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握り飯の具は何か? 芥川龍之介の『疑惑』をどう読むか③

 中村玄道と名のった人物は、指の一本足りない手に畳の上の扇子をとり上げると、時々そっと眼をあげて私よりもむしろ床の間の楊柳観音を偸み見ながら、やはり抑揚に乏しい陰気な調子で、とぎれ勝ちにこう話し始めた。

(芥川龍之介『疑惑』)

 なるほど。

 ここにはどんな形にせよ、自らが「小説」なるものを書いた経験があるものならば、必ず気が付くであろうポイントがある。気が付かなかったとしたらあなたの書いているものは恐らく「小説」未満の何かである。

・「中村玄道と名のった人物は」という書き方は「中村玄道は」という書き方に対して一歩遠慮していて、この男が中村玄道であるかないかの判断を保留にしている。いわゆる「自称・中村玄道」という扱いである。

・わざわざ楊柳観音を見させるのは楊柳観音にもまた意味があるぞという仄めかしである。「時々」は言い換えると何度もという意味になる。一度ではない。つまりこの部屋で語ることには意味がある。

・扇子を取り上げてさあとばかりに語り始めるのは講談である。なのに抑揚に乏しい陰気な調子で途切れがちに語らせるのは、この話が散々繰った作り話ではないという言い訳である。

……中でも「時々」はなかなか凄い。これで賺しならさらに凄い。しかし枕が長かった。

 ちょうど明治二十四年の事でございます。御承知の通り二十四年と申しますと、あの濃尾の大地震がございました年で、あれ以来この大垣もがらりと容子が違ってしまいましたが、その頃町には小学校がちょうど二つございまして、一つは藩侯の御建てになったもの、一つは町方の建てたものと、こう分れて居ったものでございます。私はその藩侯の御建てになったK小学校へ奉職して居りましたが、二三年前に県の師範学校を首席で卒業致しましたのと、その後また引き続いて校長などの信用も相当にございましたのとで、年輩にしては高級な十五円と云う月俸を頂戴致して居りました。唯今でこそ十五円の月給取は露命も繋げないぐらいでございましょうが、何分二十年も以前の事で、十分とは参りませんまでも、暮しに不自由はございませんでしたから、同僚の中でも私などは、どちらかと申すと羨望の的になったほどでございました。

(芥川龍之介『疑惑』)

 明治二十二年かと思いきや明治二十四年の話であった。計算が狂った。いや狂ったのではない。狂わされたのだ明治二十四年の三十年後は大正十年。つまり『疑惑』は二年後の未来に書かれた作品だという設定になる。
 いや、そうではなくて、これもまた小さな「薮の中」なのだ。

 どちかが、あるいは二人とも、少しだけ嘘をついているのかもしれない。何しろ題名が『疑惑』なので何でも疑ってかからねばならない。例えばこの中村玄道もこっそり女性用の下着、しかも上下おそろいを身に着けているかもしれないのだ。

 さてこの明治二十四年の十五円の月俸についても精査しなくてはならないところだがなかなかそれらしい資料が見つからない。夏目漱石の松山中学での月俸が破格の八十円という話は有名だが、これが四年後の明治二十八年。この時同僚には十円の月俸の者もいたので十五円はまずは妥当な金額といえようか。
 しかしここでは、

・師範学校を首席で卒業し
・校長の信用も相当あり
・高級な十五円と云う月俸を頂戴致していた

 ……と自慢が続いていることを確認しなくてはならない。すべて「本人曰く」で、年寄りの「昔はモテた」話と同じ様に眉唾で聞かなくてはならない。

 家族は天にも地にも妻一人で、それもまだ結婚してから、ようやく二年ばかりしか経たない頃でございました。妻は校長の遠縁のもので、幼い時に両親に別れてから私の所へ片づくまで、ずっと校長夫婦が娘のように面倒を見てくれた女でございます。名は小夜と申しまして、私の口から申し上げますのも、異なものでございますが、至って素直な、はにかみ易い――その代りまた無口過ぎて、どこか影の薄いような、寂しい生れつきでございました。が、私には似たもの夫婦で、たといこれと申すほどの花々しい楽しさはございませんでも、まず安らかなその日その日を、送る事が出来たのでございます。

(芥川龍之介『疑惑』)

 なるほど。ここまでに年号の食い違い以外に特に怪しい点はない。ただ、本人の方には「両親を早くなくしまして」という説明がないので、何故家族が妻一人なのか、どうやって学資を工面して師範学校に通ったのかが曖昧だ。また中村玄道と名乗る男の年齢は師範学校を卒業してニ三年ということなのでまだ二十代前半ということなのであろうが、女房の年齢や体格、国籍がぼかされている。これが現代であれば大問題となるであろう。

 するとあの大地震で、――忘れも致しません十月の二十八日、かれこれ午前七時頃でございましょうか。私が井戸端で楊枝を使っていると、妻は台所で釜の飯を移している。――その上へ家がつぶれました。それがほんの一二分の間の事で、まるで大風のような凄じい地鳴りが襲いかかったと思いますと、たちまちめきめきと家が傾いで、後はただ瓦の飛ぶのが見えたばかりでございます。私はあっと云う暇まもなく、やにわに落ちて来た庇に敷かれて、しばらくは無我無中のまま、どこからともなく寄せて来る大震動の波に揺られて居りましたが、やっとその庇の下から土煙の中へ這い出して見ますと、目の前にあるのは私の家の屋根で、しかも瓦の間に草の生えたのが、そっくり地の上へひしゃげて居りました。

(芥川龍之介『疑惑』)

 能美地震は六時三十八分に発生。震源地の本巣から大垣までの距離は約十八キロ。地震が伝わる速度はP波が秒速七キロ、S波が秒速四キロなので、「かれこれ午前七時頃でございましょうか」という表現はやや曖昧である。それにスマホの緊急地震速報のアラームが鳴らないのは変だ。

 その時の私の心もちは、驚いたと申しましょうか。慌てたと申しましょうか。まるで放心したのも同前で、べったりそこへ腰を抜いたなり、ちょうど嵐の海のように右にも左にも屋根を落した家々の上へ眼をやって、地鳴りの音、梁の落ちる音、樹木の折れる音、壁の崩れる音、それから幾千人もの人々が逃げ惑うのでございましょう、声とも音ともつかない響が騒然と煮えくり返るのをぼんやり聞いて居りました。が、それはほんの刹那の間で、やがて向うの庇の下に動いているものを見つけますと、私は急に飛び上って、凶い夢からでも覚めたように意味のない大声を挙げながら、いきなりそこへ駈けつけました。庇の下には妻の小夜が、下か半身を梁に圧されながら、悶え苦しんで居ったのでございます。

(芥川龍之介『疑惑』)

 あれ?

 おかしいぞ。

 この『疑惑』は大正八年に書かれたことになっている。関東大震災は大正十二年だ。それなのに芥川はまるで見てきたかのように地震の話を書いている。なかなかリアルなものなので、もう一度年号を確認してしまった。確かに大正八年と大正十二年だ。

 兎に角聞くべき「ある悲惨な出来事」は起こった。大地震で妻が下敷き。これは悲惨だ。つい最近もそんなことがあったような気がする。気のせいだろうか。これから百年経っても、二百年経っても大地震で妻が下敷きになる人はなくならないのだろうか。芥川の言いたいのはそこだな。地震対策。建築基準の見直し。耐震技術の向上。
 違うか。

 私は妻の手を執って引張りました。妻の肩を押して起そうとしました。が、圧おしにかかった梁は、虫の這い出すほども動きません。私はうろたえながら、庇の板を一枚一枚むしり取りました。取りながら、何度も妻に向って「しっかりしろ。」と喚きました。妻を? いやあるいは私自身を励ましていたのかも存じません。小夜は「苦しい。」と申しました。「どうかして下さいまし。」とも申しました。が、私に励まされるまでもなく、別人のように血相を変えて、必死に梁を擡げようと致して居りましたから、私はその時妻の両手が、爪も見えないほど血にまみれて、震えながら梁をさぐって居ったのが、今でもまざまざと苦しい記憶に残っているのでございます。

(芥川龍之介『疑惑』)

 そういう時は車に積んであるジャッキを使って……といってもこの時代、まだ車もジャッキもないか。とはいえ師範学校を首席で卒業した割には、やっていることが拙いな。こういう場合はせめて自力ではなくテコの原理を応用するとか、いろいろあるだろうに。梁を完全に持ち上げられないとしても、横にずらすか、体との間に隙間は作れるかもしれない。「庇の板を一枚一枚むしり取りました」では師範学校を首席で卒業できないだろう。

 それが長い長い間の事でございました。――その内にふと気がつきますと、どこからか濛々とした黒煙くろけむりが一なだれに屋根を渡って、むっと私の顔へ吹きつけました。と思うと、その煙の向うにけたたましく何か爆る音がして、金粉のような火粉がばらばらと疎らに空へ舞い上りました。私は気の違ったように妻へ獅噛みつきました。そうしてもう一度無二無三に、妻の体を梁の下から引きずり出そうと致しました。が、やはり妻の下半身は一寸も動かす事は出来ません。私はまた吹きつけて来る煙を浴びて、庇に片膝つきながら、噛みつくように妻へ申しました。何を? と御尋ねになるかも存じません、いや、必ず御尋ねになりましょう。しかし私も何を申したか、とんと覚えていないのでございます。ただ私はその時妻が、血にまみれた手で私の腕をつかみながら、「あなた。」と一言申したのを覚えて居ります。

(芥川龍之介『疑惑』)

 やっと出たか。
 これまでのところは中間小説家でも書いて書けなくもない。そして小さな「藪の中」は結局凡ミスであろう。だが「しかし私も何を申したか、とんと覚えていないのでございます」、これは書けない。実際どのような条件があればそんなことになるのか思いつけないから書けない。

 俺は書けるよ、って人いる?

 いないよな。いるわけがない。

 それにしてもここは凄い。だから芥川なのだ。会計責任者の責任にしないところがいい。

 私は妻の顔を見つめました。あらゆる表情を失った、眼ばかり徒らに大きく見開いている、気味の悪い顔でございます。すると今度は煙ばかりか、火の粉を煽った一陣の火気が、眼も眩むほど私を襲って来ました。私はもう駄目だと思いました。妻は生きながら火に焼かれて、死ぬのだと思いました。生きながら? 私は血だらけな妻の手を握ったまま、また何か喚きました。と、妻もまた繰返して、「あなた。」と一言申しました。私はその時その「あなた。」と云う言葉の中に、無数の意味、無数の感情を感じたのでございます。生きながら? 生きながら? 私は三度何か叫びました。それは「死ね。」と云ったようにも覚えて居ります。「己も死ぬ。」と云ったようにも覚えて居ります。が、何と云ったかわからない内に、私は手当り次第、落ちている瓦を取り上げて、続けさまに妻の頭へ打ち下しました。

(芥川龍之介『疑惑』)

 この極限状態でふと『疑惑』というタイトルが気になってくる。この思い出は話が始まる前に、実践倫理学の先生は「中村玄道と名のった人物」という奥歯にものの挟まったような言い方をしている。そして「中村玄道と名のった人物」の語りはよどみなく、よく整理されていて、まるで何度となく繰られた講談師のナラティブだ。瓦を取り上げて、のところで扇子を一回、頭へ打ち下しました、の後で扇子を四回叩いているかのようだ。

 この話は本当にあったことなのだろうか。

 それから後の事は、先生の御察しにまかせるほかはございません。私は独り生き残りました。ほとんど町中を焼きつくした火と煙とに追われながら、小山のように路を塞いだ家々の屋根の間をくぐって、ようやく危い一命を拾ったのでございます。幸か、それともまた不幸か、私には何にもわかりませんでした。ただその夜、まだ燃えている火事の光を暗い空に望みながら、同僚の一人二人と一しょに、やはり一ひしぎにつぶされた学校の外の仮小屋で、炊き出しの握り飯を手にとった時とめどなく涙が流れた事は、未だにどうしても忘れられません。

(芥川龍之介『疑惑』)

 この飯時になって泣くという話は『オデュッセイア』にあったように思うけれどもどこだったか思い出せない。

 永井荷風は空襲の後の炊き出しで出されたおにぎりの具を記録しなかった。

https://note.com/kobachou/n/n1530cba8f158

 この握り飯も塩むすびであろうか。芥川も具は何なのかと書かない。「中村玄道と名のった人物」が語りの素人であれば、ここでつい「味噌握りだった」とか「シイタケの佃煮だった」と余計なことを言うべきなのだ。プロはそういうミスはしない。ここで「握り飯の具はシイタケだった」と言ってしまうと滑稽だからだ。それどころではないのだから、プロは言わない。そこをつい余計なことを言ってしまうのが本当の素人だ。「中村玄道と名のった人物」の語りには無駄なものがなく、悲惨さを例に伝えすぎている。


 例えば「馬蠅が一匹」「青芒を食つて居りました」「竹の落葉」これが素人のナラティブだ。小説の上では意味があるが、これは「蠅が一匹」「草を食つて居りました」「落葉」と整理されうる。


 だから「中村玄道と名のった人物」が「炊き出しの握り飯」とだけ言うのは少し怪しい。人間というのはどんな時でもついつい余計なことを考えてしまうものである。その余計なものを整理することでお話が出来上がる。この場合火事で女房が焼かれているわけだから「炊き出しの焼き握り飯」とあればかなりリアルだ。実際に震災時の炊き出しの握り飯の記録を調べてみたら、「玄米の握り飯」という表現がいくつも見つかる。「玄米の握り飯の一つと梅干」という記録もある。「半煮の玄米の握り飯」と少々クレーム気味の記録もある。ここでおにぎりの具は何かという問題は明らかに余計ではあるが、その余計なところがないのが大いに怪しい。

 と、書いたところで今日はここまで。



[余談]

 谷崎潤一郎も『少年期の記憶』『惡魔』『續惡魔』などの作品で繰り返し地震に対する恐怖を表現していた。そして関東大震災の後に関西へ避難した。芥川にも何かそういうところがあるのだろうか。

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