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ワープロはまだない 芥川龍之介の『影』をどう読むか④

 あなたに残された時間はあとどのくらいですか?

 この問いには誰しもが明確な答えを持たないだろうが、一定の年齢の人間ならば、最大限に見積もってこれくらいという試算はできるだろう。しかし必死にカートのようなものを推して歩くお婆さんを見て、彼女が夏目漱石の『こころ』を再読できると思うだろうか。悪いことは言わない。早くした方がいい。先延ばししても後悔するだけだ。多分これが最後のチャンスだ。あなたの人生はまだ続くかもしれないが、今日やらなければ一生やらないだろう。それでもやらないというなら、問いたい。

 何のためにこの記事を読んでいるの?

横浜。
 書記の今西は内隠しへ、房子の写真を還してしまうと、静に長椅子から立ち上った。そうして例の通り音もなく、まっ暗な次の間へはいって行った。
 スウィッチを捻る音と共に、次の間はすぐに明くなった。その部屋の卓上電燈の光は、いつの間にそこへ坐ったか、タイプライタアに向っている今西の姿を照し出した。
 今西の指はたちまちの内に、目まぐるしい運動を続け出した。と同時にタイプライタアは、休みない響を刻みながら、何行かの文字が断続した一枚の紙を吐き始めた。
「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」
 今西の顔はこの瞬間、憎悪そのもののマスクであった。

(芥川龍之介『影』)

 師が師なら弟子も弟子だ。ここで用いられているのは和文タイプライターのようでもあるが、和文タイプライターは指でぱちぱちキーを叩くようなものではない。休み休み動かすものだ。動作から言えば機織りのような動きで、ここの芥川の描写は明らかにおかしい。

 ここをどう解釈するかは人によって意見が分かれる所であろう。

a 案『アグニの神』方式が用いられた。

 支那の上海の或る町です。昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻りに話し合っていました。
「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」
 亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。
「占いですか? 占いは当分見ないことにしましたよ」
 婆さんは嘲けるように、じろりと相手の顔を見ました。

(芥川龍之介『アグニの神』)

 この場面、上海で印度人と亜米利加人がわざわざ日本語で話すわけもないので、「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」は実際には「事实上,我是来请老太太再给我算一次命,这次-」「Actually, I've come to ask you again to tell my fortune--」とかなんとか日本語ではない言葉で会話していた筈である。しかしそれをそのまま書いてしまうと読者には何のことかわからないので、日本語に置き換えて書いているわけだ。

 同様に実は陳と今西の会話も通常は英語が用いられていて、「Dear Sir, I see no need to tell you that your wife has not been faithful to her chastity. However, you are too much in love with her. ......」とかなんとか今西は英文タイプライターで打っているのだが、それでは読者に伝わらないので、「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」と表記したまで。和文タイプライターを使っているわけではない。そう考えると一応辻褄が合う。

b案  芥川龍之介はワープロの出現を予測していた。『影』は近未来空想小説である。

 今の若い人たちは和文タイプライターどころかワードプロセッサーも知らないと思うが、『1Q84』に出てくるワードプロセッサーも大嘘で、当時普及していたオアシスライトで云えば画面上には十六文字しか表示されず、文章を編集したり校正するような機能はなかった。そういうワープロは文豪、書院以降のことで、「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」とぱちぱち打つのは1990年代でなければ不可能だ。

 まあa案が正解であろう。この謎のタイプライターの描写の意味合いは素直に解すれば、「あなたは小説を読んでいるのであって、文字を画や意味に変換していますよね。だから英語を日本語に変換してもいいし、現実を映画に変換しても構いませんよね」という念押しということになろうか。

 ここでは密告状の差出人は実は今西でした、という「隠されていた事実」が曝露されたかのようで、実は事態をさらに曖昧にしている。これでは今西は唯の密告者に留まり、房子の浮気相手ではないと賺しているようなものだ。前のシーンで陳の前には呪わしい光景が開けているので、ここまで登場人物が乏しい中で、今西が房子の浮気相手ではなかったと曝露することによって、「え? では吉井? 爺や? まさか婆や?」と考えてしまう所。

鎌倉。
 陳の寝室の戸は破れていた。が、その外は寝台も、西洋蟵も、洗面台も、それから明るい電燈の光も、ことごとく一瞬間以前と同じであった。
 陳彩は部屋の隅に佇んだまま、寝台の前に伏し重なった、二人の姿を眺めていた。その一人は房子であった。――と云うよりもむしろさっきまでは、房子だった「物」であった。この顔中紫に腫れ上った「物」は、半ば舌を吐いたまま、薄眼に天井を見つめていた。もう一人は陳彩であった。部屋の隅にいる陳彩と、寸分も変らない陳彩であった。これは房子だった「物」に重なりながら、爪も見えないほど相手の喉に、両手の指を埋めていた。そうしてその露わな乳房の上に、生死もわからない頭を凭せていた。

(芥川龍之介『影』)

 私はこの場面がどうも呑み込めずにいた。呑み込めたのは村上春樹さんの『騎士団長殺し』の「白いスバルフォレスターの男」が理解できた後だった。この『騎士団長殺し』の「白いスバルフォレスターの男」は『三四郎』の「知らん人」にも理解を与えてくれた。自分の中にある憎悪の実体化、そう言ってしまえば少し軽いか。

 村上春樹はそれ以前にも『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の中で亜空間殺人のようなものを書いていた。自分の記憶にもないし、理屈の上ではありえないことながら、自分はかなりの遠距離から怨念のようなものになって誰かを殺したのかもしれないという話は『ねじまき鳥クロニクル』あたりから繰り返されていた。村上春樹さんが『騎士団長殺し』で辿り着いたところは、芥川龍之介が百年前に書いていた世界だ。

 そう思えば芥川龍之介の『影』という作品がどれだけ「ふーん」されてきたことかと感慨深い。この「もう一人は陳彩であった。」の為に今西のタイプライタアは休みない響を刻んだのだ。

 そう。「もう一人は陳彩であった。」なんてことは現実ではあり得ないのだ。しかしマルクス・ガブリエル的実在論に立つのでなければ、小説を読み、小説を書くことにどんな意味があるのだろうか。嘘の話なんて読んで何の意味があるのだろうか。

 意味はさておき、そういうものは求められていて、決してなくならないだろうとは言える。それが即ち意味かというとはなはだ怪しい。

 村上春樹は名無しの主人公に「騎士団長は存在したと考えた方がいい」と言わせた。あるいは憎悪は本当に人を殺してしまうかもしれない。

 そしてこのこと、つまり怨念の実体化は猫がすり寄る様子で暗示されていた。猫は誰にでもすり寄るわけではない。目に見えない何か黒いものが陳であるからこそ三毛猫はすり寄ったわけだ。猫にとっては怨念はここにおんねんというわけだ。では人間にとっては?

 さて芥川は陳彩にどう始末をつけるだろうか。それはまだ誰も知らない。何故なら、今日はここまでしか書かないからだ。


 本当に読まない?

 それでいいの?

 タイプライタアに気が付かなかったのなら、もっと他にも見落としがあると思わない?

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