになる。解りやすい構成だ。

 しかしながらおそらく「実践倫理学」というものが何なのか、いまひとつピンとこない人が大半なのではなかろうか。実は当時と比べて現在において最も痩せた分野がこの「実践倫理学」なのではないか。ちなみに最も有名な「実践倫理学」論として知られる豊島要三郎の『実践倫理学』によれば、

実践倫理学 豊島要三郎 著弘道館 1912年

 人に関する学であり、行為に関する学であり、善悪を評価する学であり、善行を為すべき方法に関する学であり、善行を為すべき方法を実行する力に関する学である、という前提になる。
 こういわれて今の若い人たちは果たしてどう感じるだろうか。何かまっとうなことを言わんとしているが、どこか絵空事で、新興宗教のような嘘臭さを感じないものであろうか。
 現在でも小中の学習指導要領の中に道徳教育は含まれる。しかし試験の対象にはなっていない。つまり突き詰めることの出来ない、正解のないことが教えられているという奇妙な状況がある。

わたしたちの道徳 小学校1・2年

 現代思想の潮流としては数年前ジョン・ロールズの『正義論』、ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』、リチャード・マッケイ・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』など倫理的な問いかけを持った思想書がもてはやされたことはあるにはあった。

 しかしおそらくアウシュビッツ以降、あるいは原爆投下以降、「善行を為すべき方法を実行する力に関する学」の手前のところ、つまり「善悪を評価する学」などというものが徹底的に無意味化されてしまったようなところがあるのではなかろうか。

 あくまで例えば、という話にはなるが、ローティは善行などというものの不可能性を突き詰めて、「残酷さを避けること」が限界だという所に着地したように見える。


 芥川の『疑惑』は「実践倫理学」というものが大真面目に語られていた時代の話だ。ここで聞き手となる「私」が「実践倫理学」の講師たることにはそれなりの意味があるのであろう。
 何故なら「私」は「実践倫理学」の講師のくせに、

送迎とか宴会とかあるいはまた名所の案内とか、そのほかいろいろ講演に附随する一切の無用な暇つぶしを拒絶したい旨希望して置いた。

(芥川龍之介『疑惑』)

 ……として人の好意を無にしている。遠路はるばる来てくれた先生を歓迎していい気持ちにさせたいという当たり前の田舎者の気遣いを拒絶している。善行を行っていない。変人の「実践倫理学」の講師は、人嫌い、付き合い嫌いなのではなかろうか。人が嫌いな人間が善行を行えるわけがない。つまりこの「私」は学問として「実践倫理学」を研究しているのであって、実践はしないのだ。と、ここでもう芥川は小さな矛盾をこしらえている。

 しかもこの『疑惑』は大正八年六月の作品なので、十年前は大垣町であっとして、大正七年には大垣市に変わっているのでそう説明すべきなのだ。こういう見えないところから打ってくるブーーメラン・フックのようなものが芥川作品にはしばしば見られる。

 その住居のある所は、巨鹿城に近い廓町の最も俗塵に遠い一区劃だった。殊に私の起臥していた書院造りの八畳は、日当りこそ悪い憾みはあったが、障子襖もほどよく寂びのついた、いかにも落着きのある座敷だった。私の世話を焼いてくれる別荘番の夫婦者は、格別用のない限り、いつも勝手に下っていたから、このうす暗い八畳の間は大抵森閑として人気がなかった。それは御影の手水鉢の上に枝を延ばしている木蓮が、時々白い花を落すのでさえ、明かに聞き取れるような静かさだった。毎日午前だけ講演に行った私は、午後と夜とをこの座敷で、はなはだ泰平に暮す事が出来た。が、同時にまた、参考書と着換えとを入れた鞄のほかに何一つない私自身を、春寒く思う事も度々あった。

(芥川龍之介『疑惑』)

 巨鹿城とは大垣城のことで石田三成が本拠地にした城である。

 ほら観光案内してもらわないから芭蕉の記念館を見過ごしている。

 木蓮の花がでてくるので季節は春であろうか。と思えば「春寒く」と書いて来る。三四郎と違って西洋手拭い二枚で鞄をぱんぱんに膨らませていない。

 春寒く思うくらいなら宴会はともかく、主催者らと軽く一杯やればいいものを、どうにも人間というのは矛盾したものだ。そういう矛盾した人間を対象にするから善悪の議論は難しい。

 もっとも午後は時折来る訪問客に気が紛れて、さほど寂しいとは思わなかった。が、やがて竹の筒を台にした古風なランプに火が燈ると、人間らしい気息の通う世界は、たちまちそのかすかな光に照される私の周囲だけに縮まってしまった。しかも私にはその周囲さえ、決して頼もしい気は起させなかった。私の後にある床の間には、花も活けてない青銅の瓶が一つ、威つくどっしりと据えてあった。そうしてその上には怪しげな楊柳観音の軸が、煤けた錦襴の表装の中に朦朧と墨色を弁じていた。私は折々書見の眼をあげて、この古ぼけた仏画をふり返ると、必ず炷きもしない線香がどこかで匀っているような心もちがした。それほど座敷の中には寺らしい閑寂の気が罩っていた。だから私はよく早寝をした。が、床にはいっても容易に眠くはならなかった。雨戸の外では夜鳥の声が、遠近を定めず私を驚かした。その声はこの住居の上にある天主閣を心に描かせた。昼見るといつも天主閣は、蓊鬱とした松の間に三層の白壁を畳みながら、その反り返った家根の空へ無数の鴉をばら撒いている。――私はいつかうとうとと浅い眠に沈みながら、それでもまだ腹の底には水のような春寒むが漂っているのを意識した。

(芥川龍之介『疑惑』)

 二回書かれた春寒むは何の念押しであろうか。

 楊柳観音は病苦からの救済を使命とする。するとですよ、春寒むが漂っているというのはですよ、この部屋で誰かが病気で亡くなったという暗示なんじゃないでしょうかね。「炷きもしない線香」って、そういうことやろ。こういう形でさりげなく、見えないところから打ってくるブーーメラン・フックのようなものが芥川作品にはしばしば見られる、と最近どこかに書いたようながするが、どこに書いたのかどうしても思い出せない。

 そしてわざわざ「松の間に三層の白壁を畳みながら」と描かれる大垣城の天守閣は第二次世界大戦時に破壊される前は4層4階のつくりである。こうした見えないところから打ってくるブーーメラン・フックのようなものが芥川作品にはしばしば見られる、と最近どこかに書いたようながするが、どこに書いたのかどうしても思い出せない。

 そしてたしかに大垣城と言えば鴉である。

 それはいい。しかしまた謎ロジックが出てきた。「雨戸の外では夜鳥の声が、遠近を定めず私を驚かした。その声はこの住居の上にある天主閣を心に描かせた。」ってどういうことやねん。つまり、この夜鳥は鴉か。夜鳥は一文字にすると鵺になるで。それは狙いか。違うんか。どないや。

 と、今日はここまで。おっちゃん、指痛いねん。


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