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鼠だって生き物さ 芥川龍之介の『枯野抄』をどう読むか②

 昨日は何故惟然にこうした心境、つまり次に死ぬのは自分かも知れないという恐怖、を与えたのかが判然としない、という疑問点だけ取り出した。

 作品構成上そこが肝だろうというのにどうも意味がつかめない。これは惟然について調べれば調べるだけ解らなくなるところだ。
 むしろ惟然という俳人に関して全く情報がない人が読めば「そんな人もいるかもしれないね」というところなのかもしれないが、芥川はまさかそんな人かいるとは考えてもいないだろう。これは例えば高木ブーはよく寝る、キレンジャーはカレーが大好き、ビビる大木はジャンボ鶴田の物まねが得意、という程度の誰でもが知っているはずの知識なのだ。おそらくある程度惟然に対して風狂のイメージが前提で、敢えてそこに引っかかるように芥川は書いている。

 少し余談気味になるが『花屋日記』にも登場しない凡兆は当然『枯野抄』にも登場しない。『猿蓑』では大活躍した凡兆はその後芭蕉から離れていく。その俳句は室生犀星の勘定ではわずかに七十数句しかない。しかしながらその評価は高く、室生犀星は「大凡兆」と評している。

 そうして芭蕉の生前から芭蕉を離れた門人もいる中、それでも其角は東武からわざわざ駆けつけてまで、激しい嫌悪の情を示した。『花屋日記』にはないことながら、芭蕉の最期に凡兆を立ち合わせたらとつい考えてしまう。なかなかがめついところのありそうな凡兆ならば惟然の心境を引き取ってくれそうな気がするからである。

続いて乙州、正秀、之道、木節と、病床を囲んでゐた門人たちは、順々に師匠の唇を沾した。が、その間に芭蕉の呼吸は、一息毎に細くなつて、数さへ次第に減じて行く。喉も、もう今では動かない。

(芥川龍之介『枯野抄』)

 で何故凡兆がいないことを確認したかと言えば、「乙州、正秀、之道、木節」と書かれていて、舍羅、呑舟、伽香、園女と書かれていないからである。


芭蕉翁花屋日記

 粉本の『花屋日記』には十月四日の日に園女が菓子と水仙を送ったと書かれていて、園女の名前が出てくるのはそれが最後のことであるので、園女は芭蕉の最期には立ち会わなかったと判断したのであろう。芥川はそこを、

――障子に冬晴の日がさして、園女の贈つた水仙が、清らかな匂を流すやうになると、一同師匠の枕もとに集つて、病間を慰める句作などをした時分は、さう云ふ明暗二通りの心もちの間を、その時次第で徘徊してゐた。

(芥川龍之介『枯野抄』)

  ……という具合に、水仙だけを拾って整理した。之道の門人呑舟は、

丈艸、去来を召し、昨夜目のあはざるまま、ふと案じ入りて、呑舟に書かせたり、おのおの咏じたまへ
  旅に病むで夢は枯野をかけめぐる

(芥川龍之介『枯野抄』)

 として芭蕉の辞世の句を書きとるも、末期の水を取らせるまでのことは遠慮したと見做したのであろうか。
 舍羅は元禄の頃大阪にいた貧乏な俳人ということだけ伝わっていて、本名すら残っていない。元禄十一年『みの笠』『あさのみ』元禄十三年『荒小田』という句集を出している。同年『追鳥狩』という句集が「備中舍羅」として出ているので転居したのかどうか。呑舟、舍羅ともに下働きのように奉仕したようで、やはり末期の水を取らせるまでのことは遠慮したと見做したのであろう。

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2012_12_01.html

 なにやらタイムスリップにより平成と元禄で行き違いになった門人もいたようだ。『花屋日記』に現れない越人、有名ではない(失礼)伽香は単に省かれる。許六は病身だったようでこれも最期には立ち会わない。
 こうして見ていくと芥川はかなり忠実に『花屋日記』を整理整頓してコンパクトな話に仕上げているということが解る。

 しかしそれだけに惟然の心境というものが謎なのだ。むしろ凡兆が訪ねてくるくらいの演出があれば、それはそれで解らなくもない。しかし園女の水仙の取り扱いを見れば、芥川が惟然の心境のところだけで『花屋日記』を無視してはっちゃけたことが解る。

 思い出してほしい。子供のように惟然と蒲団の取り合いをした正秀はこらえきれずに慟哭しているのだ。それにつられて乙州も順番を待てずに泣く。

 が、彼が正秀の慟哭を不快に思ひ、延いては彼自身の涙をも潔しとしない事は、さつきと少しも変りはない。しかも涙は益眼に溢れて来る――乙州は遂に両手を膝の上についた儘、思はず嗚咽の声を発してしまつた。が、この時歔欷するらしいけはひを洩らしたのは、独り乙州ばかりではない。芭蕉の床の裾の方に控へてゐた、何人かの弟子の中からは、それと殆ど同時に洟をすする声が、しめやかに冴えた座敷の空気をふるはせて、断続しながら聞え始めた。

(芥川龍之介『枯野抄』)

 乙州は生年不明ながら芭蕉門下の重鎮と言われ、いわゆるパトロンの一人手もあった。水田正秀は芭蕉の十三歳年下ながら膳所藩内で相当重い地位を占めていたと考えられ「無名庵」は正秀が中心となり支援し建てたものだと言われている。金持ちは普通泣かない。惟然は金がないのに泣かない。心がないがごとくだ。鼠のように卑しめられている。

無愛想な顔を一層無愛想にして、なる可く誰の顔も見ないやうに、上眼ばかり使つてゐた。

(芥川龍之介『枯野抄』)

 それはないのではないかと思う。少なくとも『花屋日記』にはそうした気配はないのだ。しかし芥川は惟然を不愛想で、自分の死の心配をしている陰気な男にしてしまった。

 そこをただ解らないとだけいつまでも書いていてもしょうがないので、一つ仮説を置いてみると、芥川は秀句が一つもないとさえいうものがある惟然の句に対して、正秀の慟哭のような「誇張」を見ていたのではなかろうか。

 実際には惟然の句には「次に死ぬのは自分かも知れない」というような恐怖の気配はまるでない。あるかないかでいえばまるでない。

時雨けり走入りけり晴れにけり

 例えばこの句を滑稽と思わぬ人もなかろうと思う。よくできていると思う。ただしひねくれものの芥川なら、いやもっとひねくれている太宰なら、ケチをつけて付けられなくもない。

節季候や畳へ鷄を追上がる

別るゝや柿食ひながら坂の上

昼蚊帳に乞食と見れば惟然坊

 これらの句に対して太宰治なら「ワザワザ」と冷やかすかもしれない。ぎりぎりといえばぎりぎり、無理があると云えば無理がある、それがおどけというものだ。おどけにはおどけの無理がよくわかる。

 山頭火は「惟然坊句集も面白くないことはないけれど、隠者型にはまつてゐるのが鼻につく、やつぱり良寛和尚の方がより親しめる。」と書いている。(お前が言うな。)道化には二面性があるものだ。山頭火が「隠者型にはまつてゐるのが鼻につく」と指摘しているところが面白い。

 私自身は惟然はどうしようもない人間で、いい加減な性格だと見ているが、芥川はやはりわざとらしさを見ていたのかもしれない。

 だから敢えて『花屋日記』を離れて、これまでにない、或いは誰も書いていない惟然像を描き出したのである……と威張るところまではいかない。言い切るためにはもう一つ何かが足りない。芭蕉の死を素直に悲しむことの出来ない屈折まではよい。惟然は芭蕉の死にも向き合えず、ただ恐怖している。惟然が道化であったとして、それだけでは説明ではない雑念がここにはあるのだ。

 これが昭和二年に書かれていれば、無理由に近い恐怖という惟然の雑念を芥川に引き寄せることはたやすい。大正七年九月。この時の芥川は遊びたい盛りの筈である。まだ自らの死を恐怖することもあるまい。

 するとこの時、去来の後の席に、黙然と頭を垂れてゐた丈艸は、あの老実な禅客の丈艸は、芭蕉の呼吸のかすかになるのに従つて、限りない悲しみと、さうして又限りない安らかな心もちとが、徐ろに心の中へ流れこんで来るのを感じ出した。悲しみは元より説明を費すまでもない。が、その安らかな心もちは、恰も明方の寒い光が次第に暗の中にひろがるやうな、不思議に朗かな心もちである。しかもそれは刻々に、あらゆる雑念を溺らし去つて、果ては涙そのものさへも、毫も心を刺す痛みのない、清らかな悲しみに化してしまふ。

(芥川龍之介『枯野抄』)

 惟然ばかり見ていては結局解らないで終わってしまう。小説としての『枯野抄』における惟然は、訳の分からない異物「ガンツ」のようなものだ。作品構成上そこにフォーカスさせられてしまうが、そこには「わからない」があるだけだ。

 最終的に私は二度登場して物語を締める丈艸、芭蕉の死後墓守に徹した丈艸こそが『枯野抄』の主人公だと考えている。心境を語る長さでいえば明らかに惟然のボリュームが多いけれども、大凡兆ではないが、数は問題ではない。

 芭蕉の顔も見られず自らの死の恐怖という雑念に囚われている鼠のような惟然と、芭蕉の死を受け入れて安らかな気持ちに包まれている丈艸の大きさの対比にこそ面白みがあると見做すべきなのであろう。『枯野抄』においてさえ、惟然が引き立て役のピエロであることは確かなのだ。


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