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君の話は不自然だ 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか⑦


物知り先生 : 常識百科 冬から春え 木村小舟 著話の友社 1949年

 中村玄道はこう語り終ると、しばらくじっと私の顔を見つめていたが、やがて口もとに無理な微笑を浮べながら、
「その以後の事は申し上げるまでもございますまい。が、ただ一つ御耳に入れて置きたいのは、当日限り私は狂人と云う名前を負わされて、憐むべき余生を送らなければならなくなった事でございます。果して私が狂人かどうか、そのような事は一切先生の御判断に御任せ致しましょう。しかしたとい狂人でございましても、私を狂人に致したものは、やはり我々人間の心の底に潜んでいる怪物のせいではございますまいか。その怪物が居ります限り、今日私を狂人と嘲笑っている連中でさえ、明日はまた私と同様な狂人にならないものでもございません。――とまあ私は考えて居るのでございますが、いかがなものでございましょう。」
 ランプは相不変らず私とこの無気味な客との間に、春寒い焔を動かしていた。私は楊柳観音を後にしたまま、相手の指の一本ないのさえ問い質して見る気力もなく、黙然と坐っているよりほかはなかった。

(芥川龍之介『疑惑』)

 これが結びである。まあ、でしょうなあ、と思わせ、しかし、いやいやいや、なんも説明しとらんぞ、と思う。

・二十年間どうやって生活していた? 
・自由にうろうろさしてもらえるの?
・性欲の処理は?
・どうやってこの部屋に入ってきた?
・楊柳観音との因縁は?(素封家N氏の別荘にまで出入りしていたの? 結婚前に?)
・で、実践倫理学の先生に何んと言って貰いたいの? そうだよね、みんなそうだよと同意してもらいたいの?

 話としては芥川らしい逆説というか皮肉の形になっている。ここに外部からいろんなものを持ち込んでトンデモ説を組み立てる必要はなかろう。(実際にそういう人がいて得意げに論文にまとめていた。この人は死んでからも笑われ続けるんだろう。)『高瀬舟』のように考えさせるよりもむしろ、『疑惑』という題名通りに、すべてが怪しい話になっている。
 例えば「私」が最後の講演を終え、大垣を立って東京に帰ってきたとする。立派な屋敷に入り、和服に着替え、檻の中に閉じ込めている全裸の妻にバナナをやる。そういうことがないとは言えない。

 中村玄道の話は疑わしい。しかし「今日私を狂人と嘲笑っている連中でさえ、明日はまた私と同様な狂人にならないものでもございません。」という理屈まではそのまま受け取るしかない。

しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。

(夏目漱石『こころ』)

 この言葉は世界中の言語で繰り返しツイートされている。つまり世界中で腑に落ちるのだろう。中村玄道の言っている理屈もさして変わらない。note民もまさかスーパーの試食コーナーのチャーシューを人目もはばからず平らげるまでのことはしないだろうが、無料の記事だけを永遠に試食することはあさましいとは気が付かない。しかしやっていることは基本同じだ。コンテンツの盗撮だ。コンテンツ・メーカーとすれば、試食だけされていては成り立たない。そんな理屈は誰しもが理解しているはずだ。なのになんとしてでも試食で押し通す。あさましいとも何とも思わない。自分の顔が見えていない。それではスーパーの試食コーナーのチャーシューを人目もはばからず平らげる外国人家族を軽蔑できない筈なのに。
 

 実は中村玄道は実践倫理学の不毛さにあきれて、へこましてやろうと押しかけてきた物好きな理屈屋である可能性が高い。実際実践倫理学の先生は何も言えなくなっている。実際『こころ』の先生のロジックにはしぶしぶ同意せざるを得ないだろう。兎に角みんな金は欲しい。金が欲しくない人間などいない。くすねられるものなら何とかくすねる。

 あさましい。

 しかしではさて、実際に自分の女房を殺せるかと問われたら、そこはまた次元が違う話ではなかろうか。私自身にとっても平気で殺せる生き物のサイズは一センチ未満だ。それ以上大きいと相当な覚悟がいる。殺されそうにでもならない限り、人間を殺すのは無理だ。ましてや自分の女房となると、よほどのことがないと無理という人が多いのではなかろうか。
 そういう意味では中村玄道のロジックは早すぎる一般化であり認知バイアスである。
 では何故実践倫理学の先生はその間違いを指摘してやらないで黙っているかということになる。

 実践倫理学の先生は完全に同意をしている訳ではない。だから「無気味な客」と言っている。これは要するに言っていることはわかるけれど腹の底が見えないということである。

 では何故黙っているかと言えば提示された情報だけでは十分に否定も肯定もできないからである。何しろ殺人の方法が二通りに説明されている。考えようによっては生きたままま身もだえして焼かれた女房を見て、自己弁護の為に誤った記憶を獲得した可能性もないとは言えない。あくまでも中村玄道のセリフを信じれば、中村玄道は実際に女房を殺したわけではないのに殺したと思い込んでいる狂人として扱われているので、その筋が本線だ。
 しかしそうなると今度は狂人の言っていることを信じてもいいものだろうかという問題が出てくる。どこからどこまでが本当で、どこからが妄想なのか、中村玄道の発言だけを根拠に確定することはできない。つまり中村玄道に何か質問することは無駄なのである。まあ中村玄道は『卍』の柿内園子のようなものだ。本当のことは当事者である中村玄道しか知らない筈だが、話は信用できない。

 どこにもたどり着けない質問は可能だ。

「昔新選組にいませんでしたか?」と。

 これに対して、

「いかにも」と答えればお引き取り頂くよりない。

 ただ正解はどうあれ、実践倫理学の先生が中村玄道をどう見ているかという点については構成と、構成を総括するこの言葉から明らかである。「ある悲惨な出来事の顛末」と先生は言っている。ここで言われている出来事は、構成から考えて「小夜を殺した」という時点では終わっていない。そこで終わってもいいはずなのに、二年後まで話が引っ張られ、ついには二十年後まで引っ張られている。まるで講談師のようにあることないことを語る中村玄道のありようが顛末なのだ。八十二行も妻の肉体の欠陥を語る十年前の中村玄道の姿が悲惨なのだ。

 私なら「本当はこの話を聞くのは私が初めてではないでしょう」と言ってしまうかもしれない。何度も見ていた楊柳観音の賺し、この部屋に忍び込めた訳、きちんとした身なりの謎など聞きたいことはいくらでもあるが、まずなぜそんなにお話が上手いのですかと揶揄いたい。しかし芥川はそこは伏せておいて敢えて悲惨だと書いてみる。つまり実践倫理学の先生は中村玄道は悲惨だと信じてしまっているということだ。

 しかし悲惨なのはすっかり中村玄道に騙されてしまっている実践倫理学の先生の方ではなかろうか。どうもこの人は中村玄道の発言の矛盾に気が付いている風でもなく、なんならあまりにも講談的な練られたセリフ回しにも引っかかっている風もない。ど素人に完全に騙されている。しかし太宰治なら「錦襴の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲の櫛笄」と言われたら間違いなく、「よく観察していますね」と冷やかすだろう。芥川は冷やかされるように書いている。

 実践倫理学が廃れたのは、戦争のせいでもなんでもなく、論理的思考能力のない先生ばかりがいた所為ではなかろうか。決して和辻哲郎批判ではなく。実際倫理的なことを実践しないのに実践倫理学の先生という所に無理がある。

 中村玄道の話にも無理がある。

 しかし例え抑揚を欠き、扇子を打ち鳴らさなかったとしても、文字にしてみれば明らかな中村玄道の講談調のナラテイブに気が付かなかったならば、その人には基本的な国語能力というものがない。それでいて何かの先生になるということが基本的におかしい。中村玄道は上手にお話をこしらえている。そこにどれだけの真実が含まれているかどうかということは定かではない。ただよくできた話だ。実践倫理学の先生でなくともまともな大人ならば、君の話は不自然だ、と気が付かなくてはならない。

 そして最も不自然なのは人づきあいを好まぬ実践倫理学の先生だ。この『疑惑』という小説の中ではほぼ聞き役に回る「私」はなにも食わず茶さえ飲まない。風呂に入る様子もない。ただ書見して寝る。それでいてわざわざ四層の天守閣を三層と言ってみる。家族の気配もない。それこそ何歳でどんな容姿なのかもわからない。こんな「私」に最も近い存在は、あなたではなかろうか。
 つまり中村玄道の講談調のナラテイブに気が付かなかったあなただ。

 中村玄道も怪しい。しかし読めていないのに読めたふりをしているあなたが一番怪しい。試食ばかりしているからそんなことになるのだ。


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