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一般意志はどこにあるか あるいは残酷さを回避するために


一般意志はどこにあるか。

   近代民主主義精神の根幹にあるジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年6月28日 - 1778年7月2日)の「一般意志」の概念をアップデートした東浩紀(1971年5月9日 -)の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社文庫・2011年)は表題に関わらず実は、リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』(岩波書店・2000年)に多くのヒントを得ている。
   東浩紀の当時の語彙としてはミクシィ(後にツイッター)民主主義とグーグル民主主義のアイロニカルな和解による政府2.0の可能性が示されていたと言っても良いが、東自身が指摘するようにこのアイロニーの意味はかなり独特のものである。それはいわゆる皮肉ではない。ローティの言うアイロニストとは自分の語彙を疑い、自分の論議を疑い、自分の論議が他人のものよりも実在に近いとは考えない人、自分自身を偶然の産物として真面に受け止めることのできない人だ。
    何故そのようなアイロニストが想定されなければならないかと言えば、残酷さの回避という一見普遍的ではないかと思える価値すらが偶然に選び取られた信念に過ぎず、他者との差異をアイロニカルに否定することで連帯するしかないからである。つまり自分の正義を信じ、がちがちに議論してはいけないのだ、と言い換えてもいいだろう。どこかふざけて冗談を言うようにリベラル・ユートピアの可能性を提示したと言われる『偶然性・アイロニー・連帯』の中では「ディケンズを仲立ちにして、オーウェルとナボコフを和解させる試み」という奇妙な図式が現れる。この書評に私は、

今のところ、ジョージ・オーウェル、チャールズ・ディケンズ、マルセル・プルーストを結びつける議論はここにしか見られない。私は『1Q84』が本書の指南通り、ディケンズを仲立ちにして、オーウェルとナボコフを和解させる試みとして書かれたのではないかと真剣に考えている。ローティが引用したプルーストの文学観がタマルのエピソードとして再生され、『1984年』を単なるディストピア小説と見なしていない点など、とても偶然とは思えないつながりを感じる。

   とアイロニストらしからぬ大真面目なことを書いている。『1Q84』が決して相容れぬ者たちの和解を描いたとは思わない。しかし村上春樹が女子ソフトボール部の部長で連続殺人鬼をヒロインにしたほか、さまざまな相容れない者達を作品に集めたことまでは確かだ。

   しかしそもそもルソーの言うあたかも物のような一般意思などどこに存在したのだろうか。ルソーを読み返せばたちまちそのような考え、一般意思という戯言をアップデートさせることに無理があるように思えてくる。それこそアーカーイブズはデジタル社会になって今ようやく市民の公開されたものであるかのようなnoteの記事を読んで、そもそも最近は妙に真面目で不寛容な東浩紀がローティのアイロニストのスタイルを拒否しつつもまだツイッターに留まることの意味が解らなくなる。
    ルソーが富に不平等の原因を見出したところは解る。「自然に還れ」は私にはいささか馬鹿馬鹿しいオーギュスト・ド・コント的逸脱に見えはするものの、一周廻ってある意味筋が通っている。しかしルソーはどこかで一般意思や民主主義の根幹だのというものをごっそり放棄しなかっただろうか。しかしどういう訳か東浩紀はその不確かな一般意思を掘り返し、ツイッター民主主義を夢想し、今では不寛容な言論者であり、このデジタル庁の政府2.0的動きに一切反応しないことがむしろ不思議である。
   極めて不確かながら、少なくとも役人がツイッターを読む時代が訪れている。それがどこまで政策決定に影響するかどうかは不明ながら、既に現実として「保育園落ちた、日本しね」というレベルのツイートが国会で拾われ政策に影響を及ぼす時代なのである。この状況において、あからさまに忘れ去られているのが、アイロニストによる連帯の可能性ではなかろうか。
   例えば永井均のツイートはアイロニストによるもののようであるが、恐らく本人は極めて真面目であることを譲らないであろう。その内容は私には真面なものとは思えないが、恐らく永井均は大真面目なのだ。私はこのいかがわしい過渡的な時間の中で、ただひたすらに寛容であろうと思う。薄ら笑いに代えて愛想笑いを浮かべ、残酷さを回避するために上手く立ち回ろう。私の連帯は緩く不確かではあるが、こういうことからしか始まらないのだと。
   河野大臣は連帯よりブロックを好む。




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